五章 ぬらりひょん(2)


「でい!」


「ぎゃあああああああああああっ!」


 右手で掴んだ相手の手首に親指をぐいっと食い込ませれば、かいきんシャツの大男がけもののようにほうこうした。敵の体から力が抜けたその一瞬を狙い、相手の手首にひじを当てて体重を掛ける。激痛のツボを連続で押され、男は声にならない悲鳴をあげてけいれんした。ここで終わってもいいのだが、念には念を。がくがく震える男の脇にすかさず左手を差し込み、そして右手は相手の頭へ。「何を」と問いかけてくる男と目が合うのと同時に、あたしは体を半回転し、右手にぐいっと力を込めた。


「でりゃああああっ!」


「な──がっ!」


 男の体が宙を舞い、一回転して石の床へと落下する。叩きつけられた男のきよたいは一度だけガクンと震えたが、すぐに動かなくなった。すぐ隣で気絶しているTシャツの男同様、こいつも失神したらしい。起きあがってこないことを確認すると、あたしは「よし」と気合を入れた。


「これで──二人目っ!」


 棚の並ぶ織口家秘蔵の地下室に、あたしの声が反響する。目の前の現実が受け入れられないのだろう、柔道部トリオの最後の一人、パーカー姿のきよかんは「馬鹿な!」と悲痛な声で叫んだ。


「何でこんなヒョロいノッポの女に、うちの部員が二人も……?」


「ヒョロいノッポで悪かったですね! これでも気にしてるんですから!」


「ひッ……!」


「し、しっかりなさい! 何を怖がっているのですか!」


 あたしに怯える柔道部員をしつしたのは、その後ろに隠れた織口先生だが、その声もパーカーの男にけずおとらず困惑気味だった。そりゃまあ、監禁しておいたはずの二人がいきなり飛び出してきたかと思うと、ごつい男をぶっ続けで気絶させてしまったのだから、驚くのも無理はない。整った顔を蒼白に染めながら、先生はざまに転がる柔道部員二人を見下ろし、忌々しげな言葉を吐いた。


「あっさり気絶するなんて、なんて情けない……! それでも武道家ですか!」


「む、無茶言わないでください先生! いくら体を鍛えた男でも、ツボを押されたらどうしようもありませんし、痛みの限界を越えたら人間は気を失います! こいつがやってるのはそれなんですよ!」


 両手を広げた柔道特有の構えを取りながら、パーカーの男が言い放つ。そいつとの距離を取りながら、あたしは「ご名答」と心の中でうなずいた。


 合気道イコール、敵の力を利用して投げる技。そう思っている人も多いが、人体のツボへのダイレクトな攻撃もまた、合気道のテクニックの一つだ。ようしやなくツボを攻めることに若干のためらいはあったけど、自分と先輩の命が掛かっている以上、手を抜くという選択肢はない。というわけで覚悟しなさい、とパーカー男を睨み付けつつ間合いをうかがっていると、しびれを切らしたのか、織口先生が再び叫んだ。


「いつまでそうしているつもりです? 今まであなたたちの横暴をのがし、揉み消してきたのは何のためだと思っているのですか! 早くやってしまいなさい!」


「そ、そうは言いますが……こいつ、まるでこっちの動きが読めてるみたいで、気味悪いんすよ! さっきも三人がかりで掴もうとしたのに、するっと」


「馬鹿なことを! これ以上ごねるようなら、柔道部の特権をはくだつし、あなたたちのしてきたことを公表します! いいですね!」


 ひきつった顔で織口先生が叫ぶ。それが引き金になったのだろう、パーカー男は「うらああっ」とえ、床を蹴った。全力で正面から仕掛けてくる──と見せかけて、すばやく横に回りこみ、あたしのえりを取るつもりか。太い腕がタンクトップの襟を掴んで引いた瞬間、あたしは体を半回転させ、男の顔面にうらけんを叩きこんでいた。こうに、みしり、とにぶかんしよくが伝わった。うし、命中。


「不意打ちのつもりでしょうけど、丸わかりですよ」


「な──なんで……!」


 鼻血をしながら、パーカー男がぐらりと揺れたが、これで終わらせるつもりはない。襟を掴んだままの敵の手を掴み、その肘をくぐりぬけて腕を固めてやれば、男は悲痛な声をあげた。


