第22話
舞いあげられ、宙を旋回する最中俺は龍から視線を外さないようにしながら風に揉まれる。
ーー体勢が、立て直せねぇ
地に足をつけていないという状態は、想像しているよりもずっと身体の制御を難しくする。
普段であれば身体を押された時、地面についた足を踏ん張らせることで倒れるのを防ぐ。
だが、宙には何の支えもない。
押されればその方向に倒れることしかできないのだ。
風を制御しようにも吹き付ける風が強く、思うように身体を動かせない。
風の棒を取ろうとする度に身体を押す風のせいで回転してしまう。
完全に風の渦に飲まれた俺は二転三転と上下が逆転する視界に目を回す。
この状況はまずい。
今にもどこかへ吹き飛ばざれそうな中、なんとか着地できる方法はないか考える。
どこかへ掴まるか。
しかし手が届く範囲にそんなものはない。
加えて風の中に囚われた俺に出来る事といえば今自分がどうなっているかを確認することだけ。
身体の自由が効かない時点でかなり詰んでいる。
こうしてる間にも緑龍が風の力を回復したらしい。
凶暴な目つきを一層吊り上げ、宙を舞う的と化した俺に向けて口を開くのが見えた。
ーーくそ、このままじゃ
何とかここから抜け出る方法を考えろ。
道中に使ったロープは……この風圧には勝てない。
この渦の外に投げようにも力負けしてしまうだろう。
他には何かないか。
何か。
いくつか案が浮かんでは今の状態では無理だと断念せざるを得ない。
必死に考えるも、そもそもまともに身体を動かすことができない故にほとんどの案が実行することができない。
龍の口に力が集まっていく。
どうする。
どうすれば良い。
「グルルルァァア!」
野太い咆哮を上げ、俺へと狙いを定めた攻撃が――――。
『汝に四肢を奪う枷を』
魔力の気配。
ーーこれは
何が起きているのか把握する前に身体がずんと重くなった。
宙を舞っていた俺の身体がどんどんと重くなっていき、遂に風の力をも凌駕したのか地面へと落ちる。
どん、と衝突音が鳴り響き、周囲に大量の石飛礫をばらまいた俺は訳もわからぬまま正面を見る。
「グルルォ!」
龍が息を放った。
宙を舞っていた俺に狙いを定めていたはずなのに、この僅かな間にも地面へ移動した俺へ照準は定まっている。
ーー重いっ
俺の身体だけでなく、握っていた剣まで重い。
一体元の何倍重くなっているのか、地面を引きずりながら身体の正面に構えた剣はぎりぎり龍の息を防いだ。
剣が風の刃を弾き、身体を突風が吹き付ける。
だが、その衝撃にも突風にも身体を揺らされることはなかった。
尋常ではなく重くなった身体はこの程度では微塵も動かない。
攻撃が止む。
仕留める気でいたのだろう、龍の表情がまた不機嫌なものになっていた。
しかし『風の息』の反動で奴はぜーぜーと苦しそうにしながら俺を睨みつけているしかできない。
ーーひとまず助かった。
「グロスト! 大丈夫!?」
後ろを振り返ると遠くに離れていたはずのルシーがすぐ近くまでやってきていた。
ということはつまり、
「今のはやっぱりお前が……」
対象の体重を増減させるというルシーの魔法。
「うん。危ないと思って咄嗟に……」
「いや、助かった。最高のタイミングで使ってくれた」
今の魔法がなければ相当に危なかったところだ。
風にながされてどこまで行っていたか、そうでなくても防御すらできず身体をバラバラにされていたかもしれない。
「良かった……。私の魔法、初めてまともに役に立ったかも」
照れ臭そうに笑うルシー。
嬉しそうに俺の目を見つめ、自分が役に立ったと喜んでいる。
「ふぅー」
視線を移し、未だ『風の息』の反動で大人しくしている龍を見て思う。
あれを見る限り、俺の考えは間違ってはいないようだ。
緑龍は風の力を使えば、その反動でしばらく隙ができる。
ここまでは良い。
『風の息』を突破し、その隙をついて攻撃を仕掛けるという策も上手くいっていた。
問題なのはあの鱗。
剣を叩き付けた瞬間に光沢を放ち、大量の風を噴射した。
あの噴射した風のせいで振り下ろした剣は風圧に負け、跳ね返された。
あれは次はもっと力を込めて、もっと勢いをつけてと頑張って何とかできるものではないだろう。
俺の力だけでは難しい。
もしも、あれが龍自身が操る風の力とは別のものだとすれば。
風の力の反動に付け込んで攻撃を仕掛けても、あの鱗が身体を覆っている限り奴に傷を負わせられない……。
「……はっ」
