一章 べとべとさん(2)




「なーにが! 『俺はいつでもそこにいる』だか!」


 少し時間が進んだ後の同じ場所、深夜の校舎の一角にて。あたしは、いかりをしにした声とともに、廊下のゆかに伸びていた電気のコードを覆っていたビニールテープに手を掛け、勢いよくがした。


「スピーカー仕掛けた校舎にいたいけな女の子を引っ張り込んでみような足音鳴らして怖がらせて騙くらかしてお金取って、偉そうに説教までするなんて、どこまで根性悪いんですか。一回バチが当たればいいのにまったくもう」


 丸めたテープを片手に持ったゴミぶくろに放り込みながら、呆れた声で先を続ける。床の上に伸びている薄茶色のテープは、見事に床と同じ色で、一見しただけではどこにってあるのかわからない。か細いペンライトくらいしか光源がなかったりした場合は、全く気付きもしないだろう。そう、まさか電源とスピーカーと音源とをつなぐコードをこのテープが隠していたなんて。


「……まあ、あっさり騙されちゃう方もどうかと思うけどさ」


「文句が多いぞ。口よりも手を動かせ」


 あたしがエンドレスに垂れ流していたに、男の声が割り込んできた。はいはい、わかっておりますよ。こつにめんどくさそうな顔で振り向いてやれば、廊下のすみのゴミ箱にどっかり腰掛けた黒服の男と目が合った。さっきまではペンライトしか持ってなかったそいつは、どこにそんなものを隠していたのか、夜間工事の現場で使われるような大型のハンディライトでこちらを照らしている。おかげで明るくて作業はしやすいのだけれど、だがしかし。


せんぱいも見てないで少しは手伝ってくださいよ。このインチキのネタ、朝までに回収しなくちゃいけないんでしょ?」


「安心しろ、お前の作業スピードなら時間内には終わるはずだ」


 あたしが向けた怒りと呆れを受け流し、肩をすくめる羽織の怪人。言うまでもなく、ついさっきまでここを歩きまわりながら妖怪べとべとさんのこうしやくを繰り広げていたあの男だ。ワイシャツに黒の羽織を重ねた学生なんて、学内にそう何人もいるとは思えないし、いてほしいとも思わない。


 だいたい、何なのよ、その着こなしは。和装か洋装かはっきりしなさい。全く笑顔を見せないってのも人としてどうか──と、そこまで考えたところで、あたしは首をぶんぶんと左右に振った。いかんいかん。たとえどんな人物であれ、外見に文句を付けるのは良くないことだ。


「……それに、見た目については、あたしも人のこと言えないしね」


 そう苦笑すると、あたしは改めて自分自身に目を向けた。


 ほぼ毎日おみの無地のTシャツとホットパンツに覆われた体は、大学一年生になったというのに相変わらず女性特有のおうとつに欠けており、自分で言うのも何だけど男子っぽかった。


 百六十九センチという女子らしからぬ長身や、短くしている髪のせいもあって、初対面の相手に男子とかんちがいされることは、はっきり言って少なくない。せめてもうちょっと女子らしい服を着ればいいのにとアドバイスされたこともあるけど、そう言われても何着ていいかわかんないし、似合うとも思えない。そもそも、こういうの以外に持ってる私服はジャージか道着くらいだし。心の中でつぶやきながら、丸めたテープをゴミ袋に押し込めば、はあ、と小さな溜息が落ちた。


「てか、何が悲しくて、夜中の校舎でゴミ拾ってるんだろ、あたし……」


「何をぶつぶつ言っている。作業を進めろ、ユーレイ」


「今やってるところです! 見ればわかるでしょう?」


「わかる。しかし実際遅い」


「ですから絶対城先輩、そう思うなら手伝ってくださいよ! あと」


「何だ」


「ユーレイって呼ぶのはやめてください!」


 背筋を伸ばして立ち上がり、あたしは先輩を──絶対城阿頼耶を、まっすぐ見上げてそう言った。先輩の身長は百八十ちょっとなので、あたしよりも目線が高いのだ。作業灯の光が作り出した長い影を背負いながら、あたしはひときわ語気を強める。


