五章 ぬらりひょん(1)

【五章 ぬらりひょん】

和歌山県などに伝わる。小柄な体と、それに見合わないほど大きく、かつ前後に長い頭を持った老人の姿で描かれる。日暮れ時などに人家の近くにふらりと現れるとされているが、人に害を加えることはない。




*****




「お、明るくなった」


 織口研究室の本棚に隠されていた階段を降りた先、がらんと静かな空間に、あたしの声がはんきようした。たった今、スイッチを見つけて灯したばかりの照明は、電球特有のオレンジ色の光を放ち、地下室を照らし出している。壁と床は冷たさを感じさせる石造りで、部屋の面積は広めの講義室くらいはあるようだ。もっとも、てんじようの高さが二メートルほどとかなり低く、その上、無数の箱がどさどさ突っ込まれた木製の棚がずらっと並んでいるせいで、あまり広さは感じない。再び首にぶら下げた耳鳴り封じのペンダントを指で突つきながら、あたしは隣を歩く先輩へと視線を向けた。さっきこれを外せと言った理由も気になるが、今はそれより聞きたいことがある。


「博物館の倉庫みたいな場所ですね。とりあえず、誰もいなくてラッキーでしたけど……何です、ここ?」


「俺が知るか。まあ、推察するに、表に出すには都合の悪い資料の保管場所、といったところだろうな」


 並んだ棚を検分しつつ、先輩が興味深げな声を漏らす。そんな場所が大学の地下に? あたしは目を丸くして驚いたが、先輩にとっては予想の範囲内なのか、いつもの調子のまま先を続けた。


「壁の劣化具合を見ると、少なくとも部屋自体は半世紀以上前に作られたようだが、階段や照明は新しい。元からあった地下施設を後で流用したようだな」


「元からって……つまり、大学より先に地下室があったってことですか?」


「この学校は織口財閥の軍需工場のあとを転用して設置されたんだ。充分有り得る話だろうが。しかし、大学地下の謎の施設の噂は聞いたことがあったが、まさか実在したとはな。とりあえず、盗まれた覚書を──って、おい。なぜ掴む」


「だ、だって怖いじゃないですか……。見通し悪いし照明も薄暗いし。ここは一つ、か弱い後輩を助けると思ってですね」


「か弱い? ついさっき俺の腕を折ろうとした奴が、か?」


「それとこれとは無関係です」


 呆れかえる先輩を、あたしは思わずキッと睨み付けていた。まあ確かに、あたしはあんまりか弱くはない。女子にしては背も高いほうだし合気道もやってるし、そこらの男子なら何とかする自信はある。あるけれども、初めて入る謎の地下室をズカズカ歩き回れるほどの度胸はさすがにないわけで。


「先輩は不安にならないんですか……?」


ものじするならとっとと帰れ。俺は止めん」


「ですから、最後までお付き合いしますって言いましたよね。帰るなら研究室に侵入する段階で帰ってます」


「妙なところで意固地だな、お前は……。まあいい、今はそんなことより盗まれた覚書だ。俺はこっち側の棚を見るから、お前はそっちだ」


 聞き慣れたクールな口調のまま、先輩は棚に積まれたあれこれを掻き分け、覚書を探し始める。あたしはそれにあわせて歩きながら、向かい側の棚をチェックすることにした。無論、先輩の羽織はしっかり掴んだままだ。頼れる相手かどうかは別として、知ってる人が近くにいるだけでも安心感は違う。


「いざという時には一人で逃げる人でも、いないより──って、あっ! ありました、ありましたよ先輩! 盗まれた古本!」


 右手で先輩の袖を掴んだまま、左手で目の前の棚を指さして叫ぶ。と、それを聞いた先輩はハッと目の色を変え、古びた棚に駆け寄り、無造作に置かれた数冊の本のうちの一冊を手に取った。中を確認しているのだろう、ぺらぺらとページをめくる横顔が真剣だ。そしてかたを呑んで見守ること数十秒、先輩は大きな息を吐き、そして深くうなずいた。


「……間違いなく、資料室から奪われた『真怪秘録』の覚書だ。『ヌの三巻』も確かにある。よく見つけたな、ユーレイ」


「たまたま目に入っただけですが……。しかし、一緒に置いてある本は何です?」


 こっちは盗まれたのじゃないですよね、と言い足しながら、あたしは棚に広げられた数冊の古書に目を向けた。しっかり装丁された分厚いものから今にも崩壊しそうな紙の束など、形態こそ様々だが、年季はどれも似たようなものだ。その奥に置いてある小ぶりな木箱も、同じように古びている。織口先生が中身を読み比べたんですかね、と素朴な疑問を口にすれば、先輩は「だろうな」と同意した。


「どれも初めて見る資料だが、織口が覚書と照らし合わせたということは、内容に関連性があると考えていいだろう。……ふむ。これとこれは、織口家のかいろくのようだな。明治時代のものか」


「明治? 道理で古いわけですね。それはそうと、この木箱、どこかで見覚えが」


 軽く首を傾げ、本と並んでいた木箱に手を伸ばす。引き寄せてみれば、黒ずんだ蓋に記されていたのは、四つの漢字だった。「根」「暗」「出」「垂」。意味の取れないその四文字を見たとたん、あたしは思わず声をあげていた。見覚えあると思ったら!


