三章 付喪神

三章 付喪神(1)




【三章 つくがみ

九十九神とも書く。長く使用された器物が化けた妖怪の総称。古い道具は百年を経て化け、悪事を働くようになるので、その前に処分しなければならないとされた。粗末にされたり、乱暴に扱われた道具は付喪神になって祟るとも言われる。




*****




「あ、杵松さん。お疲れ様です。今から絶対城先輩のところですか?」


「やあ、湯ノ山さんか。こんにちは」


 四月末のある日の夕方、文学部四号館前。階段を上ろうとしていた杵松さんに呼びかければ、紙袋を手にした白衣の青年はにこやかな笑顔で振り返った。


「実験結果が出るまで時間があるから、ちょっときゆうけいしようかなと思ってね。湯ノ山さんも資料室? 今日はいつもより遅いけど」


「ええ、ちょっと買い出しに」


 気軽な言葉を交わしつつ、いつものように薄暗い階段を二人で上る。そして四階、すっかりお馴染みになってきた資料室の前まで来ると、ドアの中から話し声が聞こえてきた。


「──じゃ、じゃあ、オレんちから指輪がなくなったのは、の祟りだって言うんすか……?」


「ああ。先週に依頼を受けた後、似たような事例を探ってみたが、ほぼ間違いない。じようされた部屋から、しかも施錠された箱の中にしっかり保管されていた指輪をうばうことなど、人間には不可能だからな。しかも、箱の鍵も自室の定位置から動いていなかったのだろう?」


「そ、そうです……。あんまり気味悪くって、ここに相談に来たんですが……でも、蜘蛛って」


「いつかの夜、自宅に出た蜘蛛を殺した、と言ったろう。原因はそれだ。夜の蜘蛛の怨みは深いからな。かしこぶちの伝説にもあるように、ねらった相手に見えない糸を掛け、引き寄せ、隠したのだろう」


 聞き覚えのない男性の声が不安げに尋ね、よく知っている渋い声がそれに応じる。前者はおそらく依頼人で、後者は言うまでもなく絶対城先輩だ。どうやらお仕事中らしい。あたしは杵松さんと顔を見合わせると、静かに資料室のドアを開いた。会話の邪魔をしないよう、そーっと本棚の間を進めば、応接コーナーのソファに座る誰かさんのジャケットの背中と、こちらに向かって座っている絶対城先輩の姿が見えた。ジャケットはおそらく依頼人だろう。ガタイの良い男子学生のようだった。


「でも、よくわかんないっすよ……? あれ、前の彼女からもらった指輪だったんですけど、何でそんなものを」


「呪法の世界では、そうしよくひんは持ち主のだいたいとして機能する。おそらくその指輪は、君の身代わりとなって蜘蛛に引かれたのだろうな。だが、その効力はあくまで一時的なもの。蜘蛛の見えない糸は、近いうちに君の体に──いや、首に掛かることは、残念だが、確実だ」


 たんたんとした口調で、依頼人の不安を助長していく絶対城先輩である。にしても、あたしたちが部屋に入ってきたのは先輩には見えているはずだから、あいさつしやくくらいはしても良さそうなものなのに、長髪のすきから覗く双眸がこちらに向けられる気配は全くなかった。おどすように──というか、実際脅してるんだろうけど──依頼人をまっすぐ見据えながら、妖怪学の専門家は渋い声を重ねる。


「たかが蜘蛛と思うかもしれないが、あなどってはいけない。『じや』は極めて厄介だ。何しろ、既に死んでいるのだから物理的には退治のしようがない」


「じゃぐも……?」


よこしまな蜘蛛と書いて、邪蜘蛛。怨みをいだいた蜘蛛の怨霊のことだ。そもそも蜘蛛はへびと並んでしゆうねん深い生き物で、祟ったり呪ったりするケースは数多く記録されている。蜘蛛の化けた妖怪も種類は多く、どうつちなど──」


「ツチグモ? それって、ジグモみたいなものですか」


「ひいやああああああっ!」


 つい口を挟んだ瞬間、依頼人さんが飛び上がった。その大声に、あたしは思わず後ずさり、そして慌てて謝った。


「す、すみません! まさかそんなに驚かれるとは!」


「驚きますよ! てか、誰っすか?」


「失敬。うちのつまらないサンプルだ。黙って下がっていろユーレイ」


 依頼人に頭を下げつつ、絶対城先輩があたしをしっしっと追い払う。つまらないサンプル呼ばわりには不満があるが、文句を言っても通じないのは痛感済みだ。耳鳴り封じのペンダントを返せと言われても困るしね。というわけであたしは「はーい」とうなずき、杵松さんの手招きに呼ばれるように本棚の陰へ引っ込んだ。


「……こうしてればいいんですよね、絶対城先輩?」


「うるさい、黙れ、口を利くな。──さて、話の続きだが」


 あたしに冷たい言葉を投げかけた後、絶対城先輩は再び依頼人さんへと向き直った。迫力のある視線でまっすぐ見据えられ、依頼人は背中をびくっと震わせた。


「蜘蛛の呪い、なんすよね……? ど、どうしたらいいんです?」


「安心しろ。蜘蛛の怪異は記録も多いが、その分、対処法についての記載も多い。そこで、今回はあるものを用意してみた」


 そう言うと絶対城先輩は立ち上がって衝立の裏へ回り、小ぶりなちやづつを手にして戻ってきた。ラベルも何もないので中身が何かはわからない。あたしと同じことを思ったのだろう、差し出された謎の筒を見て、依頼人さんは首を捻った。