「がっ? くそ、なっ、なんでこんな──」


「今から極めて落としますけど、いいですね。死ぬほど痛いですけど、死にはしませんから」


「え? ちょ、待て──待った!」


 男の悲痛なぜつきようが、地下室に響く。待て、と繰り返しながら、最後に残った柔道部員は、あたしを見つめて声を荒げる。


「俺だって好きでこんなことやってるわけじゃねえんだよ! 柔道部の裏の伝統で、織口先生には──つうか、織口の家には絶対服従って決められてるんだ、だから仕方なくて……! やめてくれ、もう何もしねえから! な、だから」


「嘘ですね。あたしが緩めた瞬間、力任せに押し倒すつもりのくせに」


 男の必死のこんがんを、あたしの声が断ち切った。なぜわかった、と言いたげに絶句する男に向かって、あたしはきっぱり言い放つ。


「織口先生の命令、いやなら断ることもできたはずです。そのとしなら善悪の判断くらい付きますよね。それに、織口先生に協力することで、あなたにも見返りはあったでしょう?」


「どうしてそれを……!」


 まっすぐ睨んで言い放てば、男の顔色がさっと変わった。ヤニくさい口からギリッと歯を食いしばる音が漏れ、困惑が激情へと変わっていく。


ちくしよう……! 女のくせにふざけんじゃねえぞ!」


「腕を曲げて逃げるつもりですね! 甘いっ!」


 男が動くより早く、掴んだ手首をぐるんと捻る。瞬間、パーカー男の巨体が回転し、悲鳴とともに床の上に崩れ落ちた。


「がっ……!」


「──よし」


 技の成功を確かめるように、あたしは静かにうなずいた。投げるついでにツボも思いっきり押してやったので、当分起き上がることもできないはず。白目を向いて泡を吹くパーカーの男を見下ろすと、あたしは両手をパンパンと払った。ざまあみろ。


「おいユーレイ、ちょっとやりすぎじゃないのか?」


「こいつらのやってきたことを思えば、これでもまだぬるいです。かん思いっきり踏んづけてやろうかな」


 声を掛けてきた絶対城先輩に応じつつ、ひっくり返った三人組を眺める。そんなあたしたちを前にして、いっそう顔面を蒼白に染めた織口先生は、震える声を発した。


「柔道部の三人が、こんな女の子一人に……? そんな、ありえない!」


 声だけでなく体までもガタガタと震わせながら、織口先生が悲痛に叫ぶ。


 うん、その気持ちはよくわかる。信じられませんよね、こんなこと。先生に同情しつつ、あたしはついさっき監禁室で先輩と交わした会話を思い起こしていた。




    ***




「もし、相手の動きが全て読めたなら、どうだ?」


 あたしのお守りであるペンダントに手を掛けながら、先輩は確かにそう言った。いやしかし、急にそんな非現実的なこと言われてもですね。先輩の意図がわからないまま、あたしはとおずおず口を開いた。


「どう動くかわかってるなら、勝てるとは思いますよ……? 三人がかりで掴まれる前に、一人ずつ倒すことだって……でも、そんなことはできませんから」


「できるんだ。こいつを外せばな」


 竹のリングのペンダントを掴んだまま、先輩はあたしに向かって言い切った。その力強い語調に気圧され──顔がやたら近いことも相まって──あたしは反論できなかった。ごくり、と自分の喉が鳴る音が響く中、先輩の言葉が続く。


「時間がないから結論から言うぞ。動揺と不安を与えるだろうと思って、ずっと黙っていたがな、お前には『さとり』の力がある」


「さ……さとり?」


「山に住み、人の心や気配を読む妖怪の名だ」


 きょとんと先輩の発した言葉を繰り返せば、すかさず妖怪講座が始まった。妖怪の話になるとどうしてそんな流暢に喋るんです? どうしてこの状況で妖怪の話を? あたしにその力があるってどういうことです? 疑問は次々浮かんだが、妖怪の話を始めた先輩は口を挟む隙を与えてくれないことを、あたしはあいにく知っていた。


「覚は人間によく似た姿をしていることから、山人などとも呼ばれるわけだが、その実態は、特殊な力を持った山住民族であることが真怪秘録の覚書から明らかになっている。土蜘蛛のような先住民族の生き残りなのか、はたまた別の系統の種族なのかはわからんが、そういう能力の持ち主が山中に一定数存在していたわけだ。当時でこそ妖怪扱いだが、今の言葉で言えば超能力者、エスパーだな」


「はい? ちょ、ちょっと待ってください」


「いや、待たん。なお、覚の力の正体や原理については全く不明。これぞ数少ない真の怪異、真怪である──と、覚書には記されていた。そして、お前の悩まされていた耳鳴りの正体は、周囲の人間の心の声だ。お前がうまく力を使えなかったため、心の声は重なって不協和音になり、お前に苦痛を与えていたんだ。なお──」


「ストップ! ほんとに待ってください、ちょっとでいいですから!」


 声を荒げて、あたしは無理矢理先輩の話を遮った。先輩の話の展開が急なのはいつものことだが、今回はいつにも増してハイスピードだ。これを理解しろったって無理ですよ、とつぶやくと、あたしは情報を整理した。


 えと、つまり、あたしの耳鳴りが他人の心の声で、その力は妖怪のもの……?