「あたしの名前は、やまあやです」


 先輩をまっすぐ見上げながら、きっぱりと自分の名前を告げる。


 これが初対面の自己紹介ならば「とうせい大学経済学部一年生、しゆと特技は合気道、大学へはこの春に入学し、一人暮らしを始めたばかりです」くらい付け足すところだが、あいにく目の前の怪人とはすでに知り合ってしまっている。ああ、大学に入ったらスカッとあかけて、はなやかなキャンパスライフ送るはずだったのに。何度繰り返したかわからないなげきを心の中でつぶやきながら、あたしは先輩をにらんで言い足した。


「というわけで、あたしはユーレイじゃありませんから」


「お前の名前くらいは知っているが、その上でユーレイと呼んでいる。姓と名の最初の字を繋げれば、『湯』と『礼』でユーレイになるからな。違うか」


「え? い、いやまあ、『違うか』と言われれば、違わないんですけど……何度も言いましたように、そのあだはあたし的には納得してないわけで」


「呼び名など通じさえすればそれでいい。ゴミとでも呼んでほしいのか」


「……ユーレイでいいです」


 どうやら、これ以上話したところで事態が悪化するだけのようだ。あたしは大きく肩を落として溜息をくと、テープを剥がしてコードを巻き取る作業に戻った。


 くやしいことは言うまでもないし、こんな横暴な男の言いなりになるのはしやくではあるが、あんまりごねてヘソを曲げられると困るのはあたしのほうだ。のっぴきならない事情がある以上、従うしかない。ふくとぼしい胸元にぶら下がったリング状のペンダントを見下ろしながら、あたしは自分に言い聞かせた。


 テープは丸めてゴミ袋に、その下のコードは巻き取り、ところどころに仕掛けられた薄い円形のスピーカーは後でまとめて回収できるよう、廊下の隅に寄せておく。もくもくと作業を進め、やがて廊下の角に至るころ、あたしは「あの」と声を発した。


「……ちょっといいですか、先輩」


「手を止めないのであれば答えてやる。何だ」


「あの──あれって、結局、ストーカーだったんですよね? さっきのお姉さんに付きまとってた足音の正体。ほら、先輩がベトベトって説明してた」


「ベトベトではなくべとべとさんだ。ものの名前は正しく呼べ」


 ビニールテープを剥がしながら問いかければ、すかさず先輩のていせいが入った。自他共に認めるオカルト関連の専門家だけあって、こういうところは細かいのだ。はいはい、とうなずくと、あたしはちらっと先輩に振り向き、言葉を続ける。


「二股だか三股だか掛けられてた男の一人が、どうもオレは遊ばれてるらしいって気付いて、あの子をこっそりつけ回してたんでしょう? で、その気配を感じたあの子が、変な足音に付きまとわれてると思い込んで、先輩に相談してきた……」


「よく知っているな。誰から聞いた情報だ?」


「……今、あたしの後ろにいる男性からです。いっつも黒のネクタイに黒の羽織で、大学のはずれの資料室の主で、年齢しようの本の虫。人付き合いはほとんどなさげなのに、さんくさい事件の専門家として学内では妙に有名だったりします」


 作業の合間にちらちらと後ろへ振り向きつつ、おさえた声で説明してやる。と、それを聞いた先輩は、意外そうに右のまゆだけをぴくりと動かし、「ほう」とつぶやいた。


「そんな奇妙な男が俺以外にもいるとは知らなかった」


「先輩のことに決まってるでしょう! ……というか、情報の出所はこっちが知りたいくらいなんですけど」


「どういう意味だ?」


「あの子の相談内容って、おかしな足音が付いてくるよー、怖いよーってだけでしたよね? なのに先輩、次の日にはもう全容を掴んでたじゃないですか。『ストーカー本人に会い、真相を隠すことを条件に尾行の中止をしようだくさせた。あとは依頼人を納得させる理由を用意するだけだな』とか自信満々に言ってましたし……。あれ、どうやって真相を暴いたんです? あんな真面目そうなお姉さんが彼氏いっぱい作ってたってのも驚きましたけど、それよりそっちが気になって気になって」


「俺の情報源まで、お前に説明する義理はない」


 あたしのきようしんしんの問いかけを、先輩はばっさり切り捨ててしまった。残念ではあったけど、割と予想の範囲内なので、そこまでがっかりはしていない。この先輩、妖怪絡みに関してはじようぜつなくせに、自分に関することはほとんど教えてくれないのだ。ねばっても時間のだと判断したあたしは、質問を変えてみることにした。


