三章 付喪神(3)



 そしてその後は何ごともなく朝となり、時刻は午前八時過ぎ。「おはようさんです」の声とともに朝食のおぜんを持ってきた木村さんを前に、絶対城先輩はこう告げた。


「おはようございます。あなたですね、木村さん」


「……はい?」


 なぜか一瞬びくっと背を震わせた直後、木村さんは眼鏡の奥の目をきょとんと丸くしてみせた。住み込みで虫好きの施設管理担当従業員は、お膳をあたしたちの前に並べながら、これ見よがしに首を捻る。


「いきなり『あなたですね』言われましても、何のことやらわかりませんが……。なあ、湯ノ山酒店の娘さん?」


「そ、そうですよ先輩。そんな朝の挨拶は聞いたことが」


「無論、今回の一件の犯人です」


 先輩の無情な声が、あたしの言葉を遮った。え。何それ。どういうこと? 予想外の一言に絶句するあたしと、そして蒼白になった木村さんとを見回すと、先輩ははしちやわんを手に取り、言った。


「冷めてしまうともったいないので、食べながら説明しましょうか。ユーレイ、お前は食べないのか?」


「食べます、食べますよ? 食べますけど、それより──今のはどういう」


「どういうも何も、そのままの意味だ。そうでしょう?」


 木村さんに問いかけつつ、ねぎとうしるに手を伸ばす絶対城先輩。尋ねられた──というか、告発されてしまった木村さんは、廊下に通じる戸の前に座ったままぽかんと口を開いていたが、ややあって我に返ったように声を発した。


「な──何を言わはるんですかいな。壁に人の顔が出たっちゅう事件でっせ? 動機は──いや、それ以前に、そもそも、そんなことできるはずはありません。わたしは昨日から言うてますやろ、あれはお客さんの見間違いで」


「それは違います」


 早口でまくしたてる木村さんを、絶対城先輩の一言が黙らせる。焼き魚を器用に箸でほぐしながら、先輩は「なるほど、見間違いですか」と声を発した。綺麗に髪をなでつけ、自信に満ちた声で静かに語るその姿は、昨夜脂汗を流してうなされていた人と同一人物とは思えない。


「確かに、見間違いから生まれた妖怪は多いです。ただ、今回に限っては、見間違いではありません。むろん、壁に人の顔が現れたかどうか、と問われれば、否と答えるしかないのですがね。でしょう?」


「……偉い学生さんの言わはることは、アホなわたしにはさっぱりですわ」


「どんな場合においても、無知を装うことは得策には成り得ませんよ、木村さん。それに、その言い分はいかにも無理筋です。貴方あなたは、この事件が持ち上がった時、真っ先に真相をく程度の知能と知識は持っていたはずなのですから。時にユーレイ、シミュラクラ現象のことを覚えているか」


「ごふっ?」


 完全に聞き手モードになっていたところに唐突に問いかけられ、あたしは激しくむせかえった。ちょうどご飯とものを一緒に口に放り込んだところだったのだから、タイミングが悪いことこの上ない。喉に引っ掛かったご飯をお茶で強引に流し込むと、あたしは慌てて記憶を探った。えーと、シミュラクラ現象ね。


「確か、こないだ資料室で聞いたアレですよね。壁の染みでもなんでも、人間は三つの点があればそこに顔を見ちゃうという……。で、これがどうかしたんです?」


「どうもこうも、この部屋に出た付喪神の正体じゃないか」


 こともなげに言い放つ絶対城先輩である。意味がわからずぽかんと固まっていると、先輩はおおきように肩をすくめ、呆れた声で続けたものである。


「昨日、壁の点を指し示したことを忘れたのか? ほら、そこの枕元の」


「それは覚えてますよ。でも、目みたいに見えなくもないですが、あの点は二つじゃないですか。顔には見えませんよ」


 漬け物を口に放り込みつつ、先輩へと問いかける。なぜか木村さんが──あの明るくて賑やかな人が、すっかり押し黙ってしまっていることに疑問を感じつつも、あたしは「それに」と先を続けた。


「忘れたんですか、先輩。ここに泊まったお客さんは『口がぱくぱく動いてるのを見た』って言ってるんですよ。それとも先輩は、開いたり閉じたりする三つ目の点がそこにあったとでも言いたんですか?」


「ああ、その通りだ」


「ですよね。だったら、そんな風には言えな──って」


 今、もしかして「その通り」って言いました? 湯飲みを手にしたまま、あたしは先輩を凝視した。と、向かいに座った妖怪学の専門家は、でご飯を巻きながら、再び深くうなずいた。


「口に当たる点が存在し、しかも開閉したと、俺はそう言っている。そう考えれば、壁に顔が現れた、という証言にも筋が通るだろう?」


「そ、そりゃまあ通りますけど……でも、そんなことありえませんよ」


「有り得るかどうかは、そこの木村さんに聞いてみればいい。と言いたいところだが、どうも答えてくれそうもないので俺から説明しよう」


 そうでもしないと、この人は認めてくれそうもないからな。自嘲気味に言い足すと、先輩はお茶を一口だけすすり、そして静かに口を開いた。


「キムラグモという蜘蛛がいる」


「──っ!」


 その言葉を聞いた瞬間、木村さんがびくっと震えた。見ていたこっちまでびっくりするほどの露骨などうようだったが、絶対城先輩はまったく動じない。予想通りの反応だったのかな、などと考えつつ、あたしは眉をひそめて問い返した。


