四章 馬鬼

四章 馬鬼(1)

【四章 うまおに

愛媛県などに伝わる妖怪。城主とともに事故で死んだ白馬の霊が化けたもので、目は赤く輝き、口は大きく裂け、巨大なたてがみを持つ。人を襲う危険な妖怪だったが、六地蔵を建てて供養の法会を営むと、現れなくなったという。




*****




「あら、湯ノ山さん」


「え?」


 を忘れて夏が来るんじゃないかと思えるほど暑い、六月初めの木曜日の校内道路。午前中の講義を終え、一緒に受講していた友香と学食に向かおうとしていたあたしを、ふんわりした声が呼びとめた。ああ、誰かと思ったら。


「あ、織口先生でしたか。こんにちは」


「はい、こんにちは」


 ぺこっと頭を下げるあたしを前に、童顔の文学部准教授がおっとり微笑む。織口先生とは、最近、妙によく会うのだが、今日もいつも通りに上品だ。本日の先生の着こなしは、清純そうな水色のワンピースに白のヒール。強い日差しを避けるためだろう、肩にはストールを羽織り、頭にはつばの広い白い帽子が乗っかっている。長い髪をまとめる大きくごうなバレッタも含め、まるでしよのお嬢様である。


 一方こっちはと言えば、タンクトップにショートパンツにサンダルという、色気も可愛げもあったもんじゃない三点セットなのであった。あたしの心を読んだのか、友香の手があたしの肩をぽんと叩いた。


「礼音にも織口先生の五パーセントくらい女子力があればいいのにねえ」


「はいはい、わかったからちょっと待っててよ」


 これ見よがしに肩をすくめた友香をじろりと睨んで黙らせる。それにしたって、友香や織口先生みたいな可愛い路線はあたしには一生無理だな、うん。身長からして似合わないし。悲しい事実を心の中で再確認すると、あたしは先生に向き直った。


「しかし、ほんと最近よく会いますよね。今日はどうしたんです?」


「別に用というわけではないけれど。いつもと一緒で、見かけたから、つい声を掛けちゃっただけよ。めいわくだったかしら?」


「いやそんな、迷惑だなんて」


 ……と、慌てて否定してみたものの、実を言えばちょっと迷惑だなあと思っていたりしないでもない。この先生、学内の移動ルートというかパターンがあたしと被っているのか、ほぼかくじつに学内で出くわし、その度にこんなふうに声を掛けてくるのだ。挨拶だけならいいのだが、いちいち呼びとめて「最近どう?」とかなんとか話し込もうとするのだから、その都度、同じような会話で時間を取られることになる。学部が違えど相手は先生だし、しかも絶対城先輩を紹介してくれた恩人でもある以上、適当にあしらうつもりもないけど、でも、そんなに連日話題はないです。というわけで苦笑いしながらお茶を濁していると、先生はにこにこ微笑みながら口を開いた。


「湯ノ山さん、まだサークルには入ってないのよね。前に聞いた話だと、イベントサークルに興味がありそうだったけど、入部するならそろそろ決めないと」


「ま、まあ、興味がないわけじゃないんですけど、あの部屋に通ってると時間がない──じゃなくて」


 ぽろっと実情を漏らしそうになった自分を、慌てて制する。いろいろあってオカルト詐欺の片棒担いでます、とは口が裂けても言えない。もしそれをバラしたら、絶対城先輩に耳鳴り封じのペンダントを取り上げられてしまうわけで、そうなると比較的平和な毎日が終わってしまう。もっとも、今の生活も、憧れのキャンパスライフとはほど遠いんだけどね。そう心の中で自嘲しつつ、あたしは苦笑を浮かべてみせた。


「やっぱりそういう華やかなのは、自分には向いてないかなって思うんですよ」


「あら、そうなの? だったら、運動部はどう? 言ったかしら、私、こう見えても、柔道部の顧問もしてるのよ。そうそう、そう言えば、新歓コンパの後に話した『専門家』のところ、定期的に通ってるんでしょ? その後、どう?」


