二章 幽霊

二章 幽霊(1)



【二章 幽霊】

怨みを残して死んだ人間の霊魂が、生前の人格や記憶、容姿を保ったまま現世に現れたものをいう。足がなく、白の経帷子を身に纏い、額に三角紙を付けた姿が一般的。




*****




「だからマジだっての。オレ、マジでれいかんあるんだって」


「私、そういう話大好きなんですけど? かるセンパイ、霊見たんですか、霊?」


「見たから言ってるに決まってるっしょ、ちゃん?」


 ざわつく居酒屋の一角のおしきせきで、軽部と呼ばれた金髪で細身の青年が、しまりのない笑みを浮かべてうなずいた。「東勢大学経済学部学生委員しゆさいしんかんコンパ御一同様貸し切り」の紙が張られた壁にもたれながら、軽部さんは「しかも見たのすげえ最近だし」と先を続けた。その言葉に、彼の隣に座っていたこうはい女子であり、あたしの友人でもある友香は、興味ありげに身を乗り出す。


「えー、ほんとですか? 信じちゃいますよ、私」


「信じてよ。うちの大学、そう広くもないくせにさ、文学部と図書館の間が、意味もなく森になってるんだよね。昼間から薄暗いし虫も多いし、だんはめったに通んねえんだけどさ、その日はゼミ室で騒いでたら深夜になっちゃって、コンビニの夜勤にこく寸前だったから、仕方なくあの森エリア通ったのよ」


「いきなり怪しいんですけど。何でわざわざそこ行っちゃうんです?」


「バイク停めてあるちゆうりんじようまで近道なのよ。もう真夜中だったからマジ暗くて、ケータイの光だけ頼りにして早足で歩いてたわけ。そしたら、木の間に、何かこう白い人がヒョッと見えたわけ。最初は布か何かが引っ掛かってるのかと思ったんだけど、どうも女の人っぽいんだよね。あ、どうしてわかったかって聞きたそうな顔。手招きしてるんだもん、そりゃ人に決まってるっしょ」


「手招き……ですか? おいでおいで、みたいな?」


「そ。白いワンピに白のぼうの女の人がさ、こうやって、こっちに来い、こっちに来い──ってさ。で、つう、呼ばれりゃ行くじゃん? こんな場所で何してるのかな、とも思ったし。だけど、ちょっと近づいた時、オレ、気づいちゃったわけよ。あの人が頭につけてるの、アレ、帽子じゃなくて、三角形の布じゃね? ってさ。しかもよく見たら、着てるのも白い着物で、何か足のあたりがぼんやりけてるみたいな──ってところで、続きはCMの後!」


「え、えっ? どういうことです?」


 いいところで話を切られ、友香が目を丸くする。そのリアクションが期待通りだったのだろう、軽部さんはニタッと笑うと、友香に顔を近づけ、言った。


「食いつくなあ。この後、聞きたい?」


「当たり前じゃないですか! そこまで言って止めるなんてありえませんけど!」


「だよねー。だったら、友香ちゃん! もう一杯行ってみよう!」


「結局そうなるんですかー? 私、もうふらふらなんですよー」


しやべれる間はだいじよう! てか、一年の間はつぶれるのも仕事だしね。なんつーか、オレもそうやってきたえられたし? おっとっと、こぼしちゃよ」


 軽い口調で語りつつ、軽部さんは慣れた手つきで友香のグラスにビールを勢いよく流し込んだ。ぶばっ、とあふれるあわを見て、あたし、湯ノ山礼音は、思わず顔をしかめた。安さと量がまんの居酒屋チェーンとはいえ、もうちょっとていねいに注いでもいいんじゃないですか。溢れてるし、泡だらけだし。