「きむらぐも……? 木村さんと同じ名前ですけど、クモって、あのクモですよね。こう、八本足で、巣を作る」


「少し惜しいな。キムラグモは確かに八本足ではあるが、いわゆる蜘蛛の巣は作らない種だ。大きさは二センチメートル弱。切り立ったがけなど、垂直の壁面に穴をって巣を作り、通りかかった小さな虫をその中に引きずり込んで食べる習性を持つ。巣は周囲の土を集めて作った蓋で覆われているから、一見しただけではどこにあるのかわからない。蓋は蜘蛛の糸で支えられ、必要なときのみ開閉する仕組みだ」


 昆虫図鑑を朗読しているかのように、つらつらと解説を述べる絶対城先輩。どうやらこの人、詳しいのは妖怪だけじゃないらしい。感心しつつ呆れつつ、あたしはおずおず口を挟んだ。


「それ、ジグモみたいなものですか? ほら、地面に穴掘って巣を作る種類の」


「ああ。ジグモとキムラグモでは巣蓋の固定の仕方が微妙に違うが、まあ、同じようなものと思って問題はないだろう。しかしお前、意外に詳しいな」


「これでも田舎出身ですから。で、そのキムラグモがどうしたんです?」


「何だ、まだわからないのか? この部屋の壁は剥き出しの土、キムラグモが巣を作ることは可能だ。実際、古い納屋や小屋の土壁にキムラグモが営巣していた記録はあるからな。そこで、壁の二つの点の中間地点のやや下、ちょうど口に見えるあたりに、件のクモが巣を作ったとしたら、どう見える? 無論、普段は巣があるようには見えないだろうが、窓から入ってきた小さな羽虫にでも反応して、巣の蓋を開いたら? そして、布団に横になっていた客が、たまたまその光景を目にしたら──」


「え? ええと……」


 先輩に流暢な言葉に促されるままに、あたしは脳内にその光景を描いてみる。


 明け方か夜中かわからないが、寝ぼけ眼で土壁をぼんやり見ていると、まるで動物の口のように一瞬だけ壁の一部が持ち上がり、小さな虫を引きずり込む。え、と思ったその瞬間、「口」の上の二つの点がまるで目玉のように思えてくることだろう。一度そう見えてしまえば、その認識はそう簡単には消えやしない。だが、同じ場所を見直しても、そこにあるのはただの壁。結局あとに残るのは、あれは何だったんだろうという、薄気味悪い思いだけ……。


「ああっ! なるほど! 確かにこれは妖怪と思っても仕方ない!」


「納得したか」


 ようやく理解したあたしを前に、先輩は満足げにうなずいた。なるほど確かに筋は通る。おちやけにするつもりなのだろう、残ったご飯に漬け物を乗せ、急須からお茶を注ぐ先輩に、あたしは「でも」と問いかけた。


「その場合、キムラグモはどこから来たんです? それに、お客さんの話を聞いた後、旅館の人が壁を調べたはずですよね。どうして見つからなかったんですか?」


「野生のものが入り込む可能性もないことはないが、飼っていたものが逃げ出したと考えるのが自然だろう。こんせきが発見されなかった理由も単純だ。最初に調べた人物がクモを回収し、穴をふさいだだけのこと。幸い、その人物は旅館の施設管理一切を任されるだけの技能を持っていたからな。実際、壁の二つの点の中央よりやや下をよく見れば、塗り直した跡が残っている。……さて、ここまで聞いて、何か仰ることはありますか、?」


「……いやはや、たまりませんなあ。こら、しらを切るのもげんかいなだ、ですわ」


 絶対城先輩に問いかけられ、木村さんはようやく声を発した。観念したのかあるいは開き直ったのか、顔色はいつの間にか元に戻っていたが、口調はどことなく弱々しい。その通りですわ、と頭を撫でると、関西弁の施設管理担当従業員さんは、苦笑交じりで話しはじめた。


「せや。あれは、わたしのクモの仕業です。しばらく前に逃げたんですわ。壁の顔の口が開いた、て聞いた時、おかみさんやだんさんはクモにも虫にも詳しゅうないさかい、わけがわからんかったみたいですが、こっちはすぐ気が付きました。慌ててつかまえて、もう逃げられんようにケースを補強、壁の穴もわからんようにチャチャッと塞いで、これで一件落着やと思うたら──ところがどっこいにしきごい


「旅館の経営者一家が、じように心配し始めた──ですね?」


「ほんま、絶対城さんはなんでもかんでもお見通しですなあ……」


 絶対城先輩の一言に、木村さんが首を縦に振る。ここまで認めたってことは、付喪神事件の原因は、やっぱりこの人? 少し遅れて驚くあたしの視線の先で、キムラグモの飼い主らしい眼鏡のおじさんは、はあ、と大きな溜息を落とした。