「じゃあ、何でそのことを正直にあの人に教えてあげなかったんですか……? 君の恋人の誰かがストーキングしてたけど、もう止めさせたよ、って言ってあげれば済んだ話ですよね」


「馬鹿かお前は。そんなことをすれば、彼女の尾行を繰り返していた男のじようを話さねばなるまい」


「話せばいいじゃないですか。当然の報いです」


「それが無理だと言っている。やつからは相応のくちふうじ代を受け取っているからな」


 あたしの後をのんびりと歩きながら、先輩がけろりと言い放つ。ああ、なら仕方ないですよねと納得しかけた次の瞬間、あたしは再び大きな声を出していた。何それ。


「ええっ? 依頼人さんだけじゃなくて、ストーカーからもお金取ってたんですか? それで妖怪のせいにして丸く収めるなんて……。ちょっと悪質過ぎません?」


「善悪は得てして相対的なものだ。妖怪の大多数は、すっきりしない物事に対し、納得し満足できる説明を与えられるために用意された社会的装置。先人の残した知恵を利用して何が悪い。それに」


「それに、何です?」


「金はあっても困らない」


 全く悪びれることなく、きっぱり告げる絶対城先輩。そこまではっきり言い切られると逆にすがすがしいですよ。呆れた、と肩をすくめると、あたしは「でも」と続けた。


「それで分かりました。犯人を出さずに事件を解決するために、足音仕込んで、あの妖怪──何でしたっけ? ぺとぺとだか、ぬとぬとだかをでっち上げる必要が──」


「べとべとさんだ」


 ざっくりした断言が、あたしの声を断ち切った。どうしてどいつもこいつも名前をちゃんと覚えない。いまいましげにつぶやく声が、あたしの背中に投げつけられる。


「そもそも、べとべとさんは一級の資料に明確に記録された、極めてゆいしよ正しい妖怪だ。でっち上げなどでは決してない。だいたい、適当な妖怪をねつぞうでもしてみろ。今回の依頼人が後日俺の説明に不信感を覚え、何らかの資料に当たった瞬間、仕掛けがバレてしまうだろうが」


「でも……どっちみちインチキなんだからいつしよじゃないんですか?」


「全然違う。実在する妖怪の仕業ということにしておけば、万一調べられたところで、俺の話した情報は数多あまたの資料に記載されているからな。その結果、依頼人は『やっぱりべとべとさんは昔からいるんだ。あれは本当に妖怪の仕業だったんだ』と納得し、万事丸く収まる」


「う、うーん……。丸く収まってるって言うんですかね、それ……」


 自信満々に語る先輩だったが、あたしは首をひねらざるを得なかった。既にあたしもインチキに加担しているわけで、バレてしまうと困るのは確かだけれど、それはそれとしてうそとトリックでお金を巻き上げるのはやっぱりどうにもすっきりしない。腕を組んだまま難しい声を漏らすあたしを見て、先輩は「強情な奴だ」と溜息を吐いた。あなたに言われたくはないです、先輩。


「いいか、ユーレイ。無知なお前がどう思おうが、べとべとさんの伝承はれっきとして存在するんだ。実体はなく、足音だけが後を付けてくるという、後追い系の怪異の一種であるそれは、『妖怪談義』や『綜合日本民俗語彙』にもその名を残す──」


「そこを否定してるわけじゃないですよ。その説明なら、先輩が話してたの聞いてましたし。先へお越しって言うとどっか行っちゃうんでしょ?」


「何だ。お前、とうちようの趣味があるのか」


「ありませんけど、やれって言ったの先輩じゃないですか」


 人をイラつかせるために生きてるのか、このモノクロ人間は。そろそろまんぱいになってきたゴミ袋にテープを無理矢理押し込みながら、先輩をぎろっと睨んだ。合気道の道場でも定評のあった強い視線を向けながら、あたしは言葉を重ねる。


「先輩、言いましたよね。依頼人を連れて校舎をぐるぐる周回するから、お前は教室に隠れてスピーカーを操作して足音を流し、俺達の後ろから足音が追ってくるように思わせろ、って。だからあたしは先輩の持ってるマイクから聞こえる音に耳をましてですね……」