「先輩、これですよこれ! さっき上で話してた頭蓋骨」


「お前が織口研究室で見たというあれか? なぜそんなものがここに」


「聞きたいのはあたしの方です──って、まさか勘違いじゃないよね」


 そう言いながら、あたしは木箱に手を掛けた。そっと蓋を外せば、現れたのは古びた髑髏だ。右耳の上に大きな穴が、その正反対には小さな穴が空いているのも記憶通り。でも、先輩も言ったように、どうしてこれがこの地下室に……?


「史学科から一時的に預かった、って織口先生は言ってたんですけどね」


「おそらくそれは出任せの嘘だろう。ここに置いてあるということは、覚書との照合に用いたと考えるのが妥当だが、何を確かめようとしたのか……」


 ぶつぶつと思考を垂れ流しつつ、先輩は再び棚の上の古書へ手を伸ばした。こっちも織口家の手記か、それにこれも──などとつぶやきながら中身を確認していた先輩だったが、最後の一冊を広げた次の瞬間、先輩の動きがぴたりと止まった。


「……まさか」


 先輩が深く息を呑み、同時に、二十センチ弱のハードカバーを掴んだ手がぶるぶると小刻みに震え始める。え、どうしたんです? オーバーすぎるリアクションを前に、あたしがそう問いかけようとしたその時、先輩は「馬鹿な!」と大声を発した。


「し──『真怪秘録』の第四巻だと……! そんな……そんな馬鹿な!」


「しんかいひろく?」


 先輩の発した言葉を、あたしはきょとんと繰り返した。先輩の資料室に出入りする中で、何度か聞いたタイトルだ。妖怪の正体がずらっと書いてある本でしたよね、確か。資料室のノートとか記録は、そのために集められたとか……。


「あれ? でも先輩、結局その本は作られなかったって」


「ああ。俺もそう思っていた。まさか実際に刊行されていたとはな……! 第四巻ということは、その前が──そして、その後も存在するのか? いや、今は中の確認が先だ! そうだろう、そうに決まっている……!」


 興奮が抑えられないのだろう、先輩の自問自答が止まらない。血走った目を本に向けたまま、先輩は直立したままページをめくり始める。どうやらこの場で読むつもりらしいが──それはちょっとどうだろう。


「先輩、驚くのはわかりますけど、読むのは後にしませんか? 盗まれた覚書は見つかったんですから、さっさとこの場から逃げないと」


「馬鹿も休み休み言え、こんな機会を逃してたまるか! ふうむ……。『ぬらりひょんの講』と副題が付いているということは、一巻で一種の妖怪を扱うという構成なのか? だとすれば、一体、全部で何巻になるのか……」


「先輩! わくわくするのはわかりますけど、とりあえず今は帰りましょうよ! 織口先生が戻ってきたらどうするんです?」


「あの女が来たら? 言うまでもない、盗まれた覚書を突きつけて事情を白状させてやる。さすがにここなら言い逃れはできまい?」


 食い下がるあたしに、先輩がけろりと言い放つ。それを聞いたあたしは「なるほど」と納得していた。そういう計画ならまだわかる。興奮のあまり我を忘れているのかと思ったが、意外に冷静なんですね、先輩。そう感想を漏らしてみたものの、先輩からリアクションは特に返ってこなかった。


「ほう……。やはりあの覚書の内容は……」


 ほんとに読んでるんだろうかと疑わしいほどの速度でページをめくりつつ、ぶつぶつつぶやき続ける先輩。どうやらあたしの相手をする気はゼロらしい。仕方ないので、この間に杵松さんに連絡しておこうかと思って携帯を取り出したら、「けんがい」の表示がくっきりはっきり光っていた。そりゃそうか、地下だもんね。


「……先輩、時間掛かりそうですし、そのへん見回ってきていいですか?」


「好きにしろ」


 声を掛けた瞬間、先輩が即答する。心の底から「お前なんかどうでもいい」と言いたげなその声に、あたしはやれやれと肩をすくめた。せめて早く読み終わりますように、と願いながら、あたしは地下室に並んだ棚を見て回った。


 棚に並んでいるのは、木箱や古文書がほとんどだ。どういう意図や基準で集められたものかはよくわからないが、どれもこれも相当古いのは間違いない。本来なら、博物館にでも収めるべきものだろう。


 先輩は「表に出すには都合の悪い資料の保管場所」と推測していたけれど、文化財を地下室に押し込めた上、他人の資料室に押し入ってまで隠さなきゃいけないことって、一体全体何なんだ。そんなことを考えながら首を捻ったその瞬間、地下室に一際大きな声が轟いた。


「そうか……! そうだったのか……!」


「ひゃっ?」


 棚の奥から聞こえてきた先輩の叫びに、思わずびくっと身がすくんだ。真怪秘録を熟読していた先輩が、どうやら何かに気付いたらしい。先輩の読書に付き合うつもりはなかったが、そこまで驚かれるとさすがに気になる。


 というわけで、足早にさっきの場所に戻れば、先輩は黒ずんだ木箱から例の頭蓋骨を出し、しげしげと眺めているところだった。机代わりの棚の上には、例の真怪秘録に加え、織口家の回顧録らしき本も数冊広げられている。