「……何です、これ。お茶?」


「強いて言うなら、にゆうよくざいだな。よもぎしようを乾燥させて粉にしたものだ。これをに入れてかれば、邪蜘蛛は君へと近づけなくなる。蓬と菖蒲は、どちらも古来よりを祓うとされてきた草で、たとえば『食わずにようぼう』系の昔話においては、妖怪化した蜘蛛だけではなく山姥やまんばおにばばさえ溶かしたことで知られている。たかが昔話と思う気持ちもあるかもしれないが、長い歴史の中で語り継がれてきたことには、必ず何かの意味があるものだ」


 つらつらと話し続けながら、絶対城先輩は片手で小さな缶を器用に回す。相変わらず流暢な解説だが、果たしてどこまで本当なんだか。と、いぶかしんだあたしの心を読んだのか、先輩はすかさず「信じる信じないは自由だが」と言い足した。


「騙されたと思って試してみることを俺は勧める。それに、これは無害の野草を粉末にしただけのものだから、人体に害をおよぼすことはない。……さあ、どうする?」


「そ、そうっすねえ……。じゃあ、騙されたと思って」


「もっとも」


 おそるおそる手を伸ばした依頼人だったが、その瞬間、絶対城先輩はスッと茶筒を引っ込めてしまう。え、と固まる依頼人を前に、黒装束の怪人は重々しく首を横に振ってみせた。


「確かに、最初に断った通り、学内の怪しい事件に俺が首を突っ込むのは、あくまで研究のための行為であり、営利目的ではない。だがな、ようを探り、文献をあさって原因を究明し、対抗策を準備するのには、それなりの労力と時間を要したこともまた事実。俺もかすみを食って生きているわけではないのでな、タダで渡すというわけにはいかない。わかるな?」


「つまり……お金払え、ってことっすよね……?」


「物わかりがよくて助かる。貴重な事例を採取させてもらって金を取るのは心苦しいのだがな、こればかりは仕方ないと思って欲しい。値段は、そうだな──」


 そこで先輩はいったん言葉を句切り、手元の茶筒に目を向けた。依頼人がごくりと息を吸う音が、資料室に静かに響く。そしておおよそ三十秒、聞き手をじっくりとらした後、先輩は再び口を開いた。


「六千円といったところか」


「意外と安い! 買います!」


 依頼人がそくに叫んだ。決して低い金額ではないけれど、おそらく、依頼人が予想していたよりは格段に安かったのだろう。ジャケット姿の男子はいそいそと六千円を絶対城先輩に手渡し、代わりに小さな茶筒を受け取ると、勢いよく頭を下げた。


「あ、ありがとうございました!」


「礼を言うのはこちらも同じだ。それに、まだ解決したわけではないのだから、気をゆるめないことだな。何か起きたら、また俺のパソコンにメールをせ。アドレスは依頼を受けた際に教えたな?」


「え、ええ。じゃあ、オレはこれで──」


「ああ。くれぐれも蜘蛛は殺さないようにな。それと、もし周囲に怪異な出来事を体験した者がいれば、俺のことを教えてやってくれ」


「あ、はい! 了解です」


 心なしか、さっきまでより明るい声でそう応じると、依頼人はそそくさと資料室から立ち去った。これにて一件落着、なのかな? 様子を伺うように本棚の陰から身を乗り出せば、絶対城先輩が呆れた視線を向けてきた。


「何をこそこそしている。用があるなら出てこい」


 おうへいに言い放つ絶対城先輩。引っ込んでろって言ったのはそっちじゃないですか。そんな思いを込めてじろりと見返しながら、あたしは先輩へと問いかけた。


「今のはどういう依頼だったんですか? あの依頼人さんの指輪が下宿からなくなったんですよね。で、現場は密室だったってところまではわかるんですが……ミステリーっぽい事件ですけど、犯人はほんとに蜘蛛の妖怪?」


「馬鹿を言え。そんなわけあるか」


 気になっていたことを尋ねてみたら、冷たい声が返ってくる。え、と目を丸くするあたしを前に、絶対城先輩は淡々とした口調で続けた。


「指輪は『前の彼女』からもらったものだと言っていただろう? 前のがいるなら今のもいる。あの男の下宿の合い鍵を持っていた今の彼女が、前の彼女からもらった指輪を大事に仕舞い込んでいる彼氏に腹を立て、しつられて指輪を隠してしまった。それだけの話だ。現在親しくしている相手なら、指輪の箱の鍵の置き場くらいは知っていてもおかしくなかろう」


「そ、そうなんですか? まあ確かに、それなら筋は通りますけど……でも、それってあくまで先輩の推理ですよね?」


「犯人こと、今の彼女の証言は取った。相応の口止め料及び、もう二度とやらないというげんと一緒にな」


 けろりと言い放つ絶対城先輩である。知ってはいたが、実にろくでもない人物だ。心の底から呆れていると、隣に立っていた杵松さんがなだめるように微笑んだ。


「妖怪の仕業ってことで片付けば、それはそれでいいことだと僕は思うよ。それに、阿頼耶だって、それなりに手間を掛けてるんだからさ。あの入浴剤、わざわざ蓬と菖蒲を取ってきて作ったんだろ? ひまを考えると、六千円は安いしね」


「金が目的ではないからな。正しい怪異を周知していくためには、対処法もまた伝承通りである必要があるだろう?」


「は、はあ……どう、ですかねえ……?」


 ビニール袋を下げたまま、あたしは腕を組み、煮え切らない声を漏らした。つまり、インチキのお祓いを続けているのは、決してお金のためではなく、妖怪が出たという話を広めるため、ということだろうか。しかし、どうしてそんなすいきようなことを。理解できずに首を傾げていると、先輩はあっさりこの話題を打ち切って腰を下ろし、「それにしても」とあたしと杵松さんとを見回した。