「お前の役目を今さら俺に説明する必要はあるまい。それとも何か? よくやった、とめられたかったのか」


「違いますっ!」


 そう言い放ったあたしの声は、たぶん今夜一番大きかった。あと顔もじやつかん赤かったと思う。誰がそんな話をしてますか、と呆れながら先輩に背を向ければ、暗い廊下に不気味に伸びたあたしの影が目に映り、思わずぞくっとかんが走った。


 今夜の仕込みの時から感じていたことではあるけれど、夜の大学は当然ながら暗く、そして不気味だ。今だって、作業灯の光が届いていない場所は言うまでもなく真っ暗で、ストーキングしてくる妖怪がひそんでいたっておかしくないと思えてくる。気づけばあたしは、こころもち声のトーンを押さえながら、「先輩」と問いかけていた。


「変なこと聞きますけど、妖怪って──と言うか、その『べとべとさん』って、その……ほんとにいるんですか?」


「いるわけないだろう」


 この上なくざっくりした答に、あたしは一瞬言葉を失った。え? でも、だって。


「記録もたくさん残ってる由緒正しい妖怪なんでしょう……?」


「妖怪が出たという記録は、決して妖怪の実在とイコールではない、ということだ」


 目を丸くしたあたしを前に、先輩はこともなげにそう告げた。考えてもみろ、と言い足した声が、深夜の校舎に静かに響く。


「足音はするが姿は見えず、特定のキーワードだけに反応して行き過ぎる実体のない存在だぞ。非科学的にもほどがある。それに、べとべとさんの正体については、オカルトがかったがいねんを持ち出さずとも充分に説明は可能だろう?」


「はい? いや、だろう、と言われてもですね……」


「そう。強いて言うなら、かいだな」


 先輩の落ち着いた一言が、あたしの困惑する声を断ち切った。ネクタイに羽織のかいじんぶつを前に、あたしは「かかい?」とオウム返しに応じていた。


「上から見た下の階……のこと、じゃ、ないですよね。さすがに」


「知らなかったら覚えておけ、『仮面』の『仮』に、『あやしい』の『怪』と書いて、『仮怪』。妖怪学の祖が提唱した、怪異四分類の一つだ」


「怪異四分類……? てか、それ以前に妖怪学って」


 さっきまでのしんみような口調から一転して、あたしは呆れた声を漏らした。そりゃ世間にはあたしの知らない学問もたくさんあるんだろうけれど、それにしたって妖怪学はないだろう。


「あ、またあたしをからかってるんでしょ、先輩。騙されませんよ?」


「何を言っている? 妖怪学はれっきとした学問だ」


 睨んだあたしを突き放すように、先輩がきっぱり言い放つ。長い前髪に隠れてはいたけれど、その目は確かに真剣で、少なくとも嘘を言っているようには見えなかった。ゴミ袋片手にきょとんと固まったあたしを見下ろし、先輩は口を開いた。


「何を勘違いしているかは知らないが、妖怪学は実在する。妖怪をあつかう学問としては民俗学が挙げられることが多いが、あちらは民衆の生活様式をかいせきするために、伝承を収集しているにすぎず、その点が妖怪学とは根本的に異なっている」


「は、はあ……」


「人が不思議だと感じるあらゆる事象の記録を収集し、その真相を解明することで世間のけいもうを図ることを目的とする学術分野。それがいのうええんりようの提唱した妖怪学であり、俺の専攻分野だ」


 何かのスイッチが入ってしまったのか。廊下をうろうろ歩きまわりながら熱く語る先輩である。全く興味がないわけでもなかったが、でも、急いでてつしゆうしろって言ったの先輩ですよね。長話してる時間なんかあるんですか? そう視線で訴えてみたものの、意思が通じた気配はゼロだ。げんなりするあたしを無視したまま、先輩の講義はまだ続いていた。


「井上円了は知っているか? 明治期の哲学者でもあった円了は、あらゆる妖怪や怪異を、その真相に基づいて四種に分類することを考案し、実践していった。実在の生物などを誤って妖怪と伝えた怪異は『誤怪』、じんてきに捏造された怪異は『偽怪』といったようにな。先ほど俺が言った『仮怪』は、その一つ。自然現象や天然の動植物を、超自然的な存在と思い込んだものを指す。さらに細かく分けるならば、主に物理的な実体に由来するものをぶつかい、被験者の内面的または心理的な要因に由来するものをしんかいと称するが、どちらにも分類しがたい例も多い。わかるな」


