三章 付喪神(3)
そしてその後は何ごともなく朝となり、時刻は午前八時過ぎ。「おはようさんです」の声とともに朝食のお
「おはようございます。あなたですね、木村さん」
「……はい?」
なぜか一瞬びくっと背を震わせた直後、木村さんは眼鏡の奥の目をきょとんと丸くしてみせた。住み込みで虫好きの施設管理担当従業員は、お膳をあたしたちの前に並べながら、これ見よがしに首を捻る。
「いきなり『あなたですね』言われましても、何のことやらわかりませんが……。なあ、湯ノ山酒店の娘さん?」
「そ、そうですよ先輩。そんな朝の挨拶は聞いたことが」
「無論、今回の一件の犯人です」
先輩の無情な声が、あたしの言葉を遮った。え。何それ。どういうこと? 予想外の一言に絶句するあたしと、そして蒼白になった木村さんとを見回すと、先輩は
「冷めてしまうともったいないので、食べながら説明しましょうか。ユーレイ、お前は食べないのか?」
「食べます、食べますよ? 食べますけど、それより──今のはどういう」
「どういうも何も、そのままの意味だ。そうでしょう?」
木村さんに問いかけつつ、
「な──何を言わはるんですかいな。壁に人の顔が出たっちゅう事件でっせ? 動機は──いや、それ以前に、そもそも、そんなことできるはずはありません。わたしは昨日から言うてますやろ、あれはお客さんの見間違いで」
「それは違います」
早口でまくしたてる木村さんを、絶対城先輩の一言が黙らせる。焼き魚を器用に箸でほぐしながら、先輩は「なるほど、見間違いですか」と声を発した。綺麗に髪をなでつけ、自信に満ちた声で静かに語るその姿は、昨夜脂汗を流してうなされていた人と同一人物とは思えない。
「確かに、見間違いから生まれた妖怪は多いです。ただ、今回に限っては、見間違いではありません。むろん、壁に人の顔が現れたかどうか、と問われれば、否と答えるしかないのですがね。でしょう?」
「……偉い学生さんの言わはることは、アホなわたしにはさっぱりですわ」
「どんな場合においても、無知を装うことは得策には成り得ませんよ、木村さん。それに、その言い分はいかにも無理筋です。
「ごふっ?」
完全に聞き手モードになっていたところに唐突に問いかけられ、あたしは激しくむせかえった。ちょうどご飯と
「確か、こないだ資料室で聞いたアレですよね。壁の染みでもなんでも、人間は三つの点があればそこに顔を見ちゃうという……。で、これがどうかしたんです?」
「どうもこうも、この部屋に出た付喪神の正体じゃないか」
こともなげに言い放つ絶対城先輩である。意味がわからずぽかんと固まっていると、先輩は
「昨日、壁の点を指し示したことを忘れたのか? ほら、そこの枕元の」
「それは覚えてますよ。でも、目みたいに見えなくもないですが、あの点は二つじゃないですか。顔には見えませんよ」
漬け物を口に放り込みつつ、先輩へと問いかける。なぜか木村さんが──あの明るくて賑やかな人が、すっかり押し黙ってしまっていることに疑問を感じつつも、あたしは「それに」と先を続けた。
「忘れたんですか、先輩。ここに泊まったお客さんは『口がぱくぱく動いてるのを見た』って言ってるんですよ。それとも先輩は、開いたり閉じたりする三つ目の点がそこにあったとでも言いたんですか?」
「ああ、その通りだ」
「ですよね。だったら、そんな風には言えな──って」
今、もしかして「その通り」って言いました? 湯飲みを手にしたまま、あたしは先輩を凝視した。と、向かいに座った妖怪学の専門家は、
「口に当たる点が存在し、しかも開閉したと、俺はそう言っている。そう考えれば、壁に顔が現れた、という証言にも筋が通るだろう?」
「そ、そりゃまあ通りますけど……でも、そんなことありえませんよ」
「有り得るかどうかは、そこの木村さんに聞いてみればいい。と言いたいところだが、どうも答えてくれそうもないので俺から説明しよう」
そうでもしないと、この人は認めてくれそうもないからな。自嘲気味に言い足すと、先輩はお茶を一口だけすすり、そして静かに口を開いた。
「キムラグモという蜘蛛がいる」
「──っ!」
その言葉を聞いた瞬間、木村さんがびくっと震えた。見ていたこっちまでびっくりするほどの露骨な