「明人がこの時間に来るのはよくあることだが、ユーレイはめずらしいな。お前、普段来る時は、もう少し早いだろう」


「え? ああ、ちょっとホームセンターで買い出しをですね。それに、学食前で織口先生にばったり出くわして、いろいろ話してたもので──」


「……織口だと?」


 上品でお嬢様っぽいあの先生の名前をあたしが口にしたとたん、絶対城先輩の顔色が変わった。ただでさえ陰気で迫力のある顔がいっそう凄みを増し、目つきがいつにも増して険しくなる。おやかたきかゴキブリの群れでも見つけたような顔を向けられ、あたしは思わず杵松さんの後に隠れてしまった。


「ど、どうしたんです急に? 織口先生と何かあったんですか? というか、ご存知なんですか……?」


「知りたくもないがな」


 吐き捨てるように言い放つ絶対城先輩。態度が悪いのはいつものことだが、ここまでけんかんあらわにするのは珍しい。過去にトラブルでもあったんだろうか、と首を捻ったあたしは、絶対城先輩について何も知らないことに今さら気づき、苦笑した。


 なぜ資料室で寝泊まりしているのか、大してもうけの出ないオカルトコンサルタントを続けている理由は何か。決して頭が悪い人ではないし、むしろその逆であるにもかかわらず、講義にも出ず研究室にも入らず、妖怪学などというマニアックな学問の道を選んでいるのはなぜなのか。考えてみれば聞きたいことだらけだ。


「あの、絶対城先輩? 先輩はどうして」


「俺に関しての質問には答える気はない」


 ダメ元で尋ねてみたら即答された。もっとも、予想通りの答だったので、そうショックでもない。言いたくない過去でもあるんだろうかと推測していると、杵松さんがにこやかに微笑みながら絶対城先輩へと歩み寄り、手にしていた紙袋を示した。


「それよりさ、これでも見てよ」


 せっかく持ってきたんだからさ、と言い足しながら、杵松さんは紙袋を卓袱台の上に置いた。「古書販売会」と書かれたその袋を前に、絶対城先輩が顔をしかめる。


「何だ? 依頼者を騙す仕掛けは今のところ頼んでいないが」


「違う違う。こないだ行った古本市で面白そうなの見つけたんだ」


 そう言うと、杵松さんは紙袋の中から大判の本を一冊取りだし、応接コーナーの机に置いた。古いものなのだろう、表紙はかなり日に焼けていたが、作りはしっかりしている。クラシカルな字体で「近現代本邦美術全集(六)土蜘蛛そうひやつぎよう絵巻」と記されたそれを見たとたん、絶対城先輩は「ほう」と興味深げな声を漏らした。


「土蜘蛛草紙か。高かったんじゃないのか、明人?」


「箱なしの汚れ品だからね、そうでもないよ。妖怪っぽいタイトルだから阿頼耶が喜ぶかと思って買ってみたんだけど……どうかな、貴重なものなのかい?」


「それなりだな。土蜘蛛草紙や百鬼夜行絵巻はメジャーな絵巻だから多くの本に収録されているし、俺も数点持ってはいるが、本によって解説している学者は異なるだろう? 同一の対象について、異なった目からのかいしやくを読むことは良いげきになる。この百鬼夜行絵巻は──ああ、やはりしんじゆあんぼんか。だが印刷は悪くないな」


 解説なのか独り言なのかわからない言葉を漏らしつつ、本をめくる絶対城先輩。口調は無愛想なままだが、やや早口になっているあたり、どうやら結構喜んでいるらしい。良かったですね、と杵松さんと顔を見合せてうなずき合うと、あたしは机の上に広げられたその本へと目を向けた。色あせたページには、箱に体を生やしたような妖怪や布を被った何か、理科の実験で使う三脚を頭に被ったかいぶつなどが、ぼくなタッチで描かれている。ちゆうはんなリアルさがかえって不気味だ。


「これ、何です?」


「土蜘蛛草紙。人を化かして食らうきよだいな蜘蛛の化け物──『土蜘蛛』と武士たちの戦いを描いた、十四世紀前半に成立した絵巻だ」


「土蜘蛛? ああ、さっき先輩がちょろっと言ってたやつですか。でも、蜘蛛の化け物なんかどこにもいませんよ?」


「これは土蜘蛛本体ではない。この絵巻の特徴は、土蜘蛛の配下もしくはげんじゆつで見せたげんかくとして、様々な種類の妖怪が描かれていることにあるんだ。特筆すべきは、道具属性を備えた妖怪の登場だな。このタイプの妖怪は中世以降に大流行し、近世には妖怪画の一ジャンルとなるまでに成長するわけだが、彼らが初めて描かれたのがこの土蜘蛛草紙だ。常識だろうが」


「どこの世界の常識ですかそれ!」


 なじるような言葉を向けられ、あたしは思わず言い返した。それにしても、普段はそっけないくせに、妖怪がらみになると饒舌になるのはやめてほしい。


「まあまあ、落ち着いて湯ノ山さん。それで絶対城、じゃあその絵巻には、土蜘蛛本体は描かれてないのかい?」


 愛用のカップにコーヒーを注ぎつつ、杵松さんがやんわり口を挟んでくれる。と、絶対城先輩は無言でページをめくり、ほれ、と言いたげに本をあたしに向けた。


「……おお。これは確かに蜘蛛ですね」


 見せられた絵を前に、納得しながらうなずくあたし。猫のような顔だったし、足の本数も足りない気がしたが、太ったお腹や長い足の生えた胸など、この体型というかシルエットは確かに蜘蛛だ。


 土蜘蛛がとどめを刺されている場面なのだろう、丸々と太った腹には武士の刀が食い込み、その傷口からは蜘蛛に食われた人間の頭蓋骨がぼろぼろと溢れている。頭蓋骨と言えば、織口先生の研究室で見たっけ。あの時はびっくりしたよね、と絵を見ながら回想していると、「そう言えばさ」と杵松さんが声を掛けてきた。


