三章 付喪神(2)


「……ふむ。なるほど。要するに、先月その部屋に泊まった客が、壁に顔を見たと主張しているわけですね。そして、旅館の方が確認しても何もなかった」


 そして約三十分後。ようやく説明を聞き終えた絶対城先輩は、相談内容を的確にまとめながらうなずいた。なお、これだけの話を伝えるのに半時間もかかったのは、木村さんの説明が横道に逸れまくったおかげである。昆虫標本の作り方のくだりは絶対いらなかったよねと痛感しつつ、あたしは日奈美に問いかけた。


「祟られたとかかなしばりとか、具体的な被害はないのよね。夜中に何となく目が覚めて、まくらもとの壁を見たら、そこに小さな顔があって口がぱくぱくしてただけ……と」


 まあ、それでも充分怖いけど。そう言い足しつつ確認すれば、日奈美はこくりとうなずいた。


「ええ。お発ちになる時にそれを伝えてくださった方は一組だけなんだけど、もしかしたら、それ以外にもたくさんのお客様が……」


「せやからお嬢さんもおかみさんも、悪いほうに考えすぎですがな」


 不安げにうつむく日奈美の隣で、呆れたような声が漏れた。言うまでもなく声の主は木村さんだ。


「そんなもん、寝ぼけて見間違うただけに決まってますがな」


「木村さんは良いほうに考えすぎです」


「まあ、そういう性分ですさかいなあ……」


 難しい顔を見合わせた後、日奈美と木村さんは、二人揃って黙り込んでしまう。その二人を前に、あたしはしみじみ納得していた。なるほど、これは確かにみようなレベルの怪事件だ。ほっとくのも気味が悪いし、かと言って。


「大ごとにするようなものでもないもんね……。先輩。どう思います、これ?」


「壁に顔とだけ聞くと、心霊写真の得意分野だな。ただ、あれは写真を現像して初めて事態に気付くという類型が重要な怪談だから、実際に口が動くのを見たと言っているケースに当てはめるのは難しい。むしろ、古い建物の壁が妖怪化した、という視点でとらえるべきだろうな。その見方だと、がいとうする妖怪はいる」


「壁が妖怪化、ですか……? あ、『ぬりかべ』ですね」


「違う」


 自信満々で宣告したあたしを、先輩の無情な言葉が切り捨てる。あれ、珍しく先読みできたと思ったのに、違うんですか? きょとんと間抜けな顔で固まっていると、自称妖怪学の徒はやれやれと肩をすくめ、溜息を吐いた。


「ぬりかべは、暗い夜道を歩いていたらなぜか前に進めなくなるという、現象タイプの妖怪だろうが。今回のケースとは全く違う。古びた壁に手足が生えた姿でイメージされることが多いが、本来は明確な形を持たない妖怪だぞ」


「そうなんですか?」


 ぬりかべイコール平べったくて大きな壁の妖怪だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。じゃああたしの知ってるあれは何なんです、と尋ねれば、先輩は「無論、後世の創作だ」と教えてくれた。


「妖怪は後付けの情報で印象や設定がいくらでも上書きできるという好例だな」


「そんなことより、絶対城さん。これって、どうにかして……いえ、せめて、何が起きてるかだけでも教えていただきたいんですが……。私、幽霊とか妖怪にはうといんですが、こういう妖怪なんて、いるものなんでしょうか?」


「いますよ。つくがみですね」


「つくもがみ?」


 絶対城先輩を除く三人が、聞いたばかりの言葉を繰り返す。日奈美が「知ってる?」とあたしに視線で問いかけてきたが、こっちだって初耳だ。というわけで専門家の言葉の続きを待っていると、先輩は「付喪神とは」と語り始めた。ほらやっぱり解説が始まった。


「古道具や器物──すなわち、人間が作ったものが年を経て化けた妖怪の総称です。漢字では、付着の付にちゆう、それに神仏の神と書きますね。道具を粗末にすると祟るぞ、大事にしたらいいことがあるぞ、と教えるための小道具として、昔話や教訓譚によく登場する存在でもあります。この旅館が大正時代に建てられたものならば、そろそろ化けてもおかしくはありません。そうだろう、ユーレイ?」