「きむらぐも……? 木村さんと同じ名前ですけど、クモって、あのクモですよね。こう、八本足で、巣を作る」
「少し惜しいな。キムラグモは確かに八本足ではあるが、いわゆる蜘蛛の巣は作らない種だ。大きさは二センチメートル弱。切り立った
昆虫図鑑を朗読しているかのように、つらつらと解説を述べる絶対城先輩。どうやらこの人、詳しいのは妖怪だけじゃないらしい。感心しつつ呆れつつ、あたしはおずおず口を挟んだ。
「それ、ジグモみたいなものですか? ほら、地面に穴掘って巣を作る種類の」
「ああ。ジグモとキムラグモでは巣蓋の固定の仕方が微妙に違うが、まあ、同じようなものと思って問題はないだろう。しかしお前、意外に詳しいな」
「これでも田舎出身ですから。で、そのキムラグモがどうしたんです?」
「何だ、まだわからないのか? この部屋の壁は剥き出しの土、キムラグモが巣を作ることは可能だ。実際、古い納屋や小屋の土壁にキムラグモが営巣していた記録はあるからな。そこで、壁の二つの点の中間地点のやや下、ちょうど口に見えるあたりに、件のクモが巣を作ったとしたら、どう見える? 無論、普段は巣があるようには見えないだろうが、窓から入ってきた小さな羽虫にでも反応して、巣の蓋を開いたら? そして、布団に横になっていた客が、たまたまその光景を目にしたら──」
「え? ええと……」
先輩に流暢な言葉に促されるままに、あたしは脳内にその光景を描いてみる。
明け方か夜中かわからないが、寝ぼけ眼で土壁をぼんやり見ていると、まるで動物の口のように一瞬だけ壁の一部が持ち上がり、小さな虫を引きずり込む。え、と思ったその瞬間、「口」の上の二つの点がまるで目玉のように思えてくることだろう。一度そう見えてしまえば、その認識はそう簡単には消えやしない。だが、同じ場所を見直しても、そこにあるのはただの壁。結局あとに残るのは、あれは何だったんだろうという、薄気味悪い思いだけ……。
「ああっ! なるほど! 確かにこれは妖怪と思っても仕方ない!」
「納得したか」
ようやく理解したあたしを前に、先輩は満足げにうなずいた。なるほど確かに筋は通る。お
「その場合、キムラグモはどこから来たんです? それに、お客さんの話を聞いた後、旅館の人が壁を調べたはずですよね。どうして見つからなかったんですか?」
「野生のものが入り込む可能性もないことはないが、飼っていたものが逃げ出したと考えるのが自然だろう。
「……いやはや、たまりませんなあ。こら、しらを切るのも
絶対城先輩に問いかけられ、木村さんはようやく声を発した。観念したのかあるいは開き直ったのか、顔色はいつの間にか元に戻っていたが、口調はどことなく弱々しい。その通りですわ、と頭を撫でると、関西弁の施設管理担当従業員さんは、苦笑交じりで話しはじめた。
「せや。あれは、わたしのクモの仕業です。しばらく前に逃げたんですわ。壁の顔の口が開いた、て聞いた時、おかみさんや
「旅館の経営者一家が、
「ほんま、絶対城さんはなんでもかんでもお見通しですなあ……」
絶対城先輩の一言に、木村さんが首を縦に振る。ここまで認めたってことは、付喪神事件の原因は、やっぱりこの人? 少し遅れて驚くあたしの視線の先で、キムラグモの飼い主らしい眼鏡のおじさんは、はあ、と大きな溜息を落とした。
「ちょっと前に近くのホテルが
「ど、どうしてです? そりゃまあ『ジャカジャン!』まで言ったら張り倒されてもおかしくないですけど、日奈美もおじさんもおばさんも、普通に事情を話せばわかってくれたと思いますよ? あたしだって納得したんですから……」
「それで丸く収まったとして、その後、木村さんの趣味はどうなる?」
口を挟んだあたしに答えたのは、なぜか木村さんではなく絶対城先輩だった。意味がわからず「え?」と聞き返すのと同時に、木村さんは力なくうなだれた。
「そういうことですわ、湯ノ山酒店のお嬢さん。旦那さんもおかみさんもできた人や、訴えるとかクビやとか、そういうことにはならんとは思います。せやけど、客商売は信用第一。二度とこんなことがないように、ペットとコレクションを丸ごと処分せえっ、言われるのはわかってます」
「あ、そうか」