「え? ええと、ですから、こないだも言いましたけど、簡単なおまじないをしてもらってるだけなので、わざわざ話すようなことは……」


 頭を掻いてお茶を濁しつつ、あたしは会話の切りどころを探す。友香が「まだー?」と視線で訴えてきたが、その気持ちはあたしも同じなのだった。




    ***




「まったくもう。何回聞かれても答えられないものは答えられないっての」


 右手で左手首を掴んで離し、左手で右の手首を掴んで離す。資料室の畳敷きスペースで、掴んだり掴まれたりした時の感覚を鍛えるけいを繰り返しながら、あたしはぼそっとつぶやいた。先生に嘘を吐くのは心苦しいが、あの迷惑な耳鳴りを封じてもらってる以上、すぐそこのふみづくえで黙々と古本を読みふけっている羽織の怪人には、恩義もあるし義理もある。情報漏らすなって言われてる以上、話すわけにはいかないよね、やっぱ。胸元に揺れる簡素な竹の輪を見下ろし、あたしは溜息を吐いた。


 ちなみにこのお守りペンダントは、これが早くも三代目。もう少し長持ちする素材で作れないものかと思うが、そう尋ねたら「妖怪学的に無理だ」と言われたのだから仕方ない。まあ、すぐに代えを作ってくれるからそれで充分ではあるけれど。


「しかし織口先生、何であんなに絶対城先輩のこと聞こうとするんだろ……?」


「やあ、やってるね」


 手首掴みを続けながら首を捻っていると、杵松さんが爽やかな声とともに衝立の向こうから現れた。弁当の入った生協マークのビニール袋をかかげているところを見ると、どうやらここで夕食をるつもりらしい。「だったらあたしも何か買ってきたらよかったな」と口にすれば、座椅子で読書中だった絶対城先輩がぼそっと声を発した。


「主体性のない奴だな。飯の時間くらい自分で決めろ」


「だって、一人で食べるより、誰かと食べたほうが美味しいじゃないですか」


 憮然とした顔で、あたしは先輩に反論し、それを聞いた杵松さんが微笑む。いやいや付き合わされていた頃に比べると、あたしもずいぶんこの資料室に馴染んできたなあ。そんなことをふと思い、あたしはなんだかおかしくなった。


 実際、慣れてしまえば、ここの居心地は悪くない。女子力のけつじよを思い知らされることもないし、絶対城先輩も杵松さんもあたしより背が高いから、自分のたけを気にする必要もない。二人ともマイペースなので静かな時間が続くこともあるが、話題が途切れたら負けだとばかりに会話を続けたりするよりは、落ち着いた静けさのほうがよほど居心地がいいわけで。と、そんなことをぼんやり考えていると、杵松さんが思い出したように話しかけてきた。


「そう言えば湯ノ山さん、しんそうな顔してたけど、何かあったのかい?」


「え? わかりました?」


 杵松さんに指摘され、あたしの目がきょとんと丸くなる。この先輩はのんびりした人かと思ったが、意外に鋭い観察眼の持ち主らしい。さすが絶対城先輩の友人ですね、と感心しつつ、あたしは「そんな大した話でもないですが」と口を開いた。


「実は最近──というか杵松さん、文学部の織口先生って知ってますよね?」


 前にこの名前を出した時は、いきなり絶対城先輩が不機嫌になったんだっけ。荒れないでくださいね、と絶対城先輩を横目で見ながら問いかければ、杵松さんはけろりとうなずいた。


「国文学科の織口准教授だよね。学生の八割くらいは知ってるんじゃないかなあ。学生委員がらみでいろんな学部の研究室やサークルと繋がりがある人だからさ。特に男子学生には人気があるみたいだよ」


「でしょうねえ」


 のほほんとした笑顔を思い起こしつつ、しみじみ相槌を打つあたし。綺麗というか可愛い人ですよね、と言い足せば、杵松さんは苦笑を浮かべてうなずいた。


「男の僕が言うのも何だけど、ああいうタイプが好きな男子は多いから。それに織口先生、大学を創設した名門一族のお嬢様だからさ」


「ああ、なるほど。……ちなみに、杵松さんも気になっちゃう感じですか?」


「全然。この大学のしきも建物も、昭和の初めに織口財閥が建てたぐんじゆ工場の流用だって聞くと、へえ、とは思うけどね。でもいえがらがどうとか興味ないし、第一、僕、年上よりは年下派だから」