「え、あたしに聞かれても……」


 そうなんですかねえ、としか言えないわけで。というか、いきなり話を振らないでくださいよ。先輩にそう視線で訴えると、あたしは首を小さく傾げた。


「『つくも』って、あんまり聞かない言葉ですけど……どういう意味なんです?」


「数字の九十九のことだ。実際、九十九の神と書いて『がみ』と読ませる場合もある。『付喪神記』には、道具は作られて百年を経過すると化けるので、それまでに捨てねばならないと記されているからな。そこから付けられた名前なんだろう」


「はあ、なるほど」


 先輩の説明に間抜けな顔でうなずくあたし。古道具は百年で化けちゃう、という設定なのか。


「って、じゃあなんで『ひやくがみ』じゃないんです?」


「そんなことは知らん」


 素朴な疑問を口にしてみれば、あっさりとした答が返ってきた。あ、それは知らないんだ。ちょっとがっかりしていると、木村さんが興味深げにうなずいた。


「付喪神ですかいな。そう言えば、美術館で古道具に手足が生えたお化けの絵を見たことがありますが、あれがそうやったんですなあ。おおぎかいじゆうとかなべ人間とか」


「付喪神は、妖怪絵のモチーフにもよく用いられていますからね。ただ、いつの間にか道具属性を残した容姿の妖怪を指す言葉になってしまった付喪神ですが、当初はそうでもなかったんですよ」


 木村さんに相槌を打った絶対城先輩が、よくわからないことを口にした。そうでもなかったって、付喪神は道具の妖怪って今自分で言ったところじゃないですか。そんなことを思いつつ日奈美と顔を見合わせていると、先輩は木村さんと向き合ったまま再び口を開いた。


「今お話ししました『付喪神記』ですが、これは、化けられると困るからという理由で、百年経つ前に捨てられたしまった道具が妖怪化し、人間にふくしゆうするという筋書きの絵巻なんです」


「おお、燃える展開ですな。にくい人間をやっつけるわけですか」


「ええ。ここで注目すべきは、彼らは着物を纏った人間に近い姿で描かれていて、外見には道具の要素は全く見られない、という点です。つまり初期の付喪神は、少なくとも見た目においては人型の妖怪だったんですね。道具属性を備えた妖怪イコール付喪神という定義は、近世以降に定着したと考えるべきでしょう」


 よどみなく流暢な説明に、あたしは「ああ」と納得した。そういうことか。さすが自称専門家、この手の知識は大したものだ。だが、静かに聞き入っていた日奈美は、ふと小さく眉をひそめ、口を挟んだ。


「あの。それって、おかしくないですか……?」


「日奈美、急にどうしたの? まあ、おかしいと言えばおおに妖怪の話をしてる時点で結構おかしいんだけどさ」


「そうじゃないわよ。あたしが言いたいのは、絶対城さんのお話しされた内容」


 そう言うと、日奈美は絶対城先輩へと向き直った。先輩に、どうぞ、と視線で先を促され、和装の似合う友人は小さくうなずき、話し始めた。


「つくもがみき、でしたっけ。そこでは、百年経ったら化けちゃうからって、その前に捨てられた道具が、人間に仕返しするんですよね……?」


「具体的には妖怪化し、人をさらって食らうわけですがね。それが何か?」


「そ、その……」


 絶対城先輩にじっと見据えられ、日奈美が一瞬口ごもる。そして、こんなこと尋ねていいのかしら、と言いたげにあたしをちらっと見た後、日奈美はおずおずとこう尋ねた。


「どうして、百年経ってないのに妖怪になれるんですか?」


「あ。確かに!」


 不安げに言い放たれた日奈美の言葉に、あたしは思わず大きな声を出していた。道具は百年経つと妖怪化するよってところから始まった話なのに、百年を迎える前に捨てられた腹いせに人間を襲えるのなら、もうそれで充分じゃないか。というか設定がいきなりたんしてないか、これ。