 ……駄目だ。やっぱり意味がわからない。だが困惑するあたしを前に、羽織姿の妖怪学の専門家は、容赦なく再び口を開く。ああもうだから顔が近いですってば!


ゆうちように解説している時間はない。織口が俺達を始末する決心が付く前に、事を起こす必要があるからな。というわけで続けるぞ。お前の耳鳴りは酒を飲んだ際に必ず起こったわけだが、あれはアルコールによって精神が開放的になった結果だ。周囲の心の声への感受性が高まるわけだな。わかったな。わからなくても進めるが」


「そんな強引な……! ええと、でも、その──どうして、あたしにそんな力が」


「無論、お前の祖先に覚がいたからだ」


 なけなしの理解力を振り絞っての質問を受け、先輩はこともなげに断言する。え、どういうこと? 絶句するあたしの前で、先輩の言葉は次第に熱を帯びていく。


「正確には、覚と呼ばれた人間だがな。温泉宿の付喪神騒動の時、お前の故郷に興味があると言ったことを覚えているな? あれはな、お前の祖先に覚がいるのではないかと推測したからだ。実際、山神の民俗資料館で読んだお前の郷土の昔話には、山に住む妖怪が里の民と交わって子を成す話が載っていた。そうして生まれた子どもに、覚の力が受け継がれてしまった話もな。つまり、読心能力は遺伝する」


「あたしの地元に、そんな昔話が……? 全然知りませんでしたけど」


「お前が知らないものは歴史上に数多く存在する」


 呆けたように問いかけるあたしに、先輩の声が被さった。でも、と反論する間もなく、先輩は「妖怪扱いされ、滅ぼされた、あの山住民族のようにな」と続けた。


「それって……土蜘蛛のこと、ですか」


「ああそうだ。お前の祖父は迷信が嫌いで、その手の話に触れさせなかったと言っていたな? これは推測だが、お前の祖父もその力を持っていたんじゃないかと俺は思っている。そして、孫にその力が伝わってしまったことにも気付いていたはずだ。だからこそ孫から──つまりお前から、昔話を遠ざけ、また合気道を勧めた」


「はっ、はあ……?」


 もう駄目だ、完全に思考回路が追い付かない。なぜここでお祖父ちゃんが出てくるんだ。いや、祖父はともかく、合気道って覚の力とは絶対関係ないですよね。そんな思いを込めて見つめてやれば、先輩は「合気道の話は無関係だと思ったな」と続けた。心を読めるのはあんただろ、と言いたくなる。いやまあ、あたしが気持ちを顔に出しやすい性格だからなんだろうけど。


「合気道の最古の指南書である『合気之術』には、必須項目として『敵人読心の術』が挙げられている。読心、つまり相手の心を読み取るテクニックだ。おそらく、原初の合気道は、読心能力をコントロールし、使いこなすためのテクニックでもあったのだろう。だからこそ祖父はお前に合気道を勧め──そして合気道を学んだお前は、力の使い方をおぼろげながら習得していたというわけだ」


「あたしが……覚の力を、習得……? そんな力、あたしには」


「耳鳴り封じのペンダントを外したとたん、地下室の入り口を見つけたのは誰だ」


 ふるふると首を左右に振るあたしに向かって、先輩の質問が叩きつけられる。え、と口ごもるあたしを前に、先輩は追い打ちのように続けた。


「初めて入った織口の研究室で、ぬらりひょんの頭蓋骨を手に取ったのはなぜだ? どちらも偶然か? いや違う。織口が強い思いを込めて触れた場所や物に、覚の力が反応したんだ。残留思念──気配に気づくのもまた、覚の能力の一つだからな。こういう能力をサイコメトリーと言うが、これを略すとサトリとなる」


「な……なるほど! 覚って名前にはそんな意味が」


「今のは冗談だ」


 衝撃の事実に感動するあたしの前で、真顔でそう言い放つ先輩である。何でこのタイミングでそういうことを言いますか! 張り倒してやろうか、と思った瞬間、先輩はふと感慨深げに口元を緩め──そして、ふっと穏やかに微笑んだ。


「え」


 連休に一度だけ、ほんの一瞬しか見たことのない、妙に人の良さそうなあの笑顔。それを真っ正面から見せられ、あたしの呼吸がぴたりと止まった。


 ずるい。ずるいですよ絶対城先輩。


 そんな顔、間近で見せられたら、どうしていいかわかんなくなるじゃないですか!


