一章 べとべとさん

一章 べとべとさん(1)



【一章 べとべとさん】

奈良県に伝わる妖怪。夜道を歩いている時、後をつける足音が聞こえてくるという怪異。振り返っても姿は見えないが、道の片隅に寄り、「べとべとさん、先へお越し」と言うと、足音は先へ抜けていくという。




*****




 窓の外に浮かんだ月が、雲の切れ間から少しだけ顔をのぞかせた。


 時刻は深夜の十二時過ぎ。古びたガラス窓から差し込んだ月光が、大学の校舎のろうを歩く二つのひとかげを照らし出す。がらな女性と長身の男性の二人連れで、男性はかすかな光を放つペンライトを手に先を行き、女性がおどおどとその後を追っている。二人の姿はいつしゆんくっきり浮かび上がったが、月はあっけなくのうみつな雲にかくれてしまった。


「あっ……」


 視界をりつぶすやみに不安を覚えたのか、二つの人影の片方、長い髪の女性が、微かな声をらして立ち止まった。ねんれいは二十歳前後、小柄で細身ながらスタイルのいい体に薄手のサマーセーターとタイトスカートを身につけている。ストレートの黒髪や、形のいい鼻の上に載ったきやしや眼鏡めがねは、清純で真面目な印象を彼女に与えていた。古風な男性が彼女を見れば、守ってやりたい、と感じたかもしれない。


 もっとも、現在彼女に同行している男性は古風ではなかったようで、ペンライトを手に無言で先に進んでしまう。その反応におどろいたのか、彼女はあわてて男性を追った。


「ま、待ってください! 速いですよ……!」


おれはこの校舎に入ってから同じ速さで歩いている。君が勝手に遅れたんだ」


 先を行くみような男のざっくりとした声が、彼女の叫びを打ち消した。


 見たところ、男の年齢は二十代半ば、身長は百八十センチ強といったところか。面長でりが深い顔は病的なまでに色白で、がんは深くくぼみ、鼻は対照的にとがっている。ただでさえいんえいの差の激しい顔立ちは、表情を隠す長い前髪とも相まって、白いはだとのコントラストがいっそう強調されており、この世ならざるふんを色濃くただわせていた。ひょろりとしたせぎすの体にまとっているのは、白いワイシャツと黒のネクタイに黒のスラックス、そして黒の羽織という、何ともちんみような取り合わせだ。白と黒だけで全身をおおったその男は、歩みを止めることなく、武骨な声を発した。


「そもそも一定の速度で歩くことは前もって説明したはずだ」


 ドライな口調で言い放ちながら、ずんずん歩き続けるモノクロのかいじん。突き放したような物言いに、彼女は思わず言葉を失って立ち止まりかけたが、すぐに後を追いながら反論した。


「ですけど、足がすくんでしまって……。こんなに暗くて、だれもいないと、こわくて」


「誰もいないのは当然だろうが」


 再度ひびれいてつな声が、彼女の悲痛なうつたえを断ち切る。同時に、ペンライトの光が廊下の突き当たりのかべを照らし、二人は直角のカーブを右に折れた。そこから先は、再び五十メートル近い廊下がまっすぐ伸びているのだが、ペンライトの光で照らせるのはせいぜい数メートルまで。足下を確認して歩きながら、男は一本調子に続ける。


「大学という場所は二十四時間誰かしらが出入りしていると思われがちであり、実際その通りではあるが、それはあくまで研究室やゼミ室の話。今、俺達が居るような教室とうは例外だ。夜中に講義がない以上、学生も教授もいる筈がない」


「え? そ、それはわかっていますが、そういうことを聞きたかったわけではなくて……。その、私は女ですから、どうしてもこういう場所では──」


「要するに、おびえる女性を無視する男性などありえない、と言いたいのか?」


 おどおどと彼女が漏らす言葉をしやだんするように、男が冷たく言い切った。ぼしだったのか、彼女は無言で小さくうなずく。それを見た男は、あきれるように小さく肩をすくめ、そして冷えた声を発した。