「言われてみればそうだよね……。日奈美、よく気付いたね」


「ありがと、礼音。でも、それだけじゃなくてね? あの──絶対城さん、最初にこうおつしやいましたよね。付喪神は、道具を大事にするといいことがあるよ、って教えるための妖怪でもあるって」


「確かに言いました。ですが、それが?」


 再び日奈美を見据える絶対城先輩。感情の読み取れないクールな声に先を促され、日奈美は小さくうなずき、口を開く。


「そこも、じゆんしてますよね。一方では、化ける前に捨てろって言っておきながら、もう一方では、大事にしろ、粗末にするなって……。一体、どうしろって教えたいんでしょう?」


 理解しがたい、と言いたげに、日奈美は小さく首を捻る。おお、これまた言われてみればその通り。長く使うべきなのかそうでないのか、さっぱりわからない。腕を組んでしみじみ困惑していると、ややあって、絶対城先輩は満足げにうなずいた。


「全くもってご指摘の通りですよ。そういう意味では、付喪神は大変謎の多い妖怪なのです。時代につれて来歴などが変わっていく妖怪は多いですが、こと、こいつらに関しては、生まれた時点で既に設定が矛盾しているわけですからね。こんな妖怪はそういない」


「え。じゃあ先輩、おかしいって気付いてたんですか?」


「当然だろうが。もっとも、付喪神はそういったややこしい点に目を向けなければ、ぎよしやすい怪異ではある。古いだけあって、対処法もしっかり伝わっているからな。情報も揃ったし、あとは相手を確かめるだけだ」


 そこで先輩は言葉を句切り、あたしから日奈美と木村さんへと顔を向けた。


「では、そろそろ、現場を確認させていただきましょう」




    ***




「へえ。さすがは渋さが自慢の小久保荘! 年季があるというか歴史を感じるというか、確かにこれなら壁が化けてもおかしくなさそうな部屋だよね……。それじゃ先輩、あとはよろしくお願いします」


「待て」


 日奈美に案内された「木耳の間」にて。後を任せて退散しようとするあたしだったが、そのシャツのえりくびを、先輩の手がふいに掴んだ。のどもとけられ、ぐえ、と奇妙な声で呻くあたしに、冷徹な声が浴びせられる。


「どこへ行く?」


「ど、どこって、自分の実家に帰るんですよ」


「何を言っている? お前もここに泊まるんだ」


 手を振り払いながら睨むあたしに向かって、しようげきてきな宣告が下される。その言葉を理解するのに要した数秒間の後、あたしは「はいっ?」と大声を出していた。


「先輩と同室って──同じ部屋で一晩一緒に過ごせと? これと?」


「礼音。先輩にそんな言い方しちゃ駄目よ」


「日奈美はちょっと黙ってて! ほんとに、こいつ普段はこんなんじゃないんだから! そもそもあたしいらないですよね? 一人でいいじゃないですか!」


「駄目だ。付喪神が出るにせよ出ないにせよ、幻覚や幻聴という可能性を除去して状況を客観的にあくするには、二人以上の目が必要だろうが。というわけで」


「はあい。お布団は二組でよろしいんですね」


 先輩の言葉を受け、にっこりとうなずく我が友人。「全部わかっております」とでも言いたげな包容力に溢れた笑顔はいかにも旅館の若女将であったが、今は友の成長を喜んでいる場合ではない。


「あ、あの、日奈美……? なんか誤解してるみたいだけど」


「照れなくたって大丈夫よ。おじさんには黙っててあげるから。あ、それとも、お布団は一組で枕を二つにしたほうが良かったかしら……?」


「良くない!」


 言うに事欠いて何を言い出すんだ、こいつは。そんなことしたら友人の縁を切るからね、と慌てて付け足してみたものの、日奈美は「まあ怖い」と微笑んであたしの困惑を受け流し、絶対城先輩へと向き直った。


「それじゃ、よろしくお願いしますね、絶対城さん。お夕食はもうしばらくしたらお持ちしますので、よろしければ先にお風呂へどうぞ。温泉は午前二時から七時の間以外はいつでもご利用いただけます」