 勝手極まる怒りを燃やすあたしをよそに、先輩はククッと小さく笑う。


「覚の正体については、資料室の文献に記載があったので知ってはいた。その力がどういう形で発現し、どうすれば封じたり伸ばしたりできるのかについても、解読済みではあったが……まさか、その力の持ち主が現存していて、しかも俺の前に現れるとはなあ! お前の依頼を聞かされた時、どれほど俺が驚いたか! あの夜、お前が帰った後、『感動しすぎだ』と明人に呆れられたほどだ!」


 笑顔は一瞬だけしか見せない主義なのか、語り続ける先輩の顔からは笑みが消えてはいたが、どこか上擦った声は、その興奮をはっきり伝えていた。


 ……そっか、こんな風に喜ぶんだ、この人。ふとそんなことを思ったあたしを、落ち窪んだ眼窩の中の二つの瞳がまっすぐ見据え、聞き慣れた声が耳へと届く。


「いいか。四月以来、俺がお前に行ってきた検査は、先人の残した資料を基に俺が考案した、能力の訓練でもあったんだ。そして検査結果を見る限り、お前の能力コントロール技術は、少なくとも春より格段に進歩している」


「そう言われても……全然実感湧かないんですけど」


「信じろ。俺が嘘を言う相手は、客と嫌いな奴だけだ」


 自信満々の断言が、あたしの不安げな言葉をばっさり断ち切る。有無を言わせぬ語気であたしを黙らせながら、先輩は「そう言えば」と付け足した。


「お前、自分のことを役立たずと言っていたな」


「は、はい……。だってほんとのことですし」


「違う」


 力強い断言が、あたしの気弱な言葉をぶった切った。細く白い手があたしの肩を静かに叩き、聞き慣れたあの渋い声が、あたしの耳へと滑り込む。


「お前は確かに無知でたんりよではあるが、充分に認められるべき人材だ。俺が保証する。この絶対城阿頼耶がな。だから信じろ。お前は」


「あ、あたしは……?」


「強い」


「……え」


 予想外の言葉を真っ正面からぶつけられ、あたしはぽかんと固まった。この人が──絶対城先輩が、あたしを、ストレートに、誉めた? 事態が理解できず、口をぱくぱく動かしていると、先輩は「何だ、その反応は」と呆れた声を漏らし、床に広げてあった隠しアイテムの中からウイスキーのポケット瓶を取り上げた。男のくせに細い指が、慣れた手つきで蓋を外し、その蓋にこぽこぽと琥珀色の液体を注いでいく。


「先輩、一体、何を……?」


「ドーピングだ。相手が三人となると、能力を一時的に底上げしておいたほうがいいからな。定期検査の結果と文献から判断すると、この量のアルコールなら、読心術の強化時間は約五分。事が済めばすぐにペンダントを付けることを忘れるな」


 おずおず問いかけたあたしに向かって、ツラツラと流暢な言葉が飛んでくる。蓋のすり切り一杯までウイスキーを注ぐと、先輩はあたしに視線を向けた。


「戸の閂は俺が外すが、その後は……任せていいか?」


「えっ? あ、そ、それは、ええと──」


「いや、違うか。──任せていいな」


 瓶の蓋を差し出しながら、絶対城先輩があたしを見つめて問いかける。初めて見る、信頼と期待の籠もった先輩の顔。あまりにレアなその表情に、あたしは一瞬言葉を失ったが、すぐに首を縦に振っていた。


「……任せてください」


 小さな声で、それでいてこの上なくはっきりと。不安を覚悟で上書きしつつ、あたしは酒の注がれた蓋を受け取り、そしてぐいっと一気にあおる。勢い任せに苦い液体を飲み込めば、それを見た先輩は満足げにうなずき、嬉しそうに──あ、また笑った──付け加えた。