なるほど、言われてみればその通り。そして、虫が好きだから、この職場を選んだ木村さんにしてみれば、その
「さいです。わたしは、旅館の従業員であるより前に、節足動物ラヴァーですねん。あいつらを処分するのだけは……それだけは、どうしても避けたかったんですわ。しかしまあ、よう気付かはりましたなあ……。どこでピンと来はったんかわかりませんが、大した
「……たぶんそれはベーカー街のホームズのことだと思うのですが、最初に気になったのは、昨日、事務室で自己紹介を伺った時ですね。貴方は確かにこう言った。自分と同じ名前の蜘蛛がいることを知ってから彼らに興味が湧いた、同じ名前のあいつだけはどうしても標本にはできない──と。ユーレイ、お前も覚えているな?」
「あ、はい。でも木村さんのセリフはもっとベタな関西弁でしたよ」
「そこは別にどうでもいい。肝心なのは内容だ」
記憶力に優れた助手ぶりを発揮したつもりが、返ってきたのは冷えた声。だったら聞かなきゃいいじゃないですか。
「と、その発言を聞いた時から、予想は付いていたのです。木村さんと同じ名前のクモとはすなわちキムラグモですから、その習性を知っていれば、壁の顔──いや、正確に言えば、土壁の開閉する小さな穴と結びつけることは容易です。そして昨日、この部屋の枕元に位置する壁に、最近塗られた跡を見つけた時」
「推理は確信に変わったっちゅうわけですか。やられましたなあ……。で、そこまでわかった以上、お二人はこの後どないしはるつもりです? やっぱし、旦那さんに言わはるんですかいな……?」
小さく背中を丸めた木村さんが、絶対城先輩とあたしとを見比べながら問いかける。眼鏡越しに不安げな視線を向けられ、あたしはぐっと言葉に詰まった。
誰が悪いと言われれば、そりゃあこの人だ。だがしかし、告発イコールペットの処分となると、あげつらうのも気が引ける。アフターケアもちゃんとやってるわけだし反省もしてるみたいだし。でも、かと言って、このまま放っておくと、日奈美の家族は余計な心労を抱え続けることになる。
この場合、どっちを選ぶのが正しいんだろう……?
箸と茶碗を手にしたまま、二の句が継げずに固まるあたし。と、静かに考え込んでいた絶対城先輩が、ふいに木村さんのほうへ身を乗り出し、抑えた声を発した。
「どうでしょう。ものは相談なのですが」
***
「はいそこ! 右曲がりまーす!」
その数日後の昼下がり、連休最終日の国道にて。
レンタカーのハンドルを
「あのな、ユーレイ。お前の動作をいちいち俺に報告する必要は別にないぞ」
「だって静かに運転してたら、先輩、また寝るじゃないですか──とか言ってる間に前の車がいなくなったのでスピード上げますねー。アクセル、オーン!」
助手席の方を見ずに反論し、ついでにアクセルをぐっと踏み込む。連休の最終日ともなれば、場所によっては帰省ラッシュのタイミングなのだろうが、田舎の温泉街から小さな地方都市へ通じる国道は、いつものように空いている。来る時よりはスムーズに運転できてるよね、と自賛すると、あたしは助手席へと問いかけた。
「こっちは連休
「それはお前が浅学だからそう思うだけだ。昼間は近くの民俗資料館で郷土の民話を読みふけり、夜は己の記憶と知識に頼ってただ黙々と思案する。実に有意義な時間だったぞ。それに、いくら飲み食いしても無料というのも
取り出した
なお、先輩の宿泊費および
あの朝、真相を看破した先輩は、日奈美とその家族を適当に言いくるめて納得させることと引き替えに、連休期間中の
とまあ、そんな次第で、先輩はあれから三日間、小久保荘に
「しかしまあ、あの時の先輩はすごかったですよね。口から出任せであれだけ喋れるなんて。掛け軸の裏に書いた呪文も、その場で作ったものなんでしょ?」
「馬鹿を言え。そんなことをしてみろ、その気になって調べられたらすぐバレる」
助手席に呆れた声を投げかけてみれば、意外な言葉が返ってくる。え、そうなんですか? 意味のわからない言葉だったから、てっきり捏造かと思っていたのに。
「ええと──何でしたっけ、あれ」
「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ。『
