二章 幽霊(2)


「さあ、どうぞ」


「失礼しまーす……」


 織口先生に続いて文学部棟一階の研究室に足を踏み入れたあたしは、部屋をぐるっと見回した。壁に沿ってスチール製のしよたなが整然と並び、あとはパソコンの置かれたデスクが一つと、座り心地の良さそうな革張りのソファとよくみがかれたテーブル、そして大きな観葉植物。大学教授の研究室と言えば本の山にもれて足の踏み場もないものだと勝手に思い込んでいたけれど、初めて目にする実物は、予想に反してれいに整理されていた。と、目を丸くするあたしの顔が面白かったのか、織口先生はくすっと小さく微笑み、そしてソファを進めてくれた。


「どうしたの、入り口で立ったまま固まっちゃって。ほら、座って休みなさい」


「あ、すみません」


「いえいえ。しかし、誘った私が言うのもなんだけど、湯ノ山さん、ちょっとかんに欠けてない? 女の子なんだから、初対面の相手にほいほい付いていくのはどうかしら。准教授って名乗ったけれど、嘘かもしれないでしょう?」


「えっ?」


 にこやかな笑みを向けられ、あたしはソファに腰を降ろしながら間抜けな声を漏らした。耳鳴りのせいで頭が回っていなかったが、言われてみればその通りだ。しっかりしなさいよ、と自分で自分に忠告しつつ、あたしは織口先生を改めて見つめた。


 女性らしい細い腕には筋肉はほとんど付いていないし、身長もあたしのほうがかなり高い。うん、この人が相手なら──可愛さや女らしさではボロ負けだが──いざとなっても、たぶん勝てるな。思ったままを口にすれば、先生は「まあ怖い」と穏やかに言った。


「ずいぶん体が締まってるけど、何かスポーツやってたの?」


「中学高校と、合気道をずっと」


 ソファの背もたれに体を預けながら、ぼーっとした声で答えを返す。あのわずらわしい耳鳴りは完全には消えてはいないものの、いつの間にか、だいぶ楽になっていた。夜中の校舎にはかなり人が少ないことや、口にしたお酒の量が少なかったせいだろう。


「……もう少しだけ休めば治ると思うんですが、いいですか?」


「学生の面倒を見るのも教員の務めですから。それで、いざましに効く、いいお茶があったかられてあげようと思ったんだけど、お茶の葉が見当たらなくて……。ゼミ室に置いてきちゃったのかな。湯ノ山さん、待っててもらっていいかしら?」


「えっ? いやそんな、休ませてもらえるだけで充分ですし」


えんりよしないの。年長者の好意は素直に受けておきなさい」


 そうとだけ言い残し、織口先生はそそくさと部屋から出て行ってしまう。残されたあたしは、白いドアを前に、ぼそっとつぶやくことしかできなかった。


「ほんとにいいんだけどなあ……」


 何となく手持になったので、部屋をうろうろ見回してみるあたし。壁に並んだ本はどれも難しげかつ分厚いものばかりで、さすが国文学の教授だなあと思わせる。准教授とか言ってたけど、教授とどう違うんだろう。そんなことをぼんやり考えながら壁に沿って歩いていると、木箱の並んだ棚の前でふと足が止まった。


「……ん?」


 研究対象が収められているのだろう、スチール棚には大小いくつもの箱が並んでいたが、そのうちの一つに──上から二番目の段の端、ほかの箱で隠すように置かれていた、二十センチほどの古びた箱に、あたしは無性に引かれていた。


 例の妙な耳鳴りが発生している時は、いつもなら気にも留めないようなものが、なぜか不思議と気になることがある。理由はさっぱりわからないまま、特定の何かが妙に意識に引っかかってしまうのだけど、どうやら、またそれが起きているらしい。酔って自制心が薄くなっていたせいもあるのだろう、気づけばあたしはその箱を手に取り、しげしげとながめていた。