「ちょっと前に近くのホテルがあくりよう騒ぎではいぎようしたのが、ショックやったんでしょうなあ。皆さんナーバスになってはったんですわ。噂が広まったらどうしよう、お祓いしたほうがええんやろかって、えらい深刻な空気になってしもたんです。あんだけ毎日毎週悩まれると、こっちかて『実はあれはわたしのクモの仕業でしたー! ジャカジャン!』とも言いだせまへん」


「ど、どうしてです? そりゃまあ『ジャカジャン!』まで言ったら張り倒されてもおかしくないですけど、日奈美もおじさんもおばさんも、普通に事情を話せばわかってくれたと思いますよ? あたしだって納得したんですから……」


「それで丸く収まったとして、その後、木村さんの趣味はどうなる?」


 口を挟んだあたしに答えたのは、なぜか木村さんではなく絶対城先輩だった。意味がわからず「え?」と聞き返すのと同時に、木村さんは力なくうなだれた。


「そういうことですわ、湯ノ山酒店のお嬢さん。旦那さんもおかみさんもできた人や、訴えるとかクビやとか、そういうことにはならんとは思います。せやけど、客商売は信用第一。二度とこんなことがないように、ペットとコレクションを丸ごと処分せえっ、言われるのはわかってます」


「あ、そうか」


 なるほど、言われてみればその通り。そして、虫が好きだから、この職場を選んだ木村さんにしてみれば、そのせんたくはありえない。ようやく納得したあたしの前で、木村さんは苦笑しながらうなずいた。


「さいです。わたしは、旅館の従業員であるより前に、節足動物ラヴァーですねん。あいつらを処分するのだけは……それだけは、どうしても避けたかったんですわ。しかしまあ、よう気付かはりましたなあ……。どこでピンと来はったんかわかりませんが、大しためいたんていですわ。絶対城さんはまるであれや、米海軍のホームレス」


「……たぶんそれはベーカー街のホームズのことだと思うのですが、最初に気になったのは、昨日、事務室で自己紹介を伺った時ですね。貴方は確かにこう言った。自分と同じ名前の蜘蛛がいることを知ってから彼らに興味が湧いた、同じ名前のあいつだけはどうしても標本にはできない──と。ユーレイ、お前も覚えているな?」


「あ、はい。でも木村さんのセリフはもっとベタな関西弁でしたよ」


「そこは別にどうでもいい。肝心なのは内容だ」


 記憶力に優れた助手ぶりを発揮したつもりが、返ってきたのは冷えた声。だったら聞かなきゃいいじゃないですか。ほおを膨らませながら二杯目のご飯をかきこむあたしを無視し、先輩は木村さんへと向き直る。


「と、その発言を聞いた時から、予想は付いていたのです。木村さんと同じ名前のクモとはすなわちキムラグモですから、その習性を知っていれば、壁の顔──いや、正確に言えば、土壁の開閉する小さな穴と結びつけることは容易です。そして昨日、この部屋の枕元に位置する壁に、最近塗られた跡を見つけた時」


「推理は確信に変わったっちゅうわけですか。やられましたなあ……。で、そこまでわかった以上、お二人はこの後どないしはるつもりです? やっぱし、旦那さんに言わはるんですかいな……?」


 小さく背中を丸めた木村さんが、絶対城先輩とあたしとを見比べながら問いかける。眼鏡越しに不安げな視線を向けられ、あたしはぐっと言葉に詰まった。


 誰が悪いと言われれば、そりゃあこの人だ。だがしかし、告発イコールペットの処分となると、あげつらうのも気が引ける。アフターケアもちゃんとやってるわけだし反省もしてるみたいだし。でも、かと言って、このまま放っておくと、日奈美の家族は余計な心労を抱え続けることになる。


 この場合、どっちを選ぶのが正しいんだろう……?


 箸と茶碗を手にしたまま、二の句が継げずに固まるあたし。と、静かに考え込んでいた絶対城先輩が、ふいに木村さんのほうへ身を乗り出し、抑えた声を発した。


「どうでしょう。ものは相談なのですが」




    ***





「はいそこ! 右曲がりまーす!」


 その数日後の昼下がり、連休最終日の国道にて。


 レンタカーのハンドルをせい良く切って豪快に車線へんこうするあたしの隣で、相変わらずジャケット姿の絶対城先輩は、呆れた声でつぶやいた。


「あのな、ユーレイ。お前の動作をいちいち俺に報告する必要は別にないぞ」


「だって静かに運転してたら、先輩、また寝るじゃないですか──とか言ってる間に前の車がいなくなったのでスピード上げますねー。アクセル、オーン!」


 助手席の方を見ずに反論し、ついでにアクセルをぐっと踏み込む。連休の最終日ともなれば、場所によっては帰省ラッシュのタイミングなのだろうが、田舎の温泉街から小さな地方都市へ通じる国道は、いつものように空いている。来る時よりはスムーズに運転できてるよね、と自賛すると、あたしは助手席へと問いかけた。


「こっちは連休まんきつしてきましたけど、先輩はどうでした? ひなびた宿に一人で三日って、めちゃくちゃ暇だったんじゃないですか」


「それはお前が浅学だからそう思うだけだ。昼間は近くの民俗資料館で郷土の民話を読みふけり、夜は己の記憶と知識に頼ってただ黙々と思案する。実に有意義な時間だったぞ。それに、いくら飲み食いしても無料というのもりよくてきだったな」