けろっとした顔であたしの疑問に応じると、先輩は「そもそも、あんなものは気休めだしな」と付け足した。「たぶん」とか「気休め」とか、とんでもない専門家もいたものである。
「気休めでお金取るのはどうかと思うんですけどねえ……」
「普段からその片棒を担いでいるお前には言われたくないな」
「ぐぬ!」
痛いところを突いてやったつもりが、逆に嫌なところを突かれ、思わず変な声が出た。悔しいが、それは先輩の言う通りだ。無論、好きで片棒を担いでるわけではないけれど、自分で選んだ道ではあるわけで。胸元で揺れている耳鳴り封じのペンダントをちらっと見下ろすと、あたしは話を変えることにした。この話題はもうやめだ。
「で、実際、三日も何してたんです? あ、昼は資料館で夜は考え事ってのはさっき聞きましたけど、一体全体、何をそんなに考えてたのかなーと」
「付喪神のことだ」
「付喪神……? もう壁の顔の事件は解決したのに、何を今さら」
「馬鹿か。ネタはいくらでもあるだろう」
首を捻るあたしの耳に、やれやれと言いたげな声が届く。いやしかし、あるだろうと言われてもですね。そんな思いを込めて助手席をちらっと見やれば、煙草を深く吸う先輩と目が合った。
「旅館の事務所で説明したように、付喪神という妖怪は矛盾と破綻の
淡々と自問自答しながら、先輩は煙草を灰皿に押しつけ、消す。二本目に手を伸ばさないところを見ると、どうやら語るモードに入ったらしい。そう判断したあたしは「窓、閉めますね」と告げて助手席のパワーウインドウを操作し、そして前を見たまま問いかけた。
「えーと、どういう意味と言われても……九十九をツクモって読むって、先輩、自分で言ってませんでしたっけ」
「あれはあくまで一説だ。先にお前が指摘した通り、数字を名前に採用するなら、変化できる年齢である百を使うはずだろう。九十九という年数には何の意味もないのだからな。となれば、付喪神には他の語源が──俺たちの知らない源流が存在すると考えるのが、妖怪学的には自然な発想だ」
「源流? ご先祖様ってことですか?」
カーブに合わせてハンドルを切りつつ、先輩に尋ねるあたし。妖怪に先祖なんかあるか、と馬鹿にされるかと思ったが、先輩が「ああ」と肯定したところを見ると、そう的外れな相槌でもなかったらしい。
「そうとも言えるな。古代の鬼、中世の天狗、近世の河童など、ある時代に隆盛を誇った妖怪は、必ず前の時代にその祖型となった伝承や説話が存在しているが、付喪神だけは例外なんだ。図像化される妖怪の中では主流であり、多くの伝承にも
「いや、あたしに聞かれても……。で、でも、その時代にいきなり生まれるってこともあるんじゃないですか……?」
「ほう。無知なお前にしては妥当な発想だな」
おずおずと提案してみれば、珍しく
「実際、俺もそう考えたこともある。だが、資料室で見つけた『真怪秘録』の覚書では、付喪神の項は
先輩の口調が徐々に熱っぽく、そして早くなっていく。「しんかいひろく」って本のことも気になったが──何度か聞いたよね、この題名──それを尋ねるタイミングがない。解説モードのテンションが上がると、人の話をろくに聞かなくなるのが絶対城先輩という人なのだ。というわけで静かに講義に聞き入っていると、先輩は心なしか嬉しげな声で先を続けた。
「名前が
「似た名前の妖怪? そんなものが都合良くいるんですか?」
「指摘したのはお前だろうが、ユーレイ。『どっちもクモだから混同した』と言ったことを、俺ははっきり覚えているぞ」
「え?」
予想外の回答に、あたしはきょとんと目を丸くした。
指摘したのがあたし? 「どっちもクモだから」って、そんなこと言ったっけ、あたし。連休ボケした脳に
──えーと何でしたっけ、ツチグモ神でしたっけ。
──付喪神だ。
──そうそう、それです。どっちもクモだからごっちゃに──って。
「うん、言われてみれば、確かそんなやりとりをしたような……って、ちょっと待ってくださいよ。じゃあ先輩は、付喪神は、元は土蜘蛛だったと……?」
「ああ。そう考えると筋が通るだろう」
あたしの問いかけを受け、しれっとうなずく絶対城先輩。そうですか、と問い返す間もなく、先輩は「何しろ名前がよく似ている」と言い足した。いやいやいや!