「ぬらりひょんを滅ぼした連中に、同じ山の妖怪である覚の子孫がいどむんだ。手加減する必要はない。仲間の復讐もねて、思いっきりやってやれ!」


「はいっ!」




    ***




 ──とまあ、あの監禁室ではそんなやりとりがあったのだ。


 つまり、あたしは柔道部トリオの心を読んでおり、それ故に三人相手に圧勝できたのだけど、織口先生はそれを知るよしもない。呼吸を整えながら読心封じのペンダントを付けるあたしの視線の先で、ただぼうぜんと立ち尽くすのみだ。どう出るかな、と様子を伺っていると、絶対城先輩が冷たい声を投げかけた。


「勝負あり、だな。さすがにもうごまひかえさせてはいまい?」


「……望みは何。お金?」


「普段ならそう言っているところだが、今回ばかりは話が違う。妖怪視された人類の近縁種が近年まで生きていたという事実は、暴かれねばならない。お前の一族の犯した、大きすぎる罪とともにな」


 地下室に染み入るような重低音ボイスを響かせながら、黒の羽織の怪人が足を踏み出す。さながらスポットライトを向けられたたいの上の役者のように、オレンジ色の電球の光を浴びながら、先輩は堂々と地下室を進み──そして、あの頭蓋骨の転がる棚の前で足を止めた。


「あらゆる情報は記録され、開示されるべきだ。鎮魂のためにも、そして、いつか知りたいと思った者が、知ることができるようにするためにもな」


「かっこいいこと言ってますけど、先輩、お祓いの時とか、情報隠してません?」


「人聞きの悪いことを言うな。俺は調べれば手に入るデータしか使っていない。それで真実に気づけないのは、依頼人の問題だ」


 ぼそっと小声でつっこめば、すかさず否定された。よくわからない理屈だが、先輩としては筋を通しているつもりではあるらしい。話の腰を折るなよ、とあたしを睨むと、先輩はネアンデルタール人であり、ぬらりひょんでもある髑髏を掴み、織口先生へと振り返る。


「この頭骨標本は、然るべき研究機関に提供させてもらう。俺が見聞した事実の記録と合わせてな。送り先は……そうだな、海外の大学ならば織口の力も及ぶまい」


「やめなさいっ!」


 絶対城先輩の長口上を、甲高い悲鳴が打ち消した。思わずびくっと震えたあたしの視線の先で、織口先生は再び悲痛な声を発した。


「やめて、お願い……! それだけは!」


 がたがたと震える自分の体を抱きかかえながら、なみだごえで叫ぶ織口准教授。おっとりと優しかったあの先生とは思えない狼狽ぶりが、あたしを戸惑わせた。と言うか、実を言えば、結構前から戸惑ってはいた。この人がここまで必死になる理由が、あたしには理解できないのだ。どうしてそこまで?


「別に、先生がぬらりひょんを手に掛けたわけじゃないですよね……? だったら、先輩がこの髑髏のことを公表しても、罪に問われることも」


「守るべき家名を持たない貴女あなたに何がわかるの!」


 おそるおそる口を開いたその瞬間、先生が金切り声をあげた。迫る迫力であたしを黙らせながら、織口先生は叫び続ける。


「織口の家は、私という個人を含んだ巨大で偉大な共同体よ、私を守ってくれる唯一の存在であり、私の全てなの……! 絶対城阿頼耶──昔の貴方なら、きっと私に共感してくれたはずなのに!」


「ほう。俺の過去を知っていたか」


「当然でしょう! 貴方ほどの有名人!」


 興味深げに尋ねた先輩に、織口先生が即答する。え、この人が有名って、それ、どこの世界の話です? 会話に置いていかれておろおろ困惑していると、先生はあたしに一瞬だけ横目を向け、吐き捨てるように言葉を重ねた。


「日本を代表する政界きっての名家に生まれた天才児、飛び級を繰り返して十代半ばで大学まで進んだ現代のりん。それがかつての貴方でしょう、絶対城阿頼耶! 政財界では知らない人はいないし、湯ノ山さんも、彼の昔の苗字ならきっと知っているはずよ。大臣を何人も輩出した名門ですからね。……なのに、留学中に妖怪学とやらに出会った貴方は、おろかにも家を捨て去った! 苗字ごと改名してまで!」


「ずいぶん人の素性に詳しいな」


 金切り声をあげる織口先生を前に、絶対城先輩は面倒くさそうに肩をすくめるのみだ。一方、あたしはと言えば、初めて知った事実に目をぱちぱちと瞬いていた。どうやらこの人、名家に生まれた天才児でありながら、妖怪学を選んで家を捨ててしまったらしい。何があってそうなったのかも気になるが、それよりも、だ。


