四章 馬鬼(2)


「こ、これはなかなか……ぬう……重い……!」


 夜中の学内通路に、リヤカーを引くあたしの苦悶の声が染み入っていく。なるべく声を出すなとは言われたが、勝手に出るものは仕方ない。というわけでふうふうはあはあと声を荒げながら、ずるずるじりじり前進していると、先を歩いていた絶対城先輩がふと立ち止まり、大きく肩をすくめてみせた。


「遅いぞユーレイ」


「これでも! 最高! 速度です!」


 途切れ途切れのせいを、先輩に向かって浴びせるあたし。そう思うなら手伝ってくださいよ、と言い足せば、黒の羽織の怪人は無情にも首を真横に振った。


「断る。明人にでも言え」


「杵松さんがいないとわかってそういうことを……!」


 そりゃ杵松さんなら手伝ってくれるだろうけど、あの優しいほうの先輩は、研究室の実験機材のデータチェックの時間だとかで、現場の後始末が終わったタイミングで先に帰ってしまわれたのだ。残念。


「だいたいですね、今回、大道具多すぎませんか? かがり火二本と酸素ボンベだけでも充分重いのに、それに加えて石の地蔵が六体って……!」


「実際の伝承に基づいて、馬鬼祓いのさいだんを再現した結果だ。ごろで祓いやすい妖怪がいればそれを選んでいたが、馬の霊が化した妖怪が馬鬼くらいしかいなかったんだから仕方ない。というわけで諦めろ、わかったな」


 振り向きもしないまま、冷たく言い放つ絶対城先輩。納得しがたい理由ではあったが、妖怪の知識であたしがこの人にかなうはずもない。はっ、と大きく息を吐き出してリヤカーを引く手に力を込めると、あたしは先を行く背中に問いかけた。


「馬のお化けってそんなにレアなんですか?」


「日本において、馬は多分に神格化された動物だからな。ダイバやギバなど、馬に災いをもたらす妖怪なら、いくらでもいるが……」


 数歩先を軽い足取りで進みながら、絶対城先輩が流暢に語る。相変わらず大した知識ですね、と、呆れた声で告げながら、あたしは手と足に込めた力が抜けないように深呼吸する。海岸から大学に通じる砂利道に比べると、学内通路は一応そうされているので少しは楽だ。あくまで「少し」ではあるけれど。


「しかし、ここまでしてやらないと退散してくれないなんて、馬鬼って、ずいぶんめんどくさい妖怪なんですね……。どんなやつなんです?」


「愛媛県はおおに、江戸時代に出たとされている妖怪だ。不幸な事故などで死んだ馬の霊が妖怪化したもので、不幸な出来事や不運を招く。基本的に姿は見せないが、顔は馬そっくりで、目は赤く輝き口は裂けている。ずうたいは大きく、首から背中にかけて、つばさのように広いたてがみを持つそうだ」


「馬ですよね、それ?」


 説明を聞いた直後、思わずげんな声が出た。まあ、図体が大きいのはわかるし、目が光ってるのも妖怪だからオッケーとしましょう。でも、翼みたいなたてがみってのはどうも馬らしくないし、裂けた口に至っては絶対に馬の特徴じゃないような。


「知ってます? 馬の口って、長い顔の割に意外と小さいんですよ」


「お前に言われなくとも知っているし、お前の感じている疑問もよくわかる。だがな、馬鬼はそういう妖怪として伝えられていることは、厳然とした事実だ。もっとも、この馬らしからぬ特徴については、理由は付けられる。真怪秘録のために集められた研究データによれば、馬鬼の伝承の背景には──」


 ゆうゆうと先を歩きながら、先輩が静かに語り始める。毎度お馴染みの、「その妖怪の正体は実は」の時間の開始だ。そう理解した瞬間、あたしは声をあげていた。


「ストップ! 正解言うのはちょっと待ってください」


「どうした、急に?」


 話をいきなり遮られ、怪訝そうに振り向く先輩を、あたしはまっすぐ見返した。いつもいつも感心させられてばかりだから、たまには自分で当ててみたいと思っていたのですよ。リヤカーを引きつつ説明すれば、先輩は冷たい声を発した。


「お前には無理だと思うがな」


「言うだけ言わせてくださいよ。えーと、今回のお題は馬鬼ですよね?」


 先輩の冷ややかな視線を受け流しつつ、情報を整理する。あたしのかんからすると、馬が化けたはずなのに馬っぽくないのがポイントだ。ということは、ですよ?