「今のやりとりで、君の知り合いの男性がどういう人間でめられているかは、よくわかった。君の友人は皆、さぞ熱心に君を守ろうとするのだろうな」


「そ、そうです……! 私のお友達はみんな──」


「だが、今日に限っては頼もしい友人の護衛はあきらめることだ。明るくてひとのある場所では、は出ないのだろう?」


 たび、彼女の声をさえぎりながら、男が静かに問いかける。それをいたしゆんかん、彼女はハッとだまり込み、そして静かに息をんだ。その反応をこうていと判断したのだろう、男は小さくうなずいたが、歩く速度は保ったままだ。この人は機械か妖怪のどっちかじゃないのか、と彼女は心の中で思った。


「……そもそも、それを何とかして欲しいと、俺に持ちかけて来たのは君だ。対応策の見当も付いたので引き受けてはみたものの、実際にそれが出ないことには対応しようもない。深夜の教室棟に入り込み、廊下を何周もしているのも、できうる限りのへいてきな環境でそれを観察するためであって──」


 と、男がそこまで話し、一直線の廊下の真ん中あたりに差し掛かった、その時だ。


 ──ぺたん。


 裸足はだしで歩いているような、ねんちやくしつな足音が一つ、二人の背後で響いた。


「い、今の……!」


「黙れ。足を止めるな」


 青い顔で息を呑んだ彼女に、男の命令口調がかぶさった。それにされた彼女が慌てて口をつぐめば、二人の後方の足音が、二度、三度と再び響いた。


 ──ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん。


 明らかに二人の後を追うように、一定のリズムで続く足音。すぐ目の前を行く男の後を追いながら、彼女は不安げに振り向いたが、真っ暗な廊下には足音の主らしき人影はどこにも見あたらなかった。その事実を確認したとたん、ただでさえ青白かった彼女の顔色は、さらにそうはくなものとなる。思わず「ひっ」と漏らした彼女に、男はクールな声を投げかけた。


「なぜおそれる? 君が言った通りのものが出たんだ。むしろ喜ぶべきだろう」


「喜べるならおはらいなんか頼みません……! そ、それに、足音が聞こえるとは言いましたけど、こんなにハッキリ聞こえたのは、初めてで……」


「確かによく聞こえるな。何とも奇妙でな音だ。そして振り返っても姿は見えない──と。なるほど、『妖怪談義』の記述通りだな。実に興味深い」


「気味悪いだけです……! そっ、そ、それより早く、お祓いを……!」


「『お祓い』? 君は先ほどからその言葉を使っているが、俺はそんな行為を引き受けたつもりはない」


 見上げる視線を振り払うように、男がざっくり言い放つ。え、と息を呑む彼女に対し、黒服の男は落ち着いた声のまま「俺にできるのは」と続けた。


みんぞく資料と伝統的知見に基づいたアドバイスだけだ。依頼を受ける際、宗教者やしょうれいのうしやが行うような行為は専門外だと、そう説明したはずだが?」


「どっ、どっちでもいいです、そんなことは……! 早くしないと、足音が、も、も、もう、もうすぐそこ……! ほら、ぺたん、ぺたん、ぺたんって……!」


「落ち着け。こちらが一定の速度を保っている限り、絶対に追いつかれることはない。あれは、そういう現象だ」


 どんどんろうばいしていく女性に対し、男の歩調と声調はくるわない。


 そしてそのまま、なぞの足音にこうされながら歩くこと数十秒。廊下の角の少し手前に差し掛かった時、男はふいに同行者の手をつかんで引き留めた。いきなり手を引かれ、彼女は思わず悲鳴をあげた。


「きゃっ! な、何をするんですか、急に……!」


「壁に寄って道を空け、教えておいた一文を言え」


「えっ? そんな、急に言われても」


「早くしろ。追いつかれる前に言わねば効果はない!」


「あ、は、はいっ! え、ええと──」


 男のかす声にあおられ、彼女は立ち止まったままおくを探った。ぺたぺたと足音が接近しているのを感じながら、このはいかいおもむく前、男にたたき込まれた文章を、脳の中から引っ張り出す。そうだ、あれは、確か……!