 言い慣れた口調でそう告げると、日奈美は一礼をしてそそくさと立ち去ってしまう。残されたあたしはしばらく壁にもたれて呆けていたが、先輩の「邪魔だ」の一言で我に返った。


「そこをどけ」


「あ、すみません……。予想外な展開を受け入れるのに時間がかかって」


「現実とは大概そんなものだ」


 いつも通りに冷淡な声を発しながら、先輩はあたしのもたれていた壁をでまわしはじめた。剥き出しの簡素な土壁には、ところどころに砂のつぶわらの切れ端が浮かび上がっていたが、それもまた味わいのうちなのだろう。


「で、何をしてるんです?」


「現場検証だ。……ふむ、布団をいた場合、枕の位置はこのあたりか……」


 あたしの話を聞いているのかいないのか、黙々と壁を調べ続ける先輩。熱心なのはいいことだが、この人は後輩女子と一緒に泊まることに何かを感じたりはしないのだろうか。そう思ったので尋ねてみれば、「しない」の一言が返ってきた。


「そんなことよりユーレイ、窓を見ろ。俺は壁で忙しい」


「そ、そんなことよりって! そりゃまあ、あたしだって部活の合宿で男子としたことくらいはありますが、男女一人ずつで同じ部屋に泊まるのは」


「いいから窓を確認しろと言っている」


「これが初めて──って、はいはい。わかりましたよ」


 振り返りもしない先輩の背中を前に、あたしは反論を諦めた。納得したわけではないが、この人があたしの意見に耳を貸さないのはいつものことだし、ここまでドライに対応されると、騒ぐのがなんだかバカみたいに思えてきたのもまた事実。今日は帰れませんって母さんにメールしとかなきゃ。


「まあ、一緒に泊まったからって、何をされるわけでもないだろうしね」


「されたいのか」


「されたくありません!」


 ぶっきらぼうな声で応じつつも、あたしは先輩の命令通り、ノスタルジックなわくの窓に手を掛けた。しかし、窓を確認しろと言われても、何を見ればいいのやら。和風の装いを保つためだろう、手前に木枠のりガラスの窓、奥に透明のガラスの窓という二重構造になっているが、それがどうしたと言うんだろうか。


「バルコニーに改装してる旅館も多いんですが、昔ながらの普通の窓ですね」


「そんなことはどうでもいい。外はどうなっている」


 あたしの感想をぶった切るように、ぶっきらぼうな声が飛んでくる。聞かれたから答えてるのに、どうでもいいってのはないだろう。不満な気持ちを抱えつつ、あたしは命令通りに窓を開けてみた。静かに川の流れる音が耳へ、春特有のみずみずしい緑が目へと、それぞれ届く。


「小川が見えます。あと森。いや、林かな……?」


「なるほど。なら羽虫か何かが入ってきても不思議ではないな」


 相変わらず壁を探りながら、先輩がよくわからないことをつぶやく。「羽虫?」と聞き返したが例によって返事はなく、代わりにちょいちょいと手招きされた。もう窓の確認は良いらしいが、それにしても今日は後輩使いが荒い日だ。


「何です、先輩」


「ここを見ろ。何が見える?」


 そう言うと、先輩はかがみこんだまま、床から三十センチほどの高さの位置をとんとんと叩いてみせた。顔が白い人はやっぱり指も白いんだなあ。そんなことを思いつつ、先輩の白く細い指が示す先を、あたしはどれどれと覗き込んでみたのだが、あいにくコメントするようなものは何も見当たらない。


「……あの、先輩? 見ろと言われても、ただの土壁なんですが」


「わかっている。だが、黒い点が二つ並んでいるだろう。見えるな?」


「はあ、見えますが」


 先輩の言うように、そこには二つの点が十五センチくらいの幅で並んでいた。土に混ざった砂か小石の粒が壁の表面に浮き上がっているようだが、これが何だというのだろうか。珍しいものでもないでしょうに。意図がわからず首を捻るあたしをよそに、先輩は満足げに「よし」とうなずき、立ち上がった。