そんなことあるはずがない。
馬鹿なことだと思わず笑ってしまう。
――――一撃、絶対に食らわせてやる
自分の中の闘争心が激しく燃えるのがわかる。
「ルシー。奴の攻撃はここまで届く、さっきの場所まで戻って――――」
とりあえずルシーを巻き込まないよう、そう伝えようとすると、
「あ、あの!」
俺の言葉を遮って、ルシーが声を出した。
何かと思い、口を閉じる。
ルシーは胸の前で両手を握り一度目を伏せた後、決心したような表情を浮かべて口を開いた。
「あの、私も。私にも出来ることがあれば手伝いたい! 戦闘では役立たずかもしれないけど私、力になりたい!」
強い気持ちの篭った言葉。
その目はいつも通り、本気の目をしていた。
――――できること……
この前、身体裁きを教え、格段に成長したとは言えそれはこの戦闘についてこれる段階には遠く及ばない。
「……」
巻き込んで怪我をする可能性は高い上、俺が守り切れなければ死ぬ可能性すらある。
だが、
「今の魔法、まだ使えるか?」
その眼差しをしっかりと見つめ返し、俺はルシーに問う。
「使える。体重を軽くしたりもできる!」
今回はルシーに力を借りる。
「なら俺が合図をする。その時にうんと身体を重くしてくれ」
そう言うとルシーはぱっと顔を輝かせて、大きく頷いた。
「さて、じゃぁ」
言いつつ前へと踏み込み、疾走する。
「グルルルル」
緑龍も反動から回復したらしい。
また前足を振るってくる。
――――速く、勢いをつけてっ
前足の軌道に合わせ、剣を差し込む。
剣の表面に載せるように爪を受け、後方へと角度を変える。
剣を伝って爪を滑らせるように攻撃を受け流すと同時に、強く地面を蹴りつける。
疾走の速度を落とさないように龍の懐へ入る。
「グルルルッ」
すると、懐へと入られたと悟った緑龍が大きく身体を動かし、身体全体を使って体当たりするような挙動を取った。
「こ、の」
巨体なうえに素早いせいで回避が間に合わない。
剣を挟むことで直撃を避け、勢いを後ろへ流すが身体は大きく吹き飛ばされる。
体勢を整え、着地。
風にさえ煽られなければ宙にいてもある程度は身体を制御できる。
――――さすがに少し動きを変えてきたか
前足や尻尾での攻撃。そして『風の息』程度のパターンしかなかった緑龍の挙動が変化していた。
たかが体当たりと言えどもろに食らえば身体の骨など小枝をへし折るように粉砕される。
しかし、結局やることは変わらない。
避けそこなえば、死。
攻撃はすべて躱さなければいけない。
「すぅーーー、っ!」
大きく息を吸い込んで再び突撃。
さっきはとにかく勢いをつけて斬りつけてしまおうと思っていたが、あっけなく失敗してしまった。
今度は一直線にではなく、突っ込み過ぎない距離で緑龍を翻弄する。
右へ左へ、緑龍の視線を振り切るように移動し続け、背なか側へと回り込む。
緑龍は鬱陶しそうに前足をぶんぶんと振り回して俺を追い払おうとする。
だが、単調なその攻撃は俺の身体を掠めることすらできない。
「グルルルァア」
苛立ちを露わに、緑龍が身体を回転させながら尻尾を振るう。
巨大な身体がから繰り出されるその攻撃は俺が移動している場所すべてを薙ぎ払うほどに、範囲が広い。
勢いをつけながら迫ってくる尻尾。
横に振られたそれは地面を削りながら近づいてくる。
この尻尾の攻撃は縦に振り下ろされるのと違い、飛び越える以外に避ける方法がない。
だが、安直に跳び越えてしまえば高く跳んだ分、着地したときに無防備になる。
次の攻撃を防ぐ暇すらなくやられる。
だから今までは全身を軋ませながら攻撃を受けるしかなかった。
「ふっ」
だが俺は跳んだ。
大きく尻尾を飛び越え、緑龍の上を取る程に高く跳んだ。
「グルルルッ」
宙を飛ぶ俺を緑龍の視線が捉える。
尻尾を振り回し終わった瞬間、俺が着地する瞬間を狙って次の攻撃に移ろうとしている。
「ルシー! 今だ!」
緑龍の真上を取ったところで俺は大きく息を吸い込み、剣を振りかぶった体勢で叫んだ。
『その者に、四肢を奪う枷を!』
後方に魔力が集まる気配がすると同時、ルシーの魔法が発動する。
宙にいる俺の身体が変化し、勢いよく落下する。
「グルルォッ!?」
俺が勢いよく落ちていくのに少し驚いたように龍が声を漏らした。
龍の周囲に風が吹く。
胴を守る風の防御。
風圧で身体の体勢を崩され、攻撃の軌道を逸らされる風の守り。
が、
――――今の俺には効かねぇ!