 取り出した煙草たばこに火を付けながら、しれっと語る絶対城先輩である。いや、それ無料じゃないですよね。別の人が払ってるだけですよね? そんな思いを込めてじろっと横目を向けてやったが、先輩は何も答えることなく、ただ白いけむりをぷかりと吐き出すだけだった。悪党め。


 なお、先輩の宿泊費およびごうゆうを負担したのは、言うまでもないような気もするが、今回の騒動のほつたんであり犯人であるところの木村さんである。


 あの朝、真相を看破した先輩は、日奈美とその家族を適当に言いくるめて納得させることと引き替えに、連休期間中のとうりゆう代金を求めたのだ。通の宿として知られる小久保荘の宿代は決して安いものではないが、趣味か職を失うよりは良いと判断したのだろう、木村さんは迷った末に……じゃないか、そくだんで「乗った!」と叫んで証文まで書いた。かくしてけいやくは成立し、絶対城先輩は、日奈美の家族を前に、でっちあげの解説を延々述べることとなったのでした。


 いわく、夜中にじやくな妖気を感じたが、決して悪いものではない。大正時代の建築ならばそろそろ百年経つので付喪神が生まれる条件は十分だが、大事にされてきた物が転じた付喪神は悪さをしないし、むしろその逆である。実際、大事に扱われた道具が福を呼び込んだケースは中世の説話から現代のうわさ話に至るまで数多く記録されており、不安になる必要は全くない。まだ心配だと言うなら、悪い付喪神が現れないようにするじゆもんを、この部屋のじくの裏に記しておくのでご安心を──等々。うんちくだらけの流暢な説明に、日奈美もおじさんもおばさんも聞き入っていたっけ。


 とまあ、そんな次第で、先輩はあれから三日間、小久保荘にたいざいしていたのであった。「ユーレイ、お前も泊まっていくか」とは言われたが、夜中のあの予想外のイベントを体験してしまった以上、一緒に寝泊まりするのは心臓に悪い。それに木村さんにも申し訳ないし、結果オーライとは言え、友人を騙した罪悪感もある。あたしは先輩と別れて実家で三日を過ごした後、連休を満喫した先輩を拾い、下宿へ戻るところというわけだ。


「しかしまあ、あの時の先輩はすごかったですよね。口から出任せであれだけ喋れるなんて。掛け軸の裏に書いた呪文も、その場で作ったものなんでしょ?」


「馬鹿を言え。そんなことをしてみろ、その気になって調べられたらすぐバレる」


 助手席に呆れた声を投げかけてみれば、意外な言葉が返ってくる。え、そうなんですか? 意味のわからない言葉だったから、てっきり捏造かと思っていたのに。


「ええと──何でしたっけ、あれ」


「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ。『じゆうかいしよう』にも記載のある、由緒正しい百鬼夜行けの呪文だ。古道具が転じた付喪神と、鬼の集団である百鬼夜行は、元を辿れば別種の怪異だが、近世以降の絵巻物かいわいでは百鬼夜行イコール悪しき付喪神の集団として描かれているからな。完全に混同されている以上、百鬼夜行に効く呪文なら、たぶん付喪神にも効くだろう」


 けろっとした顔であたしの疑問に応じると、先輩は「そもそも、あんなものは気休めだしな」と付け足した。「たぶん」とか「気休め」とか、とんでもない専門家もいたものである。


「気休めでお金取るのはどうかと思うんですけどねえ……」


「普段からその片棒を担いでいるお前には言われたくないな」


「ぐぬ!」


 痛いところを突いてやったつもりが、逆に嫌なところを突かれ、思わず変な声が出た。悔しいが、それは先輩の言う通りだ。無論、好きで片棒を担いでるわけではないけれど、自分で選んだ道ではあるわけで。胸元で揺れている耳鳴り封じのペンダントをちらっと見下ろすと、あたしは話を変えることにした。この話題はもうやめだ。


「で、実際、三日も何してたんです? あ、昼は資料館で夜は考え事ってのはさっき聞きましたけど、一体全体、何をそんなに考えてたのかなーと」


「付喪神のことだ」


「付喪神……? もう壁の顔の事件は解決したのに、何を今さら」


「馬鹿か。ネタはいくらでもあるだろう」


 首を捻るあたしの耳に、やれやれと言いたげな声が届く。いやしかし、あるだろうと言われてもですね。そんな思いを込めて助手席をちらっと見やれば、煙草を深く吸う先輩と目が合った。


「旅館の事務所で説明したように、付喪神という妖怪は矛盾と破綻のかたまりだ。大事にすれば利益をもたらすと言っておきながら、一方では長く使うと化けるから早く捨てろと促す。百年経たないと化けられないという設定なのに、九十九年目で変化の力を身に付ける。メジャーな妖怪にもかかわらず、出来の悪い作家が急造したのかと思うほどに、設定面がさんすぎる。だいたい、名前からして謎なんだ。道具から生まれ変わって誕生する妖怪に、死者のとむらいを意味する『喪』の字を付けた意図は何だ? ツクモとはそもそもどういう意味だ?」


