第17話


谷の傍まで戻ってきた俺たちは男からもらった鉄の棒、『風の棒』とでも呼ぶべきだろうか。

とにかくその棒を握りしめて崖沿いを慎重に進む。


崖から突出した部分を伝い、谷底まで行く計画のため、まずは降りるのが楽そうなところを探すところからだ。


三日で効力を失うと言っていたから、あまり『風の棒』を使いすぎるわけにもいかない。

自力で降りられそうなところは降りて、どうしようもない所でこそ使わなくては。


「あ、あの辺ならどう?」


「いや、突き出てる部分は大きいが足を下ろすには少し厳しい」


谷底から吹きあげる風に足を踏み外さないように慎重に進みながら、俺たちは降り始める場所を吟味する。


「よし、ここだな」


三時間以上探した後、ひとまず大丈夫だと思える場所を発見した。

崖から覗き込んで確認したところ、垂直に谷底へ向かう途中に着地出来そうな部分が視認できた。


「ちょっと、いざここを降りるとなると怖いね……」


崖下を覗き込み、これから自分がこの場所を行くのかと想像したらしいルシーが強張った声で言った。


高い場所が得意だろうが苦手だろうが、この高さから降りていくのを想像すれば誰でも足がすくむ。

表には出さないが、俺もさっきから手汗がじっとりと手のひらを濡らしている。


無意識のうちに体が緊張しているのだ。


何度も冒険して、危険とされる場所を幾度となく踏破してきた俺ですらそうなのだから、ルシーなんかはもっとひどいだろう。


それでも泣き言を漏らさず、恐怖に耐えようとしている姿は尊敬に値する。


冒険に慣れていない身を考えれば驚異的な胆力だ。


「本番がまだ控えてるんだ、ここで躓いてられねぇだろ」


恐怖には結局気力で打ち勝つしかない。

不安や恐怖を抱えたまま動くとき、思いもよらぬことが起きることがある。

本来飛び越えられた場所や、掴まれた場所をから落ちたり、つかみ損ねたりするとき。

それは身体が強張って本来の能力を引き出せていないのだ。


今回は今までの素材集めとは違い、端から危険な場所へ向かわなくてはいけない。

そして常に命の危険が付きまとう場所だ。


不安を口に出せば心がその分だけ心が弱くなる。

死に近づく。


だから空元気だろうと、見栄を張ろうと自分は大丈夫だと言い聞かせてやらなくちゃいけない。


「お前は怖がる必要なんてない。『風の棒』だって手に入れたし、最悪落っこちたら俺が空中で捕まえて着地してやる」


俺も自分の中の不安を掻き消すように、そう言葉にしてルシーの肩を叩く。

強張った身体が少しでもほぐれるように、いつも通りを心掛ける。


ここはまだ通過点、今までより少し難度の高い場所だが俺ならやれる。

やってやる。


心の中で唱えながら持ってきたロープを自分の胴に巻き付け、反対の先をルシーの腰に巻き付けてつなぐ。

これは万が一に備えて俺とルシーをつなぐ命綱。


苦肉の策ではあるが、ないよりは遥かにマシなはず。


「そうだね、『ふわふわ草』のときも何とかしてくれたし」


「あの時よりも準備はできてるし、本人がわざわざ危険な真似をしないことを願うとするよ」


「あ、はは。多分もうしないと思うから安心してよ」


どうだかな、と答えた俺の言葉に困ったようにルシーが笑う。


自分の身を顧みずに危険を冒すルシーの行動はあの過去を聞けば理解できる。

そして理解できるだけに、俺が言ってどうにかなるものでもない。


だからこそ、そんな事をさせないために。


そんな状況を作ってはならない。


最後まで協力すると決めたからには。


――――死ぬ気で身体張ってやるよ


「よし、じゃあ行こっか」


そんな話をしていたらルシーも随分と強張っていた身体が緩んできたようだ。


「おう」


※※※※※※


鋭利な鉤爪を露出した岩肌に突き立て、ゆっくりと下へ降りていく。

体重すべてを支える鉤爪は深々と岩へ食い込みちょっとやそっとでは外れない。


一人二つの鉤爪を交互に動かし、降下する。


だがそれでも完全に安心はできない。


全ての体重を支えるということは、この鉤爪に何かあればすぐ様底の見えない谷底へ落ちることになる。


片方の鉤爪を離す瞬間、下から吹き上げてくる風が身体を揺らし、一時的に不安定な姿勢を強いられる。