「確かにツチグモとツクモの音は似てますよ。似てますけど、付喪神は道具のお化けで、土蜘蛛はでっかい人食い蜘蛛ですよね? 全然違うじゃないですか!」
あんまりわけのわからないことを言われたせいか、つい声が大きくなり、ついでにアクセルの踏み込みまでもが強くなってしまった。しまった、とばかりに反射的にペダルを緩めれば、今度はガクンと車体が揺れる。そんな運転席のてんやわんやには全く興味がないのだろう、先輩の解説はしっかり続行していた。
「全然違うどころか、そっくりじゃないか。道具が妖怪化した付喪神は、最終的には人に近い姿になることは先日話したな? 後世には忘れられてしまう設定ではあるが、原典たる『付喪神記』に記述されている内容だから、
「い、言いましたけど、それが何か?」
武士に
「あの時はそこまで説明しなかったが、人を食らう蜘蛛の変化という姿は、後世になってから付け足された、土蜘蛛の様相の一つに過ぎん。本来の土蜘蛛は──人だ」
「……ヒト?」
今度は何を言い出したんだ。再び理解できずにぱちぱちと目を瞬けば、先輩は静かに深くうなずき、繰り返し、同じ言葉を口にした。
「ああ、人だ。土蜘蛛の名は、古くは
「それが……人?」
淡々とした解説を受け、あたしは思わず問い返した。山に住み、手足が長く、死んでも祟る。土蜘蛛が先輩の語った通りの存在なら、それはもう、人というより。
「妖怪じゃないんですか……?」
「歴史は勝者が紡ぐものだからな。相手方の非人間的な要素を
「人間……ですか」
「ああ。俺やお前と同じ、人間だ」
そこまで話すと、先輩はふいに黙り込んでしまう。いつもの妖怪蘊蓄だと思って聞いていれば、「本当は怖い日本史」になってきた。薄ら寒いものを感じつつ、あたしは小さく声を発していた。
「そんな民族がいたなんて、初めて知りましたよ」
「まあ、教科書に載せたい話ではないのだろうな。だが、土蜘蛛のような民族集団が山中に存在していたことは確かだし、それを
「は? いや、初耳ですけど……そうなんですか?」
意外な方向からの問いかけに、きょとんと間抜けな声が出る。古代の話題かと思ったら、今度はあたしの地元の話? 急展開に困惑するあたしの隣で、絶対城先輩は煙草に伸ばしかけた手を引っ込め──もしかしてあたしを気遣っているのだろうか──先を続ける。
「旅館滞在中に民俗資料館で読んだ『山神のむかしばなし』には、その手の話が山のように載っていたぞ。お前は祖父母から聞いたりしなかったのか?」
「初耳でした……。祖母は早くに亡くなってますし、うちの祖父、迷信が
先輩の問いかけに応じつつ、あたしは故郷の山中に伝わっていたという彼らに思いを
「なんだか、
「その反応が正常だろうな。だが今はそれより土蜘蛛と付喪神の関係の話だ」
「えー! 後輩が珍しくしんみりしてるのにそれはないと思います! 鬼!」
「うるさい黙れ。そんなわけで、土蜘蛛は国家成立期から脈々と続く、極めて由緒正しい妖怪なのだが、その命脈は鎌倉時代前後に唐突に途切れてしまうんだ。鬼や天狗に
「……昔からそんなことばっかり考えてたんですねえ」
「当然だ」
せめてもの意思表示として、露骨に呆れた声を出してみたのだが、あっさり受け流されてしまった。さすが自称妖怪学の専門家。感心するしかないあたしの隣で、先輩はマイペースに先を続けた。
