第19話

この谷底には道中常に吹き荒れていた風がない。


無風。

そして無音。


耳を風に叩かれ続けていた時との落差でより一層静かな場所に思えた。


「こんな場所なのに意外と生き物がいるな」


辺りを見渡せば、草木の一本もないというのに手のひら位の小さな獣や、腰ほどまである大きな獣も見えた。


一体どうやって住み着いたのか、一見何もないように見えてどこかに泉でも湧いているのか。


「ほんと、どっから来たんだろう。上から落っこちてきたのかな?」


「それなら盛大に弾け飛んでるだろ。崖上からここまで落ちてきたら絶対死ぬ」


だが、風の大河を越える前。

崖から伸び出たあの地形を見たところ、俺が視認できた生物は風の中を飛び回るコウモリだけ。


他の生物の痕跡は見つけることができなかった。

もし崖上から獣たちが落下しているのなら死体の一つや二つ、あの地形に引っかかっててもおかしくはないだろう。


もしくはあの強風によってどこかへ吹き飛ばされてしまったか。


――――しかしそうなると、この谷底に落ちてきてる可能性の方が高いのか


谷の途中に獣や、死体が引っかかったとして風に飛ばされたなら最終的にたどり着くのはおそらくあの風の大河だ。


俺たちはどこへ流されるともわからないために突っ切ることを選んだが、もしあの大河の流れに任せてしまえばこことはまた違う場所へ繋がっていたりするのだろうか。


まあいくら考えたところで確かめようのないことだ。


結果的にこれだけ獣の姿が見られるのなら、俺たちにとっても食料が尽きようとここで調達できるし、龍が住み着いている可能性もぐっと上がった。


いくら龍だろうと、餌がない場所に住み着くとは考えにくい……。


「あ」


ある考えが脳をよぎった。


「何?」


「ちょっと思いついたんだがな――――」


もしも龍がこの近辺の獣を餌として食べているのなら、龍の好物の獣というのも、もしかしたら存在するのかもしれない。

この考えがあっているとしたら、ただ当てもなく龍を捜すのではなく、おびき寄せることもできるのではないか。


そうルシーに説明すると、


「確かに! でも私、龍が何を好んで食べるかまでは知らない……」


うーん、と頭を抱えるルシー。


さすがにそこまでは調べていなかったか。


「お前、食い物なら何が好きだ?」


「え、私?」


自分を指さすルシーに向かって俺は頷く。


「好きな食べ物、肉も魚も、野菜だって好きだし……」


「俺は食えるものを聞いたんじゃねぇんだが」


「でも食べれるなら何でも美味しい、でしょ?」


その何を聞かれてるのか分からないような態度は天然で言ってるのか。


――――何でも美味しいんじゃ結局何が好きなのかわからないだろうが。


それは実質何も答えてないようなもの……。


いや、確か国から逃げた時に泥水がどうとか言ってた気がする。

命からがら逃げて、食うに困っていたとか。


――――もしかしてそれのせいで


もしその時の事が原因で食べれるならば何でも良いという考えに変わったのであれば、何と不憫な。


…………少し違うな。不憫とはまたちょっと話が変わるか


特段好きなものがなかろうが、別に口にできないという話ではない。

美味いと思えるのなら、何ら問題は……。


「何ぶつぶつ言ってるの?」


頭を捻っていると、とんとんと胸を叩かれる。


「ん、あぁ。まぁ今は置いとくか。それなら龍の好物なら? お前じゃなくて、龍の気持ちになって答えてくれよ」


「龍の気持ちになってかぁ、それなら……」


「それなら?」


「肉じゃない? だって龍だし!」


ぐっと握りしめた拳を目の前に突き出してくる。


――――まぁそうなるよな。


野菜が大好きな龍ってのもあまり想像つかない。

草ばかり食べている龍なんてあまりピンと来ない。

特に意味もない質問で少しおかしな方向へ転がりそうになったが、その答えは概ね想像通り。


ならここは。


一、二、三。

目につくだけでもそこそこの数……。

よし。


「片っ端からこの辺の獣、捕まえるとするか」


どの獣が好物か分からないなら、ひとまず数を揃えてしまえば何とかなる……、かもしれない。


「目についたやつ皆とっ捕まえちまおう!」


「おー!」


※※※※※※※※


今までバタバタと暴れていた獣が事切れたように沈黙する。

のそのそと岩肌を登っていた焦げ茶色の獣の意識を刈り取った俺は静かになった獣の足を掴み、ロープで縛り、立ち上がる。


「とりあえずはこれだけ用意すれば、どれか食いつくだろ」


「こっちも準備できたよー」