「……絶対城阿頼耶って、自分で付けた名前なんですか?」


「ああ。選挙対策とかいうくだらん理由で、元の名前が無駄にシンプルだったからな。わざわざ他人に話すことではないと思っていたから黙っていたが──」


「当然でしょう! そんなふざけた名前を付ける親がどこにいるの!」


 絶対城先輩の言葉に、織口先生の叫びが割り込んだ。今は俺が話していたんだが、と溜息を吐く先輩に、先生のえんの声が浴びせられる。


「絶対城──世界全ての書物との集められた、探求のための絶対的な砦。確か、井上円了の提唱した概念よね。杵松明人と湯ノ山礼音──天狗アマツキツネユーレイまで従えて、どこまで妖怪学の開祖を気取るつもり? 家を継ぎ、国を動かす使命まで捨てて、そんなくだらないことに」


「くだらないと言わば言え!」


 今度は、先輩が先生を遮る番だった。自信に満ちた重低音を地下室へと響かせながら、絶対城先輩が織口先生に向き直り、力強く言葉を重ねる。


「埋もれていく妖怪たちの真の姿を掘り起こし、できる限りの方法でその痕跡をこの世に残す。今の俺の目的はそれだけだ。家名も使命も知ったことか」


「どうしてわからないの! 貴方の家は、一族は──」


「……もう、そのへんにしたらどうです?」


 叫び続ける織口先生に、あたしは思わず口を挟んでいた。え、とこちらを見つめた先生に近づきながら、「えーと」と言葉を選んで続ける。


「あたしにはよくわかりませんが、そこまでして家とか一族に尽くすのって、違うと思いますよ。先祖がいないと自分もいなかったんだから、感謝するのはわかります。でも、今の先生みたいに、家のために全力になるのは、ほんまつてんとうって言うか……」


「お、おおおお、お黙りなさい! 貴女に──」


 ぶるぶる震える手で、先生が黒い機械を取り出した。さっきあたしが食らったスタンガンだ! そう気付くのと同時に、先生は手元の機械の目盛りを最大にまで回し──「出力を最大にすれば、命を奪うことも」と告げた声が、あたしの脳裏に蘇る──今までとは比べ物にならない唸りをあげた。


「貴女なんかに! 私の──何がわかると言うの……!」


 悲鳴に近い叫びとともに、スタンガンを振りかざして織口先生がとつしんしてくる。かわそうと思ったその瞬間、すさまじく重く苦い耳鳴りが、頭の中に轟いた。


 その予想外の衝撃に、体がびくりと震えて止まる。


 何これ。何これ。うごけない。わからない。


 困惑するあたしの視界の片隅で、絶対城先輩がハッと息を呑む。


「度を越した怒りの念をぶつけられたショックか! 酒で読心能力を強化したのがあだになったか……! しっかりしろユーレイ、避けるんだ!」


 先輩の声がどこか遠くで響いているが、その言葉は脳にまで届かない。あたしの感覚がおかしくなっているのか、血走った目の織口先生がスローモーションのように迫ってくるのがはっきり見える。バチバチと火花を散らすスタンガンが、あたしに触れるまで、あと一メートル、九十センチ、八十センチ、五十……。


「ちいっ!」


 瞬間。舌打ちとともに、先輩が手にしていた頭骨を織口先生めがけて投げつけた。


 とうてきされた丸いそれは、今にもあたしの命を奪いそうだったスタンガンを叩き落とすと、自らも床に落ち、粉々にくだけて散る。最後に残ったぬらりひょんの頭骨が破砕されるその音が、こうちよくしていたあたしの心に隙間をこじ開けた。はっ、と息を深く吸うのと同時に、あの聞き慣れた声が、耳へと届く。


「しっかりしろ! 気を強く持て、!」


「だからあたしはユーレイじゃなくて湯ノ山礼音──って、先輩、いま、あたしのことを名前で……? てか大事な頭蓋骨が今パリンって!」


「割れたがどうした! それよりしっかり身を守れ! お前は強いはずだろう!」


「あ──はっ、はい!」


 意識を取り戻すのと同時に、あたしは目の前の織口先生へと掴みかかった。先生はスタンガンを拾おうとしていたようだが、そうはさせない。伸びた右手を掴んで捻り、そのまま床に押さえつければ、後ろ髪を留めていた大きなバレッタが外れ、長い髪がぶわっと広がった。


 ──よし、やった!