身体の重みで落下する勢いを増す俺の身体は風圧に負けることなく、剣を構えたまま落ちていく。
「っぐぅぅぅう」
しかし風による影響がない代わりに、剣を振る際にかかる負担は普段の倍では済まない。
――――重いっ
剣を振りかざす腕が千切れそうだ。
落下する勢いとは逆に腕を振る速度が遅い。
「らぁあ!!」
硬い音が響く。
風の守りを意にも介さず、振り下ろした剣が龍の鱗にぶち当たる。
――――駄目だ、勢いが足りねぇ
叩き付けたはずの剣は鱗を切り裂くには至らなかった。
重すぎる身体は普段の動きを再現するほどに制御するには無理があったのだ。
捉えたと思った一撃はその威力を完全には引き出せず、龍の鱗はあの時のように風を噴射することもなく、俺は鱗に剣を当てたまま龍の身体をなぞる様に地面へと滑り落ちた。
「グルルォォ」
着地すらうまくできず、身体の重さに呻く俺へ緑龍が踏みつぶそうと足を上げる。
「っ、すぐ解除するから!」
上手く動けない俺を見て、ルシーが慌てて魔法を解除した。
急激に身体が軽くなり、龍が足を下ろすよりも早くその場を離れる。
今、俺がうずくまっていた場所を踏みつぶした龍の足が派手に地面を砕き、飛び散った石の礫が雨のように音を立てた。
「だ、大丈夫!? ごめん重くし過ぎた!?」
駆け寄ってきたルシーが酷く申し訳なさそうな顔をして謝ってくる。
「いや、あれでいい。俺の考えが少し甘かっただけだ」
単純に龍の、あの風の守りや鱗を切った時の風の噴出をどうにかしようと思った。
身体を重くして、吹き飛ばされなければいけると思った俺が悪い。
結果、守りに使った風の力には効果があったがまともに動けないせいで斬撃の威力が著しく落ちてしまっていた。
剣を振る勢いや全身の力を上手く攻撃に載せられなかった。
「魔法が効かないなら私、どうすれば……。」
ただ、光明は見えた。
今の攻撃で奴が使う風の守りはルシーの魔法で無効化できるとわかった。
鱗の風についてはまともに攻撃を入れられなかったせいで確かめられなかったが、結局のところ風でこちらの攻撃がぶれさえしなければ何とかなると言うのは同じはず。
要するに魔法が効いた状態でも自由に動けさえすれば良い。
そしてその為には……。
俺は少ししょんぼりと気落ちしたルシーに向かって言う。
「一つ、頼みたいんだがいいか?」
「何!? 私、やるよ! なんだってやる!」
ぐっと拳を握り、訴えてくる。
「なら、血を分けてくれないか?」
キョトンとしたルシーの目を見つめながら、俺は握った剣を軽く撫でた。
※※※※※※※※
「グルルルァア!!!!」
激しく怒りを露わにした緑龍が荒々しく咆哮する。
傷こそ負っていないものの緑龍は自分に触れた者の存在が気に食わないらしく、俺を目の仇に追い回していた。
「っ」
力強く繰り出される前足が俺を引き裂こうと次々に迫ってくる。
それは今までよりも速く、攻撃の感覚も短い。
身体を上下左右に逸らし、躱し続ける俺は常に龍の動きを捉え続けた。
腕、足、脇腹のすれすれを通過し、通り過ぎた風圧で髪が揺れる。
「グルルォォ」
尻尾がゆらりと振りかぶられ、鋭く頭上から降ってきた。
――――ちっ、面倒くせぇ
ここにきて熾烈になった攻撃を必死に躱していく。
素早く横に飛び込んで、ぐるりと地面を転がる。
先ほどいた位置が弾け飛ぶのを見て、鼓動が速くなる。
良く動きを見て、気を付けて対処すれば回避することはできる。
攻撃速度やキレが増していようとそれは変わらない。
だが、いざ目の前やすぐそばに攻撃が通ると身体が竦みそうになる。
「ふーー」