 食器棚から取り出したマイおわんでインスタント味噌汁を作りつつ、杵松さんがそれはもう爽やかに告げる。最後の一文にあたしがつい反応してしまったのは言うまでもないが、そのリアクションが目に入っているのかいないのか、眼鏡の似合う気さくな先輩は「それに」と言い足した。


「前に織口先生の話が出た時は言わなかったけど、いい評判ばっかりってわけでもないんだよ、あの人。創設一族の出だからか、学内のあれこれに結構なえいきようりよく持ってるんだけどね。メジャーで大きいクラブには優しい反面、マイナーな弱小サークルのちんじようは全然相手にしてくれない」


 いつも明るい声のトーンを重たく切り替えながら、杵松さんが静かに語る。その意外な内容に、あたしは「え」と驚いた。そうなんですか?


「そんな人には見えませんでしたが……」


「少なくとも、嘘は言ってないつもりだよ」


 どことなく重たい声のまま、杵松さんが首を縦に振る。いつも穏やかで優しい先輩は、味噌汁をかきぜながら力ない笑いを浮かべた。


「あの先生が顧問やってる柔道部も、正直、評判良くはないんだ。一年の時、僕の入ってた演劇部の部室が、柔道場を拡張するからって、あっけなく潰されたんだよ。横暴だって反対したんだけど、それが向こうの気に障ったんだろうね……。部室は衣装や機材ごと重機で潰されたし、当時の部長は、柔道部員数人と学内でぶつかって大怪我して入院。結局、演劇部は空中分解してはいさ」


「そんな……。てか、いくら相手が強くても、ぶつかっただけで入院って」


「無論、そんなことはありえない。でも、書類上はそうなってるのさ。で、その報告書をまとめたのが、織口先生だ」


「え。それって……まさか、ほんとはケンカ……じゃないな、一方的な暴行だったのを、無理矢理したってことですか?」


 気が付けば、あたしはりようづかみの稽古を止めて問いかけていた。


 一瞬、ケンカしたのかと思ったが、柔道部と演劇部では体の鍛え方が違うから勝負にならないことくらい、あたしにだってわかる。また、格闘技を嗜む者としては信じたくはないけれど、身に付けた力や技の使い方を誤る人がそれなりに──結構多めに──存在することだって、悔しいけれど、知っている。


 と、あたしの視線を受け、杵松さんが寂しげな苦笑を浮かべてうなずいた。手元の古本に目を落としたまま、何も言おうとはしない絶対城先輩にちらと横目を向けると、杵松さんはあたしに向き直り、そして続ける。


「学校って閉鎖された環境だから、そういうのは簡単らしいよ。他にも、合コンで女の子が乱暴されたけど、なかったことにされたとか、いろいろ聞く。織口先生が柔道部の中でもガラの悪いのを用心棒にしてるなんて噂もあるしね」


「面倒見が良くて可愛い先生だと思ってたのに……。あ、もしかして絶対城先輩、それを知ってたからあんなに嫌ってたんですか?」


「何度断ってもここを売れと、しつこく食い下がったから嫌っているだけだ」


「売れって、ここはそもそも大学の──って、ああ、そっか。この建物だけは、確か先輩の持ち物で、それを大学に貸してるんでしたっけ?」


「ああ。正確に言えば、この資料室の中身も俺名義の私物だがな」


「え? 中身って」


 絶対城先輩の言葉を確認するように、あたしは部屋を見回した。この資料室にあるものと言えば、ずらりと並んだ本棚と、そこに積み上げられた古本やノートくらいだ。これも全部先輩のものなんですか。そう尋ねれば、先輩は「他に何がある?」と冷たく言い放ち、大きく肩をすくめてみせた。