 隣の友香同様、「新入生の場所!」のポストイットが貼られた席で、あたしはウーロン茶のグラスを手にしたまま、乱暴に注がれたビールをあわれんでいた。金を払った以上飲み方は自由だ、という意見もあるだろうけど、できるならちゃんとしく飲んでほしいというのがメーカーであり、売り手の意志であるはずだ。だとすれば、一人ひとりむすめとして実家の酒屋をぐために──まあ、継ぐかどうかは決めかねていたりもするのだけれど──経済学部の経営学科に進学してきた身としては、一言口を挟むくらいはいいだろう、うん。


 てか、それ以前に、未成年に堂々と飲ますのってどうなのよ。


「あの……軽部さん、でしたよね? やっぱりこういうのは良くないと」


「固いこと言わないの! はい、行きますよー!」


 口を挟んだあたしを軽くいなし、軽部さんが大きな声を発した。びんをドンと机に置いて注目を集め、「さあ」と両手を広げてみんなを煽る。


「皆さんもご一緒に! ちゃんのお、一気に飲むとこ見てみーたい! ほーら一気、一気、一気」


 軽部さんのびように合わせ、同じ机を囲んでいたグループが「一気」「一気」とコールを始める。友香は並々とビールの注がれたグラスを手にしばしふらふらしていたが、徐々に早くなっていく一気コールに急かされたのだろう、泡だらけの黄色い液体を、グイッと一息で飲み干した。友香が「ぷはあ」と漏らした息に応じて、はくしゆかんせいこる。「やるね」だの「それでこそ」といった感動的な言葉が飛び交う中、壁にもたれてウーロン茶を一口すすれば、どんよりした溜息が自然と落ちた。


 ……ああ。駄目だ。馴染めない。


 友香にさそわれて足を運んでみた学生委員主催の新入生かんげいコンパだが、始まって一時間あまりが経ったにもかかわらず、あたしはがいかんを覚えっぱなしだった。


 無論、このノリというか空気にんでわーっと盛り上がってしまえばいいというのは、頭ではわかっている。せっかく大学に入って一人暮らしを始めたからには、コンパやイベントだらけの華やかなキャンパスライフを体験してみたいとも思っているし。だけど。でも。


 ──湯ノ山、気さくなくせに、変なところで真面目で強情だからな。


 高校時代の恩師である合気道部のもんの先生の言葉が、頭の中でさみしく響く。そうなんだよね、ほんと。持ち前のこのめんどくさい性格に加えて、あたしの場合、法律うんぬんとかではなく、お酒が飲めない理由もあるし。


 で、その理由は置いておくとしても、である。適当な普段着でいいよ、とか言ってたくせに、女性じんはメイクばっちりだし、男の人も皆さん高そうな服にアクセサリーじゃらじゃら付けてるわけで。そんな「がんってオシャレしてるよ!」感に溢れたメンバーの中で、無地のTシャツにホットパンツ、おまけにノーメイクのあたしは、女子らしからぬ長身やまった手足のせいもあって、笑えるくらい浮いていた。


 ……やっぱり、友香に誘われた時、きっぱり断っておくべきだったよね。


 再びこぼれる小さな溜息。ふらつきながら軽部さんにもたれかかる小柄な同級生を横目に、あたしはウーロン茶を再び飲んだ。あのさ、その先輩にあんまり甘えない方がいいと思うよ。軽そうだし、下心丸見えだし。つい、そう声を掛けそうになったが、やっぱりやめておく。友香は楽しそうだし、こういう場の空気に慣れてないあたしがおかしなこと言って雰囲気こわすのも申し訳ない。おとなしくしていた方が無難だろう。そもそも、あたしは別に友香の保護者でもないのだし。


 講義の始まった日の昼休み、学食で一人でカツどん食べてたところを「二コマ目の経済がいろん取ってた人だよね? 私、後ろに座ってたんだけど、一緒にお昼食べる友達いなくってー」と声を掛けてきたのが、友香だ。意味がよくわからなかったので、昼ごはんくらい一人で食べればいいのに、と言ったら、「ありえないんですけど」とばくしようされ、それ以来の付き合いだ。