「って、先輩? これ全部同時に読んでたんですか?」


「速読術としては初歩的なテクニックだ。内容をぎんしづらいので、普段はあまりやらないが──と、そんなことより聞け、ユーレイ!」


 側頭部に穴の空いた髑髏をもてあそびながら、興奮気味に語る先輩。その迫力に気圧されつつ、次の言葉を待っていると、黒の羽織の妖怪学の専門家は、あたしを見下ろし、はっきりとこう言い切った。


「いいか。ぬらりひょんは──実在したんだ」


「……は?」


 いつにも増してとつな展開に、思考回路が追いつかない。数秒間きょとんと固まった後、あたしは記憶を探りながら口を開いた。


「ええと……ぬらりひょんって、後頭部が長くて小柄な、お爺さん風の妖怪でしたよね。夕方とかにふらっと出てくるけど何をするわけでもない、という」


「ああ」


「で、ですよね? しかし、それが実在したって言われても、どういうことだか……。土蜘蛛みたいに、実は滅んだ民族だったとか?」


「ほう! 珍しく鋭いな! その答は、ある意味正解とも言えるが──だがしかし、土蜘蛛の場合とは異なる点が二つある」


 そう言うと、先輩は髑髏を片手に抱えたまま、こちらへと向き直った。相変わらず長い前髪の下、いつにも増して鋭い眼光が、あたしをまっすぐ見下ろしている。もともと異様な風体は、手にした髑髏と、そして秘密の地下室というロケーションとの相乗効果で、いっそう怪しさを増していた。


「まず一点は、時代の差だ。お前も知っての通り、土蜘蛛が滅ぼされたのは古代だが、ぬらりひょんは近代──いや、ほぼ現代まで生きていた」


「現代……? って、どうしてそう言い切れるんです?」


「これを読んだからだ」


 高らかに宣言しつつ、先輩は棚の『真怪秘録』を手に取り、あたしに軽く投げ渡した。わっ、貴重な本を! 慌ててキャッチするあたしに、先輩の声はこう続く。


「──『ぬらりひょんは誤怪にして、の実体は山中に棲む異人なり。たいわいしようにして頭部は前後に長じ、しわ多き顔は若くして老体に見えたり。かつては本邦の山々にへんざいせりが、その数次第に減りて昔語りに名を残すばかりとなりて明治の世には唯一、なわしろむら山に残るのみ』。その本の五十八ページ、三行目からの記載だ。誤怪というのは実在の生物などを妖怪と伝えたものであることは先に説明した通りだが、意味はわかるな、ユーレイ?」


「まあ、だいたいは……。要するに、ぬらりひょんってのは山に住んでる人なんですよね。どんどん数が減って、残ってるのは縄代村奴羅山だけ──って、ん?」


 先輩の語った文章を現代語訳している途中で、あたしは思わず眉をひそめた。今、あたしが口にした地名、どこかで聞いたことがあるような……? 思い出せずに首を捻れば、こっちの困惑をかしたのか、先輩はやれやれと肩をすくめた。


「わからんのか。ここだ、ここ」


「ここ……? あっ、そうか! 大学の……!」


 思わず大きな声が出た。M県天寺市縄代町奴羅山、一〇〇〇の一。大学を決める時や願書を出す時、何度も目にした地名だ。まさか今の話の流れで大学の住所が出てくるとは思っていなかったので、全く気が付かなかった。町と村とが微妙に違うが、明治から平成の間にそれくらいは変わっていてもおかしくない。


「そっか、ここにいたんですね、ぬらりひょん……」


 こちらを見つめる先輩の前で、あたしはしみじみうなずいた。なるほど、昔の妖怪のことを書いた本に身近な場所が出てきたら、それは確かに驚きますよね──と、そこまで理解したところで、ふと小さな疑問が湧き上がる。


 明治時代には、「ぬらりひょん」と呼ばれる人たちがいたとして、ですよ。


「でも……今は、いないですよね?」


「まあな。俺もこの大学に居着いて長いが、見聞したことはない」


「ですよね? じゃあ……その……ぬらりひょんは、どこ行っちゃったんです?」


 先輩を見上げ、小声を発する。聞きたくない答が返ってきそうな予感はしていたが、こうしんが僅かに勝っていた。と、先輩はふいにあたしから顔を背け、手にした髑髏に目をやると、「決まっている」と寂しげな声を発した。


「明治から今に至る間に、滅ぼされたんだ」


「ほ、滅ぼされたって──誰にです?」


「ここを開発した連中は誰だ?」


 おずおずとした問いかけに答える代わりに、先輩は質問で切り返す。え、と口ごもるのとほぼ同時に、いつだったかこの上の研究室で交わした会話が脳裏に蘇った。


 ──へえ。それじゃ織口先生って、この大学作った一族の人なんですか。


 ──ええ、そうよ。もっとも、ゼロから大学を創設したわけではなくて、戦中の工場施設を流用したのだけど。


「まさか! それじゃ、織口先生の……?」


「そういうことだ。僅かにこの地で生き長らえていた、ぬらりひょんと呼ばれた山住民族。その最後の生き残りを滅ぼし、この土地を奪ったのは、織口の一族に他ならない。そのことは、織口家の回顧録にもはっきり記録されている」


 そう言いながら、先輩は棚の上に広げられたハードカバーのノートを指し示した。色あせた紙ににじんだ崩し字は、あたしには「昭和」くらいしか解読できない。だが、読めません、と言うより先に、先輩が口を開いてくれた。