「貴重な資料なので大学で買い取らせてほしい、言い値で買うから──と、そう織口からは何度も持ちかけられたがな。売ってたまるか」


「それは僕も覚えてるよ。『塩いとけ!』って怒ってたよね、阿頼耶」


 ほんとに塩を撒かされるとは思わなかったなあ。その時の絶対城先輩の剣幕を思い出しのか、杵松さんがくすくすと笑う。やっぱりこの人は重苦しい顔より明るい表情が似合うよね、うん。そんなことを思いつつ、あたしは絶対城先輩に向き直った。今の話がどうも腑に落ちなかったのだ。


「どうして売らなかったんですか? 大学に売ったところで、先輩は学生なんだから資料室のものは今までどおりに」


「そういう問題ではない」


「読めますよね──って、え?」


「信用できない人の手にゆだねるなと、そう言い残されているからな」


 きょとんと問い返したあたしの言葉を遮るように、絶対城先輩がはっきりと告げる。言い残されたって、誰にです? そんな思いを込めて見つめてみたが、先輩の視線は手元の紙の束に固定されたままで、あたしを見てもいなかった。いつも何かを読んでる人とは言え、ここ最近の集中力はちょっと異常である。


 そんなに面白いものなんだろうか、これ。


 そう思ってどれどれと覗き込んでみたが、黄ばんだ紙に記されたのたくるようなすみは、あたしには全く理解できなかった。ところどころにカタカナらしき字が混じっているので、どうやら日本語らしいけど、さっぱり意味がわからない。


「ぜ、全然読めない……。にしても、先輩が普段から読み込んでるそれは──この部屋に山とあるノートや本は、そもそも、誰が集めたんです?」


「この部屋の前の持ち主だ」


 どうせ返事はないだろうと諦めて尋ねてみれば、即答された。え、答えてくれるんですか? きょとんと驚くあたしの視線の先で、今にも崩れそうなノートを丁寧にめくりながら、先輩は落ち着いた声で続ける。


「ユーレイ、『真怪秘録』のことは覚えているな?」


「あっ、はいはい! 連休に車の中で聞かされたあれですよね。妖怪の正体が書いてある本だけど、結局出版されなかったっていう」


「そうだ。そしてこの部屋に山と積まれたこいつらは、その『真怪秘録』を編纂するにあたって、円了とその門下が集めた記録だ」


 そう言うと、先輩は一瞬だけ顔を上げた。長い前髪に隠れた鋭い目が、ずらりと並んだ本棚たちを──正確には、そこに収められた無数の資料を、ぐるっと見回した。「げん稿こう本文のそう稿こうからバックデータまで、内容は千差万別だが、どれも妖怪学の徒にとっては貴重極まる一次資料であるのは同じこと。この部屋の文献全てに目を通せば、『真怪秘録』そのものがなくとも、その内容は理解できるわけだからな」


「はあ、なるほど──って、これ全部読むんですか?」


 思わず納得したあたしだったが、その次の瞬間、大きな声を出していた。この部屋の文献全部に目を通すって、それ、図書館丸ごと読みとおすようなもんですよね。思わずそう尋ねたあたしの目の前で、先輩はこともなげにうなずいた。


「ああ。しかも図書館の本と違って目録はなく、内容に従って並んでもいない。意味不明な箇所も多いし、ページの抜けもしょっちゅうだ。体系的に理解するには、普通の本の数倍の労力が要るが──だが、読みさえすればわかるのだから、問題はない」


「問題はないって……」


「湯ノ山さんが驚くのも当然だよね。僕だって、最初に聞いた時は驚くよりも呆れたからさ。それに、しゆうかくはそんなに多くもないんだろ、阿頼耶? 中身は読んでみないとわからないんだから」


「否定はしないが、得るものは決してゼロではないし、当たりを引くこともある。実際、先日取りかかった覚書の一群は、立派な当たりだった」


 友人の言葉に不敵にこたえ、先輩は手にしたじの紙の束を軽く叩きながら「この『ヌの三巻』は、大当たりだ」と言い足した。その声はいつものように無愛想ではあったがわずかに自慢げで、仏頂面をよくよく見てみれば口元もうっすらほころんでいるような気がしないでもない。嬉しいならもうちょっと素直に喜べばいいのに。