「湯ノ山さんも買い出しの帰りって言ってたよね。何を買ってきたんだい?」


「え? いや、あたしのはそんな面白いもんでもないですよ。単なるそう用具です。せんざいとかゴム手とかぞうきんとか」


 そう言いながら、あたしは手にしていたビニール袋の中身を示した。それを見た二人は無言で顔を見合わせていたが、ややあって、絶対城先輩が口を開いた。


「……一応聞いておくが、なぜこんなものを買ってきた?」


「なぜって。この部屋の掃除用ですよ」


「だから、なぜ掃除をするんだと聞いているんだ、俺は。ああ、例の耳鳴りへの処置について、経過をこまめに観察させろとは言ったし、訓練してやるから通えとも言った。……だがな、先日のべとべとさんの件以来、手を貸せと頼んだ覚えはないし、定期的に掃除しろとは絶対に言っていないぞ」


「それはそうですけど」


 呆れた視線を向けられ、あたしはぼそっと反論した。事情がどうあれ、受けた恩は返さねばならないが、ただ言われたことだけをしていては恩返しにはならない。自発的に尽くしてこそ、初めてあたしの気が済むのだ。


「というわけで明日からも講義後の掃除と整理は続けるつもりですので」


「……妙なところで律義だな、お前は。全く、おかしなサンプルを拾った」


 杵松さんからコーヒーを受け取りながら、絶対城先輩が首を振る。その評価はまんざらでもないですが、「妙なところで」と「おかしなサンプル」は余計です。


「てか、大学の資料室に勝手に住みついてる人に変人扱いされたくはないんですけど……。よく追い出されませんよね」


「あいにくだが、この文学部四号館は俺の土地の俺の施設だ。大学はこの建物の四階以外を借り上げているにすぎず、俺を出て行かせる権限はない。それはともかく、掃除をするならほうきとちり取りがあるだろう」


「あれだけじゃ全然間に合いませんよ。染みとかひどいもんですし──って、そうそう、それで思い出したんですけど」


 袋から出したゴム手や洗剤を「湯ノ山専用」となぐきされた段ボール箱に放り込み、冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出しながら、先輩に話しかける。この部屋に通うようになって約二週間、なんだかんだ言ってあたしはここに馴染みつつあった。華やかなキャンパスライフを送る夢は捨ててはいないけどね、うん。


「資料室の奥のほう、古いノートだか紙の束だかが積んである一角があるじゃないですか? ほら、壁に染みがあるあたり」


「あのコレクションに触ったのか!」


 軽い気持ちで口にした言葉に、先輩のけんまくが一変した。その迫力に気圧され、あたしは首を左右にぶんぶん振った。


「触ってません触ってません! 手を付けるなって言われたことくらい覚えてますから! そ、そうじゃなくて、その、あの壁の染みが人の顔みたいで怖いなーってことを言いたかっただけ、なんですが……」


「ああ、シミュラクラ現象だな」


 落ち着きを取り戻した先輩が、聞いたこともない言葉を口にした。何ですかそれ、と尋ねる間もなく、「シミュラクラ現象とは」と解説が始まる。


「目と口に相当する三つの点があれば、人間の脳が自動的に顔を見出してしまうことを言う。八十年代に流行した人面系の怪異や心霊写真などは、ほとんどこれで説明できるのだが、そんなことより、あの一角の資料にはくれぐれも絶対に」


「わかってます、触りませんってば」


 すっかりいつものテンションに戻った先輩を前に、あたしは溜息を吐きながらうなずいた。普段はたいていノーリアクションなのに、予想外のところでキレたり食いついたりするから、日常会話がやりづらいんだよね、この人。こういう時に頼りになるのが、資料室の誇る常識人の杵松さんであるのは言うまでもない。


「というわけで杵松さん、あの古ノートの束は何なんですか?」


「あの一帯は僕もノータッチなんだよね。阿頼耶しか知らないよ」


 読みかけの本を手に取りつつ、肩をすくめる杵松さん。そう言われてしまっては仕方ないので再び絶対城先輩に向き直ったが、答えてくれる気配はない。だが杵松さんが「教えてあげなよ」と一声掛ければ、絶対城先輩は面倒くさそうにあたしを見た。


「あのノートはな、『真怪秘録』へんさんのために集められた資料や覚書だ」


「……しんかいひろく? その名前は前も聞きましたけど、それっていったい」


「俺がこの大学にいる理由だ」


「はい? いやあの、それだけじゃさっぱり……」


 もう少し具体的な説明を求めます。そう訴えるように見つめてみたのだが、先輩のほうにはそれ以上説明する気はないようで、机の上の古本を手に取って読み始めた。こうなるともう呼ぼうが騒ごうがおどろうが反応してくれないことは、経験として知っている。どうしたものかと思案していると、先輩は手元のノートに視線を落としたまま、ドライな声を発した。


「用件が終わったなら、もう帰れ。今日はお前に用はない」


「え? いや、それがですね。実は、こっちにはまだ用があるようなないような」


「俺にはない。これ以上うるさくするとペンダントを返してもらうぞ」


「えー!」


「まあまあ。話を聞いてあげるくらいはいいだろ、阿頼耶。最近資料室が綺麗なのは、湯ノ山さんのおかげなんだからさ。自分の時間を割いて来てくれてるんだし」


「明人はどうしてこいつの肩を持ちたがるんだ? 掃除はあくまでこいつが勝手にやっていることだろうが」


「でも、汚いより綺麗な方がいいよね」


 あくまで穏やかに、絶対城先輩に言い返す杵松さん。眼鏡越しの視線を向けられた絶対城先輩は、しばらく黙り込んでいたが、やがて観念したのか納得したのか、肩をすくめて声を発した。