 淡々と自問自答しながら、先輩は煙草を灰皿に押しつけ、消す。二本目に手を伸ばさないところを見ると、どうやら語るモードに入ったらしい。そう判断したあたしは「窓、閉めますね」と告げて助手席のパワーウインドウを操作し、そして前を見たまま問いかけた。


「えーと、どういう意味と言われても……九十九をツクモって読むって、先輩、自分で言ってませんでしたっけ」


「あれはあくまで一説だ。先にお前が指摘した通り、数字を名前に採用するなら、変化できる年齢である百を使うはずだろう。九十九という年数には何の意味もないのだからな。となれば、付喪神には他の語源が──俺たちの知らない源流が存在すると考えるのが、妖怪学的には自然な発想だ」


「源流? ご先祖様ってことですか?」


 カーブに合わせてハンドルを切りつつ、先輩に尋ねるあたし。妖怪に先祖なんかあるか、と馬鹿にされるかと思ったが、先輩が「ああ」と肯定したところを見ると、そう的外れな相槌でもなかったらしい。


「そうとも言えるな。古代の鬼、中世の天狗、近世の河童など、ある時代に隆盛を誇った妖怪は、必ず前の時代にその祖型となった伝承や説話が存在しているが、付喪神だけは例外なんだ。図像化される妖怪の中では主流であり、多くの伝承にもかいしやしていった一大勢力にも関わらず、源流が確認できない。それはなぜだ?」


「いや、あたしに聞かれても……。で、でも、その時代にいきなり生まれるってこともあるんじゃないですか……?」


「ほう。無知なお前にしては妥当な発想だな」


 おずおずと提案してみれば、珍しくめられたが、正直嬉しくもなんともない。無知ですみませんね、と頬を膨らせるあたしを無視し、先輩は小さくうなずいた。


「実際、俺もそう考えたこともある。だが、資料室で見つけた『真怪秘録』の覚書では、付喪神の項はくろりで潰されていた。あれに何らかの記載があった以上、付喪神については隠された来歴があると踏んではいたのだが……思わぬところにヒントがあった。まったく、時にはあしも踏んでみるものだな」


 先輩の口調が徐々に熱っぽく、そして早くなっていく。「しんかいひろく」って本のことも気になったが──何度か聞いたよね、この題名──それを尋ねるタイミングがない。解説モードのテンションが上がると、人の話をろくに聞かなくなるのが絶対城先輩という人なのだ。というわけで静かに講義に聞き入っていると、先輩は心なしか嬉しげな声で先を続けた。


「名前がぐうぜんなまって変化したのか、あるいは意図的に別の漢字がてられたのかは定かではないが、あれが──そう、付喪神とよく似た名前のあの妖怪こそが──付喪神の源流だったんだ」


「似た名前の妖怪? そんなものが都合良くいるんですか?」


「指摘したのはお前だろうが、ユーレイ。『どっちもクモだから混同した』と言ったことを、俺ははっきり覚えているぞ」


「え?」


 予想外の回答に、あたしはきょとんと目を丸くした。


 指摘したのがあたし? 「どっちもクモだから」って、そんなこと言ったっけ、あたし。連休ボケした脳にかつを入れ、数日前の記憶を漁れば、旅館に着いた日、「木耳の間」で交わした会話が脳裏に蘇ってきた。


 ──えーと何でしたっけ、ツチグモ神でしたっけ。


 ──付喪神だ。


 ──そうそう、それです。どっちもクモだからごっちゃに──って。


「うん、言われてみれば、確かそんなやりとりをしたような……って、ちょっと待ってくださいよ。じゃあ先輩は、付喪神は、元は土蜘蛛だったと……?」


「ああ。そう考えると筋が通るだろう」


 あたしの問いかけを受け、しれっとうなずく絶対城先輩。そうですか、と問い返す間もなく、先輩は「何しろ名前がよく似ている」と言い足した。いやいやいや!


「確かにツチグモとツクモの音は似てますよ。似てますけど、付喪神は道具のお化けで、土蜘蛛はでっかい人食い蜘蛛ですよね? 全然違うじゃないですか!」


 あんまりわけのわからないことを言われたせいか、つい声が大きくなり、ついでにアクセルの踏み込みまでもが強くなってしまった。しまった、とばかりに反射的にペダルを緩めれば、今度はガクンと車体が揺れる。そんな運転席のてんやわんやには全く興味がないのだろう、先輩の解説はしっかり続行していた。


「全然違うどころか、そっくりじゃないか。道具が妖怪化した付喪神は、最終的には人に近い姿になることは先日話したな? 後世には忘れられてしまう設定ではあるが、原典たる『付喪神記』に記述されている内容だから、しんらいしても良いだろう。そして、一方の土蜘蛛だが──お前は、巨大な人食いの蜘蛛と言ったな」


「い、言いましたけど、それが何か?」


 武士にりつけられた腹から髑髏を溢れさせる蜘蛛妖怪の姿を思い出しながら、あたしは首を捻って問い返す。てか、それを教えてくれたのも、あの絵を解説してくれたのも先輩ですよね。そう付け加えつつ、助手席に横目を向けてやれば、先輩は小さく肩をすくめ、息を吸ってこう告げた。