「また、古代以来の大妖怪が最後に咲かせた一花とも言うべき、あの『土蜘蛛草紙』では、土蜘蛛の配下として、道具の属性を備えた妖怪が唐突に登場していることも謎だった。『土蜘蛛草紙』は覚えているな? 明人が持ってきた古本の──」
「はいはい。蜘蛛に武士が斬りかかって、お腹から髑髏がざらざらーって」
「覚えているならそれで良い。無駄な説明は不要だ」
質問されたので答えたら、いきなり遮られた。
「以上のことから、俺はこう考えた。土蜘蛛は、決して死に絶えたわけではなかった。彼らは、中世において『道具』という新たな属性を付与され、付喪神と名前を変えることで生き長らえた──とな。
「恐竜って鳥になったんですか? すみません、その話もうちょっと詳しく」
「自分で調べろ。とにかく、付喪神の前身が土蜘蛛だと考えると、
「あ、あいにく、半分くらいしか……。まつりあげって何ですか?」
「強力な力を持った怨霊や
「はー。それはまた、ずいぶん虫の良い話ですねえ」
思わず呆れた声が出た。自分たちを
「期待できないも何も、実際、付喪神は益をもたらしているじゃないか。古い道具を大事にすればいいことがある、という、実に明快な形でな」
「え? あっ、そ、そうか……!」
それは確かにその通り。先輩が解説していた通り、付喪神は福をもたらす妖怪でもあるのだ。ようやく納得したあたしの隣で、先輩が静かにうなずいた。
「わかったようだな。そう、その点では、祀り上げは成功しているんだ。もっとも、怨念の塊であった土蜘蛛を百パーセント有益な存在へと転換することはさすがに困難だったのか、危険な妖怪という要素も残ってしまったようだがな。百年もしくは九十九年経った道具は悪事を働く妖怪になるという設定が、その証拠だ」
「はー……。なるほど……」
暗いトンネルを走り続ける車の中で、あたしはしみじみ納得し、同時に、歴史上から消されてしまった土蜘蛛たちに思いを馳せていた。トンネルの出口はまだ先で、車内は
「今なら、『真怪秘録』覚書の付喪神の項が黒塗りになっていた理由もわかる。付喪神の素性を暴くことは、土蜘蛛の歴史を掘り起こすことになるからな。大和朝廷の再興を目指した明治政府にとっては、かつて自分たちが滅ぼした原住民族の存在は、触れたくない
「あの、先輩? その『しんかいひろく』って何なんです? 資料室のノートや古本がそれに関連してることは聞きましたけど、どういうものなのかさっぱりで」
独り言めいた先輩の言葉に、あたしは思わず口を挟んでいた。いつものようにはぐらかされたり無視されるかもしれないけど、駄目でもともとだ。と、先輩は一瞬だけ押し黙ったが、意外にも、すぐに再び口を開いた。
「真に怪しい秘密の記録と書いて、『真怪秘録』。明治時代の大哲学者にして妖怪学の祖、井上円了とその一門が、全国の妖怪の伝承の由来や正体について調べた結果を事細かに示した書物だ。本来の目的は、偽怪・誤怪・仮怪と並ぶ怪異四分類のうちの一つ、
「真怪……?」
先輩が何気なく口にした言葉を繰り返す。怪異四分類のことなら、今まで何度か聞かされたが、それは初耳だ。「仮怪」が仮の怪で、「誤怪」は誤った怪、「偽怪」は確か偽の怪だったはず。じゃあ、「真怪」ってのは……?