獣を引きずりながら戻ると、血でドロドロになったナイフを持ちながら手を振るルシーの姿。

捌く時に跳ねたのか頰に付いた血はその満面の笑みに不気味なほど似合わない。


虫は怖がるくせに、こういうのは平気なんだな。

ルシーは綺麗に捌かれた小柄な獣の死体と、寝かせてある中型の獣に囲まれて、捌いた獣の皮を伸ばしていた。


「ひとまず今日は食べる分だけ捌けばいいからな」


「ならもう一匹くらい捌いとくー」


倒れ伏す獣達の中にまた一つ数を加えながら、器用にナイフを動かすルシーを見つめる。

随分と慣れた手つきで血抜きの終わった獣の死体に手をつけている。


「俺は少し血を撒いてくる」


死体の下に敷かれた布の角を持ち、溜まった血を一つに纏める。

水を弾く特殊なこの布は素材屋御用達の便利な品だ。


使用方法は主に採取の面倒な液体関連に使われる事が多い。

抜いた血を包んだ布を担ぎ、俺は少し歩く。


「よっ、と」


少しだけ距離を取った後、布の結びを解く。


血が零れないように注意して、なるべく広い範囲に飛び散るように気を付けながら血をばらまく。


地面へと落ちた血は強烈な臭いを発し、辺りへと充満する。


むせ返る血の臭いが鼻を支配してなんだか口の中まで鉄臭い、唾液が血になったような気すらする。


すぐに野営の準備をしに戻り、ルシーが獣を解体しているうちに俺は火を起こす。


「しかし好きな食べ物でも、臭いで嗅ぎ分けるなんてできるの?」


「どうだろな、流石に臭いだけじゃきついんじゃねぇか? どれも同じ血の臭いだし」


「正直私にはこの臭いに釣られる気持ちがわからないなー」


口を尖らせ、顔を歪めるルシーの意見には俺も同意しかない。


「しかし臭いで釣るならこれが一番良い方法なはず」


好き好んで嗅ぎたいとは思わないが餌としておびき寄せるならこれが正解だろう。


「ちなみにもし本当に龍が来たら……」


「すっと血だけ採ってすぐ逃げよう」


龍の素材は随分と質の高い道具や、金になるというが二人だけでは持って帰るにも一苦労だ。

それに予め言ってあった通り、実質一人での龍討伐など不可能に近い。


ここは命を張る場面ではない。


故に無茶はしない。


「笛に必要な量はそんなに無くていいんだろ?」


「うん、小瓶の半分もあれば十分だと思う」


龍が現れたらちょこまかと動き回って、隙を見て一撃入れる。

そしてそのままもう一度風を操って、来た道を戻れば……。


「でもまたあそこを通り抜けなくちゃいけないと思うと、憂鬱だなー」


上を見上げ、先ほどとは別の意味で顔をゆがめたルシーが愚痴をこぼした。


はぁ、とついたため息には深い感情が籠っていた。

あれだけ厳しい道を来たのだから仕方がない言えば仕方ないが。


そんな風に他愛のないことを話しながら、俺たちは龍がやってくるのを待った。


しかしやはりそう上手くはいかず、この日はいくら時間が経っても獣一匹やってこなかった。


※※※※※※


龍谷、この場所は道中を考えれば信じられない程に静かな場所だ。


滑り石を見つけたあの石の平原とはまた違う。

あそこは生物の気配が全くない故の静けさであり、物寂しさのような雰囲気が漂っていた。


だが、ここにはどこからやって来ているのか、何を食べているのかわからないが獣の姿がある。


生き物の気配は至る所にあるというのに、どの獣も威嚇したり、遠吠えを上げるなどの音は立てない為にいつも静けさが満ちている。


「グロストー、そろそろまた次の獣を狩に行かないと」


「そうだな」


丸二日経過してなお、龍の現れる兆しはない。


ここに来た時にとらえた獣たちももうすべて平らげてしまった。


小型の獣は予想通りだったが、中型の獣は捌いてみるとその外見に対して意外と肉が少なかった。


――――そろそろ違う場所へ行くべきか


この二日の内に怪我は随分と治り、ルシーも歩くのには全く支障がなさそうではある。


「んっ……?」


と、空気が少し変わった。

これは。


「ルシー、近くの窪みに伏せてろ!」


俺の声を聞き、呑気にぐっと腕を伸ばしていたルシーが慌てて動きだす。


この龍谷の底は常に静かだ。

耳を済ませれば遠くの場所での出来事が把握できそうなほどに。

しかしこの二日、この静けさを壊す瞬間がある。


視界の端に映っていた獣たちがすごすごと何処かへ身を隠すように消えていく。


その時、


ごうっと、激しい音と共に突風が吹きつける。


「ぐっ、くぅ」


腕を前に構え、腰を落として近くに転がる手ごろな岩にしがみつく。


この二日、ここで過ごしてみてわかったこと。


風の大河を抜けたこの場所は一見、無風に無音。