「あの時はそこまで説明しなかったが、人を食らう蜘蛛の変化という姿は、後世になってから付け足された、土蜘蛛の様相の一つに過ぎん。本来の土蜘蛛は──人だ」


「……ヒト?」


 今度は何を言い出したんだ。再び理解できずにぱちぱちと目を瞬けば、先輩は静かに深くうなずき、繰り返し、同じ言葉を口にした。


「ああ、人だ。土蜘蛛の名は、古くはほんしよ、それに各地のに記載されているが、ここでの土蜘蛛は、大和やまとちようていに敵対し、ほろぼされた民族のことを指す。背は低いのに手足だけは長く、山の中やどうくつに群れで住むなどとされているな。死んでなお祟りを成す存在でもあったようで、大和のひとことぬし神社には、祟りを防ぐため、土蜘蛛の死体をばらばらにして埋めたという言い伝えが残っている」


「それが……人?」


 淡々とした解説を受け、あたしは思わず問い返した。山に住み、手足が長く、死んでも祟る。土蜘蛛が先輩の語った通りの存在なら、それはもう、人というより。


「妖怪じゃないんですか……?」


「歴史は勝者が紡ぐものだからな。相手方の非人間的な要素をちようもしくは捏造することで、記録者であり勝者である側の存在を正当化する。どこの国でもよくあることだ。だが、いくらおとしめられようと、本来の土蜘蛛が一つの──あるいは、いくつもの民族集団であり、れっきとした人間であったことは間違いない」


「人間……ですか」


「ああ。俺やお前と同じ、人間だ」


 そこまで話すと、先輩はふいに黙り込んでしまう。いつもの妖怪蘊蓄だと思って聞いていれば、「本当は怖い日本史」になってきた。薄ら寒いものを感じつつ、あたしは小さく声を発していた。


「そんな民族がいたなんて、初めて知りましたよ」


「まあ、教科書に載せたい話ではないのだろうな。だが、土蜘蛛のような民族集団が山中に存在していたことは確かだし、それをにおわせる伝承も、近代に至るまで数多く採集されている。さんじんさとり、山男、山女……。里では無い場所に生きる、我々とは異なる人々の話は、お前の故郷にもたくさん伝わっているだろう」


「は? いや、初耳ですけど……そうなんですか?」


 意外な方向からの問いかけに、きょとんと間抜けな声が出る。古代の話題かと思ったら、今度はあたしの地元の話? 急展開に困惑するあたしの隣で、絶対城先輩は煙草に伸ばしかけた手を引っ込め──もしかしてあたしを気遣っているのだろうか──先を続ける。


「旅館滞在中に民俗資料館で読んだ『山神のむかしばなし』には、その手の話が山のように載っていたぞ。お前は祖父母から聞いたりしなかったのか?」


「初耳でした……。祖母は早くに亡くなってますし、うちの祖父、迷信がきらいでしたから、そういう話は全然しなかったんですよね」


 先輩の問いかけに応じつつ、あたしは故郷の山中に伝わっていたという彼らに思いをせていた。山の中でひっそり生きていた、あたしたちとは違う──でも、あたしたちと同じ人間。そんな彼らのことを思うと、少し怖くはあったが、それ以上に。


「なんだか、かなしくて寂しいですね……。知らなくて申し訳ないというか」


「その反応が正常だろうな。だが今はそれより土蜘蛛と付喪神の関係の話だ」


「えー! 後輩が珍しくしんみりしてるのにそれはないと思います! 鬼!」


「うるさい黙れ。そんなわけで、土蜘蛛は国家成立期から脈々と続く、極めて由緒正しい妖怪なのだが、その命脈は鎌倉時代前後に唐突に途切れてしまうんだ。鬼や天狗にひつてきする一派だった土蜘蛛が、なぜ消えたのか? 俺は、ここが昔からに落ちなかった」


「……昔からそんなことばっかり考えてたんですねえ」


「当然だ」


 せめてもの意思表示として、露骨に呆れた声を出してみたのだが、あっさり受け流されてしまった。さすが自称妖怪学の専門家。感心するしかないあたしの隣で、先輩はマイペースに先を続けた。


「また、古代以来の大妖怪が最後に咲かせた一花とも言うべき、あの『土蜘蛛草紙』では、土蜘蛛の配下として、道具の属性を備えた妖怪が唐突に登場していることも謎だった。『土蜘蛛草紙』は覚えているな? 明人が持ってきた古本の──」


「はいはい。蜘蛛に武士が斬りかかって、お腹から髑髏がざらざらーって」


「覚えているならそれで良い。無駄な説明は不要だ」


 質問されたので答えたら、いきなり遮られた。じんだと感じるのはあたしだけでしょうか、と内心でつぶやいていると、トンネルの入り口が近づいていた。慌ててヘッドライトを灯すのと同時に、車はトンネルの中へと滑り込んだ。暗くなった車内に、先輩の声が静かに響く。


「以上のことから、俺はこう考えた。土蜘蛛は、決して死に絶えたわけではなかった。彼らは、中世において『道具』という新たな属性を付与され、付喪神と名前を変えることで生き長らえた──とな。ぜつめつしたと思われていたきようりゆうが、実は鳥類に進化して生きていたように」