「元を辿れば、馬とは全然関係のないものだったり……?」


「ほう。お前にしては意外に鋭いな。良い線だ」


「ま、まあ、あたしだって少しは鍛えられてるんですからね」


 意外にもストレートに評価され、顔がほころびそうになったが、そこをぐっとこらえて険しい表情を作ってみせる。別に誉められたいわけじゃないんですからね、と弁解しつつ、あたしは思考をめぐらせた。馬鬼、馬、うま、ウマ、UMA……。


「あっ! わかりましたよ、でしょう! ほら、未確認なんとかかんとか動物の略! ツチノコとかネッシーみたいな」


「UMA……? UNIDENTIFIED・MYSTERIOUS・ANIMAL──未確認動物の総称だな。で、それがどうした」


「ですから、それが、長崎の出島あたりから訛って伝わったんですよ。最初はよくわかんない怪物を指す言葉だったのが、いろいろあって馬鬼にへんぼうげ」


「遂げるか、ほう。UMAは二十世紀に生まれた造語だぞ。そんなものが江戸時代に伝わるか」


「え。そ、そうだったんですか?」


 先輩の言葉に、あたしの肩ががっくり落ちる。てっきり昔からある言葉かと思ってたんですけどねえ、UMA。露骨にしょんぼりしたあたしを、先輩は冷ややかに見下ろし、うなずいた。


「不勉強だったな、ユーレイ。だが、目の付け所は悪くなかった。実際、馬鬼の正体は、UMAとしても名高いあいつ──ジャージーデビルなのだからな」


 驚いたか、これが正解だ! そう言いたげに羽織をひるがえしながら、絶対城先輩が言い放つ。学内通路の街灯の下でぎようぎようしくポーズを決めたその姿は、モノクロの装いと相まって、白黒映画のワンシーンのようだった。ようではあったが、だがしかし。


「自信満々に言い切られたところ悪いんですが、そのジャージーなんとかを知らないんですけど……。あっ、スターウォーズに出てきたうるさい宇宙人?」


「それはジャー・ジャー・ビンクスだ。……ジャージーデビルは、アメリカはニュージャージー州に伝わるじゆうだ。その出自については諸説あるが、どの記録でも容姿はほぼ共通している。曰く、馬のように長い顔で口は大きく裂け、赤く輝く目と大きな体を持ち、背中には大きな翼が生えている。これが馬鬼の外見的な特徴といつすることは、さすがにわかるな?」


「あっ、はい」


 いつもながら流暢な解説に、あたしはうなずいた。さっき聞いた馬鬼の容姿と比べると、大きなたてがみが欠け、翼が生えている点が違うと言えば違うけど。


「馬鬼のたてがみは、ジャージーなんとかの場合は翼になる、ってことですか?」


「そういうことだ。首から背中にかけて、バサッとしたものが広がっていることには変わりないからな」


「そこはまあ無理矢理納得できなくもないですが……」


 絶対城先輩の強引な論法に押されつつ、あたしは「でも」と付け足した。両者を関連づけるなら、外見よりも、もっと気になる点がある。


「そいつ、アメリカのUMAなんですよね? で、馬鬼は江戸時代の妖怪でしょ? そんな時代に、海外のUMA情報が伝わってくるとは思えないんですが……」


「可能性はある。馬鬼は『江戸時代に出たと伝わっている』妖怪ではあるが、実際にその伝承が確認されたのは、千九百三十一年が初めてだ。比較的近年に発生もしくは改変された伝承が、『昔からそういうものだった』とされているケースは、全国的にも──いや、世界的に見ても極めて多い。でんに頼って保存される情報は、特に簡単に上書きされるものだ、と覚えておけ」


 そう言ってあたしにまっすぐ指を突きつけると、先輩はすたすたと歩き始めた。リヤカーを転がしてそれを追うあたしに背を向けながら、「そして」と解説は続く。


「ジャージーデビルの最古の出現記録は、馬鬼からさかのぼること二百年以上も古い、千七百七十八年だ。時系列的には矛盾はしない。また、馬鬼の伝承地域が愛媛の大洲であることも注目に値する」


「へえ。どう値するんです?」


「……お前、自分で考える気を失ったろう?」


 軽い口調で相槌を打てば、冷たい声が飛んできた。あたしに背中を向けているのに何でわかったんだろう。驚くあたしの視線の先で、黒い背中は解説を続ける。


「大洲は、江戸の末期から西洋との交流が盛んだった地域だ。シーボルトの弟子だったもろぶちや明治憲法の制定に関わったこうすすむを輩出しているし、さかもとりようが海外の思想に触れてだつぱんを決意した地でもある。ジャージーデビルの話くらい、いくらでも伝わる余地はある。それに、四国はもともとうしおにの伝承が多いからな」