その度に息を深く吐き出し、強く敵を睨みつける。
身体の中に溜まった恐怖を一緒に吐き出すつもりで。
――――今度こそ決める
自分の息が荒く、胸が苦しくなってきたのをひたと感じる。
これ以上戦闘を長引かせるのは心身ともによろしくない。
神経を擦り減せば、その分どこかに綻びが生まれるものだ。
次で決める。
そう心に誓い、隙を伺う。
攻撃感覚が速まったことで付け入る隙もなくなった。
「グルルルルッ」
体当たり。
攻撃範囲を見極め、素早く後ろへ下がる。
眼前に龍の巨躯が迫り、停止する。
当たった感触がないとわかるや、すぐに元の体勢に戻った緑龍が尻尾を振り回す。
「っぶねぇな!」
剣で軌道を逸らし、押しのけて受け流す。
反動で身体が流れ、距離が空く。
前足をくぐり抜けてもあの体当たりをされれば引くしかない。
隙の大きかった尻尾による叩き付けも、接近する隙を作ると悟ったのか容易には出さなくなった。
――――こうなれば、躱し続けて
あの攻撃を待つしかない。
その時、俺を睨む龍の口が大きく開かれた。
風が巻き起こり、その口の中へと吸い込まれるように集まっていく。
これは。
――――来た、『風の息』の構えっ
狙うならここだろう。
俺は一瞬の判断で、地面を蹴った。
身体を倒し、前傾姿勢で龍の下へと疾走する。
接近してしまえばその『風の息』はぶつける先を失う。
加えて一度風の力を使ったことでしばらくはこちらに付け込む隙が生まれる。
そのはずだった。
「っ!?」
龍の元へと近づいた俺はしかし気づいた。
――――『風の息』が……!
顔を上げ、見れば龍の口にあつまっていたはずの風が霧散するのが見えた。
ハッとする俺の目に映ったのは鋭く開かれた黄色い瞳。
その瞳は獣とは思えない理性的な目つきだった。
――――誘われたっ、こいつ俺を近づけるためにっ
そう気づいた時にはすでに俺の身体は龍のすぐそばにあった。
このタイミング。
この距離。
緑龍が身体を回転させる。
「くっ」
間に合うか?
勢いのついた尻尾がうねり、重そうな音を立て、引き裂いた空気を引き連れながら迫る
「うぉぉぉお!」
一歩、限界まで地面を強く蹴り付けて俺は跳躍した。
しかし角度が悪い。
攻撃を避けようと上ではなく、斜めに飛んでしまった事で龍へ飛びつく形になった。
そのすぐ真下を龍の尻尾が通り過ぎていく。
まるで音が無くなったような、時がゆっくりと進んでいるような感覚。
今しかない。
運よくギリギリで攻撃を躱し、龍へと接近する今しか。
懐に片手を突っ込みながら、先ほどのように大きく叫ぶ。
自分の鼓膜ですらうるさく感じる叫びに元気のいい返事が聞こえた気がした。
後方に魔力が集まり、練り上げられていくのを感じる。
その瞬間、俺は懐から引っ張り出した小瓶を剣の腹、その片面に強く叩き付けた。
瓶が割れ、中身が剣へとこぼれる。
それはさっきルシーに頼んで採らせてもらった血液。
その血液が剣へと吸収されるように消えていく。
『その者の四肢を奪う枷を!』
身体が重くなり、動かしにくくなっていく。
この感覚、確実に今までで一番重い。
――――あいつ、気合入れやがって……!
投げ飛ばされたように身体は一直線に龍の下へと進む。
『グルッルルル』
避けられたと気づいた龍が吠える。
風が渦を巻き、龍の身体を包みだす。
だがやはりルシーの魔法の掛かった俺には何の影響もない。
――――こっからだ
風の守りを無視する俺は全身に力を込める。
全身が重くなり、身体全体を押し付けられているような重圧を感じながら俺は剣を振りかぶる。
その剣が紅く、熱を発した。
――――一撃、入れてやるっ!