「……話してみろ」


「あ、ありがとうございます絶対城先輩! そしてそれ以上にありがとうございます杵松さん! それで、えーと、その──用件なんですけどね、実は、絶対城先輩に、ちょっとした妖怪絡みのお願いがありまして……。相談というか、場合によってはお祓いなんかしてもらえると嬉しいなー、というか……」


 勢い込んで口を開いてみたものの、あたしの声はどんどんめいりようになっていく。自分で持ちかけた話でしょ、しっかりしなさいよ。そう自分をはげましてはみるものの、勝手極まるお願いだってのはわかっているわけで、声が小さくなるのも無理はない。絶対城先輩は黙って聞き入っていたが、ややあって「ほう」と一声つぶやいた。


「つまり、サンプルが恩人に対して要求をしているわけか」


「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか!」


「俺は事実を確認しただけだが?」


 思わず反論したあたしに、いつにも増してドライな声が飛んでくる。うっと口ごもれば、先輩は間髪入れずあたしを見据え、こう続けた。


「それに、お前は俺が依頼を受けることを快く思っていなかったはずだろう。今までインチキだ詐欺だとさんざんとうしておいて、よくぬけぬけと頼めたものだな」


「ま、まあ、それはそうなんですが……」


 痛いところをまっすぐ突かれ、再びあたしの語尾が濁る。ですが、その手のことに詳しい知人って他にいないですし、それに、絶対城先輩のやり方を見ているうちに、困ってる人が満足するなら別にいいかな、という考え方にも一理あるなと思えてきたような、そうでないような、等々。途切れ途切れに弁解すると、あたしはうわづかいで先輩を見つめ、おずおずと言い足した。


「勝手なお願いだってのはわかってます。でも、話だけでも聞いてもらえませんか? で、その、あわよくば、無料で引き受けてくれると嬉しいんですが……」


「どこまで虫がいいんだお前は」


 絶対城先輩が腕を組み、あたしをぎろりと睨み付ける。うう、相変わらず嫌な迫力だが、ここで負けては元のもく。がんばれ、と自分で自分を励ましながら、あたしはようやく本題に入った。


「あの、あたしの実家って一応温泉街なんですよ。前に言いましたっけ? やまがみ温泉って言う、ここから車でも電車でも三時間くらいのマイナーなところで」


「長い。たんてきに言え。さもなくば聞かん」


「え! ちょ、ちょっと待ってくださいよ! えーと──そう! 地元の友人の家の旅館で妖怪を見たってお客さんがいて、噂になる前に何とかしたいって心配してたので、じゃああたし連休に帰る時にそういうことに詳しい先輩を連れていくから相談に乗ってもらえばいいよって言っちゃいました!」


「うん、わかりやすいね」


 杵松さんが拍手してくれる。その評価は嬉しいけれど、問題はもう一人の反応だ。どうかなあ、と見守っていると、自称妖怪学の専門家は無言のまま小さくうなずき、そして再び古ノートをめくり始めた。ああ、やっぱり駄目か。




    ***




「どこの誰かと思いましたよ」


 そしてむかえた連休初日の朝の九時。実家に帰るべく下宿を出たあたしは、アパートの駐車場で間抜けな声を漏らしていた。目の前にあるのは、「東勢レンタリース」のラベルが貼られた赤い軽自動車と、そして──。


「俺だ」


 ──仏頂面でこちらを見下ろす、見慣れない長身の青年だった。言うまでもなく絶対城阿頼耶先輩、その人である。大学からろくに出ないこの人が何で朝からあたしのアパートの前にいるのかも謎だけど、それよりもきようがくすべきはその装いだ。


 黒ネクタイと黒のスラックスこそいつもどおりだが、お馴染みの羽織の代わりに灰色のジャケットを羽織り、顔を隠していた前髪は綺麗に分けられているせいで、印象が全く違う。あまりの変わり様に、最初は誰だかわからなかったほどだ。


 しかもこの先輩、まともな風体だと割とまともに見えるのだ。初めて知ったその事実に、あたしは心底驚いていた。真っ当な大学生、もしくはこじゃれた青年実業家か若手芸術家に思えなくもないのがちょっと──いや、かなり悔しい。


「どうしたんです、ほんと。生き方を改めることにしたんですか?」


「だとしても、それを朝からお前に報告しにくる理由がないし、学外の人間に会うとなれば、俺とて身なりくらいは整える。というか、この服でお前に会うのは初めてでもないだろう。一昨日おとといや先週など、学内で数回すれ違っているはずだ」


「……え?」


 呆れた様子で告げる絶対城先輩だったが、そんな話は初耳だ。ぽかんと呆けていると、まともな姿の先輩は「やはり気付いていなかったか」と肩をすくめた。


「依頼者の身辺調査に出向く時は、たいがいこの服だが」


「そうだったんですか? 年中羽織を被ってるのかと思ってました」


「あの羽織は、依頼者への印象付けのためのアイテムだ。覚えやすい服装をしている相手は、その衣装とセットで記憶されるため、目立たない服に着替えてしまえば、近づいても意外に気付かれない。仕掛けを講じるには、依頼者が隠している情報を聞き集めることも必要だからな」


 そんなこともわからんのか、と言い足しながら、絶対城先輩が肩をすくめる。悔しかったが、実際あたしも気付いていなかったわけなので、言い返すことはできなかった。よし、次の機会があったら絶対「先輩!」って呼びかけてやろう。


「それはそうと、何しに来たんです? わざわざジャケット見せに来たんですか」


「俺に依頼したのはお前だろうが、ユーレイ」


「ユーレイって言わないで──って。今、依頼って言いました?」


 決まり文句に返すための決まり文句を中断し、あたしは小さく首を傾げた。それってもしかして、先週あたしがお願いした旅館の一件のこと? でも、あれは断られたんじゃなかったっけ? そうメールしちゃったしなあ。当座の着替えを放り込んだスポーツバッグ片手に首を捻れば、先輩は静かにうなずき、口を開いた。