「牛鬼? 馬鬼じゃなくて、ですか?」


「ああ。人間、知らないものの話を聞く時は、知っている何かに置き換えて考えるものだろう? 故に、海外産の謎の妖怪は、四国人なら馴染みの深い妖怪である牛鬼と似たようなものとして把握され……」


「……馬鬼伝説ができあがった、ってわけですか。ちなみに、そのジャージーデビルの正体は?」


「そこまでは知らん。アメリカの妖怪学者に聞け」


「あ、そうですか」


 先輩の解説を聞き終え、あたしは難しい顔でうなずいた。納得はできたが、当てられるか、こんな答え。じゆうめんのままリヤカーをのそのそ引いていると、少し先を歩いていた先輩がふと振り返り、あたしの顔を見下ろした。


「どうした、ユーレイ? えらく悔しそうな顔だが」


「え? ……まあ、実際、悔しいですからね」


 先輩の顔を見上げつつ、あたしは力なく溜息を吐く。「ズバーンと言い当てて勝ち誇る予定だったんですけど」と言い足せば、先輩は首を傾げて眉をひそめる。


「よくわからんな。俺を相手に勝ち誇って嬉しいのか、お前は」


「嬉しいというか、役立たずじゃないって認めてほしかったって感じですかね」


 再び隣に並んだ先輩をちらっと見上げ、苦笑を浮かべるあたし。なんだかんだ言って、タダで耳鳴りを封じてもらってるわけですし、ちゃんと先輩の役に立たないと、あたし的にスッキリしないんですよ。先輩の隣に並びながら告げると、先輩は「面倒な性分だな」とつぶやき、不可解そうに首を捻った。


「お前はそれなりに役立っているだろう。実際、今も荷物を引いている」


「こんなの誰でもできる仕事じゃないですか。そういうのじゃないんですよ」


 そういうのじゃないんです。同じフレーズを二度繰り返し、あたしはふと空を見上げた。海岸から運動場を抜け、今は農学部校舎の裏あたり。サイコロのような農学部校舎には、深夜にもかかわらず明かりの灯った窓が多い。こんな時間まで研究お疲れ様です、と心の中でつぶやきながら、「たとえば」と言葉を続ける。


「先輩と一緒にいる時に、あたしが悪いやつに捕まったとしますよね?」


「何だ、その漠然としつつも非現実的なシチュエーションは」


「い、いいから黙って聞いてくださいよ! えーと、だから、あたしが人質に取られてですね、先輩は動きを封じられるわけです。さあどうする絶対城阿頼耶! そこであたしがですね、まんしんしていた悪党の手を取って投げ飛ばし」


「わかったわかった。もう充分だ」


 リヤカーを引っ張りながら熱く語るあたしだったが、ドライな声が割り込んだ。えー、これからがいいところなのに。そう視線で訴える後輩を無視し、先輩は羽織の下で腕を組むと、ばかでかい溜息を吐き出した。


「呆れてものも言えんな。だいたい、前提からしておかしいだろう。お前が人質にされたところで、俺は放置して逃げるぞ」


 とんでもなく無情なことを言い放つ先輩である。だが、その口調と表情は内容に反して妙にくつろいでおり、どこか楽しげでさえあったので、あたしは言い返すタイミングを掴めなかった。そっか。よく見ると……じゃないか。いや、よく見なくても、綺麗な顔立ちなんだよね、この人。絵になる、と言うか。


 と、そんな風に思いながら見つめていると、先輩はいつものように反論が飛んでこないことに違和感を覚えたのだろう。黒の羽織の妖怪学の専門家は、きょとんとあたしを見下ろし、不可思議そうに首を捻った。


「ん。どうかしたのか、ユーレイ?」


「え? いや、どうもしませんよ。ただ、先輩は黙ってるとかっこいいのにって思っただけで──って、何でもないです! ほんとに!」


 ついつい思考を口から漏らしてしまった直後、あたしは慌てて自分の発言を否定した。言うに事欠いて何を言ってるんだ、あたしは! 第一、この、夜に二人きりという状況からしてよろしくない。ゴールデンウイークに出向いた日奈美の旅館での夜の出来事を──つ、つまり、手を握って引き寄せられてしまった時の妙なドキドキを思い出してしまうじゃないですか! ああもう!