その風に煽られないようにぐっと身体を引き締めて、少しでも風を受けないよう。

鉤爪を外すときは素早く、そしてがくんと落ちる身体の衝撃に慌てずに次の場所へ鉤爪を突き立てなくてはならない。


手を滑らせても、風に揺られても落ちる。



一つ間違えれば命を押しかねない状況、身体を強張らせない程度に、気を張って進む。


「慎重にな!」


「大丈夫だよー!」


俺は余裕があればなるべくルシーに話しかけるようにした。

気が散るかもしれないと思ったがそれ以上にルシーの身体を、精神をほぐすことができればと考えた。


緊張からか、それとも単純に身体を動かしているからか。

身体はじんわりと汗をかき、下から吹き付けてくる風が身体を冷やす。


ーー冷え切る前にあそこまでっ


慎重故に俺たちの降下速度は遅い。


それでも一歩一歩着実に進んではいる。

崖上からでは微かにしか見えなかった部分が徐々に近づいてきた。


「もう少しだ!」


そう声をかけ、視線を下に下ろそうとした時だった。


「あっ」


右の鍵爪を離し、ずりっと下に落ちる反動でルシーが左手に持っていた鍵爪が岩肌から外れた。


深々と体重がかかることによって岩肌へと食い込むはずの鍵爪はかかりが甘くなっていた。


身体を支えるものがなくなったルシーが俺の横を通り過ぎて下へと落ちていく。


「ぐ、あぁ!」


俺とルシーとを繋ぐロープがぴんと伸び、限界まで張る。

ルシーが落ちる衝撃がロープに繋がっていることで俺の身体に直接伝わり、


ドンと強く引っ張られる。


胴に巻き付けたロープが身体を引き絞るように締まる。

締めあげられた腹に力を入れ、宙ぶらりんになったルシーへ声をかける。


「大丈夫か!」


ルシーは突然のことに混乱していたようだが、俺の声で状況を把握したらしく、震える声で答えた。


「お、落ちちゃう……。助けてっ」


「崖まで近づけるから、ゆっくり鍵爪を使え!」


腰についたロープのみが今のルシーを支えている。

か細い声で助けを求めたルシーは半泣きになりながら、俺の言葉に頷いた。


「よし、近づけるぞ!」


宙に投げ出されているルシーをロープを動かして操作する。


「ぐぉっ」


ゆっくり。


ロープが切れてしまわないように。


ルシーを崖まで、鍵爪を使える距離まで近づけていく。


ルシーと崖が手の届く距離まで接近する。


ふらふらと風にロープを揺らしながら、ルシーはしがみつくように鍵爪を崖に突き立てた。


「で、できたよー!」


「そのまま降りていけ!」


「わかった!」


返事はしたものの今感じた恐怖が身体を支配したのか、しばらくルシーは動けなかった。

鍵爪を離す事ができず、ふるふると身体を震えさせながら縮こまっていた。


だが、さらに少し経ってからようやく僅かに下へ織り出した。

この間、俺は声を出したいのを我慢してルシーが動きだすのを見守っていた。


ここで急かしてしまうとさらにルシーが萎縮して危険な事になりそうだったからだ。


たっぷりと時間をかけて俺たちは谷を降りていく。


何時間たったか、それともまだそれほど経っていないのか。

時間の感覚がわからなくなりつつもようやくはじめに目星をつけた場所までやってきた。


「はぁぁ……」


足を下ろし、緊張の糸が緩んだのか魂でも抜けでそうな深いため息を吐いたルシーが崩れるように地面へ座り込んだ。


「少し休憩してろ、俺は周りを見てくる」


声もなく手を上げて返事をしたルシーを置いて俺は次の進路を考えるべく周囲の地形を観察する。


この龍谷は思っていたよりも広い空間が広がっている。


崖伝いに降りてきたこの場所は走り回れる程度には広い。

一番端まで行き、下を覗き込むとここと同じような場所が転々と存在しているのが見えた。


大きさはまちまちで二人が楽に着地出来そうな大きさの地形は今いる場所を除けば三ヶ所くらいだろうか。


ーー少し距離があるな


ただし、そのどれもがこの場所の真下には存在しない。

あのどれかに着地するのであればかなりの距離を横に移動しながら降りなくてはならないだろう。


「どうするか……」


後ろを振り返る。


ルシーはぐでんと身体を横たえて休憩している。

あくまで目視で見た限りではあるが、次に着地出来そうな足場までは今降りてきた距離の倍は時間がかかる。