「何でこんなのが気になるんだろう……?」


 黒い木箱を見下ろし、独り言を漏らすあたし。ふたには漢字で何やら記されていたが、箱自体が黒ずんでいるせいでえらく読みづらい。


「えーと、『根暗出垂』……?」


 読めることは読めたが、意味はさっぱりわからない。人の名前だろうか。それとも地名? 何かの略語? てか、そもそも読み方がわからないし。


「うーん。『ねくらしゅっすい』って読むのかな」


 こうなってくると中身が気になって仕方ない。かぎがかかっているわけでも、のりけされているわけでもなし、開けることは簡単だ。ちょっと見るくらい、いいよね。そんな言い訳を心の中でつぶやきながら、あたしはゆうわくに耐えかねて箱をテーブルに置き、そっと蓋に手を掛けた。内箱に覆いかぶさっていた蓋を持ち上げれば、年季の入った油紙に包まれたそれが姿を現し──。


「……え」


 蓋を手にしたまま、あたしはぎょっと目を見開いていた。予想外のモノの登場に、さーっと酔いが冷めていくのを感じながら、あたしは手元の箱の中身から目を離すことができなかった。


 ぽっかり空いた二つの眼窩、ずらり並んだ四角い歯、尖った鼻に丸い頭頂部。茶色く変色してはいるが、もとは白かったのだろうと思わせる色をしたそれは、どこからどう見たって、あれだった。


「ずっ、ずずずず……がいこつ?」


 目の前のものの名前を確認するように、ふるえた声が自然と漏れる。うん間違いない、これはどこからどう見たって人間の頭蓋骨だ。右耳の上あたりに大きな穴が、そして左の耳の上には丸くて小さな穴が開いていたが、全体の形はくずれておらず、これが頭蓋骨以外の何物でもないことがよくわかる。映画や漫画で知ってる髑髏どくろと比べると、何だか前後に長くてアンバランスな気がするが、実物は案外こんなものなのかもしれない。


「……で、でも、何で頭蓋骨が文学部の研究室に」


「それ、預かりものなのよ」


「ひゃああああああああああああっ!」


 唐突に背中に声を投げかけられた。青ざめた顔で反射的に振り向けば、茶っ葉のかんを手にした織口先生が、くすくすと微笑みながら立っていた。頭蓋骨に集中しているうちに、いつの間にか部屋に戻ってきていたらしい。


「だいぶ元気になったみたいで安心したわ。でも、勝手に資料をさわっちゃ駄目よ」


「す、すみません! 以後気を付けます! ……で、その、これは一体。預かりものって言われましたけど……」


 ぺこぺこ頭を下げつつ、おそるおそる問いかける。まさかいんぺい中の犯罪の証拠だったりしませんよね、それを見たあたしが消されることになったりしませんよね? そんな思いを込め、こころもち身構えながら尋ねてみれば、織口先生は頭蓋骨の箱に蓋をかぶせながら、首をあっさり左右に振った。


「心配しなくたっていいわよ。確かに、事件のがいしやのものではあるかもしれないけど、だとしても、もう時効だから」


「じ……時効、ですか?」


「そう。平安時代の寺院あとから出てきたものらしいけど、史学科の資料室がぜまになったとかで、ちょっと預かってるのよ。ずいぶんれつしてたでしょ?」


「……確かに」


 なるほど、言われてみれば確かにかなり古びていた。あたしが納得したのを見て取ると、先生は満足げにうなずき、そしてだなからきゆうと湯飲みを取りだし、笑う。


「さ、お茶を淹れるからすわりなさい」




「──へえ。それじゃ織口先生って、この大学作った一族の人なんですか」


「ええ、そうよ。もっとも、ゼロから大学を創設したわけではなくて、戦中の工場施設を流用したんですけどね。それに、織口財閥はもうないから、今はただの准教授」


「実家が元財閥ってだけでもすごいですよ。道理でお嬢様っぽいと思いました」


「あら、ありがとう。でも、湯ノ山さんのご実家もてきよ? ひなびた温泉街の代々続く酒屋さんなんて、良いじゃない」


 お互い、家は大事にしないとね。そう言い足して穏やかに微笑むと、先生は自分の湯飲みを手に取った。お茶会が始まって十五分くらいだが、先生の動作がいちいち上品で丁寧で可愛いことに、あたしはすっかり感動していた。そりゃ学生の飲み会にちょくちょく呼ばれるわけである。のっぽでガサツでどろくさいあたしとはえらい違いだ。しみじみと痛感しつつ、あたしは首を左右に振った。


「そんないいものじゃないですよ。やまがみ温泉は、知る人ぞ知るレベルの温泉街ですから、全体的にさびれてますし。で、家を継ぐにせよ外に出て働くにせよ、経営の勉強はしておかなきゃってことで、に来たんですけど……田舎育ちですから、どうも大学の雰囲気に馴染めそうもなくて……」