「は、はあ……。じゃあ、べとべとさんの正体って」


 静かに高まってきた先輩のテンションに気圧されつつ、あたしはぼそっと問い返した。仮怪ってのは要するに思い込みで生まれた妖怪のことらしいけど……でも、姿を見せない謎の足音と思われるようなものって、何よそれ。


「そんなものが自然に存在するとは思えないんですけど。正体は何なんです?」


「べとべとしているものだ」


「まんまじゃないですか!」


 思わず声をあらげるあたし。人を馬鹿にしているのか! だが先輩は「まあ落ち着け」と言いたげにあたしにちらりと視線を向け、小さく肩をすくめてみせた。この人、ネクタイに黒の羽織というとんちんかんな格好にもかかわらず、たまに絵になるなあと思える時があるのが癪に障る。


「……で? もったいぶらないで教えてくださいよ。べとべとさんって」


「元を辿れば、オオサンショウウオだと言われているな」


「いったい──はい?」


 あたしの問いかけに割り込むように言い放たれた言葉に、思わず目が丸くなる。え、何それ。と、きょとんと佇むあたしを、先輩はあわれむように見つめ、口を開いた。


「まさか、オオサンショウウオを知らないのか? 岐阜県以西の清流や水路に生息する大型の両生類だ。体色ははいかつしよくまたは褐色で、全身に黒褐色のはんもんが散在する。体長は大きく、一メートルを越えることもあり」


「知ってますよ、そのくらい!」


「何だ、知っていたのか。ならば、なぜ絶句した」


「答が意外だったからですよ」


 先輩をまっすぐ見上げ、あたしは言った。こんなこと話してる場合じゃないとは思うけど、引っかかったことははっきりさせないと、心にしこりが残るようでイヤなのだ。というわけであたしは自称妖怪学の専門家に向かって問いかけた。


「どうして姿の見えない足音妖怪の正体が両生類になるんです? だいたい、サンショウウオって、はっきり見えるじゃないですか」


「元を辿れば、と言ったろう。それに、サンショウウオではなく、オオサンショウウオだ」


「サイズが違うだけで同じようなものでしょう? それとも、オオが付くととうめいになって人の言葉がわかるようになるとでも……?」


「それはないな。だが、大きさは得てしてを招く」


 あたしの問いかけをさらりと受け流しながら、先輩は抑えた声でそう告げた。え、どういう意味? きょとんと黙り込んだあたしを前に、自称妖怪学専攻の学生は──そんな怪しげな学問を大学で教えているとはやっぱり思えないし、シラバスで名前を見たこともないのだけれど──ふと足を止め、こう続けた。


ほんぽうにおいては、熊やイノシシ、鹿やくじらなど、人間より大きくなる動物はほぼ全種が神の使いとされている。オオサンショウウオも、おそらくかつては土着の神だったのだろう」


「サンショウウオが、神……? あんなねとねとした生き物が?」


 先輩の解説を受け、あたしは眉をひそめていた。おおかみとか鹿ならまだわかるけど、大型の両生類が神様と言われても納得しがたい。少なくともあたしならあがめない。


「そもそも、べとべとさんって妖怪なんでしょう? 神様とは全然違いますよ」


「あいにくだが、違わない。一神教の文化圏においてはいざ知らず、日本の土着しんこうの素体となったアニミズムでは、神や妖怪、せいれいなど、あらゆる霊的存在のカテゴリーは極めて容易に変質し、時として神は妖怪へとれいらくする。日本民俗学の父ことやなぎくにの提唱した説の通りだ。わかるか」


「はあ……。まあ、何となく、ですが」


「それで充分だ。仏教や国家神道など、権力と結びついた宗教体系が広められるにつれ、古来から信仰されていた土着の神は忘れられていったことを理解できていれば、それでいい。そして、ぼつらくし、零落した神は──妖怪となる」