 だが、そうやって勝利を確信した次の瞬間。あたしはぎょっと目を見開いていた。


「……え」


「見ないでっ!」


 床に顔をせたまま、織口先生が絶叫する。しかし、そう言われても、あたしは先生の頭から目を離すことができなかった。目の前のこれを、どう説明していいのか、何と呼べばいいのか、あたしにはわからない。だが、見たままを述べるなら──。


「……口?」


 そう。それは、もう一つの口だった。


 小ぶりな赤いくちびるが上下に二つ並んでおり、その隙間から覗くのは、妙に尖った白い歯と、そして細く長い舌。覚の子孫が言うのもなんだが、こんな人を見るのは初めてで、あたしは言葉を失った。


「……『ふたくち』か」


 そう声を発したのは、いつの間にかあたしと先生の傍らに立っていた絶対城先輩だった。あたしに組み伏せられたままの先生を見下ろし、名家に生まれながら妖怪学の道を選んだらしいたんは、いつものように、聞かれもしないのに解説を始める。


「二口とは、後頭部に現れるもう一つの口、またはそれを持つ女性のことを指す。後頭部はのうずいを収める重要な部位であり、そんな場所に呼吸器でありせつしよく器官である口が発生すれば思考も記憶も不可能になるはずだが、そうはならないという。覚と同様、俺が解読した覚書に記載されていた真怪──真の怪異の一つだな。……織口、その二口は生まれつきか?」


 絶対城先輩の問いかけに、織口先生は何も答えなかったが、ただ、こくり、と首を縦に振った。これを見られたことで心が折れてしまったのか、さっきまでの気勢が嘘のようだ。思わず同情してしまったあたしの下で、先生は静かに話し始めた。


「織口の家には、二口持ちが稀に現れるの。大お祖父様が仰るには、これは織口の家の祖先がしてきたことの報いだから、消すためには、家に尽くすしかないと……」


「くだらん」


 絞り出すような織口先生のじゆつかいを、絶対城先輩の呆れた声が断ち切った。いや、その物言いはひどくないですか先輩? 思わず反論しようと見上げた先で、羽織姿の妖怪学の専門家は大きく肩をすくめ、溜息を吐いた。


「それでも国文学の教授か? 二口には二種類あることをなぜ知らない? ああ、確かに、因果や報いで生じる二口も存在はする。この場合、傷口が変形して口になるんだ。だが織口、生まれついての二口は、因果とは無関係。先祖の悪行など無関係に決まっている。お前に罪悪感を覚えさせ、家の手駒として操るための真っ赤な嘘だ!」


「じゃ、じゃあ、これは──この口は、どうして……?」


「発生する理由までは俺も知らん。それはあくまで『そういうもの』としか言いようがないんだ、何しろ真怪だからな。……ただ、治す方法は知っている」


「「え」」


 絶対城先輩が最後に付け足した一言に、あたしと織口先生の驚く声が重なった。そのリアクションが面白かったのか、先輩は満足げにうなずき、あたしに「もういい、放してやれ」と視線で伝えた。はいはい、了解。というわけで極めた手を放せば、織口先生はふらふらと立ち上がり、すがるように絶対城先輩を見つめた。


「ほ、本当なの……? これを──二口を消す方法があるって」


「ああ。知りたいのなら、いつでも相談に来ると良い」


 黒の羽織に黒のネクタイ、長い前髪に白い肌、人を食った態度に妖怪絡みの膨大な知識。入学以来、いろいろあってすっかり見慣れた怪人が、ごうがんそんに言い放つ。未だに信じられないのだろう、目を見開いたままの織口先生を前に──。


「文学部四号館四階、四十四番資料室。俺は、いつでもそこにいる」


 ──絶対城先輩は、はっきりとそう告げたのだった。




    ***




「……ええ、はい。一晩中心配掛けてごめんなさい、杵松さん。詳しいことはあとで話しますが──いや、電話で話すと一時間くらい掛かりそうなんですよ。冗談じゃなくて。でも、とりあえず、あたしも絶対城先輩も無事ですから。まあ先輩はちょっと怪我してますけど、本人は大丈夫って言ってますし。じゃあ、また後で!」


 そう告げて電話を切ると、あたしは携帯をパンツのポケットに突っ込んだ。


 長い騒動を終えて地下室から出てきてみれば、いつの間にか朝になっており、杵松さんからのメールが山のように届いていた。一限目が始まる前なので、学内通路はまだ無人だ。がらんとした朝の道を、あたしは絶対城先輩と並んで歩く。