「ほんとに何でもないですから! てか、あたしにはお構いなく! どうぞ先に帰っちゃってください!」


「……そうか? なら、先に行くぞ」


 わけがわからないなりに納得したのか、先輩は素直にうなずき、悠々と歩き去ってしまう。黒の羽織をたなびかせて去っていく後ろ姿はなかなか様になっていたが、そう感じてしまう自分が、あたしはなぜか悔しかった。




 で、先輩に遅れること、約十分。どうにかこうにか文学部四号館へ辿り着いたあたしは、一階でリヤカーの荷物を下ろし、ふらふらと四階へと上り──。


「え」


 ──意外な光景に、絶句することとなった。


「……何、これ?」


 勝手に小さな声が出た。目の前に転がっている折れた板は、どうやら無理矢理こじ開けられたドアの成れの果てらしい。扉をなくした入り口から見える古びた紙の束は、きっちり整理して本棚に収めたはずのノートや古書たちだろうか、もしかして。荒らされた、としか表現できないその光景に、あたしは数秒間ぽかんと呆けていたが、その後、ハッと我に返った。


「あっ、そうだ、先輩! 絶対城先輩、生きてますか!」


「勝手に殺すな」


 叫びながら資料室に飛び込めば、聞き慣れたぶっきらぼうな声がすぐ返ってくる。その声に引かれるように、本棚の奥に設けられた畳敷きの生活空間へと駆け込むと、先輩は、拳を握り締めながら立ち尽くしていた。羽織にワイシャツ、そしてネクタイ。一見した限り、ついさっき別れた先輩のままで、あたしはほっと胸をなで下ろした。


「ああ、良かった、無事でしたか! ごうとうはちわせでもしたのかと思いま」


「良くなどないッ!」


「したよ──って、ひゃいっ?」


 とつぜんごうに、体がびくんと縮み上がる。思わず口をつぐんだあたしの前で、先輩は乱暴にガリガリと頭を掻き、そして拳を壁へと叩きつけた。


「やられた……! まんまと盗まれた!」


「ぬ、盗まれたって──何がです? 金目のものなんか、ここには何も」


「──『真怪秘録』の覚書だ! 解読中の『ヌの三巻』も含めてごっそりとな!」


 あたしの声を打ち消すように、先輩が再びえる。初めて見るその剣幕に怯えつつ、あたしは今聞かされたばかりの言葉を、頭の中で繰り返した。


 真怪秘録覚書、ヌの三巻。聞き覚えのあるフレーズだ。


「それって、確か……先輩が最近読んでた、あの古い本」


「他に何がある? そうだ、ぬらりひょんについての調査報告だ! あれを含めた覚書が数点なくなっている! どこのどいつの仕業だ、くそっ!」


「お、落ち着いてください先輩! あたしに聞かれても! ……でも」


 声を荒げる先輩をなだめるあたしの胸に、ふと疑問が浮かぶ。あの古本が盗まれたって言うけれど、誰があんな本を? あれの価値がわかる人ってあんまりいないと思いますけど。あたしがそう続けようとした矢先、ふいに先輩が声をあげた。


「そうか……織口だ!」


「はい? お。織口って──文学部の織口先生のことですか?」


「他に誰がいる!」


 きょとんと問いかけたあたしに、先輩の怒鳴り声が叩きつけられる。怨みに満ちた視線を向けられ、ぎょっと怯えるあたしを見下ろしたまま、先輩は忌々しげに言葉を重ねた。


「あの女が、この建物を資料ごと売れとしつように持ちかけていたことは話したな? あれは、この部屋のどこかに、織口家にとって都合の悪い事実が記載された資料があるからだと、俺はそう踏んでいた。今年になってこうしようみ、諦めたかと思っていたのだが……そうではなかった! 奴は──いや、奴のバックにいる織口の家は、ただ手を変えただけだったんだ! あの女、お前にちょくちょくせつしよくし、俺の動向を聞いていただろう? 最近、何か聞かれた……いや、何を教えた、ユーレイ!」


「ちょ、ちょっと、そんなに迫らないでくださいよ! 確かに織口先生には確かに不自然なくらいよく出くわしますけど、肝心なところはぼかして話してますから! お祓いがインチキだとか、先輩が何を調べてるとか、このお守りのことだって」


 いきなり詰め寄ってきた絶対城先輩におののきながら、あたしは胸元にぶら下がった素朴なリングを指で示した。これでも先輩には感謝しているし、情報を流したりはしませんよ。そう必死に訴えれば、先輩はハッと口を押さえ、そしてあたしを再び睨む。え、どうしてさっきより視線が険しいんですか……?