「ちょっと前まで神様だったのに妖怪扱いなんですか?」


 権力者が宗教を広めるってのは、まあ、わかる。でも、今まで古い神様を信じてた立場としては、そう簡単に切り替えられるものだろうか。無論、新しいほとけさまとか神様を拝まなきゃいけない以上、そうするだろうけど……。


「古い神様向けの決まりとか、ぽろっと出ちゃったりするんじゃないですか?」


「ほう。たまにはするどいな」


 思ったことを口に出せば、何だかひどく失礼な褒め言葉が飛んできた。どういう意味です、と見返すあたしの視線を無視し、先輩は「その通り」と深くうなずく。


「人間、意識は変えられても、心身に染み付いた風習はそう簡単には捨てられない。かくして、その神にずいしていた信仰のルールは、本来の意義を失ったまま風習の中に残り続け、妖怪を生むというわけだ。いい視点だな。だが他の点においては実にしい。先ほどお前は『あんなねとねとした生き物』と言ったな?」


「は、はい。だってオオサンショウウオってねばねばしてて、とても神様には」


「そこが違う」


 おずおずと応じたあたしの声を、冷たい一言がぴしゃりと遮る。わかってないな、と言いたげに肩を大きくすくめると、先輩はあたしを見下ろし、続ける。


「そもそもちゆうるいや両生類は、神話と関連付けられることが極めて多い生物だ。だつや冬眠という行動が、生まれ変わりや永遠の命を連想させるのだろうな。それに、べとべとさんの伝承が採取されたのは、あの奈良県だ」


「どの奈良県なんですか?」


 この上なく冷めた声が出てしまった。向こう的には大事なキーワードを明かしたっぽいが、奈良と言われても大仏くらいしか連想できないわけで。と、その反応を予想していたのか、先輩は「馬鹿め」と言いたげに鼻を鳴らした。


「知らないなら覚えておけ。奈良は、全国的に見ても、爬虫類・両生類への信仰が盛んだった地域なんだ。きんせんかえる神事を知らないか? むらかめいしは? いさがわ神社の蛙石はどうだ? さすがにやまじやしんの伝承くらいは聞いたことが──なさそうだな。その顔を見る限り」


「……図星ですけど先読みされるとなんか悔しいです」


「知るか。無知は決して罪ではないが、明示されるべき事実ではあると知っておけ。まあ要するにだ、爬虫類や両生類──いわゆる虫類への信仰が盛んであり、それが近年まで持続していた奈良においては、オオサンショウウオが神の使い、もしくは一種の神そのものであった可能性は極めて高いということだ。わかったか」


「う、うーん……」


 長い前髪の間から覗く視線にえられ、あたしはらない声を漏らした。確かに、先輩の言うような事実があるなら、オオサンショウウオがかつては奈良ローカルの神様だったかもしれない。でも。だけど。


「あの……それだけの理由じゃ、べとべとさんイコールオオサンショウウオって言い切るには、弱いような気がするんですが……。オオサンショウウオって、見えますよね? 消えないですよね」


「当然、予想される質問だな。だが、その問いへの回答は極めて容易だ。そもそも、この国においては、神に類する存在は、見てはいけない──いや、見えてはいけないものなんだ。それに、原始的な神は人に興味を示し、後を付けることが多い。ここから生まれた言葉くらいは、お前も知っているだろう」


「いや、そんな昔の風習なんか知りませんよ。先輩と一緒にしないでくだ」


「送り狼という言葉を聞いたことは?」


「さい──って、え? え、ええ、それくらいは知ってますけど……」


 先輩の口にした意外な言葉に、あたしは思わずうなずいていた。送り狼って、女の子を送ると見せかけてろくでもないことをしようとする男のことですよね。一人暮らしすることになった時、高校時代の友人や先生がそれに気を付けろって忠告してくれたことを思い出す。みんながみんな、「お前も一応女だから」って言ってたのが地味にショックでした、はい。


「……で、その送り狼が何か?」


「あれは本来、山の神である狼が、山道を歩く人の後ろを姿を見せずに付いてくることを指す言葉だ。狼が見えないのなら、オオサンショウウオだって見えなくても不思議ではない。これが、べとべとさんの姿が見えない──正確に言えば、姿が見えないと理由だな。どうだ、納得したか?」