「……あの、先輩」


「ん。どうした、ユーレイ」


「ぬらりひょんの頭蓋骨、砕けちゃいましたよね。せっかくの証拠だったのに」


「……ああ、そうだな」


 少し高いところから響く無感情な返事が、ざっくり胸に突き刺さる。お前を助けるためにやったんだぞ、とか恩着せがましく言ってくれたほうが、まだ気が楽だ。だが、せめて謝っておこうと「ごめんなさい」と頭を下げようとした矢先、そこにすかさず武骨な声が重なった。


「お前が謝ることじゃない。『真怪秘録』が刊行されていたことが判明し、その実物も手に入った。織口はあの一冊しか持っていないと言っていたが、まだどこかに残りの巻があるはず。それがわかっただけでも充分だ」


「ですけど、あの頭蓋骨は──」


「もういい。この話題はおしまいだ」


 回収した覚書や真怪秘録を手に、ばっさり言い放つ絶対城先輩である。有無を言わせぬ迫力に、あたしは思わず押し黙り、「じゃあ」とおずおず声を発した。


「話を変えますけどね。実は、聞きたいことがあるんです」


「何だ。俺の昔の話なら、語る気はないぞ」


「それも気になりますけど、違います。あたしが織口先生に気絶させられてから、柔道部の三人が来るまでって、少し時間が空いてたんですよね? ……先輩、どうしてその間に逃げなかったんですか?」


「どういう意味かわからんな」


「そのまんまの意味ですよ」


 はぐらかそうとする先輩に、あたしはすかさず切り返した。その時なら、相手は織口先生一人だけだし、スタンガンという手の内だって知れている。羽織に仕込んだアイテムを使えば、自分が逃げだす隙くらいは作れたはずなのだ。さらに言えば、柔道部の連中におとなしく殴られたって言っていたことも引っかかる。


「催涙スプレーとかスタンガン、どうして使わなかったんですか?」


 そう尋ねながら先輩の顔を見上げ、そのまま数秒待ってみたが、返事が聞こえる気配はなかった。どうやら答える気はないらしい。


 へえ、そうですか。でも、そう来るなら、こっちにも考えはありますよ、先輩?


 声に出さずにそう告げると、あたしはそっと一歩下がり、ペンダントを首から外した。さっき柔道部トリオとやりあった時を思い出し、目の前を歩く羽織の背中に意識を集中させれば、心の声が頭の中に聞こえてくる。


 ──あの時は、お前を人質に取られていたからな。


 ──となれば、連中の言うがままにするしかなかろう。


 どことなく照れくさそうな先輩の思いが、あたしの脳裏に静かに響く。それを聞いた瞬間、あたしは「えー!」と声をあげていた。あたしのせい?


「先輩、何かあったらお前は置いて逃げるって言ってたくせに!」


「なぜそれを? ──貴様、さては覚の力を使ったな!」


 バレた、と思った時は遅かった。慌ててペンダントを戻したが、先輩が振り向くのが一瞬早い。怒られる、と感じたあたしは、反射的に身構えたが──。


「……勘違いするな。俺は、貴重な真怪のサンプルを守りたかっただけだ」


 ──意外にも、先輩はそう言っただけだった。


 しかも、心なしか色白の肌は薄赤く染まっており、口調もどこか早口だ。え、何その反応。思わずきょとんと立ち止まるあたしに背を向けたまま、先輩は聞き慣れた声で続ける。


「何をぼさっと突っ立っている? 急ぐぞユーレイ、荒らされた資料室の整理が待っている」


「あ──はっ、はいっ!」


 自分でも驚くくらい、明るい声が口から洩れた。


 足取り軽く先輩の背中を追い、隣に並んで顔を見上げる。


「先輩。妖怪学を始める前のことも、いつか聞かせてくださいね」


「お前が他人の心を読まなければ、気が向いた時に話してやる。それよりも、地下室で手に入れたこの真怪秘録に、興味深い記述があった。奈良県に伝わる妖怪『砂掛け婆』の正体は、何と──」


 あたしの言葉を受け流しつつ、絶対城先輩が語り始める。


 黒い羽織に黒のネクタイ、ロン毛で陰気で仏頂面の、妖怪学の専門家。どこから見たって変人で、実際、変な人である。


 だがしかし、この人と一緒にいると、退屈することだけはなさそうだ。


 入学前に期待していたキャンパスライフとはまったく、全然、百八十度どころか五百四十度くらい違うけど──でも、これはこれでいいよね、と、あたしは自分で自分に問いかけたのだった。



【次回更新は、2019年12月27日(金)予定!】

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