 ──ぺたん、ぺたん。


「べ」


 ──ぺたん、ぺたん、ぺたん。


「べ──『べとべとさん、先へお越し』!」


 意味もよくわからないその一文を、どうにかこうにか言い放つ。


 と、すぐそこまでせまっていた足音は、二人の前をスッと通り過ぎた。


「え」


「……ふむ」


 ぽかんと息を呑む女性のとなりで、男が面白くもなさそうにつぶやいた。


 ──ぺたん、ぺたん、ぺたん。


 一定の速度とリズムのまま、足音だけの存在が廊下の角を曲がり、そして去っていく。ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん……。主のいない足音はじよじよにフェードアウトしていき、数分後には、全く聞こえなくなってしまった。やがて完全なせいじやくが夜の校舎にもどったのを確認すると、男は「よし」とうなずき、彼女を見下ろした。


「成功だ。落ち着くまで少し休むといい」


「えっ? と、いうことは、今ので、もうあの足音は……?」


「ああ。君に付きまとっていた怪異──『べとべとさん』は、完全に去ったと見ていいだろう。一応、おめでとうと言っておく」


「ど、どういたしまして……」


 言葉とは裏腹に、祝福する気がないとしか思えない口調だったが、彼女は慌てて頭を下げ、壁にもたれかかった。よほどあんしたのか、ほーっ、と長いためいきが漏れる。


「ああ、怖かった……!」


「見ればわかる。俺になぐさめろとでも言いたいのなら、断るが」


「ち、違います! それより……あ、あの、ベトベトって何だったんですか?」


「ベトベトではない。べとべとさんだ」


 暗い廊下に突っ立ったまま、男がきっぱり断言する。ペンライトを手にしたまま、男は「ベトベトではないんだ」と繰り返した。


「べとべとさん。実体はなく、足音だけが後を付けてくるという、後追い系の怪異の一種だ。対処法は君が今じつせんした通り、道をゆずって呼びかけた上で、『先へお越し』と告げること。『妖怪談義』や『綜合日本民俗』にもさいされている、比較的有名な怪異だが、聞いたことはないか?」


「えっ? そ、そうですね、全然……。私、経済学科ですし」


「要するに知らないということか。……ちなみに、後を付けてくる怪異は日本各地に様々なものが伝わっているが、ほとんどの場合は行動原理が明確だ。ターゲットを守ろうとしているか、あるいは、食い殺そうとしているか。だが、べとべとさんに限っては、その目的がはっきりしない。この点が興味深いところだな」


「う、うーん……。そうなんですか……?」


 全く興味のない分野の話題に、彼女はおぼろげな答えを返すことしかできなかった。だが男はその反応を意にかいすることなく、独り言めいた解説を再開する。


「問答無用で道を譲るべしと伝わっている以上、べとべとさんは元を辿たどれば神かそれに近しい存在だったのだろうと推測はできる。実際、道で出くわす神的存在──い神は、全国的に分布するメジャーな怪異だからな。だが、四国の伝承でも確認できるように、行き逢い神はおおむね『対面側から高速で来る』ものだ。後ろからゆっくりと追ってくる行き逢い神というのは考えにくく、ならば、べとべとさんの祖型はおそらく全く別の何かで──」


 ペンライトをリズミカルに振り、暗い廊下をうろうろと歩き回りながら、男の妖怪談義が続く。女性はあつに取られたようにその光景に見入っていたが、ややあっておずおずと口をはさんだ。