「気が変わった。お前の故郷に興味もあったのでな」


「あたしの故郷?」


 先輩の口にした言葉を、オウム返しに繰り返す。地味でひなびた温泉街だってことは説明したはずだけど、とうでもするつもりなのだろうか。妖怪学の専門家的に面白い場所ではないとは思うが、なんにせよ、来てくれるならありがたい。助かります、とお礼を言うと、あたしは頭を上げて問いかけた。


「で、このレンタカー屋のラベルの車は一体」


「俺が借りてきた。時にユーレイ、お前、運転めんきよは?」


「はい? 大学受かってから高校卒業するまでの間に取りましたけど」


「よし、任せた」


 そう言うと、先輩は手にしていた何かをあたしに向かって軽く放った。反射的に掴んだそれは、プラスチックのキーホルダーの付いた車のキー。え?


「ま、任せたって、運転をですか? あたし電車で帰省するつもりだったんですが……。それに、あたし運転経験ほぼゼロのペーパーですよ?」


「安心しろ。お前が免許を持っている限り、車を運転することは国に認められている。革命でも起きれば別だがな。山神温泉までなら、三時間ほどだろう」


 ぬけぬけと助手席に乗り込む先輩である。食い下がるあたしを無視し、妙にこざっぱりとした怪人は背もたれを大きく倒し、目を閉じた。


「寝る。着いたら起こせ」


「寝ちゃうんですか? 途中で代われとは言いませんが、せめてナビくらい」


「うるさい黙れ。朝が早かったので眠いんだ」


 ぶつくさ文句をこぼしながら運転席に乗り込めば、隣から不満に満ちた声が飛んできた。はいはい、わかりましたですよ。




    ***




「礼音、来てくれてありがとう。でも、急に連絡もらってびっくりしちゃったわ。駄目だって聞いてたから、諦めてたのに」


「やー、ほんとごめんね、。連休の忙しい時だってのに、旅館にいきなり押しかけてきちゃってさ」


 なにぶん、この隣の妖怪馬鹿がいきなり行くとか言い出すもんだから。そう言いたい気持ちをこらえつつ、あたしはあははと笑って頭を掻いた。


 アパートを出発して約五時間、どうにか目的地にとうたつしたあたしと絶対城先輩は、依頼人でありあたしの友人でもある日奈美に、旅館の事務室へと招かれていた。旅館の名前は「そう」。全体的にひなびている山神温泉一帯の中でもひときわひなびた装いと自然に囲まれたロケーションが売りの、こじんまりした純和風温泉宿だ。創業は大正時代というからかなり年季が入っている。どの部屋も、質素な土壁としように囲まれた簡素な作りになっており、お泊まりいただいたお客様には、都会の喧噪を忘れ、古き良き素朴な「和」のかおりとぬくもりを味わっていただけることと存じます──とパンフレットに書いてある。


 もっとも、いくら和風で簡素な旅館とはいえ、バックヤードまでしようを統一しているわけではないようで、事務室には電話もコピー機もパソコンも当たり前のように設置されていた。今座ってる応接セットも、座布団ではなく椅子だしね。日奈美とはわりかし古い友人だけど、事務室に入れてもらうのってもしかして初めてだっけ。そんなことを思いながらきょろきょろと部屋を見回していると、日奈美が「それにしても」と口を開いた。


「ずいぶん遅れたのね。三時間くらいで着くって電話で言ってたのに」


「いや、いろいろあってね」


 日奈美の疑問を、あたしは苦笑で受け流す。よく知ってる場所に帰るんだから道を確認するまでもないだろう、と甘く見たのが運の尽き。国道を降りる場所を間違ったことに気付かなくて、と弁解すれば、隣から呆れた声が飛んできた。


「普通なら県境を越える前に気付くだろうが」


「ずっと寝てた人には言われたくありません」


 やれやれと肩をすくめやがった絶対城先輩に、噛みつくように言い返す。目を覚ましたと思ったら「まだか」とだけ言い残してすぐに寝やがったことをあたしは一生忘れませんからね。そんな思いを込めて隣の席を睨み付けてやれば、向かいに座った和装の友人が、ふいにあたしを見つめて口を開いた。


「高校卒業以来だけど、礼音、何か変わった?」


「え? そ、そうかな……? 身長は伸びてないと思うけど……というか、これ以上伸びたらさすがに困るし」


「そういうことじゃないわよ。どう言えばいいのかしら、これ……。ずっと何かを心配してるみたいな、あの雰囲気がなくなった感じ?」


 言葉を選びながら語る日奈美を前に、あたしは、なるほどと納得していた。昔のあたしがそんな印象を持たれていたことにもちょっと驚いたが、その様子が変わったように見えたなら、原因は間違いなく、これだ。そう心の中でつぶやくと、あたしは胸元にぶら下がったお守りへと視線を落とした。


 絶対城先輩お手製、耳鳴り封じの竹の輪ペンダント。これのおかげで、とつぱつてきに巻き起こり、思考の全てを塗りつぶしていくあの耳鳴りに怯える必要がなくなったことは、もう本当にありがたい。定期的にやらされる謎の検査と訓練にはへきえきするけれど、総合的に見れば、あたしは確かに絶対城先輩に感謝していた。今となってはこれのない生活に戻ることなど、とても考えられないし。というわけで隣の変人への感謝を心の中でつぶやいていると、日奈美はくすっと笑って言い足した。


