一章 べとべとさん
一章 べとべとさん(1)
【一章 べとべとさん】
奈良県に伝わる妖怪。夜道を歩いている時、後をつける足音が聞こえてくるという怪異。振り返っても姿は見えないが、道の片隅に寄り、「べとべとさん、先へお越し」と言うと、足音は先へ抜けていくという。
*****
窓の外に浮かんだ月が、雲の切れ間から少しだけ顔を
時刻は深夜の十二時過ぎ。古びたガラス窓から差し込んだ月光が、大学の校舎の
「あっ……」
視界を
もっとも、現在彼女に同行している男性は古風ではなかったようで、ペンライトを手に無言で先に進んでしまう。その反応に
「ま、待ってください! 速いですよ……!」
「
先を行く
見たところ、男の年齢は二十代半ば、身長は百八十センチ強といったところか。面長で
「そもそも一定の速度で歩くことは前もって説明した
ドライな口調で言い放ちながら、ずんずん歩き続けるモノクロの
「ですけど、足がすくんでしまって……。こんなに暗くて、
「誰もいないのは当然だろうが」
再度
「大学という場所は二十四時間誰かしらが出入りしていると思われがちであり、実際その通りではあるが、それはあくまで研究室やゼミ室の話。今、俺達が居るような教室
「え? そ、それはわかっていますが、そういうことを聞きたかったわけではなくて……。その、私は女ですから、どうしてもこういう場所では──」
「要するに、
おどおどと彼女が漏らす言葉を
「今のやりとりで、君の知り合いの男性がどういう人間で
「そ、そうです……! 私のお友達はみんな──」
「だが、今日に限っては頼もしい友人の護衛は
「……そもそも、それを何とかして欲しいと、俺に持ちかけて来たのは君だ。対応策の見当も付いたので引き受けてはみたものの、実際にそれが出ないことには対応しようもない。深夜の教室棟に入り込み、廊下を何周もしているのも、できうる限りの
と、男がそこまで話し、一直線の廊下の真ん中あたりに差し掛かった、その時だ。
──ぺたん。
「い、今の……!」
「黙れ。足を止めるな」
青い顔で息を呑んだ彼女に、男の命令口調が
──ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん。
明らかに二人の後を追うように、一定のリズムで続く足音。すぐ目の前を行く男の後を追いながら、彼女は不安げに振り向いたが、真っ暗な廊下には足音の主らしき人影はどこにも見あたらなかった。その事実を確認したとたん、ただでさえ青白かった彼女の顔色は、さらに
「なぜ
「喜べるならお
「確かによく聞こえるな。何とも奇妙で
「気味悪いだけです……! そっ、そ、それより早く、お祓いを……!」
「『お祓い』? 君は先ほどからその言葉を使っているが、俺はそんな行為を引き受けたつもりはない」
見上げる視線を振り払うように、男がざっくり言い放つ。え、と息を呑む彼女に対し、黒服の男は落ち着いた声のまま「俺にできるのは」と続けた。
「
「どっ、どっちでもいいです、そんなことは……! 早くしないと、足音が、も、も、もう、もうすぐそこ……! ほら、ぺたん、ぺたん、ぺたんって……!」
「落ち着け。こちらが一定の速度を保っている限り、絶対に追いつかれることはない。あれは、そういう現象だ」
どんどん
そしてそのまま、
「きゃっ! な、何をするんですか、急に……!」
「壁に寄って道を空け、教えておいた一文を言え」
「えっ? そんな、急に言われても」
「早くしろ。追いつかれる前に言わねば効果はない!」
「あ、は、はいっ! え、ええと──」
男の
──ぺたん、ぺたん。
「べ」
──ぺたん、ぺたん、ぺたん。
「べ──『べとべとさん、先へお越し』!」
意味もよくわからないその一文を、どうにかこうにか言い放つ。
と、すぐそこまで
「え」
「……ふむ」
ぽかんと息を呑む女性の
──ぺたん、ぺたん、ぺたん。
一定の速度とリズムのまま、足音だけの存在が廊下の角を曲がり、そして去っていく。ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん……。主のいない足音は