「恐竜って鳥になったんですか? すみません、その話もうちょっと詳しく」


「自分で調べろ。とにかく、付喪神の前身が土蜘蛛だと考えると、つじつまが合うということだ。弔いを示す『喪』の一字は滅んだ民族へのちんこんの意の現れだろうし、『神』の一字を加えたのは、いわゆるまつげの結果と考えられる。わかるな」


「あ、あいにく、半分くらいしか……。まつりあげって何ですか?」


「強力な力を持った怨霊やおんねんを、神として祀る行為を指す。そうすることで怒りをしずめ、あわよくば利益を得ようという発想だな」


「はー。それはまた、ずいぶん虫の良い話ですねえ」


 思わず呆れた声が出た。自分たちをうらんでいる相手をこっちの都合で神様に仕立て上げたところで、御利益なんか期待できないと思うんですが。そう続ければ、先輩は「馬鹿か」とつぶやいた。


「期待できないも何も、実際、付喪神は益をもたらしているじゃないか。古い道具を大事にすればいいことがある、という、実に明快な形でな」


「え? あっ、そ、そうか……!」


 それは確かにその通り。先輩が解説していた通り、付喪神は福をもたらす妖怪でもあるのだ。ようやく納得したあたしの隣で、先輩が静かにうなずいた。


「わかったようだな。そう、その点では、祀り上げは成功しているんだ。もっとも、怨念の塊であった土蜘蛛を百パーセント有益な存在へと転換することはさすがに困難だったのか、危険な妖怪という要素も残ってしまったようだがな。百年もしくは九十九年経った道具は悪事を働く妖怪になるという設定が、その証拠だ」


「はー……。なるほど……」


 暗いトンネルを走り続ける車の中で、あたしはしみじみ納得し、同時に、歴史上から消されてしまった土蜘蛛たちに思いを馳せていた。トンネルの出口はまだ先で、車内はぜん暗いままだ。早く明るくなればいいのに。ばくぜんとそんなことを思いつつハンドルを握っていると、先輩はぼそりと先を続けた。


「今なら、『真怪秘録』覚書の付喪神の項が黒塗りになっていた理由もわかる。付喪神の素性を暴くことは、土蜘蛛の歴史を掘り起こすことになるからな。大和朝廷の再興を目指した明治政府にとっては、かつて自分たちが滅ぼした原住民族の存在は、触れたくないてんだったのだろう」


「あの、先輩? その『しんかいひろく』って何なんです? 資料室のノートや古本がそれに関連してることは聞きましたけど、どういうものなのかさっぱりで」


 独り言めいた先輩の言葉に、あたしは思わず口を挟んでいた。いつものようにはぐらかされたり無視されるかもしれないけど、駄目でもともとだ。と、先輩は一瞬だけ押し黙ったが、意外にも、すぐに再び口を開いた。


「真に怪しい秘密の記録と書いて、『真怪秘録』。明治時代の大哲学者にして妖怪学の祖、井上円了とその一門が、全国の妖怪の伝承の由来や正体について調べた結果を事細かに示した書物だ。本来の目的は、偽怪・誤怪・仮怪と並ぶ怪異四分類のうちの一つ、しんかいについての記録をまとめることだったようだがな」


「真怪……?」


 先輩が何気なく口にした言葉を繰り返す。怪異四分類のことなら、今まで何度か聞かされたが、それは初耳だ。「仮怪」が仮の怪で、「誤怪」は誤った怪、「偽怪」は確か偽の怪だったはず。じゃあ、「真怪」ってのは……?


「もしかして……本物の妖怪ですか?」


「正解だが、より正確に言えば『有り得るはずのない不可思議な現象や存在』といったところだな。覚書を読む限り、ふたくちさとりなどが実例として挙げられている。もっとも、真怪の事例がそう大量に見つかるはずもないから、『真怪秘録』は主に各地の妖怪の正体について述べた本になる──予定だった」


「……『予定だった』?」


 先輩が素直に答えてくれている、という事実に驚きつつ、あたしは間抜けな声で繰り返す。予定だったってことは、結局出版されなかったってことだろうか。と、その疑問をくみ取ったのだろう、先輩は「ああ」とうなずいた。


「綿密に調査を進め、下書きまで完成していたらしい『真怪秘録』だが、結局、刊行はされなかった。タブーに触れて発禁処分を受けたのか、あるいは円了一門が自主的に刊行を取りやめたのかはわからないが、世には出なかったんだ。そのことを思い起こす度に、俺はむなしい気持ちになる」


「どうしてです?」


「歴史の中に消えた者のことは、誰かが知っておいてやるべきだと思うからだ」


 深い考えもなく尋ねたら、すかさず答が返ってきた。いつものドライで無情な口調とは確かに異なる、物悲しさを漂わせたその声に、あたしは何も言い返せなかった。妖怪の話ならまだしも、自分の思いをこんな風にはっきり聞かされたのも初めてだ。