「昭和十四年──つまり、第二次世界大戦開戦の年だな。織口工業が奴羅山の開発を進めていたところ、住民が、あの山は『ぬらりぼとけさま』の住む場所なので立ち入ってはいけないと訴えてきた、とある」


「ぬらりぼとけ……ですか?」


「ぬらりひょんの別名とある。どうやらこのあたりでは、彼らは神仏に近い存在として捉えられていたようだな。由来不明の妖怪として知られる『ぬりぼとけ』と音の響きが似ているのが個人的には気になるが」


「そ、そこまで話してわきみちに逸れないでくださいよ!」


 別の話題にスライドしかけた先輩を、あたしは慌てて制した。ヌリボトケだか何だか知らないが、今はそいつに用はない。聞きたいのは、ぬらりひょんのことなのだ。


「立ち入ってはいけないと訴えてきて、その続きはどうなったんです?」


「無論、織口は突っぱねた」


 無慈悲な一声が、あたしの問いかけに即答する。手にした髑髏を眺めたまま、先輩は無感情な声で先を続けた。


「曰く、我が国は神の国であり、そのようなぞくじやきようの存在は認められるものではない。また、昨年発令された国家総動員法に基づき、全ての資源は国のためにちようはつされねばならず、奴羅山の地下には大量の鉄鉱石が確認されている以上、開発を中止することはできない。反対あればしかるべき対応をするのみだ──と、そういうくつだったそうだ。かくして、ぬらりひょんと呼ばれた彼らは武力でもってせんめつされ、奴羅山はめでたく織口工業の鉱山兼大工場となった」


「……ひどい」


 先輩の解説を聞き終えるのと同時に、あたしは自然と声を漏らしていた。


 そういう理不尽がまかり通った時代があったということは、祖父母の話や歴史の授業で知っている。知ってはいるし、理解もするが──納得できるかどうかは別問題だ。何をしたわけでもない人たちを手に掛けるなんて、それは、あまりに。


「ひどい、ですよね」


「ああ。ひどいな」


 同じ言葉を繰り返すことしかできないあたしに、先輩が静かに同意してくれた。さっきから感情を見せないようにしているのは、この人なりの怒りの表明なのだろうか。そんなことを考えながら先輩を見つめていると、その手の頭蓋骨とふと目が合った。


 どことなく前後に長いシルエットを持ち、右の側頭部は派手にさいし、左側には丸い穴。そう言えば先輩、さっきから話の合間にこれを見てたけど、これってまさか。


「先輩。もしかして、この頭蓋骨って……。織口先生は、平安時代のせきから出たとかって言ってましたけど」


「そんなわけがあるか。左側頭部の小さな穴は、どう見てもじゆうだんが命中した跡だ。そして右側頭部の破砕はその銃弾が出て行った跡。平安時代の遺跡からライフルで打ち抜かれた頭蓋骨が出てみろ、ぬらりひょんどころの話ではないぞ」


「じゃあ──それって」


「この地で殺された、ぬらりひょんの頭骨だ。回顧録には、『奴羅山制圧記念』と記されていた。髑髏が記念とは、何とも趣味の悪い話だがな」


「……で、ですよね、やっぱり」


 その答を予想していたにもかかわらず、あたしはショックを受けていた。


 目の前にあるこの大きく穴の空いた頭骨は、一人の人間が殺されたという証拠である。その事実を突き付けられ、あたしは二の句が継げなかった。ここまでの話も充分ひどくつらいものではあったが、目の前にどんと証拠があるのとないのとでは、現実感がまるで違う。殺人事件が──それも、一人二人の規模ではない大きな事件が起きたのだという実感がじわじわ染みていく中、あたしは自然と手を合わせていた。


「それにしたって、惨い話ですよね。何も皆殺しにしなくても……。てか、古代ならともかく、昭和にそんなことしたらさすがに違法じゃないんですか?」


「ああ、そうだな」


 あたしの疑問にうなずく先輩。だが、あたしが「ですよね」と同意すれば、先輩は再び髑髏に目を向け、こう言い足した。


「ただし、彼らが人であれば、の話だが」


「……はい?」


 先輩のその一言に、しんみりとしていた空気が一変する。今度は何を言い出したんだ、と見上げる先で、先輩は髑髏を掲げ、こう言った。


「ユーレイ。ぬらりひょんが土蜘蛛と異なる点は二つあると言ったことを覚えているな? 一点目は、今説明したように、滅ぼされたのがごく近年であること。そしてもう一点が──いいか、よく聞けよ」


 と、そこで言葉を区切り、先輩はあたしを見下ろした。電球の光を背に受ける位置へと移動したせいで、先輩の顔は逆光になってよく見えなかったが、興奮しているのは声でわかった。