「おい、ユーレイ。もしかして、馬鬼祓いの日時を教えていないだろうな」


「えっ? お祓いのスケジュールのことなら、言いました、けど」


 なぜ詰め寄られているのか理解できないまま、おずおずと首を縦に振るあたし。その専門家さん、お祓いをやってるんでしょう、次はいつなのかしら。織口先生にそう尋ねられたので、なんとはなしに、次の木曜の夜中ですと、あたしは確かに答えた。


「ですけど、それが……?」


「わからんのか! 全部あの女の目論み通りだったということが! 何も知らない新入生を──つまり、お前を送り込んで様子を探らせるつもりが、お前が資料室に居着いてしまったため、計画を変えたんだろう。今さら気付いても遅いが、今日馬鬼を祓った依頼人──馬術部のあいつも、おそらく知らずに利用されていたに違いない! 学生委員からここを強く薦められたと言っていたが、学生委員のバックにいるのはあの女。全て、この資料室から俺達を追い出すための計略だ!」


 歯を噛みしめて先輩がうなる。この人のこんな悔しげな顔を、しかもこんな近くで見るのは初めてだ。そんなことを心の端で考えながら、あたしは小声で口を挟んだ。


「考え過ぎじゃないですか……? 織口先生が、馬術部さんを言いくるめてここに来させることはできたとしても、ですよ? お祓いで確実に資料室を留守にするとは限りませんし……」


「違うな」


 それなりに筋が通っていると思って口にした意見を、絶対城先輩の冷たい声が切り捨てる。なぜ、と尋ねるより早く、先輩は「言ったろう」と口を開いた。


「馬の霊の祟りとなれば、想起できる妖怪は馬鬼くらいだ。そして馬鬼を祓うとなれば、お前も知っての通り、大がかりな準備と時間が必須。結果、資料室は、必然的に無人となる」


「それはちょっと無理がないですか……? 馬鬼のことそんな詳しい人って、絶対城先輩くらいしかいないと思いますよ」


「学者を何だと思ってるんだ、お前は! 文学部の准教授ならばその程度の知識を持っていてもおかしくはないし、第一、この程度の情報ならネットでも調べられる。無知なのは構わんが、自分を基準に世界を見るのはやめておけ」


 あたしに向かって言い放つと、絶対城先輩はふいに背を向け、本棚の向こうへ消えてしまった。今度はどうしたんです? あたしは面食らいつつも、散らばる紙の束を踏まないように気を付けながら、先輩の後を追った。


「待ってください、落ち着いてくださいよ! 織口先生のこと好きじゃないのはわかりますけど、決めつけるのは良くないですって! 杵松さんからもいろいろ聞きましたが、あたしにはやっぱり、あの先生はそんなに悪い人とは──はい?」


 本棚の角を曲がれば、先輩がぬっと黒くて小さな機械を突き出してきた。どこに隠してあったのか、二十センチほどのノートパソコンだ。モニターに映っているのは、どこかの廊下をさつえいしたらしい動画。ごつい男がドアをやぶり、それに続いて女性が部屋の中へしんにゆうする様子がはっきりわかる。しかもその動画をよく見れば、妙に見慣れた光景で──って、これ、もしかしてこの資料室のドアじゃないのか。


「でも、あそこ、かんカメラなんかありましたっけ」


「一見しただけではわからんだろう。去年、部屋を売れとのさいそくひんぱんだった時、念のために明人と一緒に備え付けた。ドアの前に仕掛けたセンサーに反応して録画が始まる仕組みで、ちなみに、これは今から一時間前の記録だ」


 パソコンをあたしに手渡しながら、先輩は「これでどうだ」と言いたげにこちらを見下ろす。あたしはそれに答える代わりに、何度もリピートされる短い動画を凝視した。画質はあまり良くないようで、侵入者の顔ははっきり確認できなかったが、女性が背を向けた際にカメラがとらえた後ろ姿には、確かに見覚えがあった。長い髪をまとめる大きなバレッタは、間違いなく、あの人がいつも付けていたものだ。


「……織口先生、ですよね、これ」


「納得したか」


 息を呑むあたしの傍らで、先輩がこともなげにうなずく。認めたくはなかったが、現実はどうやらそう甘くもないらしい。自分の人を見る目のなさを心から痛感しつつ──ああ、あたしがお祓いの日時をほいほい教えたりしなければ──あたしは先輩を見上げて問いかけた。


「女の人が織口先生ってのはわかりましたけど……ドアを蹴破ってる、この大男は何者なんです?」


「杵松が言っていたろう。織口は、柔道部のガラが悪くて生きの良いのを子飼いにしていると。わかったら行くぞ」


 そうとだけ言い残し、先輩はパソコンのモニターを豪快に閉じて歩き出す。わあ、なんて乱暴な! というか、行くってどこへです? 慌てて後を追いつつ尋ねたのだが、黒の羽織を纏った背中は、何も答えようとしなかった。