「こんなものだろう。風呂に行ってくる」


「え。お風呂……?」


「何を驚く。食事の前に風呂にどうぞと言われたろうが。忘れたのか」


「そりゃまあ覚えてますけれど」


 でも、温泉旅行に来たわけじゃなし、いきなり風呂ってどうなんだ。あたしは先輩に張り合うように立ち上がり、陰気な顔をまっすぐ見返してやった。


「先輩に来てもらった目的、忘れたわけじゃないですよね? 壁が化けるという、えーと何でしたっけ、ツチグモ神でしたっけ」


「付喪神だ」


「そうそう、それです。どっちもクモだからごっちゃに──ってそんなことはどうでもよくて、先輩にはその付喪神そうどうを収めに来てもらったんですから」


「わかっている。だが、今できるのはここまでだ」


 あたしの文句を軽々と受け流しながら、先輩はあたしに背を向け、ジャケットをハンガーに掛けた。シャツだけになった背中はひょろっと細く、軽く投げたらあっけなく折れそうだ。首も腕もひょろっとしているし色は真っ白だし筋肉ないし、もう少し鍛えればいいのに。不健康な背中を前にそんなことをふと思っていると、妖怪学の専門家は浴衣ゆかたとタオルとを手に取り、思い出したようにこちらへ振り向いた。


「というわけで俺は風呂に行くが、お前はどうする?」


「い、行きますよ」


 ぜんとした顔で応じつつ、湯上がりセットを掴むあたし。事情はよくわからないが、先輩が今はここまで、と言うのなら仕方ないし、妖怪が出るかもしれない部屋に一人で残りたくもない。それに、なんだかんだ言っても、アパートの狭いユニットバスに辟易していた身としては、広く大きいよくそうひたれる機会は逃せないのであった。




    ***




「……い……っ!」


「ん?」


「……ん……が──だ……!」


「何です、もう……?」


 途切れ途切れの苦しげな声に、眠りこけていたあたしはぼんやり目を開けた。


 常夜灯だけが灯された薄暗い空間の中、ぱちぱちと目を瞬いてみれば、こんだくしていた意識がゆっくりかくせいしていく。そうそう、絶対城先輩と一緒に日奈美の旅館に泊まってるんだっけ。お風呂入ってご飯食べて寝たのよね、確か。


 ということは、さっきからぼそぼそ続いている、この陰気な声の主は、この部屋に出るという妖怪か、あるいは……?


「……ってもらうつもりは……な……」


 ビンゴだ。布団にくるまったまま、首だけを動かしてみれば、声の出所はやはり隣の布団、つまりは絶対城先輩だった。聞き覚えのある声だとは思ったが、やっぱりか。


 無論、後輩女子としてのせめてもの抵抗として、あたしと先輩の布団はかなり離して敷いてあるし、布団の間にはえつきよう禁止の境界線として余った帯を置いたりもしたのだが、そこはそれ、静かな旅館の小さな部屋である。微かな声も相手の耳に届くのだ。先輩が起きている気配はないので、さっきからのあれはごとらしい。だったら無視して寝てしまえばいい、ということくらいはわかっているが、だがしかし。


「あ……の……好きにしろ……!」


 バリトンの効いた重低音でエンドレスにつぶやかれては、おちおち寝られもしない。寝言の内容が聞き取れそうで聞き取れないのもいらちをつのらせるし、それに何より、先輩の声がやたら苦しげなのが気に掛かる。


 悪い夢でも見てうなされてるのなら、起こしてあげたほうがいいかなあ。


 そう自問すると、あたしは静かに上体を起こした。ごうかいにはだけていた浴衣をささっと直し──和服ってどうしてこう脱げやすいんだろう──少し離れた隣の布団に顔を向ければ、まず目に入ったのは、畳の上でびくびくと震える先輩の手だった。


「……何とでも……だが……俺は……っ!」


 絞り出されるような苦悶の声とともに、掛け布団から突き出した先輩の手が、こわったり震えたりを繰り返す。どうやら、よほど嫌な夢を見ているようだ。これは、早く起こしてあげないと。自分で引いた境界線を自分で越えるのか、とはちょっと思ったけど、こういう場合は話は別だよね。あたしは自分の布団を抜け出ると、先輩の枕元へとにじり寄った。