 友人知人というよりも、一方的になつかれ、面白がられている関係だってことは、ぼんやりだけど気付いている。だがそれを言うなら、あたしだってこの小柄でオシャレで可愛かわいい同級生を、友人ではなくあこがれとして見ていたりもするのだから、おあいこだ。


 こんなふうになれればいいな、可愛いな、楽しいだろうな、とは思うが、あたしには無理だってことはわかってる。背が高くてしようっ気もなく、メイクの基本すらよくわかっていないあたしには。そんなことをぼんやり思うあたしに気付くことなく、やたら長いまつげを装備した友人は、大量の泡が残ったグラスをテーブルに下ろした。


「よーし、飲んだぞー! で、さっきの続き聞かせてほしいんですけど」


「泡めっちゃ残ってるじゃん。オレらのルール的にはナシだけど、友香ちゃん可愛いからまあいいか! おめでとう!」


 勢いよく手を伸ばし、友香の肩をぐいっとせる軽部さんである。未成年にばかすか飲ませることの何がめでたいのかはさっぱりだけど、彼が友香を気に入っていることだけは確実だ。どんどん距離めてるし。まあ、友香のほうもいやがってるようには見えないし、だったらあたしがどうこう言うことじゃないけれど。


「でもさ友香、やっぱりこういう飲み方は……」


「んー? 礼音、にゃんか言ったー? そんなことより礼音も飲めえー」


 あたしの言葉を遮りながら、友香がろれつの回らない口調で問いかけてくる。と、軽部さんは、お目当ての後輩が取られてしまうと思ったのか、「オレの方見てよ」と強引に友香の肩を引き寄せた。


「何でそっち行っちゃうのさ。霊の話の続き、聞きたいんでしょ?」


「軽部センパイがなかなか話してくれないからなんですけどお」


「ごめんごめん。でも実は、そんな話すことなかったりするんだわ。白い着物でおでこに三角形で、しかも足がないわけっしょ? うわこいつ生きた人間じゃねえ、って思ってさ、全力で走って逃げただけだし。以上、おしまい!」


「お、おしまいって──えー! 何ですか、そのバラエティの放送終了ぎわのCMまたぎみたいなオチ! ありえないんですけど!」


「まあまあそう怒るなって。その時はそれで済んだけどさ、オレ、気になって調べてみたわけよ。あそこで何かあったのかなって。ほら、オレ、昔っから霊感ある方だったから、そういう背後関係とか気になるんだよね」


「……それ、霊感関係なくないですか?」


「ツッコミ厳しいねえ友香ちゃん! まあいいじゃんか、そんなこと! それより調べた結果の話、させてよ。ゼミの先輩とか教授に聞いてわかったんだけど、うちの大学──東大って、創立は昭和だけど、土地には、意外に歴史があるんだよね……」


 もったいぶった声で語る軽部さんだが、ここの学生ならそれくらい知ってて普通じゃないんでしょうか、とあたしは思った。大学案内のパンフにも書いてあったし。


 ちなみに大学の名前は、私立東勢大学。M県の県庁所在地の隣、てんなわしろちようやま一〇〇〇の一に位置する私立大で、県内ローカルでの通称は「東大」。経済学部に文学部、理工学部に農学部までそろった、文理両道でへんそこそこの、地方都市にはよくあるタイプの私立大である。


 元々ここには、戦前に何とかざいばつという金持ちが立ち上げた工場だか鉱山だかがあったのだが、終戦後、そのせつを流用かつ改修して立ち上げられたのが、この大学なんだとか。そのため、全体的に古めかしい作りの建物が多い。使い勝手はあまり良くはなさそうだが、私立にしては学費が比較的安いのはそのおかげだって話もあるので、あんまり文句は言えないのでした。などとぼんやり思うあたしの隣のそのまた隣で、軽部さんの自慢げな話はまだ続いていた。