風の大河を抜ける前とは別の世界のように錯覚してしまうが、時折こうしてどこからともなく身体を吹き飛ばされそうな突風が吹く。


この突風が来ている間は飛ばされないように身をかがめ、耐えることしかできない。


周囲の探索は一時中断せざるを得ないのだ。


はじめにこの風が吹いた時も寸前に空気の変化に気づいてなければ今頃どうなっていたか。


しかしこの突風はさほど長い時間吹くわけではない。


何かに捕まっていれば凌ぐことはできる。


――――それにしても、こうしょっちゅう吹くんじゃぁ捜索しに行くのも骨だな


怪我も治り、待ち伏せ作戦も成果の出なかった今。

残されたのはこの足で探しに行くこと。


移動している最中にこの突風が来てしまうと、場所によっては身を隠す場所も、しがみつくものもないところでしばし耐え凌がなくてはならない。


今も、ルシーとの距離はさほど離れていないから安心だが、念のためもう少し近い距離で進んだ方が良いかもしれない。


「やばい、腕が攣りそう!」


「もう少し、踏ん張れ! 最悪風の棒を使って、何とかしろ!」


「何とかって!?」


ぎゃーぎゃーと騒ぎながら俺たちは必死にしがみついて風が収まるのを待つ。


――――我慢だ、まだ風の棒は使わない


ルシーにはああ言ったが俺自身は今使う気はさらさらない。


風の棒は最終奥義として取っておく。


風の民曰く、三日は持つとのことだがすでにまるまる一日使い続けている。

それに俺たちではこの棒に込められた力の残量はわからない。


もしも龍に会う前に、もしくは会ってからでもいいが。

その瞬間にこの棒に頼れなくなったとしたら。


このそびえ立つ崖をルシーを連れて自力で昇っていく必要があるということ。


――――さすがにそれは無理……


故に行き帰り以外で使用するのは非常に危険なのだ。


そうして耐えることしばらく、ようやく風の勢いが止み、また静かな時が戻ってきた。


「ふー、やっと行った……」


乱れた髪を手櫛でさっさと直しながらすぐそばまでルシーが寄ってくる。


「荷物は?」


「ちゃんと無事!」


ほら、と背なかに背負った背嚢を見せつけてくる。


「ならいい。こう何度もこんな目に遭うなら何とかして風除けを作る必要があるな?」


「風除けかー……できるなら欲しいけど。そんなの作れるの?」


「材料さえあれば……いやこの強風だと却って……」


風除けより風をしのげそうな場所に沿って移動する方が遥かに現実的か?


だがそれだとあまり先まで進めない。


「うーん、こう何回も吹かれちゃうと獣たちもすぐいなくなっちゃうし、撒いた血の臭いも散っちゃうよね」


互いにどうしたものかと頭を捻る。


冒険には工夫はつきもの。


その場その場の状況を以下にしのぎ、対策を立てることができるかが肝。


しかし俺とルシーにできることはかなり限られている。


取れる手段も、道具も、時間すら迫っている。


こうして悩んでいる間にもどんどんと記念祭までの時間は無くなっていく。


記念祭までにもろもろ仕掛ける手間を考えれば龍を捜せるのに使えるのは後何日だ?


多く見積もっても後二日か三日で何とか、帰る時間も考えればもっと……。


「厳しいな」


その時、思考を回している俺の耳に物音が聞こえてきた。


「今、何か聞こえた?」


見ればルシーも同じ音が聞こえたらしく、俺の目を見てそう聞いてきた。


バッと目を閉じ、周囲の警戒に意識を集中させる。


今の突風で近くにいた獣たちはそれぞれ安全な場所へ身を隠したはず。

姿を出すにしてももう少し時間がかかる。

ならこの音の正体は。


――――もしかして、龍か?


淡い期待を持ちながら、音がする方へ駆ける。


ルシーも俺の後ろを慌ててついてくる。


上りの坂のようになった地形を駆けあがり、高い場所から周囲を見渡す。


谷底とは思えない程広い地形だが、所詮は谷底。

周囲にはそびえ立つ崖があるためにすべてを見渡すことはできない。


しかし今この場所へとやってこようとしているそれは、しっかりと確認することができた。


見渡す限りの崖に、岩、視界の先までにょろにょろと蛇のように続いている地面。


そんな光景の中、その獣は。


否。


その獣の群れは変わり映えのしない光景の中でもよく目立っていた。

後をついてきたルシーが俺の視線の先を見て声を上げる。


「またあのコウモリ!?」


風の大河を通り抜け、撒いたと思っていた血濡れコウモリの群れがこちらに向かって飛んできていた。

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