「でも礼音、見た目は全然変わってないわね。Tシャツにホットパンツだし、相変わらず男の子みたい。大学に行ったらイメージ変えるって言ってなかった?」


「何から始めたらいいのかわからなくってね……。そういう日奈美は相変わらず和風なお嬢様ですこと。着物、似合ってるよ」


「あらあら、ありがとう」


 あたしの言葉を受け、日奈美がおっとりと微笑んだ。色白の肌と黒目がちなひとみじりのほくろに結い上げた髪、着慣れた様子の黄緑の着物。すっかりわか女将おかみが板に付いたなあと感心していると、向かいに座った旧友は、残念そうにつぶやいた。


「せめてメイクくらいしなさいよ。礼音は、磨けば光るんだから」


「え? いや、日奈美は昔っからよくそう言ってくれるけどさ……、本人的にはあんまり光るとは思えないのよね」


「お前にしてはとうな判断だな」


「ほっといてください!」


 明らかに聞こえるように言い放った先輩を、キッと横目で見据えるあたし。と、そのやりとりを見た日奈美は、ふとうらやましげに微笑んだ。


「絶対城さんとずいぶん仲が良いのね、礼音。話を聞いた時はどんな変わった人かと思ったけれど、素敵な方じゃない。ちょっとけちゃうくらい」


「おや、これはどうも。お褒めに預かり光栄です、と言うべきでしょうか?」


 日奈美にちらりと視線を向けられ、絶対城先輩が静かに応じる。笑みを全く浮かべないのはいつも通りだが、外見がこざっぱりとしており、発言も妙にハキハキとしているせいで、雰囲気が違いすぎて対応に困る。誰だあんた、と内心でつぶやきつつ、あたしは久々に会った友人に呼びかけた。


「変なこと言わないでよ、日奈美。それにこの人、普段はもっと露骨に怪しいんだから。態度も服装もいかにも妖怪の専門家というか、むしろ妖怪の仲間です的な」


「大丈夫よ。心配しなくても、先輩を取ったりしないから」


 聞かなくたってわかってます、と言いたげにうなずく旧友を前に、あたしはげんなり溜息を吐いた。日奈美の誤解を解くのはなかなか大変そうだったが、今回の本題はそこではない。来訪の目的は、あくまで旅館で起こった妖怪騒ぎの解決だ。だが、とりあえずそっちの話を聞かせてよ、と言いかけたところで、絶対城先輩が口を開いた。


「さて。本題に入る前に、この旅館で働いておられる従業員について、一通り確認させていただきたいのですが」


「え? ええ。ですけど、うちは基本的に家族経営ですから、従業員と呼べるような人は……。両親もご挨拶にあがるべきなのですが、今は夕食準備で手一杯で。連休でお客様もそれなりに多いし、この時間から掛からないと間に合わないんです」


 そちらがキッチンなのだろう、日奈美は奥のとびらに視線を向けながら説明する。そう言えば日奈美のおじさん板前だったっけ。


「あれ? ここで働いてるの、日奈美の家族だけだった? 高校の時、試験前に泊まり込んだ時はさ」


 なんか賑やかな男の人がいたような。そう続けようとした矢先、「やあやあ、遅うなりましたなあ」と明るい声が響いた。それに続き、事務室奥の衝立の向こうから、おぼんを手にした男性が現れる。年の頃は三十代の半ばほど、気の良さそうな顔に丸くて大きな眼鏡をせ、「小久保荘」とかれたはつを羽織っている。そう、確かこの人だ。記憶と照らし合わせて納得するあたしを前に、眼鏡のおじさん──というにはやや若い男性は、慣れた手つきで湯飲みを配り、再び明るい声を発した。


「えろうお待たせしましてすんませんでしたなあ。ちやでございます」


「あ、ご丁寧にありがとうございます。ええと、あたし、日奈美の友人の」


「湯ノ山礼音さんですやろ。湯ノ山酒店の娘さんの。お嬢さんから聞いとりますわ。で、こっちの渋いお兄さんは?」


「初めまして。湯ノ山くんの大学の先輩で、絶対城と申します」


 湯飲みを受け取りつつ、丁寧に頭を下げる絶対城先輩である。大学では無礼とはいりよごんのくせに、と小声でつぶやくあたしをよそに、法被の男性は「こらどうも」とフレンドリーに微笑んだ。


「この小久保荘で住み込みで働かせてもろてます、むらへいと申します。それとお嬢さん、ほんまお待たせしました」


「ほんとです。お茶を頼んだだけなのに」


 へこへこと頭を下げる木村さんを、日奈美が見据える。今までのおっとりした態度とは異なった厳しい視線を向けられ、木村さんは決まり悪そうに頭を掻いた。


「いや、それがですなあ。お急須の準備しとったら、支配人けん板前から、男湯のポンプがまた調子悪うなった言われましてなあ。温泉宿で温泉出えへんかったら、こらどないもこないもなりませんがな。一歩間違うたらワヤですさかいな、慌てて直して来ましたんや。しかしあのポンプ、もうそろそろほんまに寿じゆみようですわなあ。寿命言うたら去年裏の温泉まんじゆうの婆さんが亡くなった時は驚きましたわ」


 日奈美の隣に腰を下ろしつつ、木村さんはべらべらと語り続けていた。言葉を聞く限り関西の出のようだけど、それにしてもよく喋る人である。相槌も忘れて聞き入っていると、ややあって日奈美が「ストップ」と声を発した。


「話が逸れすぎです、木村さん。お客様の前なんですからね?」


「え? ああ、こらまた失礼しました」


 日奈美に制され、木村さんが縮こまる。ぺこぺこと頭を下げる眼鏡の従業員を横目に、支配人の娘は一つ溜息を落とし、あたしと先輩へ向き直った。


「改めて紹介しますね。こちら、うちの住み込み従業員で、離れに住んでもらってる木村さん。施設の管理を丸ごと担当してくださってるの」


「施設の管理、と言いますと……?」


「施設の管理言うたら施設の管理ですがな、湯ノ山酒店の娘さん」


 あたしが漏らした疑問を聞きつけ、木村さんがうなずいた。それはわかりますけど、と続けようとしたあたしを制し、小久保荘の住み込み従業員さんは指折り数えながら口を開く。


「ボイラー整備から窓ガラスの入れ替えから消火器の点検、たいしん診断に障子の張り替えに土壁の塗り替えまで、一通りやらせてもうてます。ちまちま改装してるとは言え、もとは大正時代の建物ですさかいなあ、休む暇はありませんのや」


「そ、そんなにいろいろやってるんですか?」


 こともなげに自分の仕事を語る木村さんを前に、あたしは素直に驚いていた。賑やかなお茶くみおじさんかと思ったら、どうやら意外に有能で多才な人らしい。と、その反応が予想通りだったのか、裏方の総合商社さんは満足げにうなずいた。


「こう見えても、資格と技能はようけ持ってますねん。見直しました?」


「はあ……。見直したと言うか、びっくりしました」


「しかし、そんな多才な方が、どうしてこんな小さな──ああ、この言い方はへいがあるかもしれませんが、山中の温泉宿にお勤めなんでしょうか」


「そらあんた虫ですがな」


 ふいに問いかけた絶対城先輩に、木村さんはすかさず切り返したが、その答の意味がわからない。虫って言われても、と首を捻っていると、日奈美が困った顔で口を挟んでくれた。


「それだけじゃ何のことかわかりません。あのね、木村さんってこんちゆう採集が趣味で、自分の部屋でもいっぱい飼ってるの。ほら、ここは山の中で自然も多いし、川の水も綺麗でしょう?」


「そう、お嬢さんの言わはる通り!」


 日奈美の説明に、満面の笑みでうなずく木村さん。ああ、なるほど、そういうことか。あたしと絶対城先輩が納得するのを見ながら、木村さんは嬉しげに続ける。


「そうですねん。ちょっと時間の空いた時に虫取りに出られるこの場所は、わたしにとって最善の職場なんですわ。あ、昆虫だけと違て蜘蛛も好きですけどな。この道に転んだきっかけは蜘蛛ですし」


「蜘蛛……ですか? あの八本足であみを張る?」


「それ以外のクモ言うたら空に浮かんでしまいますがな。まあ、巣を張らへん蜘蛛も多いんですけどな。そうそう、あれは中二の頃やったか、自分とおんなじ名前の蜘蛛がおるっちゅうことを知ってから、連中に興味が湧きましてなあ。そのせいか、あれから何度も飼いましたけども、あいつだけはどうしても標本にはできまへんねん。名前が一緒やさかい情が移ってしまいますねんなあ。で、蜘蛛と言えば」


 エンドレストークのスイッチが再び入ってしまったようで、蜘蛛採集についてとめどなく語り続ける木村さんである。あたしは一瞬ぽかんとしたが、すぐに静かに息を吸い、口を開いた。


「それよりも!」


「ひゃっ!」


 あたしの声に、木村さんがびくんと怯えて制止した。いや、そんなに驚かなくても。やや申し訳なく縮こまるあたしを前に、日奈美が懐かしそうに微笑む。


「久々に聞いたわ、礼音のいつかつ。やっぱり、合気道で鍛えた声は違うわね」


「合気道と声はあんまり関係ないんだけどね……。で、そろそろ、事件の話を聞かせてほしいなあと思うんですけど」


 驚かれてしまったので、声を抑えて問いかけてみる。と、木村さんはきょとんと目を丸くし、隣の日奈美を見ながら、妙に気まずい声を発した。


「やっぱ、あのことで来はったんですなあ……。わざわざ来てもろてなんですが、わたしとしては、あんまし大ごとにせんほうがええと思うとるんですわ」


「木村さんはそう言うけど、こういう噂は、広まる前に何とかしなきゃ駄目よ。メゾンホテルさんのこと覚えてる? 自殺者の幽霊が出るって根も葉もない噂が立って、結局閉業しちゃったでしょう? 客商売は口コミで決まるんだから」


「いや、それはわたしも知っとりますが、せやから心配してますねん。プロを呼んだっちゅうこと自体が、ろくでもない噂を呼びかねませんがな」


「大丈夫。警察や神社に正式に依頼したわけじゃなくて、礼音は私の友達だし、絶対城さんは妖怪やお祓いに詳しいだけの学生さんなんだから、おかしな噂が立つこともありません。それに、いつまでも『木耳きくらげの間』を使用禁止にしておくわけにはいかないのよ」


「普通にお客さん泊めはったらええと思うんですが……。わたしが調べた時かて、何もありませんでしたがな。お客はんがおそわれたり呪われたりしたわけでもなし、支配人もおかみさんもお嬢さんも、ちょっと心配しすぎちゃうかなと」


 木村さんがもごもごと反論すれば、日奈美がきっぱり言い返し、そうなると再び木村さんがもごもご応じる。ぐるぐると回る会話を聞きながら、あたしはじようきようを理解した。なるほど、日奈美とご両親は事件の早急な解明と解決を望んでいるのに対し、木村さんは外部の人を呼び込むことに反対しているようだ。


「先輩。こういうふうに意見が割れてる場合、プロはどうするんです?」


「俺は別にプロでもなんでもないがな。単なる妖怪学の徒だ。……ともかく、お二人の考え方は理解しましたが、とりあえず、せっかく来たのですから、事件のがいようだけでも聞かせていただけませんか? 今のままでは、何が起こったのかすらわかりませんので、判断の下しようがありません」




【次回更新は、2019年12月21日(土)予定!】

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