「コンパでは居心地悪そうだったものね。でも、まだ新年度が始まって一週間じゃない。結論を出すのは早すぎると思うわ。部活かサークルには入らないの?」


「合気道部があればよかったんですけどね」


「この大学、かくとう系の部活は結構多いんだけど、合気道はなかったかしら? 試合がしたいなら、柔道とかじゃ駄目なの? 私、顧問なのよ」


「柔道ですか? う、うーん……。それは、ちょっと違うかなって」


 やらない人には同じように見えるかもしれないが、合気道は相手の力の流れを利用し、相手を傷付けずに勝つための技術だ。掴み合ってから始まる柔道とは力の使い方が全く異なるし、そもそも合気道では試合をやらないし。野球選手に「球技だから」とサッカーやらせるようなものですよね、それ。


「それに、せっかく大学来たんだから、高校までと同じことはしたくないかな、とも思ってるんです。華やかでバラ色のキャンパスライフも楽しみたいな、とか」


「まあ、立派な夢。それにしてはコンパの雰囲気、苦手そうだったけど」


「う! で、ですから、ほんとは、そういう自分を変えていきたいわけで……」


 痛いところを突かれ、あたしは視線を逸らしてもごもごと語尾をにごした。先生はその様子を微笑ましげに見ていたが、「そう言えば」と穏やかに口を開いた。


「そう言えばね、さっきのコンパで軽部君が幽霊の話をしてたでしょ? あの場所、実は、ここのすぐ近くなのよ。帰る時は気を付けてね」


「文学部と図書館の間とか言ってましたっけ。その手の話って、多いんですか?」


「うーん、少なくはないわね。この大学って、ありものの施設を流用してるら、何に使うかわからない設備が残ってたり、建物の配置がちょっと変わってたりするの。それを知らないと、想像力が豊かな子はいろいろ考えちゃうんじゃないかしら」


「いろいろって──かいだんを、ってことですか?」


「ええ。人はどうしたってオカルトに引かれるものだし、それに、世の中には、科学で説明できないことってあるからね」


「はあ。科学で説明できないもの──ですか」


 織口先生の言葉を繰り返しながら、あたしは手元の湯飲みをじっと見つめた。もしかして、あたしの例の耳鳴りも似たようなものなのだろうか。そんな考えが自然と浮かび、心の中で定着していく。あれは単なる体質だと思っていたけれど、どこの病院でも相手にされなかったし、実はオカルトがかったものが原因だったりするのかも……? と、ふいに黙り込んだあたしの態度が気にかかったのだろう、織口先生はしげしげとこちらを見つめてきた。


「もしかして湯ノ山さん、何かそういう悩みがあるのかしら。だったら、専門家に相談してみたらどう?」


「え? い、いえ、そういうわけじゃないと思うんですが──って、え?」


 慌てて先生の言葉を否定した直後、あたしはぱちぱちと目をまたたいた。今、何とおっしゃいました?


「専門家って──そんな人がいるんですか?」


「プロじゃないわ。ただ、オカルトとか妖怪にすごく詳しい学生がいるらしいって話。直接会ったことはないけど、うわさは何度か聞いてるわね。問題を抱えた学生の相談にも乗ったりしてるみたいよ」


「そんな人がいるんですか? さすが大学」


「ふふ、変な驚き方」


 あたしのリアクションに、くすくす笑う織口先生。だがこっちとしては笑いごとじゃない。もしもその専門家がこのやつかいな体質を治してくれるなら──いや、そこまでは望まない、でもせめて原因だけでも教えてくれれば、あたしのこれからのキャンパスライフが快適になることいだ。インチキでも期待外れでも構わない。どうせ駄目でもともとである。


「……織口先生。その人の居場所と名前ってわかります?」


「確か、文学部四号館の四階、四十四番資料室によくいるらしいけど……。名前は、何だったかしら……? 難しいみようだったけど、コンパの席で聞いた話だから、ちゃんと覚えてないのよ。ごめんなさい」


「そうですか……。でも、それだけ聞ければ充分です。ありがとうございます」


 湯飲みを机にそっと置き、あたしは深々と頭を下げた。その姿を前に、先生は「武道やってる子は礼儀正しいわね」などと感心していたが、ややあっておっとりと温かい笑みを浮かべた。