    ***




「あの、絶対城先輩……?」


「静かにしろ」


「あたし、考えたんですけどね」


「うるさい」


「やっぱり、こういうのは」


「黙れ」


 もごもごと口を挟むあたしの声を、先輩がざっくり遮った。いやしかし、黙れと言われてもですね、世の中には見過ごせるものとそうでないものがあるわけで。あたしは小さく深呼吸すると、少しだけ大きな声を出した。


しのまれたからって忍び込みかえすのは、どうかと思います」


 邪魔されないよう早口で言い切ると、あたしは改めて周りを見回した。


 新歓コンパの夜以来となる織口研究室は、相変わらずきちんと整理されていた。壁に沿って並んだ本棚、綺麗に揃った本やファイル、磨かれたデスクに応接セット。主の性格の差が出るのか、どこかの資料室の生活空間とはえらい差だ。


 もっとも、現在進行形で荒らし回っている男がいるせいで、織口研究室の整然とした雰囲気は今まさに崩壊中なのだけれど。これ、誰が片付けるんですかね。ぼそっと尋ねれば、織口先生のデスクの中身を引っかき回していた絶対城先輩は、振り向きもせずに言い放った。


「余計なことは気にするな。今は盗まれた覚書を見つけることだけを考えろ。幸い、今はこの階の研究室は全室無人のようだからな。調べるにはもってこいだ」


「そりゃそうかもですけど、そもそも警察に届けるのが先では……」


「むざむざ織口に覚書を処分する時間のゆうを与えてやれと? ふざけるのも大概にしろ。そんなことを考える暇があったら、探すのを手伝え」


「……それってつまり、あたしに共犯者になれってことですよね」


「ここに忍び込んだ時点で既に共犯だ。諦めたら、ついでにこれを持っておけ」


 そう言うと、先輩は銀色の鍵をあたしに放った。キーホルダーもタグも付いていないシンプルなそれを、あたしは反射的に受け取り、そして先輩に問いかける。


「これ、ここに入る時に先輩が使ってた鍵……?」


「文学部共通のマスターキーの複製だ。教室でも研究室でも、どこでも自由に入れる。『べとべとさん』の時にも使っていたが、忘れたか」


「なるほど、夜の学校に平気で出入りできてた理由がわかりましたよ。しかし、仮にも一般の学生が、何でこんなの持ってるんです?」


「ああ、一昨年の『のびあがり』事件の時に──くそっ、外れか」


 あたしへの返事を途中で打ち切り、先輩が忌々しげに立ち上がる。どうやらデスクの引き出しには、さがものは見当たらなかったらしい。そう推測していると、先輩は、部屋の真ん中で居心地悪そうに佇むあたしに向き直った。前髪に隠れながらも鋭い眼光を向けられ、思わず背筋がぞくっと震える。


「あのな、ユーレイ。お前、いつまでそうやって突っ立っているつもりだ? 気が進まないなら来るなと言ったにもかかわらず、自主的に来たのはお前だろうが」


「で、ですけど……」


 煮え切らない声が出る。織口先生に、馬鬼のお祓いの日時を教えてしまったのはこのあたしだ。責任を取るためにも「お疲れ様でしたー」と帰ることなんかできようもない。というわけで、先輩に付いてきてはみたものの。


「いざ現場に来てみると、良心のしやくしりみしてしまってですね」


「面倒な良心だな」


 歯切れの悪い言葉を漏らすあたしに、先輩の呆れた声が投げかけられる。良心ってのはそういうものですよ、と言い返そうとすれば、先輩はデスクわきの書類整理ボックスを漁りながら、思い出したように口を開いた。


「そう言えばお前、明人を呼ぶとか言ってたろう。連絡は付いたか?」


「携帯に掛けたんですけど、留守電だったんですよね」


「あいつのゼミの計測室は電波を遮断するからな。で、どうした?」


「とりあえずメールしときました。『せんにゆうなう』って」


「もうちょっと詳しく事情を書け。説明にも程がある」


 やれやれと溜息を吐く先輩である。だって移動中だったし、歩きながらメール打つの苦手だし。とかなんとかぶつぶつ反論するあたしを無視し、先輩は「さて」と次の本棚に向き直った。三分の一ほどが書類棚になったスチールの書架は、四面の壁のうち二面をせんりようしており、対して、資料室から消えた覚書は、どれも厚さはせいぜい二センチ。小分けにすれば、どこにだって隠せそうだ。