「これ、親しい人じゃないと、喜んでるってわかりませんよね、杵松さん」


「まあ、阿頼耶ってそういう奴だから。僕としては、湯ノ山さんがそれに気付いたことが驚きだよ。よくわかったね」


 露骨に呆れたあたしと顔を見合わせ、弁当の蓋を開けていた杵松さんがくすりと笑う。言われてみれば、あたし、よく気付いたな。今さらながら驚くあたしにもう一度微笑みかけると、杵松さんは絶対城先輩へと向き直った。


「で、阿頼耶? 大当たりって言ってたけど、それには一体、何の妖怪の秘密が記されてるんだい?」


「ぬらりひょんだ」


「ヌラリヒョン……?」


 絶対城先輩が口にした奇妙な言葉を、あたしはそのまま反復していた。どうやら妖怪の名前なんだろうけど、名前だけ聞いてもどんな奴かさっぱり見当がつかない。土蜘蛛あたりのわかりやすさを見習ってほしい。


「あの、先輩。できればもうちょっと詳しく」


「ぬらりひょんって言うのはね、頭が大きくて背丈の低い、老人の姿の妖怪だよ。確か、和歌山の伝承だったかな? 何をするわけでもないけど、夕暮れ時に人家の近くに現れるんだ」


 あたしがおずおずお願いするのと同時に、杵松さんが口を開いた。え、杵松さんも詳しかったんですか? 意外なところからの説明に面食らっていると、妖怪学の専門家の友人は、照れくさそうに漬け物をかじった。


「これでも二年近くここに通ってるから、いやおうなしに妖怪に詳しくなってきてるんだよ。で、どうだったかな阿頼耶。僕のぬらりひょんの解説は」


「問題ない。ただ、補足するなら、まれに『ぬうりひょん』の名で記載されていること、絵画資料によく現れる一方で実際の出現についての伝承の採取例は極めて少ないこと、山陽地方には同名のうみぼう型の妖怪が伝わっていることにも触れておくべきだったな。また、昭和以降の文献では『妖怪の総大将』として紹介されていることも多いが、これは単にろうかいそうなようぼうをしていることから創作された後付けの設定の可能性が高いので注意すべきだ」


「精進します」


 あんまり精進する気もなさそうな顔で応じる杵松さんである。さすが付き合いが長いだけあって、先輩の相手も手慣れたものだ。しみじみ感心しつつ、あたしは「ぬらりひょんですか」と妖怪の名を繰り返した。要するに、頭の大きなおじいさん妖怪らしいが、それだけ聞くと、妖怪というより、単に「そういう人」って感じだ。


「で、絶対城先輩が熱心に読んでるそれには、そいつの秘密が記されていると」


「ぬらりひょんを描いた絵画資料はな、江戸時代を中心に数多く存在している。これは、同じ流派の画家が複写を重ねた結果だと思われていたが、果たして本当にそうなのか? 同じ容姿のぬらりひょんの絵が各地に存在する以上、その背後には、共通する何かの存在があったのではないか──というのが、この研究ノートの内容だ」


「ふ、ふむふむ……。で、そのあとは」


「解読できたのはそこまでだ」


「えー!」


 そこまで気を持たせておいてそのオチはないだろう。露骨にガッカリしてみせれば、先輩は「黙れ」とあたしを睨んだ。陰気で鋭い眼光で、あたしをびくっと震わせながら、妖怪学の専門家は大きく肩をすくめる。


「専門用語と方言だらけの殴り書きな上、ドイツ語とラテン語とじんだいが入り乱れるんだぞ。そんなに知りたいなら、お前も解読を手伝え、ユーレイ」


「……できると思いますか、あたしに」


「そうだな、すまん。お前はバラ色のキャンパスライフとやらをたんのうせねばならないのだから、そんな無駄なことに費やす時間はないんだったな。まあ頑張れ」


「だから何でわざわざそういう言い方を!」


 あたしの大学デビュー計画がいきなりほうかいしたのはあんたのせいでもあるんだぞ。沸き上がった怒りとともに、あたしは先輩をぎろりと睨んだ。耳鳴りを抑えてくれたことには感謝してはいるし、そもそもこの性格ではコンパやイベントに明け暮れる生活を送ることはどうも無理っぽいなあと気付いてはいるのだが、それでもやっぱり、そこをめられると腹は立つ。そんな複雑な思いを抱えたまま、「どうせ役立たずですよ」と頬を膨らませれば、杵松さんが湯飲みを差し出してくれた。