がっと音を立て、剣が鱗に激突した。
身体の重さなどなかったように鋭く、流麗に振り下ろされた剣はしっかりと鱗を捉えた。
そして攻撃をされたと反応した鱗の光沢が増し、勢いよく風を噴射させる。
緑龍の最後の砦。
これさえ突破できれば。
重く、並大抵の風ではびくともしない今の俺の身体を噴射した風が吹き飛ばそうとする。
叩き付けた剣を強烈な風圧で跳ね返そうとしてくる。
「あぁああああ!」
負けじと力を振り絞り、噴射する風ごと叩ききらんと全身の筋肉を総動員させる。
紅く熱を帯びた剣から送られてくる力が全身に回り、爆発的な力を生む。
重く、鉛のようになった身体を嘘のように動かし、全身全霊の力を込める。
この剣の名称は吸血剣。
所有者以外の血を吸うことで所有者に力を授ける能力を持つ俺の相棒。
ルシーの魔法でろくに動けない身体をいつもと同じ、それ以上に引き上げる。
そのおかげで俺は今、身体の重さに負けることなく剣を振ることができる。
「はぁあああ!」
噴射した風を押し返す。
無防備に喰らい、宙へ巻きあげられたこの風もルシーの魔法によって極限に重くなった今の俺の身体には効かない。
押し返した勢いのまま、鎧のように身体を覆う鱗を切り裂く。
一閃。
繰り出された一撃は重く、剣の力によって通常以上の速度で振りぬかれたことですさまじい威力で
鱗を割き、その下の肉を深く抉った。
「ぶっ」
噴き出した血が顔から身体にかけて飛ぶ。
剥がれた鱗が飛び散った血と一緒に身体に降りかかった。
口に入った血を吐いて、地面へと着地する。
「ギュォォォォ!!」
緑龍が悲痛な叫びをあげた。
おそらくその生涯に一度も受けたことのないであろう傷を、その痛みを初めて味わったのだろう。
おびただしい量の血をぼとぼとと地面へこぼしながら、緑龍は悶えるように身体をくねらせている。
「っよし!」
急いで龍の血を手持ちの小瓶へと入れ、俺は暴れる緑龍から離れる。
「採ったの!? すごーい! 本当にすごい!」
手放しに喜ぶルシーの手をつかみ、俺は走る。
「逃げるぞ、これで今回の目的は達成。さっさと帰――――」
ここにいる意味はなくなり、早くここを離れるべく投げ捨てた背嚢を引っ掴んだ時。
「グォォォォォォォ!!」
大地を震わせるような咆哮、思わず耳を塞ぎたくなるようなその声。
怒り狂った緑龍が両の前足を地面へと勢いよく叩き付けた。
その瞬間、緑龍の全身から淡い緑の風が巻き起こった。
轟音と共に、出現したその風は普通ではない。
意思を持つかのようにうねり、動き、勢いを増していく。
ぎろりと寒気すら感じる視線。
恐ろしい目つきをした緑龍が逃げようとする俺を捉えていた。
「グォォォォ!!」
殺気すら感じるほどの怒り。
緑龍の周辺に現れた異質な風がこちらへ向けて迫ってくる。
「グロスト! やばい! あれ!」
「わかってる!」
もうあんなのに関わる必要はない。
後は帰るだけだ。
せっかくあんな化け物から素材を入手できたんだ、絶対に逃げ切ってやる。
『ヒュォォォォォ』
巨大な竜巻が地面を抉り、すぐ横を通り抜けていった。
ぎょっとして背後を振り返れば大きく口を開けた緑龍が俺たちめがけて何かを放ったようだった。
今通り過ぎていったのは……ただの竜巻ではない。
通過した地面や、岩はことごとく削れている。
この破壊力、いよいよやばいことになった。
緑龍は俺たちを、正確には俺を仕留めようと躍起になっている。
――――どうすれば逃げられる?