「……先輩、今日はなんだかよく喋るんですね。どうかしたんですか?」


「相変わらずデリカシーの欠片かけらもない聞き方をするな、お前は……。まあ、俺だって、たまにはそんな気にもなるし、昔のことも思い出す」


 いつもの人を見下した口調とは違う、妙に素直で自嘲気味で、そして少し恥ずかしげな声が、暗い車内に短く響く。初めて聞くその声に戸惑うあたしのすぐ隣で、先輩は穏やかに話を続けていた。


「埋もれてしまったものを掘り起こして何になる、そんな無意味なことをするより、もっとまともで有益な学問に励め。妖怪学に首を突っ込み始めた頃は、そんなことばかり言われたものだ。……まあ、当然だが」


 そこまで語ると、先輩は「話しすぎたな」と言い足し、口をつぐんでしまった。


 そっか、今は妖怪学いつぽんやりのこの人も、進路を選ぶ時はいろいろ言われたのか。そんな思いがふと沸き上がる。まあ、考えてみれば当然だ。絶対城先輩は全然頭は悪くないわけで──というかむしろ知的スキルは高い人なわけで、そんな人が妖怪を専門にすると言い出したら、「もっとまともで有益」な道を選べと言いたくなる気持ちもわかる。わかるのだけど、だがしかし。


「……無意味なんかじゃないですよ」


 気付けば、あたしはそう口にしていた。それが予想外の反応だったのだろう、先輩がきょとんと意外そうにあたしを見つめる。その視線を左頬に感じながら、あたしは「無意味じゃないと思います」と繰り返した。


「ど、どう言えばいいのかな……? 土蜘蛛みたいに、滅ぼされて、忘れられちゃった人たちの話なんて、先輩に教えてもらうまで、あたしは全然知らなかったんですよ。でも、そういうのって、忘れちゃいけないことだと思うんです。もうどうしようもできないことだけど、だからこそ、せめて覚えておくべきだと言うか……」


「はっきりしないやつだな。まとめてから話せ」


い言葉が見つからないんですよ」


 冷たい言葉に呆れた声でおうしゆうするあたし。せっかく共感してるのに、その物言いはないでしょう、とは思ったが、先輩のこの態度は今に始まったことじゃない。今さら怒ったりはしませんよ。心の中で苦笑しつつ、あたしは言葉を選び、続ける。


「でも、ですけど、だから、つまり──先輩のやってる妖怪学って、無意味なんかじゃなくて、ある意味、すごく有意義なものじゃないのかなって、思うんです。あ、いや、思ったんです、今、初めて。だから、ぎやくなんかしなくていいのにって……」


 横目で先輩を眺めながら、ごにょごにょと語尾を濁すあたし。そのはっきりしない言葉に、先輩は静かに聞き入っていたが、ややあって、ふっと嬉しげに微笑み──って、え?


「せ、先輩? 今、笑いました? 笑いましたよね!」


 思わず大きな声が出た。何しろ一瞬のことだったし、トンネルの中なので暗かったので、はっきりとは確認できていないけど──でも。


 今の横顔は、間違いなく笑っていた。


「初めて見ましたよ……! 二十四時間しかめ面だと思ってましたけど、先輩も笑うことがあるんですね。なんだか、ちょっと親近感湧いてきました」


「うるさい黙れ」


 つまらなそうに応じた先輩の表情は、いつも通りの見慣れた顔。つまり陰気な仏頂面だ。どうやらあの笑顔はほんの一瞬だけのレアケースだったようだが、でも、だからこそ、どこか子どもっぽい笑みを浮かべたあの横顔は、あたしの脳にしっかりきざみ込まれている。そっか、笑うと意外に人の良さそうな顔になるんだな、この人。


「てか、どうして笑ったんです? あたし、何かおかしいこと言いました?」


「それはいつものことだろう」


「何ですかその言い方! あたしだってたまには的を射た発言をですね」


「……サンプルに励まされるとはな、と思っただけだ」


 あたしの怒りを遮るように、先輩がぼそりとつぶやいた。え、と聞き返せば、渋く一本調子な声が車内に響く。


「せめて覚えておくべき──か。全く、確かにその通りだな。頭の使い方を知らない馬鹿かと思っていたが、意外に分かっているじゃないか、ユーレイ」


「はい? そ、それはその……あ、ありがとうございます……?」


 なんか、いきなり誉められた。さっきの笑顔に続くサプライズに、あたしは目を瞬いた。どうしたんだろう、と思ったが、先輩はそれきり口をつぐみ、視線を窓の外に向けてしまった。会話タイムはもう終わり、ということか。聞いたところでまともな答が返ってくるとは思えないし、あたしは運転に集中することにした。


 道路の先には、トンネルの出口が見えている。ここまで来れば、大学までは一時間ほど。たった数日ぶりなのに、懐かしくさえ思えるから不思議なものだ。講義も学食も、それにびたってた資料室も杵松さんも──。


「ああっ! 杵松さんへのお土産みやげ忘れてた! 買ってきますねって言ったのに!」


「明人への土産? あいつは日本酒が好きだから、俺は地酒を買っておいたが」


「ずるい! ……時に先輩、ものは相談ですが、それ、二人で買ったことに」


「断る」




【次回更新は、2019年12月23日(月)予定!】

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