「そう! 彼ら、ぬらりひょんは『人ではなかった』という点だ!」


 頭上に髑髏を差し上げたまま、先輩が高らかに言い放つ。張りのある声が地下室に反響していく中、あたしは首を傾げていた。先輩の感動ポイントがよくわからない。


「えーと……人じゃなくて、ぬらりひょんって呼ばれてたってことですか? でも、それはもう説明してもらいましたが」


「そういうことじゃない。土蜘蛛の場合は、非人間的なグループ名を与えられただけで、生物学的には人間だったわけだ。だが、ぬらりひょんはそうではない」


「そ、そうではないって言われても、どうではないんです……?」


「飲みこみの悪い奴め。だから──そうだな。たとえば、お前と俺とでは、子どもを作ることができるだろう?」


「作りませんからねっ!」


 唐突に何を言い出すんだこの妖怪人間は。顔を真っ赤にしつつ、反射的に身構えるあたしを前に、先輩は「落ち着け」と心底呆れかえった声を漏らした。


「あくまでものの例えだ、その気はないから安心しろ。つまり、人間同士ならそういうことができるわけだが、ぬらりひょんと呼ばれた彼らとの間では不可能だった、という話だ。彼らは、生物学的に言うところの現生人類──学名、ホモ・サピエンス・サピエンスとは、全く異なる種だったんだ」


「……え?」


 ダイレクトにかれたと思ったら、またも予想外の方向に話題が飛んだ。しかし、人類じゃないってどういうこと? アクロバティックな展開に困惑しながらこうげき態勢を解けば、先輩はぬらりひょんの頭骨と向き合い、先を続けた。


「そう。思えば、ヒントは全て提示されていた。多くの画家に描かれたぬらりひょんだが、外観上の特徴はいつかんしている。長く張り出した後頭部と、小柄な体躯だ。こんな容姿の生物は、生物史上、を除いて存在しない! 周辺の住民は単なる奇妙な一族と思っていたようだが、彼らを殲滅した織口家の中には、その正体に気付いた者が──」


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 一方的に進めすぎです!」


 饒舌に解説を続ける先輩に、あたしは慌てて口を挟んだ。先輩は答えを知ってるからいいけれど、こっちは理解が追い付かない。待ってください、と繰り返すと、あたしは先輩を見上げて尋ねる。


「人じゃない生物って──じゃあ、ぬらりひょんって、何なんですか?」


「箱書の通りだ」


「はい? いや、箱書の通りと言われましても」


「書いてあるだろう。根暗出垂ネアンデルタールと」


「……ふ、ふはっ?」


 困惑と驚愕をないまぜにしたような、奇妙な息が自然と漏れた。


 うん、いや、まあ、そう読めなくもないだろうってのはわかります。


 わかりますけどだがしかし、それはいくらなんでも。


 と、言葉に詰まるあたしに、先輩はびんそうな目を向け、口を開いた。


「ユーレイ。まさかお前、ネアンデルタール人を知らないのか? ヨーロッパから中央アジアにかけて、二十五万年前から三万年前まで生息していた人類のきんえん種。身長は現生人類に比べると小柄で、後方に長く張り出した頭が特徴だ。現生人類の祖先であるクロマニヨン人が新人と呼ばれるのに対し、旧人と呼ばれることもある。その名の由来は、千八百五十六年、ドイツのネアンデルけいこくで化石が──」


「知ってます、知ってますからね! そりゃまあ先輩ほど詳しくはないですが、さすがにネアンデルタール人の名前くらいは知ってます!」


 これでも高校出てるんですから。そう言い足しつつ、あたしは「でも」と先輩を──いや、先輩の手にした髑髏を見上げた。


「理解できませんよ、そんなの! だいたい、生きてたのは三万年前までって、先輩いま自分で言いましたよね? 昭和の日本にいるはずが」


「いたんだから仕方なかろう。絶滅したと思われていたが、実際は、極東の島国の山中に、ひっそり生きていたわけだ。ありえないと言いたそうな顔だが、そんな例はいくらでもあるぞ」


 あたしが納得できていないことに気付いたのだろう、先輩がこちらを見下ろした。予想外の真実を解説できることが嬉しいのか、心なしか声のテンションが高い。


「シーラカンスを知らないか? 生きた化石と呼ばれる古代魚で、進化の過程で失われたはずの形質をいまだに保持している種だ。一方、ネアンデルタール人は、現生人類と同時代、同環境に生息していた別種の人類。現生人類がここまではんえいしている以上、同じ環境に適応したネアンデルタール人が生き残ることは充分、可能だ」


「で、ですけど、ヨーロッパあたりにいたんですよね? どうして日本に」


「生物の死体が化石になって残る確率がどれほど低いと思うんだ。ヨーロッパや中央アジアでしか化石が見つからない種が、そこだけで生きていたとは言い切れない。それに、クロマニヨン人がアフリカから地球全土に拡散したことを思えば、身体的能力のほぼ等しいネアンデルタール人が日本に来たって不思議ではない!」


「なっ……なるほど……!」


 力強い説得に、あたしは思わず納得させられてしまっていた。そのリアクションが期待通りだったのだろう、ようやく理解したか、と言いたげに先輩が深くうなずいたが、まだ解説は終わらない。ぬらりひょん──ではなく、昭和にまで生き残っていたネアンデルタール人の頭骨に目を向けながら、黒の羽織の怪人は言葉を続ける。


「そう。絶滅したはずのネアンデルタール人は生きていたんだ。ごく最近まで、人間によく似た、害のないりんじんとしてな。ぬらりひょんは夕暮れ時に現れるというあの伝承は、彼らが夜行性だったことを示していると思われる。言葉や文化が退行していた可能性もあり、このあたりは推測するしかないが、『真怪秘録』の記載を見ても、個体数が減っていたのは間違いないな」