「成功だ。落ち着くまで少し休むといい」
「えっ? と、いうことは、今ので、もうあの足音は……?」
「ああ。君に付きまとっていた怪異──『べとべとさん』は、完全に去ったと見ていいだろう。一応、おめでとうと言っておく」
「ど、どういたしまして……」
言葉とは裏腹に、祝福する気がないとしか思えない口調だったが、彼女は慌てて頭を下げ、壁にもたれかかった。よほど
「ああ、怖かった……!」
「見ればわかる。俺に
「ち、違います! それより……あ、あの、ベトベトって何だったんですか?」
「ベトベトではない。べとべとさんだ」
暗い廊下に突っ立ったまま、男がきっぱり断言する。ペンライトを手にしたまま、男は「ベトベトではないんだ」と繰り返した。
「べとべとさん。実体はなく、足音だけが後を付けてくるという、後追い系の怪異の一種だ。対処法は君が今
「えっ? そ、そうですね、全然……。私、経済学科ですし」
「要するに知らないということか。……ちなみに、後を付けてくる怪異は日本各地に様々なものが伝わっているが、ほとんどの場合は行動原理が明確だ。ターゲットを守ろうとしているか、あるいは、食い殺そうとしているか。だが、べとべとさんに限っては、その目的がはっきりしない。この点が興味深いところだな」
「う、うーん……。そうなんですか……?」
全く興味のない分野の話題に、彼女はおぼろげな答えを返すことしかできなかった。だが男はその反応を意に
「問答無用で道を譲るべしと伝わっている以上、べとべとさんは元を
ペンライトをリズミカルに振り、暗い廊下をうろうろと歩き回りながら、男の妖怪談義が続く。女性は
「あ、あの……」
「やはり、この場合着目すべきは、べとべとさんという
「え、ええと、そういう話は、あまり
そこでいったん口ごもり、彼女は深く息を吸った。今から自分が口にする予定の言葉を改めて確認しているのだろう、
「──ようかい、だったんですよね……?」
「ああ、そうだな」
この上なく不安げに彼女が発した言葉を、男はあっさり肯定する。今さら何を言っているんだ、とでも言いたげに肩をすくめると、男は
「妖怪の定義も色々あるから、
「で、ですよね? ということは、ノイローゼとか思い込みとか
「だろうな。あれが君の内面的な原因に
納得しかけた彼女に、男がペンライトを突きつけた。いきなり強まった語気に驚いたのか、ひっ、と息を呑んだ彼女を前に、男は静かに言葉を
「これだけは覚えておくといい。怪異は得てして後ろ暗い心から
「はい? な……何のこと……ですか?」
「異性の友人が多いのは結構だが、
「……え」
ざっくりとした男の物言いに、彼女の顔がかっと赤くなった。何でお前がそんなことを知っているんだ、そこまで話してはいないはずなのに。そう言いたげな視線を向けられ、男はゆっくり頭を振った。
「安心しろ、これはあくまで一般論だ。君の事情に興味はない」
「だ、だったら
のんびりとした男の声を、彼女が慌てて遮る。会話を早く打ち切りたいのだろう、彼女は男に背を向け、歩き出した。
「ベトベトはいなくなったんですから、もう解決したんですよね? だったら、私はこれで失礼します! じゃあ!」
「ベトベトではなく、べとべとさんだがな」
非常灯だけが照らす暗い廊下を進む彼女に向かって、男がぼそりと声を掛けたが、反応はない。男は去っていく背中を少しの間黙って見つめた後、思い出したように付け足した。
「古来より、妖怪の類は情念のこじれた場を好む。ややこしい人間関係は早めに整理することを勧めるが、万一、何か出たら、俺のところに来ると良い」
「わ、わかってます……! また何かあったら──って」
男の呼びかけに、彼女は立ち止まって切り返したが、強い語調がふいに
「そう言えば、お名前って……? 難しい名前でしたよね、確か」
「
よく通る
「絶対城
***
【次回更新は、2019年12月16日(月)予定!】
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