「学生の役に立てたなら、教員としてうれしいわ。でも、湯ノ山さん、ずいぶん熱心に聞くけれど、何か問題でも抱えてるのかしら」


「い、いえ、そんなことないですよ?」


 文学部四号館四階、四十四番資料室。その言葉をしっかり記憶に刻みながら、あたしは頭をいた。原因不明の耳鳴りについては、別段、必死に隠しているわけでもないけれど、積極的に公表していくつもりもない。「何かあったら行ってみようかなって思っただけです」とお茶を濁せば、先生は納得したのかしないのか、ふうん、とうなずいた。


「ならいいんだけど。でも、もし行くなら、ちょっと……というか、かなり個性的な人らしいから、気を付けてね。あと、どんな人だったか教えてくれると嬉しいな」


「あ、はい! ……まあ、行くかどうかはわかりませんけどね」




    ***




「……とか言った翌日、いきなり来てみるあたしであった」


 時刻は夕方十八時、場所は文学部四号館四階。あたし、湯ノ山礼音は、四十四番資料室らしき部屋の前に立っていた。善は急げって言うしね、とつぶやきながら、目の前の灰色のドアを見回してみたが、部屋名の表示プレートは色あせて全く読めなくなっていた。もっとも、昼休みに大学図書館でコピーしてきた文学部の図面で確認する限り、ここが──というか、このフロアすべてが四十四番資料室であることは間違いなさそうだ。たぶんだけど。


「誰かに聞けばわかるかと思ってたのに……誰もいないし……」


 不安げにあたりを見回してみても、人の気配は見事にゼロ。どうやらこの文学部四号館という建物は、丸ごとが資料室や書庫として使われているらしい。道理でキャンパスの外れのへんな場所に建ってるわけだ。


「……仕方ない。入ってみるか」


 ほら、せっかくここまで来たんだし、あんまり怪しかったらその場で帰ればいいんだし。トートバッグのベルトを肩に掛け直しながら、そうの剥げたドアノブに手を掛ける。軽くひねってみたところ、どうやら鍵は掛かっていないようだった。


「すみませーん。失礼します」


 おずおずと声を発しながら、ノブを回してドアを開けば、キイキイとみみざわりなかんだかい音が響きわたった。ちようつがいが完全にびているらしい。そして、そっと中に足を踏み入れた次の瞬間、あたしは思わず声をあげていた。


「わ。本ばっかり!」


 本、本、本、本。視界の全てをぼうだいな量の書物が埋め尽くす光景に、あたしはぽかんと見入っていた。図面通りなら、教室四つ分ほどの広さがあるはずの部屋だけど、何列も並んだ本棚のせいで見通しは極めて悪く、奥は全く見えない。しかも、本が多すぎて棚には収まりきらないのだろう、床にも無造作に書物やファイルが積み上げられているせいで、足の踏み場もろくになかった。昨夜の織口先生の研究室とは対照的なこんとん具合に、あたしはしばらくあつとうされていたが、やがてハッと自分を取り戻した。


「えーと──あ、あの! どなたか、いらっしゃいますか?」


「はーい?」


 意を決して呼びかけてみれば、本棚のバリケードの奥から、すぐに男性の声が返ってきた。声の主の姿は見えないが、何だか人当たりの良さそうな声だ。あれ、意外? こんなカオスな部屋にじようちゆうしてるオカルトの専門家なんだから、しわがれた声での「誰じゃあ!」くらいはかくしていたのだけれど。とかなんとか、先輩に対して失礼極まりないことを考えていると、本棚のかげから白衣の青年が顔を見せた。


「お待たせしました。ここ、人が来ても中から見えないんだよね」


 ごめんごめんと苦笑しながら現れたのは、にゆうな笑みを浮かべた細身の男性だった。細いフレームの眼鏡を鼻に乗せ、明るい色の髪はさっぱり短くり込まれている。二の腕までまくり上げられた白衣は、使い込まれた味わいをたたえつつも汚れていないし、シャツやパンツにも折り目がきっちり。人の良さそうな表情と言い、清潔感のある服装と言い、全体的に予想外な人の登場に、あたしは再びぽかんと呆けた。と、自分を呼びつけた相手がいきなり固まってしまって驚いたのか、眼鏡の青年はきょとんと首をかしげてみせる。


「あれ、どうしたの? えーと、何か用があって来たんだよね。見たところ、お祓いのお客さんって感じじゃないけど……」


「はっ、す、すみません! 今、お祓いって言われましたが、ということはここがその、オカルトがらみの専門の」


「うん。看板げてるわけじゃないけど、いつの間にかそうなっちゃったみたいだね。というか、やっぱりお客さんだったんだ」


 我に返ったあたしを前に、白衣の青年は優しく苦笑し、ふいに深々と頭を下げた。


「そうとは知らず失礼いたしました。三年のきねまつあきと申します」


「きねまつ……さん? あ、三年だから、さんじゃなくて先輩ですね」


 聞かされたばかりの名前を確認してみる。昨夜織口先生に聞いた話では難しい苗字ということだったが、確かにあんまり聞かない名前だ。ただし見た目は全然怪しくないのだけれど、そこは噂に尾ひれが付いた結果だろうか。そんなことを思いつつ、あたしはぺこっと一礼した。こっちも名乗らないと。


「よろしくお願いします、一年の湯ノ山礼音です! あの、相談事というか、こんなこと話しても困られるかもしれないんですが、その」


「大丈夫、落ち着いて、湯ノ山さん。話は中で聞くからさ。そうそう、秘密は絶対守りますのでご安心ください」


 慣れた口調で告げながら、杵松先輩が本棚の奥へと進んでいく。その後ろ姿を追っかけていけば、ふいに、本棚とついたてとに囲まれた空間がぽっかりと現れた。八畳ほどのスペースにどかんと置かれているのは、向かい合ったクラシカルなソファだ。ソファの間にはこれまた古めかしい机がちんしているところを見ると、ここはどうやら応接コーナーらしい。


「へえ。こんな部屋があったなんて、入り口からは全然見えませんでしたよ」


「びっくりしてくれたなら嬉しいな。秘密基地みたいで気に入ってるんだ。あ、衝立の奥には入らないでね、そっちは生活空間だから」


 つい今まで読んでいたのだろう、机の上の「二十世紀げんそう文学全集」と題された本を棚に戻しながら杵松先輩が苦笑する。それにられて部屋の奥、色あせた衝立の方へ目を向ければ、たたみきの一角がちらりと見えた。畳の上にはちやだいとん、冷蔵庫にポットにコンロなどが並び、さらには小さな箪笥たんすたたまれた布団もあるようだ。何だかものすごい生活感だが、もしかしてこの先輩、ここで寝泊まりしてるんだろうか。そう尋ねていいものか迷っていると、杵松先輩は「どうぞ」と手前側のソファを示した。座って話そう、ということなのだろう。おずおずと腰をおろせば、眼鏡の似合う先輩はあたしの向かいに座り、こちらのきんちようをほぐすような微笑みを浮かべて言った。


「さて。お話をうかがいましょうか」




「なるほどねえ。おさんが合気道を勧めたんだ」


「ええ。最初は興味もなかったんですが、やってるうちに面白くなってきて。おかげで、どんどん男子化が進行してしまってですね」


 相談開始から約三十分。最初の緊張はどこへやら、気がつけばあたしは杵松先輩とすっかり話しこんでしまっていた。相談に来たはずが、話題はいつの間にかあたしの出身校や家族構成に移り、部活の思い出話を経て、今は亡き祖父や合気道教室の思い出をじっくり語っている始末だ。


「そうそう、合気道やってる時って、不思議と耳鳴りが起こらないんですよ。それもあってのめり込んで──って、あれ?」


 昔話を中断し、あたしはふと首を傾げた。そう言えばあたし、何でこんな話を延々と。耳鳴りのことしか話さないつもりだったのに、と自問すれば、杵松先輩は「ずいぶんだつせんしちゃったね」と苦笑した。


「もっとも、脱線したのはかなり前だったけどね」


「す、すみません……」


「止めなかった僕も悪いさ。それに、こっちも面白かったよ」


 今さら驚くあたしを見て、杵松先輩が優しくうなずく。すみません、と繰り返しながら、あたしは目の前の先輩のスキルにしみじみ感じ入っていた。この人は、ものすごい「聞きじよう」なのだ。相槌の合間にコメントを織り交ぜるだけなのだが、タイミングがぜつみようなものだから、ついつい話題が変な方向にずれてしまうのである。改めて感服しつつ、話の途中で出してもらったコーヒーを一口すすれば──これが出てきたタイミングもかんぺきでした──杵松先輩は仕切り直すようにあたしを見つめた。