「落ち着こうよ湯ノ山さん。役立たずって言うなら、僕もそうだし」


「杵松さんには、インチキの仕込みっていう役目があるじゃないですか。それに比べてあたしは──」


「あ、あの、すみませーん」


 湯飲みを受け取りながら応じるのと同時に、廊下のほうから微かな声が耳に届いた。その聞き慣れない声に、あたしたちは会話を中断し、きょとんと顔を見合わせる。お客さんですかね。そう口を開こうとした矢先、さっきと同じ声が再び響いた。


「すみませーん……! 馬術部のぐらと言いますけど……あの、えーと、お祓いのお願いって、ここでいいんですよね……? 学生委員から、ここを紹介されたんですけれど……もしもーし?」


 本棚の向こうから聞こえてくる、気弱そうな男性の声。杵松さんがむかえに向かい、絶対城先輩は読みかけのノートにしおりをはさんでページを閉じる。あたしはお茶でも淹れましょうかねと立ち上がれば、その首根っこを絶対城先輩がすかさず掴んだ。


「ユーレイ。お前は、依頼人の話を聞く間、本棚の陰にでも隠れていろ。いいな」


「どうしてです? あたしだって噂の四十四番資料室の一員としてですね」


「余計なことはするなと言っているんだ。明人は話を聞き出すのが上手いから重宝しているが、うるさいだけのお前がいると、オカルト相談室の雰囲気が壊れる。ここはかいな探偵事務所じゃないんだぞ」


 反論をくろむあたしに向かって、絶対城先輩がばっさり言い放つ。それは確かにその通りだったので、あたしは悔しいことに何も言い返せなかったのだった。




    ***




「あ、ありがとうございました……! これで、僕はもう大丈夫なんですよね?」


「馬術部たいこう戦の成績についてまで俺は保証はできないが、少なくとも、君にき、不調をもたらしていた妖怪『うまおに』は去った。それは確実だ」


 一週間後の午後十時、大学近くの海岸にて。ざんざんと波の音が響く寂しいはまに、絶対城先輩の陰気な声が朗々と響いていた。お馴染みの羽織に黒ネクタイの先輩は、確実性を補強するかのように少し間を開けると、傍らの依頼者へと振り向いた。


「それに、俺には聞こえなかったが、君は声を聞いたのだろう?」


「はっ、はい! 呪文が終わったと思った時、ヒヒーンって大きな鳴き声が……! 絶対城さんには、あれ、ほんとに聞こえなかったんですか?」


「ああ、全くな。そして、君だけが声を聞いたというその証言こそが、君がひようされていたという事実と、憑依から解放されたことを示している。先日も説明したが、馬鬼は、りよの事故で死んだ馬の霊が転じた、不幸を招く妖怪だ。その出自や名前の示す通り、馬の姿と、そして馬の声を有している。つまり、君が聞いたのは間違いなく、馬鬼の成仏間際の一声だったのだよ。『伝説』に記されている通り──」


 吹きさらしの殺風景な浜辺に、先輩の講釈が朗々と響く。時折吹き抜ける海風は、先輩が肩に引っ掛けた羽織をばさばさとあおり、また、くらやみの中で揺れる二つのかがり火のほのおは、先輩の彫りの深い顔の陰影をいっそう際立たせることで、漂う妖気の濃度を増していた。二人を囲むように並べられた六つの地蔵も実に怪しい雰囲気をかもし出している。タネを知っているあたしでさえ、ああ、これは妖怪が出てもおかしくないなと、そう思えるほどだ。


 お祓い現場から六十メートルほど離れた海岸の一角、放置された掘っ立て小屋の中からそうがんきようで先輩達を観察しつつ、あたしは深くうなずいた。これは確かに騙される。


 ちなみに今回の依頼の内容は、「ここんとこ競技の成績が悪いのは、去年病死したメテオ号の祟りじゃないか、そうに違いない、だからお祓いしてほしい」というものだ。メテオ号というのは馬の名前だそうです、念のため。依頼人の矢倉さんがよく乗っていた馬なんだけど、病気に気付いてやれず、気付いた時はもう手遅れだったそうだ。よっぽど可愛がっていたのだろう、説明する口調には感情がみっしり込められており、本棚の陰に隠れて聞いていたあたしは泣いて「うるさい」と怒られた。