「え? え、ええと──そう、ですねえ……」


 送り狼の語源に驚きつつ、あたしは慌ててあいづちを打った。確かに筋が通っているようには聞こえるけども、だがしかし。


「オオサンショウウオが、姿の見えない神様だったかもしれない、ってことは何となくわかりました。で、でも……それが『べとべとさん』って妖怪になったとは、限らないですよね……?」


「ほう。なかなか食い下がるな」


「い、いいじゃないですか! まあ、気分悪くしたなら謝りますけど」


「悪いと思えば相手の気分がどうあれ謝るべきだろう。だが、あいにく俺は謝罪を必要とはしていない。むしろ喜んでいるくらいだ。そのさいしんこそ、妖怪学の徒にひつの要素だからな」


 しつこく問いかけるあたしの言葉を受け、先輩は深くうなずいた。評価してくれたような口ぶりだが、せんにんあくみたいな顔でそう言われたところであまり心は温かくならず、むしろゾッとするだけである。おまけに、先輩の手元のライトが彫りの深い顔を下から照らしてるもんで、より迫力が増している。顔の骨格はそこまで悪くもないんだし、せめて前髪をさっぱりすればさわやかになるのになあ。とかなんとか余計なことを考えていると、先輩は「確かに」とうなずいた。


「お前の言う通り、俺が挙げた例証だけでは、べとべとさんがオオサンショウウオ信仰のざんであると言い切るには、やや弱い。だがな、そう判断できるだけの材料もまた、俺は持っているし──そしてお前も知っている。べとべとさんを祓うキーワードを覚えているな」


「えっ? えーと、確か──『べとべとさん、先へお越し』でしたっけ?」


「正解だ。ならば、もうわかっただろう? べとべとさんが、オオサンショウウオだということが」


「……さっぱりです」


 わからないので首を左右にふるふる振れば、先輩は羽織を羽織った肩をがっくり落とし、これみよがしに溜息を落とした。そんながっかりしなくても。


「先へ行けって言ってるだけの文章から何をわかれって言うんです……?」


「その理解が違う。『さきへおこし』の『さき』は、方向を示す言葉ではないんだ」


 困惑しながら問いかければ、先輩は落ち着いた声で応じ、「時にユーレイ」とあたしを見下ろした。


「『み名』を知っているか? ことだま信仰から派生した風習で、名称を発音する行為にじゆてきな意味があると考え、神的・超常的な存在に対しては、その名前をストレートに呼ばないというならわしだ。山の神であるてんを『ヤマノモノ』と呼んだり、川の妖怪である河童かつぱのことを『河の字』と呼んだりする例が知られている。忌み名では、対象のキーポイントになる一文字や、とくちようを示すしようを用いることが多いわけだ」


「……はい? あの、いきなり何の話を始めたんです? べとべとさんの話は」


「そして、オオサンショウウオの異名を、ハンザキという」


 有無を言わせぬ力強い一文が、あたしの声を打ち消した。いくら馬鹿でも、ここまで話せばさすがにわかるな。そう言いたげな強い視線でこちらを見据えたまま、妖怪学の専門家は抑えた声で先を続ける。


「半分にくと書いて、ハンザキだ。由来については諸説あるが、半分に裂かれても死なないほど生命力が強いというところから付けられた、という説が有名だな。これはさすがに迷信だが、ポイントは、オオサンショウウオの別名に『さき』の一文字が用いられていたことだ。つまり『さきへおこし』の意味は、決して『先方へ進め』ではなく──」


「サキ──つまり、オオサンショウウオの、仲間のいるところへ帰れ──ってことですか……? だから、べとべとさんは、オオサンショウウオ……?」


「いいぞ、正解だ、ユーレイ。だがぼうしようはそれだけではなく、『べとべとさん』というネーミング自体にも注目すべきだ。忌み名においては、対象の特徴や名前の一文字を用いることが多いと言ったな? 『べとべとさん』の『べとべと』は、オオサンショウウオの特徴である、体表を覆うねんえきのことだろう。ならば『さん』は」


「木村さんとか山田さんの『さん』──じゃないですよね、話の流れ的に。ええと──あっ! もしかして……『サンショウウオ』の『さん』?」


 場所も時間も忘れ、あたしは思わず大きな声をあげていた。


 同時に、少し前に先輩が口にしていた言葉が、ふっと脳裏によみがえる。


 ──ベトベトではない。べとべとさんだ。


 そうだ、先輩は繰り返しそう言っていた。今ならその意味は確かにわかる。『べとべとさん』は、『べとべとしているオオサンショウウオ』の意味。『さん』までが名前の一部なのだから──。