「あの……先輩? 絶対城先輩? 大丈夫ですか?」


「……と言わば言え……だが俺は……考えを変える気は……」


 おずおず呼びかけてみたものの、その声が届いた様子はない。先輩はただ目をぎゅうっと閉じたまま、低い声を振り絞るのみだ。ぞうが良いだけに、苦しげな表情やあぶらあせとのアンバランスさがかえって不気味で不安を煽る。一連の寝言を聞く限り、どうやら誰かに何かを言い返しているみたいだけど、何の場面なんだろう?


「俺は……一人でも……妖怪学を……完成……!」


「夢の中でも妖怪学の話ですか? って、のんきに反応してる場合じゃないか。絶対城先輩、起きてくださいよ!」


「……と言った……! 俺は……お前らに……二度と……!」


 あたしの声を何かと聞き違えたのか、先輩が語気を荒げ、同時にその右手が布団をけて突き上げられた。男性にしては白く細い指が、常夜灯の微かな光の下、何かを求めるように苦しげにうごめく。その様は、何だかとても寂しそうではかなげで、気がつけばあたしは目の前の手をぎゅっと両手で握っていた。


 どうしてそんなことをした、と聞かれたってわからない。


 わからないが、困ってる人が手を伸ばしてきたら、そりゃ反射的に掴むだろう。少なくともあたしはそういう人間でありたいわけで。そんなことを思いつつ、あたしは握った手にそっと力を込めた。


「大丈夫ですか──じゃないか。大丈夫、先輩」


 汗ばんだ先輩の手を両手で包み、先輩の顔を見下ろしながら、できるかぎり穏やかに声を掛ける。と、ようやくその声が届いたのか、先輩の苦悶の声がふっと途切れた。ほどなくして険しかった顔が和らぎ、落ち着いたいきが漏れ始める。ふう、やれやれ。


「やっと落ち着いたみたいですね──ひゃあっ?」


 と、あたしがほっと一息吐いた、その瞬間だった。


 先輩が、突き上げていた右手をいきなり引き戻したのだ。手を掴みながら先輩の顔を覗き込んでいたあたしが、思わずバランスを崩して引き寄せられたのは言うまでもない。あっ、と思った時にはもう遅く、あたしは先輩の胸の上に乗っかっていた。


「……っ!」


 自分が息を呑む声が耳と胸とに響き渡り、先輩と触れ合ったしよから伝わる熱が混乱を助長していく。何の自慢にもならないが、この湯ノ山礼音、今にも鼻先が触れ合いそうな距離で異性と見つめ合ったことなんかないわけで、いやまあ相手はこのいけ好かない妖怪学の専門家なんだから何赤くなってるんだとは思うものの、絶対城先輩は意外と言うと失礼だけど顔立ちは結構どころかかなりたんせいだし、しかも今はものすごく安らいだ顔をしているもんだから普段の仏頂面とのギャップがああもう! 区切れない長文が一瞬のうちに頭の中でぐるぐる回り、胸がどくんと大きく鳴る。おいこら落ち着けあたし! そして伝わってくるな、熱!


「……む?」


 先輩の不満げな声が数センチ先で響き、続いて、閉じられていた目が瞬いた。まあ、心地よく寝ついたとたんに、自分の上に何かが乗ってきたら、そりゃさすがに起きるよね──ってそんなぶんせきしてる場合じゃないだろう! あたしは全力で先輩の手を振り払って自分の布団へ退たいしたが、時すでに遅し。完全に目を覚ました絶対城先輩は、ずざっと後ずさるあたしを不思議そうに見つめると、ぼそりと声を発した。


「何だ。お前か」


「あたしで悪かったですねっ!」


 自分の布団の上にじんりながら、あたしは慌てて言い返す。心なしかあたしの声はうわっていたし、顔もまだ熱かったが、こればかりは隠しようもない。と、先輩はそんなあたしを静かに見据えていたが、ややあって、呆れるように言い放った。


「お前、自分で引いた境界線を自分で越えたのか」


「そ──そんな言い方しなくたっていいでしょう!」


 深夜であることも忘れ、思わず大きな声が出た。何のためにあたしがそっちに行ったと思ってるんだ。かーっと頭が熱くなり、怒りが胸を満たしていく。もう知るもんか、こんな奴!