「さて。肝心のご相談内容だけど──要するに、耳鳴りが不定期に起こるんだよね。病院でも原因は不明、心因性のものでもないとしんだん済み、と。どういう条件で発生するかははっきりわからないけれど、結構なひんで起こり、お酒を飲むと確実に出る」


「え、ええ。あっ、でも普通の耳鳴りじゃなくて」


「何人もの言葉を圧縮したような音が聞こえるんだよね」


「はい……。それで、どうなんでしょう? これ、何とかなるでしょうか?」


「うーん、それは僕には何とも言えないなあ。専門家じゃないから」


「ですよね──って、え?」


 何となくうなずいた直後、あたしは目を見開いていた。どういうことですか、それ? と、杵松先輩はほがらかに笑いながら頭を掻いた。


「ごめんごめん。言いそびれちゃったけど、実は違うんだよ、僕。この部屋の主で、学内で噂のオカルトの専門家は──絶対城のやつは、今は不在」


「ぜ──ぜったいじょう、ですか?」


 杵松先輩が何気なく口にしたその名前を、オウム返しに繰り返すあたし。杵松もあまり聞かない苗字だけれど、絶対城にはおよばない。そんな名前もあるのか、と驚くあたしの前で、杵松先輩は柔和な顔のままうなずいた。


「そう。絶対のお城と書いて絶対城。ちなみにフルネームは絶対城阿頼耶。どう、すごい名前だろ?」


「確かに……。でも、じゃあ杵松先輩は一体何なんです?」


「僕はあいつの友人の、へいぼんな学生だよ。理工学部機械工学科三年で、元演劇部」


「……元?」


「潰れちゃったんだよ、演劇部。だから今は帰宅部の理工学部生。今僕がやってる実験って、待ち時間が長くてさ。ちょっと手を加えたら最低でも三、四時間は待たなきゃいけないんだ。で、ここは静かだし、読みたい本も多いし、留守番しつつ休ませてもらってるってわけ。落ち着くんだよね、ここ」


 そう言うと、理工学部の杵松先輩は、机の上に置いたままだった分厚い本を手に取った。なるほど、そういうことですか。事情はだいたいわかったし、まず最初に確認しなかったこっちも悪いし、杵松先輩と話すのは確かに楽しかったので腹が立ったりもしない。でも、そうなると、聞きたいことが一つあるわけでして。


「じゃあ、その絶対城さん──じゃないか、絶対城先輩は、今、どちらに? 講義中ですか?」


「あいつは講義なんか受けないよ。大学にせきを置いてはいるけど、受講はしてないんじゃないかな? もちろん教えるほうでもない」


「そんな学生がいるんですか……?」


 思わず大きな声が出た。というか、講義を全く取ってないって、それはもう学生じゃないような。心の中でそうつぶやきつつ、「普段は何されてるんです?」と尋ねれば、杵松先輩はこともなげに応じた。


「この部屋で寝泊まりしながら妖怪の本読んでるよ。あと、怪しい相談に乗ったり」


 何気ない顔でそう告げると、杵松先輩は「たまには自分からその手の話を探しにいくかな」と付け足す。つまり、その絶対城先輩は、この部屋で生活しており、妖怪とオカルトがらみ以外のことは何もしていないらしい。とんでもない人もいたものだ。


「さすが大学。高校とは自由度が全然違うんですね……」


「まあ、絶対城みたいなのは特例だよ。そういうわけで、あいつは外出中だけどさ、今日の相談はちゃんと伝えておくから安心してね。もうそろそろ帰ってくるとは思うんだけど、いつまでも待ってもらうわけにはいかないし」


「ありがとうございます……。で、これ、何とか」


 なるでしょうかねえ。そう続けようとした時、かたわらに転がしておいたあたしのバッグのポケットからしんどうおんが聞こえてきた。けいたいにメールが届いたらしい。杵松さんが「どうぞ」とうながしてくれたので、あたしは一礼し、携帯を取り出した。


「あ。誰かと思ったら友香からだ」


「友達かい?」


「あ、はい。入学してから知り合った子ですから、友達になったばっかりですけど。えーと──昨日の飲み会で知り合った先輩に、今からしんれいスポットに連れてってもらうことになったから、お前もどうだってお誘いですね」