「もしかして……本物の妖怪ですか?」
「正解だが、より正確に言えば『有り得るはずのない不可思議な現象や存在』といったところだな。覚書を読む限り、
「……『予定だった』?」
先輩が素直に答えてくれている、という事実に驚きつつ、あたしは間抜けな声で繰り返す。予定だったってことは、結局出版されなかったってことだろうか。と、その疑問をくみ取ったのだろう、先輩は「ああ」とうなずいた。
「綿密に調査を進め、下書きまで完成していたらしい『真怪秘録』だが、結局、刊行はされなかった。タブーに触れて発禁処分を受けたのか、あるいは円了一門が自主的に刊行を取りやめたのかはわからないが、世には出なかったんだ。そのことを思い起こす度に、俺は
「どうしてです?」
「歴史の中に消えた者のことは、誰かが知っておいてやるべきだと思うからだ」
深い考えもなく尋ねたら、すかさず答が返ってきた。いつものドライで無情な口調とは確かに異なる、物悲しさを漂わせたその声に、あたしは何も言い返せなかった。妖怪の話ならまだしも、自分の思いをこんな風にはっきり聞かされたのも初めてだ。
「……先輩、今日はなんだかよく喋るんですね。どうかしたんですか?」
「相変わらずデリカシーの
いつもの人を見下した口調とは違う、妙に素直で自嘲気味で、そして少し恥ずかしげな声が、暗い車内に短く響く。初めて聞くその声に戸惑うあたしのすぐ隣で、先輩は穏やかに話を続けていた。
「埋もれてしまったものを掘り起こして何になる、そんな無意味なことをするより、もっとまともで有益な学問に励め。妖怪学に首を突っ込み始めた頃は、そんなことばかり言われたものだ。……まあ、当然だが」
そこまで語ると、先輩は「話しすぎたな」と言い足し、口をつぐんでしまった。
そっか、今は妖怪学
「……無意味なんかじゃないですよ」
気付けば、あたしはそう口にしていた。それが予想外の反応だったのだろう、先輩がきょとんと意外そうにあたしを見つめる。その視線を左頬に感じながら、あたしは「無意味じゃないと思います」と繰り返した。
「ど、どう言えばいいのかな……? 土蜘蛛みたいに、滅ぼされて、忘れられちゃった人たちの話なんて、先輩に教えてもらうまで、あたしは全然知らなかったんですよ。でも、そういうのって、忘れちゃいけないことだと思うんです。もうどうしようもできないことだけど、だからこそ、せめて覚えておくべきだと言うか……」
「はっきりしないやつだな。まとめてから話せ」
「
冷たい言葉に呆れた声で
「でも、ですけど、だから、つまり──先輩のやってる妖怪学って、無意味なんかじゃなくて、ある意味、すごく有意義なものじゃないのかなって、思うんです。あ、いや、思ったんです、今、初めて。だから、
横目で先輩を眺めながら、ごにょごにょと語尾を濁すあたし。そのはっきりしない言葉に、先輩は静かに聞き入っていたが、ややあって、ふっと嬉しげに微笑み──って、え?
「せ、先輩? 今、笑いました? 笑いましたよね!」
思わず大きな声が出た。何しろ一瞬のことだったし、トンネルの中なので暗かったので、はっきりとは確認できていないけど──でも。
今の横顔は、間違いなく笑っていた。
「初めて見ましたよ……! 二十四時間しかめ面だと思ってましたけど、先輩も笑うことがあるんですね。なんだか、ちょっと親近感湧いてきました」
「うるさい黙れ」
つまらなそうに応じた先輩の表情は、いつも通りの見慣れた顔。つまり陰気な仏頂面だ。どうやらあの笑顔はほんの一瞬だけのレアケースだったようだが、でも、だからこそ、どこか子どもっぽい笑みを浮かべたあの横顔は、あたしの脳にしっかり
「てか、どうして笑ったんです? あたし、何かおかしいこと言いました?」
「それはいつものことだろう」
「何ですかその言い方! あたしだってたまには的を射た発言をですね」
「……サンプルに励まされるとはな、と思っただけだ」
あたしの怒りを遮るように、先輩がぼそりとつぶやいた。え、と聞き返せば、渋く一本調子な声が車内に響く。
「せめて覚えておくべき──か。全く、確かにその通りだな。頭の使い方を知らない馬鹿かと思っていたが、意外に分かっているじゃないか、ユーレイ」
「はい? そ、それはその……あ、ありがとうございます……?」
なんか、いきなり誉められた。さっきの笑顔に続くサプライズに、あたしは目を瞬いた。どうしたんだろう、と思ったが、先輩はそれきり口をつぐみ、視線を窓の外に向けてしまった。会話タイムはもう終わり、ということか。聞いたところでまともな答が返ってくるとは思えないし、あたしは運転に集中することにした。
道路の先には、トンネルの出口が見えている。ここまで来れば、大学までは一時間ほど。たった数日ぶりなのに、懐かしくさえ思えるから不思議なものだ。講義も学食も、それに
「ああっ! 杵松さんへのお
「明人への土産? あいつは日本酒が好きだから、俺は地酒を買っておいたが」
「ずるい! ……時に先輩、ものは相談ですが、それ、二人で買ったことに」
「断る」
【次回更新は、2019年12月23日(月)予定!】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます