二章 幽霊(3)


「その男に騙されるな!」


 そして約十分後、文学部の校舎と大学図書館の間に広がる薄暗い森の入り口にて。


 ひっそりともる外灯の下、学内通路に絶対城先輩の声がとどろいた。その声に、今まさに二人で森に入るところだったのだろう、かいちゆう電灯を手にした軽部さんがぎょっと振り向く。軽部さんの隣の友香もまた目を丸くして振り返ったが、すぐに羽織の怪人の隣の見知った顔に気付いたようで、「礼音?」と目を丸くした。


「来ないんじゃなかったの? この黒い人誰? 騙されるなってどういうこと?」


「え? ……えーとね、この人は絶対城阿頼耶先輩」


 一言だけ応じて黙り込むしかないあたし。友香の疑問はもっともだが、あいにく、あたしに答えられるのはこれだけだ。絶対城先輩のおもわくについては、こっちが聞きたいくらいなのである。杵松先輩が一緒に来てくれていればいろいろ説明してくれたのだろうが、あの温和で話しやすい先輩は「行ってらっしゃい、湯ノ山さんの話はまた後でね」と気さくにあたしたちを送りだしてくれたのだから、ここにはいないのであった。というわけであたしは絶対城先輩の横で次の言葉を待っていたのだが、先に口を開いたのは軽部さんだった。


「騙すって何だよ。つーか、誰だお前」


「こいつが今紹介した通りの、絶対城阿頼耶だが」


 露骨な敵対心と若干の不安を感じさせる視線を受け流し、絶対城先輩が肩をすくめる。「こいつ」ってのはあたしのことなんだろうけど、せめて名前で呼んでください──って、そう言えばまだ名乗ってなかったっけ。そんな余計なことを考えている間に、絶対城先輩は軽部さんをまっすぐ見返し、落ち着いた口調で先を続けた。


「『騙す』というのが分かりにくければ、こうえようか? 『適当にでっちあげた怪談でオカルト好きの後輩を人目のない場所に連れ込んで何をする気だ』と」


「……え?」


「ふ、ふざけるな!」


 抑えた声でのてきに、友香が息を呑んで隣の軽部さんを見つめた。同時に軽部さんがいきなり声を荒げ、絶対城先輩に食ってかかる。


「人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ! オレはただ、友香ちゃんが幽霊見てみたいって言ったからだな、だから、上級生としての親切心で引き受けただけで」


「立派な名目だが、その真意は何だ? ……ああ、答える必要はないぞ。お前の行状は聞き及んでいるし、概ね見当は付くからな」


「何を言い出すんだ、この野郎! オレはそんな」


「しかし、吐くならもう少しマシな嘘を吐け。あまりに怪談としての完成度が低い」


「うるせえ!」


 あくまでマイペースに言葉を重ねる絶対城先輩に対し、軽部さんは加速度的にげつこうしていく。そのきよくたんあせりと怒りに危険を感じたのか、友香がそろそろと軽部さんから離れ、絶対城先輩とあたしの側に移動してきた。あたしのシャツのすそをぎゅっとにぎる友香を見て、軽部さんが悲痛に叫ぶ。


「何でそっちに行くんだよ、友香ちゃん? オレ信じろってば!」


「ほう。ならばお前は、あくまで幽霊を見たと言い張るんだな。……面白い」


 怯えるようにあたしの後ろに隠れた友香の代わりに、絶対城先輩が一歩前に進み出た。その声が少しだけたかぶっているように聞こえたのは気のせいだろうか。切れかかった街灯の下、木々の間を吹き抜ける夜風をはらみ、黒い羽織がばさりとはためく。


「お前はこう言ったそうだな? 白い着物で足のない女の幽霊を見た、調べたところ、それは戦国時代に殺された娘の霊だとわかったのだ──と」


「そ、そうだよ? アレか、霊なんて存在しない、非科学的だとか言うのかよ」


「霊魂実在論争に持ち込んでけむくつもりか? 悪くないアイデアだが、あいにく、科学を持ち出すまでもない」


 自信ありげに語りつつ、絶対城先輩はさらに一歩、軽部さんへと近づいた。あたしと友香に黒くて広い背中を向けたまま、抑えた声が静かに続く。


「よく聞け。経帷子──すなわちしろしようぞくに額の三角紙というのうかんスタイルが成立したのは、十七世紀末になってからだ。更に言えば、足のない幽霊像に至っては、十八世紀のまるやまおうきよの幽霊画によって、ようやく確立したと言われている」


「な──何? でも、それがどうしたってんだよ……?」


「わからないのか? ああ、このあたりで合戦が起き、村が焼かれたのは確かに事実だ。だがな。戦国時代とは十六世紀から十七世紀初期のことを指す。その時代に死んだ娘が、一世紀以上後のスタイルで出てくるわけがないだろう!」


「えっ? あ、いや、それは……!」


 絶対城先輩の言葉を受け、軽部さんの声が途切れた。まさかそんなところからツッコミが入るとは思っていなかったのだろう。うん、まあ、確かに絶対城先輩の言うような事実があるなら、軽部さんの話が嘘だと判断することはできる。でも、だがしかし。気づけばあたしは「あの」と小声で絶対城先輩に問いかけていた。


「そうは言いますけど、村が被害に会ったのは本当なんです……よね?」


「郷土史にもしっかり記載されている」


 羽織の肩越しにちらりと振り返ってそう告げると、絶対城先輩は「それがどうした」と付け足した。話のじやをするな、と言いたげな強い視線に怯えつつ、あたしはぼそぼそと先を続ける。


「その、だから、その時に殺された農民の霊が化けて出るって考えるのは、おかしくは……ない……ような?」


「ちょっと礼音? あんた、どっちの味方なの」


 そでを掴んだ友香が呆れるような目を向けてきたが、気になるものは仕方ない。スッキリしない物事をそのまま放っておけないのは、これはもう性分なのだ。というわけであたしは絶対城先輩に再び尋ねる。


「それに、軽部さんがコンパの時に言ってましたけど、日本って、昔から幽霊の話が多いんですよね?」


「そ、そうそう! 菅原道真とか!」


 思わぬえんぐんにとっさに飛びつく軽部さん。だが絶対城先輩は全く動じず、ただ「馬鹿か」と小さく肩をすくめた。


「道真の霊はおんりようで、幽霊とは別物だろうが。その二者の区別もつかずに、よく怪談を捏造しようと思ったものだな。いいか、古代日本において、死後の人格と記憶の保持が許されたのは、皇族と一部の貴人のみ。死後の世界の身分の区別は長きにわたって厳然として存在し続け、しよみんの霊が生前の人格を保つようになったのは近世以降だ。すなわち、戦国時代のひやくしようの娘は──どうあがいても幽霊には成り得ない!」


「ぐ……!」


 もはや反論する言葉も出てこないのだろう、軽部さんが絶句した。と、友香がちょんちょんとあたしの肩を突いて問いかけてきた、


「ねえねえ礼音、今の話、ほんとなの? 幽霊って、昔からずっとああいうものだったと思ってたんだけど」


「はい? いや、あたしに聞かれても」


「昔も何もあるものか」


 わからないし、と続けようとしたあたしの声を遮って、絶対城先輩が口を開いた。あたしたちに振り返り、オカルトと妖怪の専門家はりゆうちような解説を再開する。


「幽霊は、日本に伝わる怪異の中でも比較的新しいカテゴリーに属する怪異だ。近世の庶民文化のりゆうせいともない、社会的に個々人の人格が重視されるようになってから幅を利かせるようになり、いつの間にか妖怪の対概念にまで成長しただけだが、本来は妖怪の一種にすぎない。勘違いしている者も多いが、実際、江戸時代の妖怪絵巻を見れば、『ばけものづくし』でも『百怪かん』でも『化物絵巻』でも、幽霊は妖怪の一体として紹介されている」


「は、はあ……、なるほど」


 納得したのか気圧されただけなのかはともかく、おずおずうなずく友香である。納得したかな、とその顔を見下ろせば、友香は小声で尋ねてきた。


「……で、この詳しい人、ほんとに誰? 何してる人なわけ?」


「だから絶対城先輩だってば。それ以上はあたしも知らないし」


 抑えた声での質問に、ひそひそ声で応じるあたし。そんなやりとりが聞こえているのかいないのか、話題の絶対城先輩は軽部さんに横目を向け、「つまり」と続けた。


「幽霊は近代になってようやく我々の知る姿で成立した怪異だ。そのけいを踏まえれば、お前の語った『白装束で足のない戦国時代の幽霊』がいかにこうとうけいで有り得ない存在かはわかるだろう? 実際にそんなものが出たのなら、とも記録しておきたいところだが……」


 絶対城先輩はそこでいったん言葉を区切ると、軽部さんを黙って見据えた。どうせ嘘なんだろう、そろそろ認めたらどうだ。そう言いたげな溜息を挟んだ後、渋い声が再び響く。


「覚えておけ。妖怪とは、その背後に連綿と続く歴史を抱え、実在と認識のはざに立ち上るもの。素人しろうとやきの知識ででっちあげると、必ずボロが出る」


 黒の羽織とネクタイが風にふわりと揺れ、ベテランの教授の講義を思わせる静かな口調が夜の森に染み入っていく。あたしと友香が黙って聞き入る中、絶対城先輩は軽部さんへと向き直り、「さて」と小さく肩を揺らした。


「俺からは以上だが、反論は?」




    ***




「ほんとお見事でした、絶対城先輩……!」


 場面変わって、再び四十四番資料室、衝立の奥の畳スペース。座椅子に腰掛けて事件解決後のコーヒーをたしなむ絶対城先輩の前で、ついさっきの論破シーンを思い起こし、あたしはしみじみと感服していた。


 あ、ちなみにあの後、軽部さんは結局何も言い返せず「意味わかんねえんだよバーカバーカ」と捨て台詞を残して逃げました。小物の悪役か、とあたしと友香が呆れたのは言うまでもない。友香も無事に帰ったし、とりあえずは良かった良かった。


「元々うさんくさいとは思ってましたけど、まさかあの幽霊話が丸ごと、後輩女子を連れ出すための作り話だったなんて……。都会って怖いところですねえ」


「都会って、それは言いすぎだよ。せいぜい『地方都市』レベルじゃないかな?」


 温和な声で口を挟んできたのは杵松先輩だ。ずっと資料室で待ってくれていたらしい眼鏡では白衣の先輩に、あたしは「地元に比べれば都会です」と苦笑した。


「それにしてもすごいですよ、絶対城先輩。ギリギリのタイミングでえんもゆかりもない後輩を救うなんて、まるで小説か漫画か映画のヒーローじゃないですか。ほんと、あたしの話聞いただけで、よく嘘だって気付きましたね」


「馬鹿でも気付くぞ。全く、出来の悪いかいもあったものだ」


「……ぎかい?」


にせの怪と書いて、偽怪。意図的にでっちあげられた怪異のことだよ」


 絶対城先輩の口にした単語の意味がわからず戸惑っていると、杵松先輩がさりげなく補足してくれた。へえ、そんな言葉があるんですか。教えてくださってありがとうございます。感謝を込めて小さく頭を下げると、あたしは絶対城先輩に向き直った。まっすぐ見つめられ、黒衣の怪人は露骨に面倒くさそうにこちらを睨んだ。


「何だ。まだ疑問があるのか」


「いや、そういうわけじゃないですけど……。ですから、会ったこともない後輩の女の子をわざわざ助けに行くなんて立派だな、と思って」


「意味がわからんな。お前は何を言っているんだ?」


「はい? だって、あたしの話を聞いたとたんに現場に行ったじゃないですか。あれって、友香が危ないって気付いて、助けてくれたんですよね?」


「勘違いするな。そんなつもりは毛頭無い」


 あたしの期待のもった言葉を、ドライな声が切り捨てる。じゃあ何で、と尋ねる間もなく、絶対城先輩は冷たい口調でこう続けた。


「馬鹿な新入生が誰に何をされようが、俺の知ったことではない。そんなものは個人の勝手だ。ただ、古来の伝承や記録にそぐわないかいたんを適当に創作してふいちようすることは許せない。怪異や妖怪を扱う際は、先人への敬意を持ち、正しい知識と態度で臨むべきだからな。だろう?」


「だ、だろう? と言われましても……どう、なんですかね……?」


 答えにきゆうし、あたしは語尾をごにょごにょと濁した。どうやらこの先輩、ぶっきらぼうな変人と見せかけて意外に正義感に溢れた善人なのかと思っていたが、それは勘違いで、実際のところ、見かけと噂の通りの変人らしかった。ああ、ややこしい!


「……見直して損したなあ」


「ん。何か言ったか」


「はい? あっ、いいえ何でもありません!」


 ぽろっと漏れた素直な気持ちを慌てて否定するあたし。と、先輩はそれを聞いていたのかいないのか、ふいにあたしをしげしげと見据えた。そしてそのまま一秒ほどあたしをきようした後、先輩は小さく首を傾げ、あたしに向かって問いかける。


「そう言えば」


「はい? 何ですか?」


「お前は誰だ?」


「湯ノ山礼音ですよ!」


 つい大きな声が出てしまった。名乗るタイミングを見つけられなかったこっちも悪いけど、聞くならもっと早く聞いてください! そんな思いを込めて見返してやれば、絶対城先輩は杵松先輩に顔を向け、「何者だ?」と尋ねた。よくあることなのか、杵松先輩が苦笑する。


「お客さんだよ、阿頼耶」


「客? それならそうと早く言え」


「なかなか切り出すきっかけがなくってさ。幽霊の話が一段落したら紹介しようと思ってたんだけど、ようやくキリも付いたみたいだから」


 そこでいったん言葉を区切ると、杵松先輩はあたしに向かって微笑みかけ、絶対城先輩へと向き直った。


「湯ノ山さんの依頼について、僕から説明させてもらおうかな」




「……阿頼耶のやつ、いつまで待たせるんだろう? 時間取らせちゃってごめんね」


「い、いえ! 杵松先輩が謝ることじゃないですし、はい」


「ありがとう、湯ノ山さん。あと、僕のことは『先輩』って呼ばなくてもいいよ。学部も違うし、距離を取られてるみたいだしさ」


「そ、そうですか? じゃあ──『杵松さん』?」


 座布団の上で正座したままそう口にすれば、向かいに座った眼鏡の先輩は、文学全集を広げたまま「そっちがいいな」と優しくうなずいた。その爽やかな態度に、あたしは思わず見入っていた。第一印象の時点から気持ちのいい人だと思ってはいたが、無愛想な羽織の怪人物をたりにした後だと、なおさらポイントががる。


 ちなみに、その怪人はと言えば、ここにはいない。杵松先輩からあたしの相談についての的確な解説を聞き終えた絶対城先輩は、「待て」とだけ告げると、フラッとどこかへ出て行ってしまったのだ。小さな箪笥の上のアンティークな置時計を見れば、時刻は既に九時半。と、あたしの視線に気が付いたのか、杵松先輩──じゃない、杵松さんは、困ったような視線をドアの方角へ向けた。


「阿頼耶も、どれくらい待てばいいのか言っていけばいいのに。でもね、湯ノ山さん。阿頼耶がああいう風に、客を客とも思わないような態度を取る時は、比較的当たりだよ」


「当たり……?」


「うん。阿頼耶って、興味がない相手はいきなり追い返すし、騙せると踏んだら割といんぎんれいな態度に切り替わるんだ。でも、そのどっちでもなかっただろ?」


「まあ、確かに……。てか、人を騙すんですか?」


「それはもう。僕が一枚むこともあるから、詳しくは言えないけどね」


 そうにこやかに告白すると、これ以上はないしよ、と言いたげに口の前で人差し指を立てる杵松さんである。どうやらこの人も百パーセントまともな善人ってわけではないらしい。まあ、絶対城先輩の友人だから、それも当然と言えば当然か。もし怪しい展開になったら、投げ飛ばして逃げればいいし。


せまいところじゃ戦いにくいけど、逃げるだけなら何とかなるだろうし……」


「逃がさんぞ」


「ひゃあああっ!」


 あたりを見回しながら漏らした独り言に、渋い声がいきなり応じた。思わず飛び上がりながら振り向けば、黒の羽織に黒ネクタイの怪人が、ぬのぶくろを手に立っていた。


「ぜ、絶対城先輩……? いつの間に戻ってきたんです?」


「今だ」


「お帰り、阿頼耶。何を持ってきたんだい?」


「見ていればわかる」


 友人の言葉にぶっきらぼうに応じると、絶対城先輩は戸棚から小さなグラスを取り出し、袋の中身を卓袱台の上にぶちまけた。洋酒のびんに黒い糸、細い銀のチェーンに、薄く切った木材──じゃない、竹かな、これ? きょとんと見つめる先で、先輩は竹をぐるっと丸め、直径六センチほどのリングを作った。さらに、竹片の端が重なった部分に糸を巻き付けて円形を固定する──って、えーと。一体全体、何をされているんでしょうか。


「あの……あたしは、耳鳴りを何とかしてほしいと相談したんですが」


「わかっている」


 そうとだけ答えながら、先輩は糸を結ぼうとしたが、力を入れすぎてしまったらしい。ぶつっと糸が切れたかと思うと、竹がピンとはじけて飛ぶ。顔を近づけて見ていたあたしは、思わず「ひゃっ」と声をあげた。


「ああ、びっくりした。……てか、本当に一体何を」


「黙って見ていろ」


 そう言いながら絶対城先輩は再び竹片をリングにし、糸でぎゅっと固定した。今度は力の入れ具合がちょうど良かったのか、弾けることはなさそうだ。と、先輩はそれにチェーンを通してこれまた輪っかにすると、「よし」とうなずいた。


「お前、これを首に掛けろ。できるな」


「え? はあ、それくらいはできますが……」


 意図がわからないまま、あたしはそくせきのペンダントを受け取り、チェーンを首に通した。胸元でぶらーんと揺れる竹のリングを指で突っついてみれば、絶対城先輩は満足げにうなずいたが、あたしには何が何だかさっぱりだ。


「何です、これ。お守りですか? それに、糸で留めただけだと、またすぐ弾けそうで怖いんですが……って、絶対城先輩?」


 あたしの問いかけを意に介することなく、絶対城先輩は洋酒をグラスに注ぎ始めた。何をしているんだ、この人は。説明を求めようとしたあたしだったが、先輩は無言でグラスを手に取ると、こちらに向かって差し出し、言った。


「飲め」


「……え?」


 ぬっと突き出されたグラスを前に、あたしはぎょっと絶句する。さかびんのラベルを見る限り、小ぶりのグラスにたたえられたはくいろの液体は、どうやらテキーラだ。しかもアルコール度数のかなり高い部類の。いきなりの展開に二の句が継げないでいると、ここまで静かだった杵松さんが口を挟んでくれた。


「あのさ、阿頼耶、サンライズはちょっと強すぎないかい? せめて水で割ろうよ。それとも、飲みやすいカクテルでも作ろうか」


「味はこの際どうでもいい。アルコールを摂取しても例のしようじようが出ないことが確認できれば、それでいいんだ。というわけで、飲め」


「例の症状って──耳鳴りのことですか? いや、ちょっと待ってくださいよ! こんな即席の輪っかぶらさげただけで、何がどうなると」


「駄目でもともとだ。やってみなければわかるまい」


 あたしの言葉を遮ってそう告げると、絶対城先輩はグラスを卓袱台にそっと置き、こちらを無言で見つめてきた。その視線に気圧され、あたしはぐっと押し黙ってしまった。……それに、先輩の言うことにも一理はある。


 ──駄目でもともと。やってみなければわからない。


「……ですね、確かに」


 失敗したって構わないんだ。そう思うと気が楽になり、あたしは目の前のグラスを手に取っていた。せいこうな細工のほどこされたそれを口につけ、勢いよくグイッとあおると、どこかどろりとした液体が喉に流れ込んできた。一気にごくんと飲み干せば、度数の高いアルコールが喉を焼き、ごほ、と濁った音が出る。


「大丈夫かい? 全部飲み干す必要はなかったのに……。はい、口直し」


 みっともなくむせかえるあたしに、杵松さんが水の入ったカップを手渡してくれた。お礼を言うこともできないまま、それを受け取って飲み干すあたしに、絶対城先輩は興味深げな視線を向け、そして尋ねた。


「飲んだな。で、どうだ」


「まずかったです……。これがいって、大人って意味わかんないですね」


「誰がそんなことを聞いた」


「あのね、湯ノ山さん。阿頼耶は、耳鳴りはするかって聞いてるんだよ」


 もともと陰気な顔をさらにげんにしかめた絶対城先輩に代わり、杵松さんが補足する。ああなるほど、そういうことか。質問の意味を理解するのと同時に、あたしはきょとんと目を見開いていた。


「あ、あれ? 言われてみれば……あれ? 何これ? み──耳鳴らない!」


 興奮のあまり、立ち上がって叫ぶあたし。いつもならアルコールを摂取した瞬間に起こるはずのあの耳鳴りが、全く、全然、聞こえてこない。感動のあまり両耳を押さえるあたしを見上げ、座ったままの絶対城先輩は「ふむ」と興味深げにうなずいた。


「そのリングを提げている限り、もう耳鳴りに悩まされることはあるまい」


「あ、ありがとうございます、本当にありがとうございます!」


 冷淡な言葉を受け、あたしは思わずお礼の言葉を口にしていた。まさかこんなに簡単に治るなんて。そして「ありがとうございます」を繰り返すこと約十回、もういいぞ、と絶対城先輩に言われたあたしは、おずおず頭を上げ、問いかける。


「……しかし、これ、どういう仕組みなんですか? おまじない?」


まじないといえば呪いだ。いんようぎようの相関図の外周である円を、清らかな神性を宿す植物である竹でかたどったもので、神道風に言えば、簡易版のの輪だな。心身のおこりを取り除き、気の流れをスムーズにする。原理を全て話すとかなり長くなるので面倒なのだが、この結果だけでは不満か?」


「不満かって──いえそんな! 治っただけで充分です、ありがとうございます!」


 再び、いつくばりそうな勢いで頭を下げるあたしに、杵松さんが「おめでとう」と微笑みかけてくれる。その優しい笑顔を見ながら、あたしは幸せを噛みしめていた。


「杵松さんもありがとうございます! ああ、来て良かった……! そうだ、あの、お礼は……? あたし、持ち合わせは少ないんですが、でもきっと払いますから」


「何を言っている。金を取るつもりはない。ただし」


「え? た、タダってことですか? あ、ああああ、ありがとうございます! このご恩はたぶん一生忘れませんから! よーし待ってろイベントざんまいのバラ色のキャンパスライフ! ではではお世話になりました──って、ん……?」


 勢いよくこの場を後にしそうになったが、何か大事なことをのがした気がする。そこはかとなく湧き上がってくる不安な思いを押し殺しながら、あたしは絶対城先輩をまっすぐ見つめ、抑えた声で問いかけた。


「……絶対城先輩。今、『ただし』って言いました?」


「言ってたよね、確かに」


「ああ。言ったな」


 あたしの問いに、杵松さんが苦笑で応じ、そして絶対城先輩が不敵にうなずきながら立ち上がる。黒の羽織に黒ネクタイの怪人は、ゆっくりあたしに歩み寄ると、胸元の竹製ペンダントを持ち上げた。落ち窪んだ眼窩の中のそうぼうに見下ろされ、ぞくりと背中に悪寒が走る。そりゃまあ、男性にこんなに近づかれたことなんてなかったから──いや違う。これはそういう不安じゃない。合気道で鍛えた武道家としての本能が危険を告げる中、先輩はゆっくりと口を開き、「条件がある」と言い足した。


「代金の代わりとして──そうだな、週に三回はここに顔を出せ。経過を観察したいし、ちょっとした訓練にも付き合ってもらう」


「しゅ、週三ですか……? てか、訓練って何の」


「来ればわかる。それと、せっかくだから、手も貸してもらおうか。明人が三年に上がってから学業が忙しくてな、手が足りていないところだった」


「手を貸せって──何に、です?」


もろもろの仕込みの手伝いだ。お祓いやけを求めてやってくる依頼人を満足させて金を取るには、それなりの演出が必要だからな」


 唖然とするあたしに向かって、ツラツラと語り続ける絶対城先輩。いきなりの申し出に──いや、命令に、一瞬脳がフリーズする。ややあって、目の前の人物の放った言葉をどうにか理解し終えると、あたしはしぼるように口を開いた。


「……つまり、あたしに、インチキのお祓いの手伝いをしろと」


「そういうことだな」


 さらっとうなずく先輩である。そんな、と反論しようとしたあたしだが、そこにバリトンの効いた渋い声が重なった。


「嫌ならば断れ。だが、その場合、俺とお前の縁はここまでだ。なお、お前のそのリングは、作るところを見ていてわかったろうが、すぐ壊れるし、いつ弾けるかわからない、極めて不安定なしろものだ。耳鳴りを押さえ続けるには定期的な交換が必要だろうが、とくしゆじゆほうを施してあり、俺にしか作れない。この意味はわかるな?」


「そ、それは……」


 無情なきつもんを受け、あたしは口ごもらざるを得なかった。言われなくてもわかっていることをわざわざ言って聞かせた理由は、考えなくてもすぐわかる。これはきようはくだ。言い返せないままのあたしに向かって、ドライな声が再び響く。


「ああ、俺の手伝いをする過程で知り得た情報を口外することも禁じるから、そのつもりでな。もし口を滑らしたなら、俺はその時点でお前に対する処置を打ち切る。永遠に耳鳴りに苦しめ」


「……ぐっ!」


 気がつけばあたしはこぶしを握り締め、歯を食いしばって震えていた。その瞬間にも、あたしの中の正義感は、ふざけるな、と言い残してこの場を後にしろと訴えていた。無論、そうするのは簡単だし、そうすべきだとはわかっている。


 でも、だが、しかし。


 ずっとあたしを苦しめてきたあの耳鳴りをふうじてくれたのは、今のところ、目の前のこの人だけだ。そして、そんな人がそうそういるとも思えない。だけど、オカルトがかったインチキ商法に加担するなんて、それは──。


 ……と、そんな堂々めぐりの自問自答を繰り返すこと、約二分。ようやく答えを決めたあたしは、肩を震わせて大きく息をくと、絶対城先輩をまっすぐ見返し、こうこう告げた。


「……わかりました。助手になればいいんですね」


「誰が助手だ。お前はあくまで怪現象のサンプルだ」


 意を決して口を開いたあたしを前に、あっさり言い放つ絶対城先輩である。その言葉に、あたしはぽかんと間抜けに口を開いた。


「サンプルって──人間扱いされてないじゃないですか!」


「それがどうした。そう言えばお前、名前は湯ノ山礼音だったな。どんな字だ」


「はい? お湯の湯にカタカナのノに山形の山、お礼の礼に音ですが……」


「そうか。なら湯に礼でユーレイだな」


「やっぱり人間扱いされてない! その呼び方には異議ありです!」


「まあまあ、落ち着いて湯ノ山さん。それと、改めてよろしくね」


 食って掛かるあたしの肩を優しく叩き、杵松さんが微笑みかけてくれた。それはそれでちょっと嬉しかったけど──でも、そんなことでは帳消しにならないほどの不安が、あたしの胸の中では吹き荒れていたのだった。




 そして、ここからは友香に聞いた後日談。


 自慢の実録怪談を絶対城先輩にかん無きまでに論破されてしまった軽部さんだが、あの後、過去に何度も適当な嘘を吐いては人気のない場所に後輩女子を誘い込み、強引にろくでもない行為に及んでいたことがずるずると発覚。彼の周りには女の子は寄りつかなくなったとのことだ。それはそれで、めでたしめでたしなのだけど。


「……先輩。この怪しい訓練、いつまで続けなくちゃいけないんですか?」


「怪しいとは何だ。信用できるぶんけんに基づいていると言っただろうが。まあ、耳鳴りが復活していいのなら、やめてもらっても構わんが」


「ま、またそれを持ち出す! わ、わかりましたよ! 続き、お願いします……」


「最初から素直にそう言え。よし、では目を閉じたまま心の中に二重丸を思い浮かべ、そのまま片足立ちで三十分」


「くそっ、意味がわかんない上にムダにしんどい……!」


 ──あたしの方は、あまりめでたくない結果になってしまったのであった。こんな大学生活は、期待も予想もしていなかったのに!


「ああ、さようなら……。あたしのバラ色のキャンパスライフ……!」


「新歓コンパでいきなり浮くような奴にそんなものは永遠に来ない」


「ほっといてください!」





【次回更新は、2019年12月20日(金)予定!】

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