「……そんで、その戦に負けた領主がひどい奴でさ。自分の隠れる先を漏らすかもしれないって、逃げる前に、治めてた村を全部焼き払えって命令したらしいのよ。むごいけど、まあ武将的には仕方ないよね。その時にていこうした農民の娘がいたんだけど、これがあっさりしよけいされちゃって、埋められたんだって。で、その場所が──」


「さっき軽部センパイが白い女を見たところ……?」


「正解! 友香ちゃん意外にかしこいなあ」


「これくらい誰でもわかるんですけど。私馬鹿にされてます? てか軽部センパイ、今時、白い着物に頭に三角形の霊って、古いように思うんですけどー」


「あ、友香ちゃん、もしかして信じてない? 戦国時代の霊だからスタイルが古いのは当たり前じゃん。それにさ、考えてみなよ。昔からそういう姿だって伝えられてるってことは、そういう霊を見た人が多いってしようじゃんか」


「あ、そっか!」


 そうかそうかと繰り返しながら、何度もうなずく友香。さっきのビールが回ってきたのだろう、体が左右にふらふらと揺れ、視線が定まらなくなってきている。


「それもそうですねー! 軽部センパイ、頭良いんですねえ」


「まあね? それにさ、オレがそれ見たのって、夜中の二時半くらいだったのよ。昔で言ううしどき。柳田ナントカって有名な学者が言ってる通り、幽霊ってその時間に出るんだよね、やっぱさ」


 軽部さんの自慢げなトークが、聞きたくもないのに耳にすべんでくる。はいはいそうですか。心の中で相槌を打っていると、軽部さんは「そもそも日本って」と語りつつ友香の肩を抱き寄せた。


「歴史の長い国だけど、霊の記録も古くから山ほど残ってるのな。すがわらのみちざねとか聞いたことない? まあいいや、とにかく日本には昔から霊が出るのよ。というわけで、どう? オレと見に行かない? 大丈夫、何もしないから」


「何そのオチ! 結局誘ってるだけなんですけど! てか確かに見たいですが、たたられたりするとマジ困りますし──そうだ、礼音も行こうよ」


「いやです」


 いつの間にか空っぽになったグラスを片手に、あたしは首を横に振った。霊なんて実在するとは思わないが、実在したらしたで、興味本位で見に行くべきものではないだろう。と、あたしの態度が予想外だったのか、友香は軽部さんと顔を見合わせ、そして同時に笑い声をあげた。


「やだもう! きっぱり断りすぎなんですけど!」


「ねえ? てか、礼音ちゃんだっけ? キミさあ、さっきからずーっとその調子じゃんか? こんなこと言いたくないけどさ、まわりも暗くなっちゃうんだよね。空気読んでよ、空気。友香ちゃんフレンドリーなのに、キミ、全然飲んでないじゃん」


「自己紹介の時に言いましたが、お酒は飲めません。未成年ですから」


 なじるような視線を受け、あたしはきっぱり言い返す。意外に強い口調になってしまったせいか、軽部さんは一瞬だけひるんだが、すぐにやれやれと苦笑した。


「だーかーらーさー。そういうノリがコンパの空気壊すって言ってるの。……友香ちゃん、キミの男友達みたいな女友達、どうにかしてよ」


「軽部センパイ、その言い方ひどいんですけど! 礼音は確かに男の子みたいですけど、面白いでしょ? 実家は飲み屋さんなのに飲まないんですよ?」


「飲み屋じゃなくて酒屋だから。それに、酒屋だからこそ年齢制限守ってるんです」


「飲み屋も酒屋も似たよーなもんだと思うんですけど! てかね、もう、そのブッキラボーな口調が! ツボすぎてウケる!」


 何がそんなにおかしいのか、軽部さんにもたれかかりながら爆笑する友香である。別にウケませんけども。そうぼそっとつぶやけば、それがさらにツボだったらしく、呼吸困難になるほど笑われた。