「あ、あの……」


「やはり、この場合着目すべきは、べとべとさんというめいしよう……ん。何だ」


「え、ええと、そういう話は、あまりくわしくないのですが……。ですけれど、つまり、今のお話からすると、私につきまとっていたあれは、やっぱり──」


 そこでいったん口ごもり、彼女は深く息を吸った。今から自分が口にする予定の言葉を改めて確認しているのだろう、しゆんじゆんするように視線を泳がせると、彼女はおずおずとこう続けた。


「──、だったんですよね……?」


「ああ、そうだな」


 この上なく不安げに彼女が発した言葉を、男はあっさり肯定する。今さら何を言っているんだ、とでも言いたげに肩をすくめると、男はおだやかな声で付け足した。


「妖怪の定義も色々あるから、いちがいには断言できないが、べとべとさんが君の考えるところの『妖怪』に含まれるべき存在であることに間違いはない。あれは確かに妖怪──古来より伝わる、怪異な現象もしくは存在の一種だった」


「で、ですよね? ということは、ノイローゼとか思い込みとかげんちようとか、そういうのではなかったわけ……ですよね……?」


「だろうな。あれが君の内面的な原因にたんを発するものならば、君と先日まで関わりのなかった俺にまで、足音が聞こえるはずはないし、伝承に基づいた対処法で追い払えるはずもない。ああ、確かにあれは妖怪だろう。──ただし」


 納得しかけた彼女に、男がペンライトを突きつけた。いきなり強まった語気に驚いたのか、ひっ、と息を呑んだ彼女を前に、男は静かに言葉をつむぐ。


「これだけは覚えておくといい。怪異は得てして後ろ暗い心からき、また、不安な心を好むものだ。余計なお世話かもしれないが、今後、妖怪に逢いたくないのであれば、自分の良心にほこれないような振る舞いは、なるべくけることをすすめる」


「はい? な……何のこと……ですか?」


「異性の友人が多いのは結構だが、ふたまたや三股というのはどうか──とまあ、そういったたぐいの話だ。清純なたたずまいで欲を煽って何人もの男を手玉に取るのは、確かに楽しいかもしれないが、そのことを知らず付き合っている相手にしてみれば、楽しいどころの話ではあるまい? 自分が守ってやらなければ、と思っている相手に、良いようにだまされているわけだからな」


「……え」


 ざっくりとした男の物言いに、彼女の顔がかっと赤くなった。何でお前がそんなことを知っているんだ、そこまで話してはいないはずなのに。そう言いたげな視線を向けられ、男はゆっくり頭を振った。


「安心しろ、これはあくまで一般論だ。君の事情に興味はない」


「だ、だったられないでください! かいです!」


 のんびりとした男の声を、彼女が慌てて遮る。会話を早く打ち切りたいのだろう、彼女は男に背を向け、歩き出した。


「ベトベトはいなくなったんですから、もう解決したんですよね? だったら、私はこれで失礼します! じゃあ!」


「ベトベトではなく、べとべとさんだがな」


 非常灯だけが照らす暗い廊下を進む彼女に向かって、男がぼそりと声を掛けたが、反応はない。男は去っていく背中を少しの間黙って見つめた後、思い出したように付け足した。


「古来より、妖怪の類は情念のこじれた場を好む。ややこしい人間関係は早めに整理することを勧めるが、万一、何か出たら、俺のところに来ると良い」


「わ、わかってます……! また何かあったら──って」


 男の呼びかけに、彼女は立ち止まって切り返したが、強い語調がふいにれた。眼鏡越しの視線を廊下のおくの黒服の男に向け、彼女は「ええと」と首をかたむけた。


「そう言えば、お名前って……? 難しい名前でしたよね、確か」


ぜつたいじようだ」


 よく通るしぶい声が、彼女の問いかけにそくとうする。「ぜったいじょう?」と聞き返す彼女を前に、男は静かにうなずくと、再び低い声を発した。


「絶対城だ。妖怪がらみとおぼしき事件が有ったなら、また相談に来ると良い。文学部四号館四階、四十四番資料室。俺は、いつでもそこにいる」




    ***




【次回更新は、2019年12月16日(月)予定!】

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