「絶滅し掛かってたってことですか?」


「『曾ては本邦の山々に偏在せりが、その数次第に減りて昔語りに名を残すばかりとなりて明治の世には唯一、縄代村奴羅山に残るのみ』。つまり、ぬらりひょんが最後まで残っていたのが、ここなんだ。神仏に近い存在──『ぬらりぼとけ』として、一種けいの対象であったおかげだろうな。そして、それを滅ぼしたのが……」


「……織口家、なんですね」


 先輩の言葉を受けるようにつぶやくあたし。そうだ、とうなずいた先輩は、地下室を見回すと、どことなく苛立たしげな声を発した。


「山中にひっそり生きるものたちを、資源目当てに殲滅する。人道的、りんてきにも決して許された行いではない。絶対にな」


 決して声を荒げてはいないが、深い怒りを感じさせる声が、地下室へと染み入っていく。やっぱり先輩、怒ってるんだ。この人はこういう風に怒るんだ。その事実を改めて噛みしめながら、あたしはおずおずと口を開いた。


「だから──織口先生はその事実を隠したんですね。知られると困るから、資料室から覚書を盗んでまで……」


「違う。ジェノサイドは決して許されることではないが、悲しいかな、戦時中にいては決して有り得ないことではないし、必死に隠す理由も思いつかない」


「えっ? じゃあ織口先生はなぜ」


「だがな、ユーレイ」


 思わず問いかけたあたしを、先輩は静かに見下ろし、言う。


「織口家の回顧録にはこんなことも記されていた。単なるさつりくならまだしも、僅かに生き残っていた貴重な種、しかも人類の近縁種を利益目的で絶滅させたとなれば、話は別だ。これはいわば、全地球的な犯罪となる。各国の科学者が知ったなら、織口家の──いや、日本の評価がどうなるものか──とな。わかるか? その事態をしたからこそ、織口の連中は隠したんだ。自分たちの悪行にまつわる全てをな」


 そこまでを語り終えると、先輩は静かに口をつぐみ、棚の上の頭蓋骨に向き直った。釣られて、あたしもそちらに目を向ければ、黒い眼窩と目が合ってしまう。


 ひび割れたじゆうこんと、そして前後に長く張り出した後頭部。滅ぼされた種族の髑髏は、まるであたしたち人類全員を呪っているようにも見えて、背筋がぶるっと震えた。なんだか不安になり、思わず先輩の袖をぎゅっと掴めば、先輩は「何を恐れる?」と呆れ、再び髑髏に視線を向けた。


「興味深いとは思わないか、ユーレイ? 後世、ぬらりひょんが悪の妖怪の総大将とされたのは、偶然ではあるのだろうが、奇妙なごうを俺は感じる。これほどまでに近代社会への恨みを抱えた妖怪は、そういないだろうからな……」


「そんなことより早く出ません……? あたし、やっぱり怖いです」


 興味深げに髑髏を見つめ続ける先輩の袖を、ぐいぐいと引っ張ってみる。盗まれた覚書は見つけたわけだし、織口先生が──織口家が隠していた秘密も判明した。この陰気な地下室に居続ける理由は、もう何もないはずだ。怯える声でそう主張すると、あたしは「それに」と言い足した。


「先輩は、織口先生が来ても証拠を突きつけてやればいいって言いましたけど、そう上手くいくとも思えませんよ。ここまで秘密を知っちゃった以上」


「おとなしく帰すわけにはいかないわね」


「え?」


 唐突に背後から響いた声に、あたしは反射的に振り向いた。


 瞬間、バチッと目の前で火花がさくれつし、あたしの体が床の上に崩れ落ちる。


「ユーレイ!」


 先輩の叫ぶ声が、なぜだか妙に遠くで聞こえる。


 ひやりとした床に叩きつけられたものの、不思議と痛みは感じなかった。ぜえぜえとあえぎながら、かろうじて動く両目を上に向ければ、テレビのリモコンのような黒い機械を手にした女性の姿があった。ああ。この人は。


「どうかしら、湯ノ山さん? 効くでしょう、このスタンガン? 理工学部の子に作らせた特注品なのよ。大学って、法や倫理で禁止されてるものが簡単に手に入る場所だから。出力を最大にすれば、命を奪うことも……知って……い」


 綺麗な笑みを浮かべる織口先生の言葉が、どんどん途切れ途切れになっていく。へえ、そうか、スタンガンでやられるとこんな風になるのかあ。そんなことを考えたのを最後に、視界がふっと暗転し──。


「しっかりしろ! おい!」


「無駄よ」


 ──あたしは、気を失った。




    ***




「──きろ。起きないか、おい」


「……むう」


「いつまで寝ぼけているつもりだ。起きろ、ユーレイ」


「だからユーレイって呼ばないでくださ──むぐっ!」


 反論しながら目を開けた直後、口が何かで塞がれた。


 声が出せないことに困惑して目を瞬けば、こちらを覗きこむ見慣れた顔と目が合った。面長で彫りが深い顔は色白で、眼窩は深く視線は鋭く、鼻は高く前髪は長い。うん、いつも通りの絶対城先輩だ。ただし、額に血の流れた跡が、そして頬に赤黒いあざがあるのを除けば、の話だが。ああ、見た目だけは綺麗な顔立ちなのに、もったいないなあ。ぼんやりした頭でそこまで考えた瞬間、あたしはハッと目を見開き、先輩へと問いかけていた。