「あのさ、友香? それ、いくら何でも笑いすぎじゃ──」


「まあまあ、そう怒らない怒らない。楽しい新歓でマジになってどうすんの。ほら、新しいウーロン茶頼んであげたからさ。これでも飲んで落ち着きなよ」


「……はい」


 ありがとうございます、と小さく頭を下げ、あたしは突き出されたグラスを受け取った。確かに、この場でキレるのはあんまりぎようの良い振る舞いではない。落ち着きなさい、湯ノ山礼音。そう自分に言い聞かせながら、あたしは氷の浮かんだグラスをぐいっと傾けた。よく冷えたウーロン茶がのどから流れ込み、熱くなりつつあった体と心をほどよく冷ましてくれる──はず、だったのだけど。


「……ん?」


 おんな違和感を覚えたのは、ウーロン茶のはずのそれを、ごくんと飲み終えた直後だった。予想外の味に顔をしかめるあたしを前に、軽部さんがニタッと笑い、「大成功!」とVサインを突き出した。


「実はそれ、ウーロン茶じゃなくて、ウーロンハイなのでした! どうよ友香ちゃん、オレの飲ませテクニック!」


「今のって軽いなんですけどー」


「でもさ、そうでもしないと友香ちゃんの友達飲んでくれないっしょ? で、礼音ちゃんだっけ? どうかな、アルコールの感想は──」


「……何てことするんですか」


 押し殺した声とともに、中身が半分以上が残ったグラスを、叩きつけるようにテーブルに置く。「やだもう、飲んじゃったじゃないですかー」とかそんなリアクションを期待していたのだろう、まどう軽部さんの前で、あたしの顔色がさっと変わった。同時に、ざわ、という音が耳元で──いや、耳の中で響いたかと思うと、その音はあっという間に拡大していった。


 ──ざわ。


 ──ざわざわざわざわ。


 ──ざわざわざわざわざわざ、ざわざわざわざわざわざわ……!


 最初は小さかった耳鳴りは、一瞬のうちにけんそうのような大音量と化し、脳内でじゆうおうじんに暴れ回り始めた。


「……あ……うっ!」


 あまりのやかましさに、あたしは思わず耳を押さえていたが、実際に音が聞こえているわけでもないので、そんなことで止まるはずはない。もんうめきを漏らし続けるあたしを見て、友香と軽部さんは意外そうな顔を見合わせた。


「あ、礼音? 軽部センパイ何飲ませたんです?」


「え? いや普通のウーロンハイだけど……。ちょ、だ、大丈夫?」


 今さらのように軽部さんがあたしをづかってきたが、応じるゆうは全くなかった。響き続ける耳鳴りに心を埋め尽くされないよう、意識を保つのが精一杯だ。


 今、「耳鳴り」という言葉を使ったが、これは、普通の耳鳴りとは全く違う。そもそも聞こえる音が違う。無理矢理何かに例えるならば、「いろんな国の言葉が、何重にも、何十重にも折り重なって圧縮されたような音」とでも言えるだろうか。何十人もの相手に同時にられているような、と言ってもいいかもしれない。そんな音が耳の中で、フルボリュームかつエンドレスに響くのだ。このやかましさは、何度経験しても慣れることができなかった。


 体質なのか持病なのか、とうとつにやってくるこの耳鳴りに、あたしは幼い頃からずっと苦しめられてきた。定期的に起こるものではないけれど、少なくとも週に一回ははつしようしていたのは間違いない。ひどい時には、体を動かすどころか、ものを考えることすら苦痛になるほどで、こいつのせいで学校を休んだことも何度かある。どうにかしたいのは言うまでもないが、どの病院でも原因はさっぱりだったし、精神的なものでもないらしい。なので、きっかけも仕組みもよくわからないけれど、アルコールをせつしゆすることで確実かつばくはつてきに起こることは、中二の秋、家の手伝いのちゆうに味見をさせられたおかげで、経験則として知っていた。


 そう。だからこそあたしは、お酒だけは飲まないように気を付けていたのだ。なのに……なのに!