「うなされてたから大丈夫かなとか思ったんですが、気遣って損しました! 手を握ったりするんじゃなかったです! お騒がせしました、お休みなさいっ!」


 怒りに任せて言い切りながら、あたしはふんぜんと掛け布団を被ってころがった。そのまま先輩に背中を向け、「ふん」と鼻を鳴らせば、先輩は「子どもか」と呆れた声を漏らす──かと思いきや、意外にも、きょとんとした声でつぶやいた。


「うなされていた……? 俺が、か?」


「えっ? え、ええ……」


 あれ、何ですかその反応。いつもならもっと、あたしを馬鹿にするはずなのに。意外な反応に、あたしはそっと体を反転させて先輩へ顔を向けると、小声で言い足した。


「何か、好きにしろとか、一人でも妖怪学をどうこうとか言ってましたよ」


「……そうか」


 妙にかんがい深いうなずきと、そしてちんもく。ますます絶対城先輩らしからぬ反応だ。一瞬前の怒りを忘れながら見つめていると、先輩は自分の掛け布団を直し、ぼそりと忌々しげにつぶやいた。


「今さら、あの頃の夢を見るとはな……。布団が変わったせいか? しかし、吹っ切ったつもりだったが、まだまだ覚悟が足りんと言うことか」


「……『あの頃』? 『覚悟』?」


 先輩がちよう気味にこぼした言葉を、あたしは思わず繰り返していた。独り言とはわかっているが、気になるものは仕方ない。絶対城先輩の経歴、全然知らないし。というわけで「昔何かあったんですか」と尋ねてみれば、案の定、ぶっきらぼうな声が返ってきた。


「お前に話すつもりはない。寝ろ」


「はーい」


 やっぱりそういう反応か。しかし、愛想がないのはいつものこととは言え、せめてお礼の一つでも口にすればいいのに。そう心の中でつぶやいていると、ふいに抑えた声が耳に届いた。


「……騒がせて悪かったな、ユーレイ」


 耳に届くかどうかの小さな声が、静まりかえった客室に響く。


 え、今のって? 閉じかけた目を開いて声の方向に振り向けば、布団を被った細身の背中とざんばら髪の後頭部が、常夜灯の微かな光の中にぼんやり浮かび上がっていた。時代劇めいたその光景を前にしながら、あたしはおずおず問いかけていた。


「どうしたんですか? 先輩が謝るなんて」


「俺とて、自分に非があればそれを認める。悪いか」


「悪くはないですけど……でも、普段は」


「普段のことは関係なかろう。──手を握ってくれて助かった、気遣ってくれてありがとう。俺はただ、そう言っているだけだ」


 あたしに向き直ろうとはしないまま、小声で応じる絶対城先輩。横柄な口調は相変わらずだが、その声は普段と違ってどこか寂しげで、あたしは何も言い返すことができなかった。


 ──この人も、いろいろあったんだろうな、きっと。


 そんな想いが、ふと、沸き上がる。あたしにはよくわからないが、妖怪学の専門家になるのは、普通の社会人や学生として生きるより数倍面倒に違いない。わざわざその道を選んだ理由とか、その結果のいろんな困難とか、いつか聞かせてくださいね、先輩。口には出さずにつぶやくと、あたしはできる限り穏やかな声を発した。


「お休みなさい。明日は、付喪神事件の調査の続き、お願いしますね」


「その件なら安心しろ。朝一番で片付くはずだ」


「はい? どういうことです?」


 さらっと告げられた自信満々の一言に、あたしはがばっと跳ね起きていた。だが先輩はあたしの疑問に答える気はなかったようで、返ってきたのは、リズミカルな寝息だけだった。寝付きのよろしいことで。子どもか。




    ***


【次回更新は、2019年12月22日(日)予定!】

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