「もごっ!」


 その傷はどうしたんですか、大丈夫なんですか。そう尋ねようとしたものの、口を先輩の手が塞いでいるせいで、くぐもった声が漏れるばかりだ。と、先輩は、もごもごと唸るあたしを見下ろし、やれやれと肩をすくめた。


「血はとっくに止まっているから安心しろ。お前の方こそ、意識ははっきりしているか? 俺の言葉がわかるなら、ゆっくり体を起こせ」


 抑えた声で告げながら、先輩があたしの口から手を放す。そう言われて初めて、あたしは冷たい床に横たわっていたことに気が付いた。ええと、あたしはどうして先輩の前で気絶してたんだっけ。床に転がっていた上体をゆっくり起こしつつ、あたしは記憶を辿ってみた。確か、織口先生の研究室に忍び込んで、地下室へ──。


「ああ、そっか。織口先生が現れたと思ったら、スタンガンで不意打ち食らったんでしたよね。……で、ここはどこです?」


「ぬらりひょんの頭骨を見つけた地下室のりんしつだ。使っていない部屋のようだが、今はかんきんしつと言ったほうがわかりやすいだろうな」


 見慣れた仏頂面のまま、殺風景な部屋を見回す先輩。それに釣られて周囲をぐるりと眺めてみたが、目につくのは古びた木戸とぼんやり灯った小さな電球くらいのものだった。広さは四畳半といったところだ。なるほど、あたしは先輩もろとも閉じ込められてしまったらしい。


「先輩もあっさり捕まっちゃったんですね……。それにその傷、もしかして」


「……説明する気はない」


 織口先生にやられたんですか。それ、いくらなんでも弱すぎませんか。そう聞こうとしたあたしの声を遮り、先輩があたしに背を向ける。見慣れた黒の羽織をあたしに向けたまま、先輩は無感情な声で続ける。


「俺をわらいたいなら好きにしろ。だが、そんなことに時間を費やす暇があるのなら、ここから出る方法を考える方が建設的だな」


 ドライな声で言い放ち、先輩は木戸を指差した。年季を感じさせる木製のドアは、かなりっているようで、隙間からは細い光が漏れている。「開きはしないが向こうは見えるぞ」と言われたので、あたしは静かにドアに近づいて背をかがめ、細い隙間に目を付けてみた。


「……おお、確かに見えますね」


 あの大きいバレッタの後ろ姿は織口先生だろう。その隣にあるのは──机と、あれは電話か。それに、他にも何人か……って、ちょっと待て。誰だ、あいつら。


「先輩。あの大男の三人組、誰です……? さっきはいませんでしたよね?」


「織口との会話の内容からすると、奴の子飼いの柔道部員らしいな。お前が気絶して少ししてから、ぞろぞろと現れた」


 ドアの隙間にへばりついたままのあたしの質問に、ドライな声が即答する。そんなのが出てきたんですか、と驚きながら見上げれば、先輩は血の固まった額の傷をそっと撫で、静かに首を縦に振った。


「俺をぶん殴ってくれたのも、俺達をこの部屋に放り込んだのも、あいつらだ。資料室のドアを蹴破ったのも、連中の一人だろうな」


「……なるほど」


 先輩の淡々とした解説を聞き、あたしは知らずに息を呑んだ。相手が織口先生一人なら、不意打ちにさえ注意すれば何とかなる。そう楽観していたが、現実はそこまで甘くはないようだ。


 柔道部員たちは、いずれも二メートル近い長身で、腕や首は丸太のように太い。何をするでもなく木箱に腰掛けているのが二人、煙草を吸っているのが一人。あんなゴリラみたいなの三人が相手では、インドア派の先輩がかなわないわけだ。とかなんとか無礼なことを考えていると、ふと織口先生の前の固定電話がベル音を発した。瞬間、先生がはじかれたように受話器を持ち上げ、耳に当てた。


「織口先生、あの電話を待ってたみたいですね。しかし、こんな地下室に電話が引いてあったなんて」


「しっ」


 あたしを黙らせ、先輩はドアに耳をぴたりと付ける。その視線に気圧されて口をつぐめば、織口先生の話し声が戸の隙間からこえてきた。


「……はい、先ほどお伝えした通り、とりあえずは閉じ込めて──え。で、ですが、それはいくらなんでもやりすぎではないでしょうか……? 黙っているよう脅せば──ええ、はい……。行方不明として処理することは、確かに可能ですし、学内で起こったことなら報告を改変することもできますが……その、織口家の家名を守るためとは言え、人を手に掛けるのはさすがに──いえ、そんな、めつそうもありません! ……はい、分家の私が織口の家に置いていただけているのは、ひとえにおお祖父おじい様のおかげです。家を追われれば、私のような者など、どこにも居場所はありません……、それはよくわかっていますが……ええ、はい……で……に……」


 途中でいったん大きくなった先生の声が、しりすぼみにボリュームダウンしていき、ややあって、受話器がそっと置かれる。最後のほうはほとんど聞き取れなかったが、幸いと言うべきか不幸にもと言うべきか、あたしと先輩のしよぐうは何となく理解できてしまった。どうやらあたしたちは、織口家の秘密を知ってしまったため、行方不明と見せかけて消されることになったらしい──って、じようだんじゃない!