走っていてはいずれ捕まるか、今の攻撃に巻き込まれて死ぬ。
あれを殺し切るのも無理だ。
一撃入れるのもやっとの相手を仕留めるほどの自信はさすがの俺にもない。
そもそも端から龍を殺すような準備はしてきていない。
ぐるぐると思考を加速させ、どうすべきか迷っていると。
空気が変わった。
――――これ……
「ルシー、風の棒を握れ!」
「え!? ……わかった!」
ルシーは困惑していた様子だったが、切羽詰まった俺の声を聞いてすぐに行動に移った。
俺も腰から取り出した風の棒を握り、念じる。
直後、俺たちが逃げようとしていた方向から突風が襲った。
「今だ、飛べ!」
風の棒を使い、吹き付けた突風を利用して上空へと舞い上がる。
分断されるとまずいとルシーを抱え、俺は風の操作に意識を集中させる。
「グロスト?」
「このまま崖上まであがるぞ!」
どうするんだと声音で訴えかけてきたルシーへ短く説明し、俺は下にいる緑龍へ視線を移す。
「グォォォォォォォ!」
緑龍が口を開けた。
またあの竜巻が来る。
俺たちは突風の勢いに流されるまま、宙を浮かんでいる。
あの攻撃がくれば避ける術はない。
もっと速く。
もっと速く流れれば。
緑龍の攻撃が追い付かない程速く、風に流されれば。
――――っ、そうだ。
「ルシー、あの魔法まだいけるか?」
「魔法?」
「体重操作、俺たち二人を軽くすることはできるか?」
めまぐるしい展開に頭が追い付いていない用だったルシーだが、何とか俺の言葉を飲み込むとふるふると素早く頷いて見せた。
『その枷を外し、我は汝を解き放とう』
ルシーはすぐに魔法を使った。
さっきまで感じていた重圧が嘘のように消え失せ、自分の存在が薄くなったように身体が軽くなる。
そして、
「わぁああ!!」
身体が軽くなるのと同時、突風に流される勢いも速くなる。
――――暴風が吹き荒れた。
その時下から放たれた竜巻が横を突き抜けていった。
その余波で風の勢いがさらに上がる。
遠くなっていく龍の咆哮を聞きながら、突き抜けていった竜巻を視線で追う。
突き抜け、上空へと飛んでいった竜巻は途中にある風の運河に当たり、飲み込まれて消えていった。
「こ、このまま崖上まで、本当に行くの!?」
悲鳴を上げ続けていたルシーが、吹き荒れる風の中叫ぶ。
さっきまでいた緑龍の場所から大きく離れ、風に乗って上昇する俺たちは必死に自分の周りの風を操っている。
「あぁ! うまくいけば一瞬で帰れるぞ!」
「それってどういう――――」
何か言いかけたルシーの言葉が途中で切れる。
風に流される俺たちの目の前に現れたのは横に流れる風の大河の中、一つだけ向きのおかしい場所。
上へ上へと流れるひと際流れの強い部分。
「もしかして……」
何かを悟ったルシーだったがすでに俺たちの背中を押すように流れていた風が上へ向かう気流に合流する。
「下噛むなよっ!」
「っちょ」
ルシーの声は最後まで聞こえなかった。
ぐっと腰を抱き寄せ、はぐれないようにがっしりと捕まえた直後。
竜巻の中に巻き込まれたような衝撃と風圧が襲った。
――――っぐ、耳が。
ほとんど何もできないまま、ただ身体を丸め、放り出されないよう身体の周りを風で守り続ける。
風の勢いが強すぎるためにまともに目すら開けられないが、時折、薄めに映るのは行きに降りてきた崖の岩肌。
上昇し続け。
やがて。
気が付けばそこは行きも見た光景。
何もない、ただそこへ向かっていくだけの場所。
下を見れば随分と遠くに風の大河が見えた。
上を見れば差し込む光がまぶしい。
もうほとんどすぐそこが地上と言うところまで飛ばされていた。
「おい、ルシー!」
腕に抱えたルシーは気を失っていた。
いくら揺さぶっても起きる気配はない。
しかしどこにもけがは見当たらない。
「はぁ」
両者ともに荷物も無事。
風の棒を握りしめていた手は強く力を込めすぎてほとんど血が止まっている。
だがそのおかげで手放さずに済んだようだった。
「さすがに疲れた……」
思い出したようにやってきた疲労感を抱え、風を纏ったまま崖上へと浮かんでいく。
そのまま崖上に上がり、腰を下ろしたところで身体を包んでいた風が消えた。
左手を見れば効力を失ったのか、風の棒はただの鉄の棒と化していた。
「はぁ」
しばらくはここから動かないと心に決め、手足を広げて寝転がる。
「ん?」
と、違和感に気づいて身体をまさぐる。
何か硬いものが身体にへばりついていた。
これは。
淡い緑色の鱗。
一つが手のひらほどの大きさの鱗が数枚、身体にくっついていたのだ。
そのどれもが龍の血に汚れていた。
おそらく緑龍に一撃入れたときに血と一緒に身体についたものがあの風によって乾いたのだろう。
ぱきぱきと音を立てて剥がすと乾いた血も一緒に崩れ落ちた。
「良い金になるかもなぁ」
呆けた頭でそんなことを考え、寝転がったまま陽の光にかざす。
血で黒ずみつつも陽の光を反射し、きらきらと輝く鱗。
ルシーの意識が戻るまで俺はその輝きをずっと見つめていた。
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