 で、この依頼に対して絶対城先輩が用意した妖怪が、先述の「馬鬼」というわけだ。原因を決めつけられるとやりにくい、と先輩はぶつくさ言っていたけれど、それでも適当な妖怪を見つけてくるんだから、大したもんだとは思う。


 ちなみに、お祓いのしんぴようせいを増すため、杵松さんが用意したインチキ……ではなく、仕掛けは二種類。絶対城先輩の唱えるお経のリズムに合わせてかがり火に酸素を送り、火を「ぼっ」と燃え盛らせるための酸素ボンベと、お祓いのクライマックスに馬のいななきを響かせるための薄型スピーカーだ。ボンベはかがり火の下に、べとべとさんの時にも使ったスピーカーは地蔵の一つの陰に仕込んである。


 お経に合わせて徐々に大きくなっていくかがり火で、怪しげな雰囲気をじわじわ盛り上げておき、その上で、ラストに「依頼人にしか聞こえない」馬の声を響かせることで妖怪の存在を信じ込ませる。これが今回のカラクリだ。もちろん、絶対城先輩は聞こえないふりをしているだけなのだが、それでも矢倉さんはあっさり信じ込んでしまったようだ。正直、説明を聞いた時は、上手くいくのか半信半疑だったけど……。


「ここから見てる限り、あの依頼人さん完全に信じてますね」


「だから言ったろ? 不思議なことは一瞬だけ起これば、それでいいのさ」


 あたしの隣でそう語るのは、考案者の杵松さんだ。なるほどなあと感心すれば、杵松さんはお手製無線スイッチを手の中で転がしながら抑えた声で先を続ける。


「何か起きるかも、と予感した上で起こった出来事はそれだけ印象が強くなるからね。その体験を思い返すことで、最初に感じたインパクトは膨れ上がり、心の中で妖怪の存在を確定させるってわけ。……もっとも、もと演劇部の演出担当としては、もう少し派手なものを出して盛り上げたいところではあるんだけどね」


「派手なものって、どういうのです?」


「いろいろさ。着ぐるみや特殊メイクで妖怪を出してもいいし、人形をって動かしてもいい。照明やスモークを大々的に使うのもいいよね。BGMも流したいなあ」


「それ、確実に仕込みってバレますよ……?」


「駄目かな。阿頼耶にもそう言われたんだよね」


「そりゃ──お」


 杵松さんに相槌を打っていると、双眼鏡の視界の中で動きがあった。先輩の解説タイムが終わったらしい。依頼人さんは絶対城先輩に向かって頭を下げると、大学に通じる道へと歩き始めた。どうやら今夜のステージはこれにて終了。となると、あとは裏方であるあたしたちの出番だ。


「よし! それじゃ撤収しましょうか」


「湯ノ山さん、早いよ。彼が視界から完全に消えたら絶対城から合図があるから、それまで待機」


 立ち上がろうとしたあたしの腕を、杵松さんが慌てて掴む。ああ、そう言えばそんな段取りでしたっけ。すみません、と縮こまれば、元演劇部の演出担当は、昔の血が騒ぐのか、生き生きした顔で「くろは観客に見つかっちゃ駄目だよ」と微笑んだ。


「阿頼耶からオッケー出るまで、ここで待たないと」


「あっ、はい。……しかし、ただ待ってるだけってのも退たいくつですね」


「お喋りしてればあっという間さ。そう言えば湯ノ山さん、今日も来るのずいぶん遅れたよね。何かあったのかい?」


「え? ああ、また織口先生に呼び止められたんですよ。今日はまだすぐ解放してくれたから良かったですけど、こないだなんか、絶対城先輩のお祓いの段取りとかスケジュールとか、り聞いてきて……」




    ***


【次回更新は、2019年12月24日(火)予定!】

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