「ど、どうしましょう先輩? 逃げるにしても、ドアは開かないしゴリラもどきは三人もいますし──ああっ、あたし、まだやってないことが山ほどあったのに! 恋とか愛とか恋とか愛とか恋とか愛とか」


「落ち着け。策はないこともない。あと、恋愛にえすぎだ、お前」


「ほっといてください! そんなことより策って一体」


「ここに俺を放り込む際、俺を殴り倒すだけで身体検査をしなかったのが連中の手落ち、ということだ。……こっちに来い、ユーレイ」


 声がドアの向こうに響かないようにするためだろう、先輩が部屋の奥に移動する。はいはい、とその後を追いながら、あたしは小声で問いかけた。


「何か手立てがあるんですか……?」


「俺がいつもこれを着ているわけを知っているか?」


 あたしの疑問に質問で応じつつ、羽織の袖の中に両手を引っ込める先輩である。これってのは羽織のことだろうけど、何でいきなりそんな話を。


「先輩、前に言ってましたよね。依頼人への印象付けのためのアイテムだとか」


「それはあくまで二次的な理由。本来の意義は別にある。黒の羽織は和のふく、黒ネクタイは洋の喪服。それらをせつちゆうすることで、歴史のかげほうむられたあらゆる存在へのけいちようの念を、常に体現するためだ。妖怪学とはすなわち、彼らと向き合うことだから……と言うのが、表向きの理由だ」


「表向き? ってことは、裏も?」


「無論、ある」


 そこで言葉をいったん区切り、先輩は袖の中に隠していた両手をにゅっと伸ばす。その手の先を見たとたん、あたしはあっと声をあげそうになった。期待通りの反応だったのだろう、わかったか、と言いたげに先輩がうなずく。


「そう。羽織には、結構な収納スペースがあるからだ」


 商売がら、とっさに妖怪騒動の仕込みをする必要が生じることもあるからな。そう言い足しながら、先輩は手にしたあれこれを床の上に並べていった。スマホに始まり、見慣れた小型スピーカーと音楽プレイヤー、ウイスキーのポケット瓶、プラスマイナスのドライバー二本にライターにスタンガン、ペンチにおふださいるいスプレー、そして「火気厳禁」と書かれた三つの小袋。ずらりと並んだ秘密のアイテムを前に、あたしは数秒間ぽかんと呆けた。普段から、こんなにいろいろ仕込んでたのか、この人。


「肩、りませんでした?」


「……まず聞きたいのがそれなのか?」


「え? あ、そ、そっか、これがあれば……!」


 これがあれば逃げられる。そう確信した瞬間、困惑と絶望方面に傾いていた心の針が、希望の側へと大きく振れた。最後に出したこの小袋が、おそらく先輩的にとっておきのアイテムなのだろう。火気厳禁って書いてあるってことは、おそらく火薬!


「これを使って戸をばくし、ついでに柔道トリオも地下室も吹っ飛ばせば」


「派手な展開を期待しているところ悪いが、この袋ははつえんざいだぞ。だいたい、そんな派手にやらずとも、これがあれば充分だ」


 呆れた声を漏らしつつ先輩が手にしたのは、マイナスのドライバーだった。二十センチほどのそれを右手でもてあそびながら、先輩は木戸へ横目を向ける。


「ここに放り込まれる時に確認したが、あの戸は鍵ではなく、かんぬき一本で抑えてあるだけだ。隙間からこいつを差し込んで押し上げれば、それで外れる」


「……ああ、なるほど。意外に……地味な方法ですね……」


 納得しつつうなずくあたし。それを見た先輩は「なぜ残念そうなんだ」と呆れたが、すぐに再び問題の木戸へ向き直った。


「外に出たとして、問題はその後だ。織口のスタンガンは、気を付けていれば避けられるとして──」


「あのゴリラトリオですね」


「何だ、その名前は。だいたい、ゴリラは本来温厚な生き物だぞ」


 神妙に口を挟めば、先輩がじろりとあたしを睨む。そこは別にどうでもいいでしょう。なぜ今ゴリラに気を遣う必要が。そう心の中で反論していると、「そこでだ」と静かな声が耳に届いた。


「ユーレイ。お前、合気道でどうにかできないか」


「えっ? う、うーん……どうでしょう……?」


 困惑する声が自然と漏れた。組み技主体の柔道は、合気道にとっては有利な相手ではある。がっちり組み合う前に相手の力を利用して投げ、後は極めるなり落とすなりすればいいのだ。しかし、これはあくまで一対一の場合。三対一となれば話が変わる。しかも、こっちは非力な女子で、向こうはゴツい男子である。


「残念ですけど、一度に掛かってこられたら、どうしようもないですよ」


「だろうな」


 あたしの答えは予期していたものだったのだろう、先輩が静かに同意する。


 わかってたなら聞かないでくださいよ、みじめな気持ちになるだけじゃないですか。そう言い返そうとした矢先、ふいに先輩は手を伸ばし、あたしの胸元のペンダントを掴むと、抑えた声でこう言い足した。


「もし、相手の動きが全て読めたなら、どうだ?」


 ……え?




    ***


【次回更新は、2019年12月26日(木)予定!】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る