「そっか。『さん』を省略すると意味が変わっちゃうんだ……!」


 ぽかんと間抜けに開いた口から、ほうけた声が勝手に漏れる。そんなあたしを前にして、先輩は小さく肩をすくめ、そして少しだけ満足げにうなずいた。


「どうだ。納得したか」


「あっ、はい、しましたしました! 言われてみれば、なるほどですね……。これ、先輩が考えたんですか?」


「馬鹿を言え、読んだだけだ。説を補強するため史料を当たりはしたがな」


「え。読んだって、こんなこと書いてある本があるんですか? それか論文?」


「あいにくだが、図書館に行っても見つかるまい。『しんかいろく』はな」


 ふっと目をらし、先輩はそうとだけ小さな声でつぶやいた。え、今、何て? かんじんの本の名前がよく聞こえなかったんですが。だが、きょとんと聞き返すあたしを、先輩はじろりと睨んだ。


「何をぼさっと突っ立っている。早くスピーカーを回収しないか」


「……え?」


「どうした、作業を急げ。もうそろそろけいいんじゆんかいに来る時間だ。見つかるとめんどうなことになる」


 さらっと言い放つ絶対城先輩だったが、そんな話は初耳だ。何で先に言ってくれなかったんですか、と反論しようとした矢先、廊下の奥から足音がカツカツと聞こえてきた。え、もしかしてこれ……!


「警備員? ちょっと先輩、どうしたら──」


 慌てふためくあたしだったが、ゴミ袋を抱えて振り向いた先には絶対城先輩の姿はどこにもなかった。ただ開け放たれた窓から、夜風が吹き込んでいるだけだ。その無情な光景を前に、あたしはぜんと佇むことしかできなかったのだった。


 ──あのろう、一人で逃げやがったな。




    ***




「何で一人でさっさと退散しちゃうんですか! せめて一緒に逃げましょうよ!」


「そこまでお前に気をつかう道理はない。見つかっていないだろうな」


「教室に隠れて警備員さんやり過ごして仕込みも全部回収してきましたよ!」


「そうか」


 で、半時間後の校舎裏。あたしの怒りを受け流しつつ、絶対城先輩がしれっとうなずく。どうしてそこで「よくやった」とか「すまない」が出てこないんだ、このモノクロ野郎は! いったんちんせいしていた怒りが、再びぼっと燃え上がる。いやまあ、別に誉められたいわけでもないけどさ。


「だいたい、撤収作業が予定より遅れたのは、絶対城先輩が延々妖怪の話をしてたからじゃないですか。なのにあたし置いて逃げるなんて」


「べとべとさんが実在したのかとたずねたのはお前だろうが。俺はただ聞かれたから答えたにすぎない。よって責任はお前にある」


 ふくれあがったゴミ袋を振り回してこうしてみたものの、全く通じた様子はない。わかっていたことではあるが、この人には常識や人情を求めても無駄なようだ。思わず「どうしてあたしがこんな目に」と漏らすと、先輩は呆れたように声を発した。


「お前が自分で選んだ道だろうが」


「そ、それはそうですけど……」


 あたしが命令をきよできないことを知っていて、そういうふうに言いますか。そう心の中で毒づきながら、あたしは自分の胸元に──そこに下がったペンダントに、ちらりと目を向けた。年頃の女子の割に出っ張っていない胸の上には、チェーンに通された小ぶりな竹製のリングが、無造作にぶらさがっている。それを目にしたとたん、思わずにくにくしげな声が漏れていた。


「……これさえなければ、こんな人にこき使われることもないのに」


「だが、それがなければお前はもっと困るだろう?」


 の国から無慈悲を広めに来たような無慈悲な声が、あたしの背中にそれはもう無慈悲に突き刺さる。ああ、どうしてこんなことになったんだろう。そう自問すれば、入学したばかりの頃の記憶が、自然と脳裏に蘇ってきた。


 そうだ、きっかけはあの夜の──。



【次回更新は、2019年12月17日(火)予定!】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る