「軽部さん、言いましたよね? あたし、お酒は飲めないって……!」


「そ、そんな怒らなくてもいいじゃんか、ね? てか、アルコール駄目な体質の人だった? でも、顔色悪いわけでもないし……」


「で、ですよね軽部センパイ? ほら礼音、みんな見てるしさ。とりあえず空気読んでよ、ね?」


「……無理」


 戸惑いながらなだめてきた友香にそうとだけ告げ、あたしは自分のバッグを掴んで立ち上がった。ざわざわとくるう耳鳴りを全力で無視しながら──ああ、ものすごいぎようそうになっているのが自分でもわかる──リュックから財布を取り出し、軽部さんに向き直る。


「あたしはお先に失礼します。会費はこれくらいでいいですか」


「え? い、いや、一年の女の子からは取らない伝統だから……」


「自分で飲み食いした分は払います。ここに置きますね」


「いやだからさ、そういうことされると伝統的に──」


「失礼します!」




「……っ」


 台詞ぜりふを残して店を出た直後、例の耳鳴りもどきが激化する。えきれず、あたしは電柱にもたれかかっていた。四月半ばの大学前の居酒屋通りでは、あちこちで新入生かんげいかいが行われているのだろうし──それに、なぜかこの耳鳴り、周りに人が多いほど激しくなるのだ。


「とにかく、どこか静かな場所へ行かないと……」


「だったら、近くで休んでいったらどうかしら」


「いや、アパートまで歩いて二十分くらいですから──えっ?」


 反射的にそう応じたけど、誰だ今の。慌てて振り返れば、見たことのない女性が一人、あたしのすぐ後ろに立っていた。


「この時期には多いのよね、こうやって体調悪くしちゃう一年生。勢いで飲ませるのって、私は感心しないのだけど……って、ごめんなさい。びっくりさせちゃったかしら? あんまり調子が悪そうだったから、心配になって」


 目鼻立ちの整った小さな顔に、面倒見の良さそうな優しい表情。長い髪は大きなバレッタでまとめられ、後ろにふわっと流れている。薄緑色のブラウスと水色のワンピースという組み合わせも相まって、いかにもいいところのおじようさまっぽいけど──誰だろう、この人? たまたま通りかかって具合悪そうな後輩を見かけた上級生だろうか。きょとんと首を捻ったあたしを前に、謎のお嬢様は「悪いことは言わないから」と優しく苦笑した。


「休んでいきなさい。二十分も歩けるようには見えないわよ。文学部の校舎はここからすぐだし、私の研究室には、今、誰もいないから。お酒に慣れないうちは無理しちゃ駄目よ、湯ノ山礼音さん」


「どうしてあたしの名前を? というか、えーと、どなたでしょうか……?」


「名前を知ってるのは当然でしょう? ついさっきまで同じお店にいたんですもの。自己紹介タイムには遅れちゃったし、席も離れていたから、私を知らないのは仕方ないかもしれないけれど」


 小さな溜息を落とすと、その女性はあたしを見つめ、そして優しく微笑ほほえんだ。


「東勢大学文学部国文学科じゆんきようじゆおりぐちです。よろしくね」


「あ、どうも。経済学部一年の湯ノ山礼音です──って、ええっ? せ、先生なんですか? てっきり先輩の学生とばっかり」


「よく言われる。童顔なのよ。これでも二十八なんだけど」


「は、二十歳そこそこだと思った……。でも、何で文学部の先生が経済学部のコンパに?」


「学生委員には親しくしてる子が多いから、今日みたいな場所に誘ってもらうことも多いのよ。呼ばれたからには、付き合いで顔を出しておきたいし」


 もっとも、にぎやかなノリは苦手だから、たいてい途中で抜けちゃうんだけど。申し訳なさそうに苦笑すると、見知らぬ美人の先輩は──ではなく、文学部の織口先生は、話を区切るようにヒールをかつんと鳴らしてみせた。


「立ち話はここまで。さ、行きましょう、湯ノ山さん」




    ***


【次回更新は2019年12月18日(水)予定!】

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