「一箇所にまとめて放り込んでいてくれれば、見つけるのは楽なんだがな……。おい、ユーレイ、お前もやるならそろそろ」


「はいはい、わかってます。やりますよ、やりますとも」


 先輩の促す声を遮りながら、あたしは一歩前に踏み出した。いつまでもぶつぶつ言ってても仕方ない。ふうっ、と深く息を吸い、目の前の書類棚に手を伸ばす。とうひんを取り返すんだからこっちに理があるとは思うのだが、それでも嫌な汗は出る。ああ、どうか織口先生がやってきませんように。


「しかし、資料室に忍び込んだ後、どこに行ったんですかね、あの先生」


「俺が知るか。それはそうとユーレイ、お前、この研究室に来たことがあるはずだろう。盗品を隠しそうな場所の心当たりはないのか」


「あったら最初に言ってます。それに、あの時は、何を見たってわけでもないですからね。見たのは、古いドクロくらいです」


「古いドクロ?」


 何気なく漏らした言葉に、先輩がぴくりと反応した。箱入りの分厚い事典の中を確認しながら、羽織を纏った妖怪学の専門家は訝るようにあたしを見た。


「織口の専門は日本近代文学だろう。なぜそんなものを持っている?」


「史学科から預かってるって話でしたよ。平安時代のお寺から出土したらしくて、箱に何か書いてあったっけ。確か『ねくらしゅっすい』とか」


「ネクラシュッスイ? 何だそれは。呪文の類か?」


 意味がさっぱりわからないと言いたげに先輩が首を捻ったが、あたしだってわからない。知りません、と首を左右に振って示すと、あたしは書類棚を荒らす……もとい、盗品を探す作業に戻った。書類棚を開けては漁り、漁っては開けを繰り返す。そのまま無言で十分ほど続けたが、出てくるのは講義の時間割や会議の次第といった、ごく当たり前のものばかりだ。


 ……見つからないような気がしてきましたよ、先輩。


 声に出さずに心の中でつぶやいてみる。と、まさかその思いが届いたわけでもないだろうが、先輩はふと手を止め、忌々しげに声を漏らした。


「……キリがないな。もう少し効率的な方法があれば──ん。待てよ」


 先輩の声が、ふいに途切れる。あれ、急にどうしたんだろう。何か思いついたのかな、と近づいてみれば、先輩はあたしを見下ろし、タンクトップに覆われた貧相な胸元へ、それはもう無造作に右手を伸ば──。


「え? ちょ、先輩っ!」


 気が付けば、体が動いていた。


 伸びてきた手を避けるように、先輩の右側に自分の体を滑り込ませ、左足を軸にぐるりと回転。そのまま左手で先輩の腕を掴んで返しつつ、さらに一回転して巻き込みながら押し倒す。ぽかんと呆気にとられながら転がった先輩の体に馬乗りになり、両手で右手を絞めつければ、みしり、と確かなごたえが伝わった。


「よし!」


「良くはない! 離せ!」


 先輩の呼びかけに、あたしはハッと我に返る。しまった、つい体が勝手に! すみません、と謝りながら、先輩をホールドしていた手を離し、華奢な体の上から退く。解放された先輩は、むくりと起き上がると、あたしを見下ろし、言った。


「腕を折る気か」


「すっ、すみません! 無造作に手を伸ばされると、つい反射的に……」


 恨めしげに見下ろされ、あたしは何度も頭を下げる。ずっと合気道やってたせいで、掴まれそうになると、体が勝手に反応してしまうんです。ほんと申し訳ありませんでした、がなくて何よりでしたけど以後気を付けます、ごめんなさい。しかし絶対城先輩とあんなに密着したのは旅館の夜以来だったので、ついあの時のことを思い出したりして、それについてもすみません。らちな思いをちょっとだけ交えつつ延々と謝り続ければ、先輩は呆れたように肩をすくめた。


「もういい。説明せずに手を伸ばした俺も悪かった。お前の耳鳴り封じを外そうとしただけなのだがな」


 右手の具合を確認しつつ、やれやれと溜息を吐く先輩。それを聞いたあたしは、謝るのを止め、きょとんと首を捻った。えーと、耳鳴り封じって、それはつまり。


「このペンダントのことですか……? これを外すって──どういうことです?」


「どうもこうもない。そのままの意味だ」


 先輩の意図が掴めず問いかければ、何の説明にもなってない答が返ってくる。いや、そんなことはわかります。わかりますけど、だがしかし。


「でも、それに何の意味が……? それに先輩、このお守りを外したら、あの嫌な耳鳴りがまた」


「大丈夫だ」


 おずおずと反論を試みたものの、先輩のぴしゃりとした物言いが、あたしの声を断ち切ってしまう。荒らされた本棚やデスクを背景に、羽織にネクタイの怪人は自信ありげに腕を組み、あたしに向かって言葉を重ねた。