 行くつもりはありませんが、と言い足しながら、あたしはげんなり肩をすくめた。季節外れの怪談に興味はないし、それにあの軽部って先輩はどうも軽くてチャラくて信用しがたい。友香は面白がってるみたいだけれど、やめといたほうがいいんじゃないかな。でもそんなこと言うのも差し出がましい気もするし……と、返信の内容に迷っていると、問いかける声が耳に届いた。


「心霊スポット、だと……?」


「ええ。文学部と図書館の間あたりに戦国時代の幽霊が出るらしいんです。白い着物で足のない女の人が──って」


 携帯の画面を見ながら応じた直後、あたしは目を瞬いた。つい返事してしまったが、今のバリトンが効いたすごみのあるボイスは、杵松先輩のさっぱりした声とは明らかに違う。じゃあ誰だ? そう思ったあたしは、慌てて顔を上げ──。


「学内に戦国時代の幽霊? ふざけるな、そんなはずがあるか!」


「ぎゃあっ!」


 ──いつの間にか目の前に立っていた人物を見た瞬間、短い悲鳴をあげていた。


 まず目を引いたのは、病的に白いその肌だ。面長で彫りが深い顔立ちや、窪んだ眼窩、尖った鼻と相まって、陰影のコントラストがえらいことになっている。


 長い前髪のせいで表情は読み取りにくいが、髪の間から覗く眼光は鋭かった。身長は百八十ちょっと、年齢はおそらく二十代前半と見た。それだけなら、いんな男子学生ということで通じるだろうが、問題はその出で立ちだった。


 白のシャツに黒いネクタイに黒のスラックス、ジャケットの代わりに真っ黒の羽織。ざんしん極まるその着こなしは、妙に似合ってはいたが、それでもやはり異様なことには変わりない。痩せぎすの体をモノクロで覆った怪人に、あたしは思わず数秒間見入り──そして、同時に「この人だ」と心の中で叫んでいた。


 もう絶対に間違いない。この人が、この人こそが、文学部四号館四階四十四番資料室の主にして、オカルトと妖怪の専門家──絶対城阿頼耶先輩だ。


 しかし、いつの間に出てきたんです? ようじゆつでテレポートでもしたんですか? あたしたちの話を聞いてたんですか? どうしてそんな格好を? 聞きたいことは山ほどあったが、あたしが疑問を口にするより先に、杵松先輩はもののコーヒーカップを慣れた手つきでモノクロの怪人へと差し出していた。


「阿頼耶、部屋の奥にいたなら早く言ってくれればいいのに。気付かなかったよ」


「わざわざ言う必要もないだろう。出てくるつもりもなかったが、気に掛かる言葉が聞こえたからな」


 これまた慣れた手つきでそれを受け取り、ムスッとうなずく黒衣の怪人である。杵松先輩が「阿頼耶」と呼びかけたということは、やっぱりこの人が噂の絶対城阿頼耶先輩に間違いないようだ。そう心の中で確認していると、黒い羽織の怪人は湯気を立てるコーヒーをがぶりとあおり、ふいにあたしに視線を向けた。きゆうけつゆうのような顔で見下ろされ、あたしの体がびくんと震える。


「ひっ」


「何を怯える? それより、今の続きを話せ」


「い、今のって……心霊スポットのこと、ですか?」


「他に何がある? 知っている限りのことを、なるべく詳しく──いや、お前の知人が今からそこに行くと言っていたな? ならば、現場に行く途中に聞いたほうが効率が良いか。よし、そこのお前、説明しながら案内しろ」


「は、はい……? あの、あたし行くとも何とも言ってないんですが、ちょ、ちょっと待ってください! 手を離してくださいよ!」


 というかまだ名乗ってすらいないんですけども! いきなり掴まれた手を引かれながらも小声でどうにか反論すれば、それがどうした、と言いたげなれいたんな視線が返ってきた。


「話す気がないならそれでいい。だがな」


 落ち窪んだ眼窩から放たれる視線があたしを見据え、渋い声が耳を突く。このノリはいつものことなのか、苦笑しながら見守る杵松先輩を気にすることなく、絶対城先輩はあたしに背を向け、歩き出しながら先を続ける。


「急がないと、おそらくお前の知人が危ないぞ」


 ……え?




    ***


【次回更新は、2019年12月19日(木)予定!】

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