「しばらく付けている間に、お前のこうりよくは確実に上がっている。少し外した程度で、耳鳴りが起こることは有り得ない」


「有り得ないって、何のこんきよがあって……!」


「うるさい、黙れ。これ以上議論するつもりは俺にはない。外せ」


 長い前髪の隙間から鋭い双眸があたしを見下ろし、冷たい声での命令があたしに向かって投げつけられる。その問答無用の圧力に押し切られるように──心のどこかでは、この人が言うなら大丈夫なのだろう、という確信もあったかもしれないが──あたしはうなずき、ペンダントのチェーンに手を掛けた。


 さっさとやれ。そう視線で促す先輩を見返しながら、ペンダントを首から外せば、どこか懐かしい不安感が心の内へと押し寄せてきて、あたしは思わず息を呑んだ。


 細い竹をリング上に丸めて糸で固定し、チェーンを通しただけの、絶対城先輩お手製のペンダント。そんな単純なお守りが、ここ数か月、あたしの気持ちをどれだけ楽にしてくれたことか、安心を与えてくれていたことか。その事実を改めて実感しながら、あたしは不安な瞳を絶対城先輩へと向けた。大丈夫、今のところ、耳鳴りが起こる気配はない。


「あの、外しましたけど」


「見ればわかる。ところでユーレイ、この部屋に怪しい場所はあるか?」


「……は?」


 今度は何を言い出したんだ、この人は。ペンダントを取れ、という命令も意味不明だったが、この質問も同じくわけがわからない。だいたい、そんな場所があったら教えますって、さっき言いましたよね、あたし? だが、しかめ面で見返すあたしを前にして、妖怪学の専門家はくそまじめな顔で口を開いた。


「お前の直感に聞いている。どうだ、盗んだものを隠しそうな場所はあるか」


 要するに、勘に頼ってみろということらしい。でも、ペンダント外させたのはどうしてです? 先輩の意図を理解できないまま、あたしは研究室をゆっくり見回してみた。本棚、本棚、デスク、窓、観葉植物、応接セット、また本棚……。当たり前だけど、特に違和感を覚える場所はない。


「だいたい、露骨に怪しいところがあったら真っ先に探してますし」


「わかった上で聞いている。ダメ元でどこか一箇所を指してみろ」


「そうまで言うなら……うーん、この本棚の、このあたり……とか?」


 強いて言うなら怪しそうな感じがしないでもないような、という貧弱な根拠に基づき、おそるおそる部屋の奥の本棚の側面を指さしてみる。半信半疑どころか一信九疑くらいの提案だったが、それを聞いた先輩は「よし」とうなずき、あたしが示した本棚を調べ始めた。


「側面を指したということは、中身ではなく棚そのものが怪しいということか」


「聞かれてもわかりませんよ。ただ、適当に、なんとなく、言っただけですから。自分で言うのもなんですけど、そんなところには何もないと思いますし」


「探ってみなければ断言はでき……ん? 何だ、このとつは」


 棚と壁との隙間に指を差し込んでいた先輩が、ふいにぴたりと動きを止めた。どうしたんですかと尋ねようとした矢先、先輩の手元から、ガチャリと留め金が外れるような音が響き──そして、本棚が壁ごとゆっくり動き始める。


 嘘。何、これ。


 ぽかんと間抜けに見つめる先で、スチール製の大きな本棚と壁とが、ドアのように開いていく。その後ろから現れたのは、下へと続く階段だ。下って──でも、ここ一階だし、この建物には地下なんてなかったはずだよね? 予想外すぎる光景に、あたしは口を数回ぱくぱくさせると、腕を組んで階段を見つめる先輩へと問いかけた。


「ど、どういうことです、先輩……?」


「本棚と壁が一体化した隠し扉のようだな。なるほど、こんな仕掛けがあったとはな……。よく見つけた、ユーレイ。おがらだ」


 満足げな声とともに、白くて固い手の平があたしの頭を軽く叩いてくしゃっと撫でた。いつもだったら「子犬じゃないんですから」とでも反論しているところだが、あいにく今のあたしは、現状を受け入れるので精一杯で、それどころではなかった。



【次回更新は、2019年12月25日(水)予定!】

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