既に大分疲労してそうなルシーのことを考えればもう二度三度、さっきのように落下しかけるかもしれない。

更に言えば、下に降りるほどに感じる風の強さが増している。


手先も既に随分冷たい。


不安要素は多い。


「ここからはこれを使うか」


腰に取り付けていた『風の棒』を外し、握りしめる。

力の波動とでもいうべきか。

相変わらず不思議な感覚が身体を包む。


風の一族とは違い、俺たちには器用に風を操作する技術はない。

それを練習する時間もなかった。


不安要素で言えばいくらかこちらに傾くような気もするが、結局鍵爪を使って行こうが、『風の棒』を使おうが同じくらい危険なことには変わりない。

ならば、龍と遭遇した時のために体力は充分に残しておきたい。


「ルシー、起きろ。ここからは『風の棒』を使って行くぞ」


俺の言葉にゆるりと起き上がったルシーがいよいよかと、言いたげに表情を引き締めた。


「一応何回か試したから、大丈夫、だと思う」


「大丈夫じゃなくても行かねぇといけねぇがな」


はっと笑ってやるとぽすりと拳が脇に食い込む。


「もう、そんなことばっかり言うよね」


「だからお前は心配に思う必要なんてないんだっての。さっきだってちゃんと支えてやったろ?」


少し黙って、ルシーが顔を逸らしながら頷く。


「ま、頼りにしてる」


互いに『風の棒』を手に握り、軽く念じながら棒を振る。


下から吹き付け、身体に当たって通り過ぎていた風がその瞬間、進路を変え、俺たちの周りを囲うように集まってくる。


ーー多い……。


確か風の一族のあの男は近くの風を集めるのだと言っていた。


集まってくる風のこの多さは谷に吹く風がほぼ常に吹いているためだろう。

抜けていくはずの風を一つの場所に留めるとこのようなことになるのだ。


今足をつけている足場全てを包まんとする程に集まってきた風をどうにか操作して、身体に纏わり付かせる。

それは強風の中にいるにも関わらず、身体が飛ばされそうになる感覚が微塵も感じられず、常に身体の側を強風が吹いているといつ不可思議な感覚だった。


耳元すら覆う風に阻まれないように大声で叫ぶ。


「いいか、ちゃんとついて来いよ!」


「うん!」


互いに大量の風を纏いながら一歩踏み出すタイミングを計る。

いざ自身の力以外を頼るとなると猛烈な不安に駆られる。

視線の先には果てしなく深い谷。


思わず吸い込まれそうな、そんな場所。


広すぎるほどに空いた空間はじっと見つめているとここが何処なのかわからなくなってしまいそうになる。


ただ落ちれば命はない。


大丈夫だ。ストンと落ちることはない。


平気だ。


ここで躊躇ってしまえば心に恐怖が入り込む。

後ろであいつが見てるんだ、覚悟を決めろ。


「ふっ」


『風の棒』を力強く握りしめ、俺の意思がしっかりと棒に伝わるように、風を思いのまま動かせるように念じる。


踏み出した一歩は空中を掴む。


存在しないはずの空間へ足を動かし、自分が宙に浮かんでいるのを再度確認する。


ーーよし


あの時の男のように滑らかにではないが、しっかりと風は俺の身体を運んでいる。

握りしめた棒に念じる度、想定より少し大きく移動する。


微調整は難しいがいける。 


ふわふわと綿毛が運ばれるが如く。

足場のない空間を進む。


ーールシーは……


ある程度進んだ所で後ろを振り返る。

先に危険に対処できるように俺が先頭を行く順番だが前ばかり見ていると後ろのルシーの様子がいまいち掴めない。


ーーひとまず大丈夫そうだな


見ればルシーも顔を悲壮に歪めつつも何とか前へ進み出していた。

次の着地地点まで風を纏うことで斜めに、真っ直ぐ進む。

鍵爪であれば横に移動してから真下に降りるところを直線で進める分こっちの方が時間は短く済む。


ーーいい調子だ


風に流されることなく、集まってきた風をどんどんと吸収し、巨大な風の流れを従えつつ俺たちは斜めに降下していく。


万が一の為に崖沿いを進み、事故に備え時折違いの調子を確認しつつどんどんと下へ降りる。

順調だ。


そして二つ目の着地地点へと降り立った。


「ふーー」


深く息を吐き出して身体をほぐす。

知らない間に身体に力が入っていたらしく身体をぐるりと動かすとあちこちからバキバキと音が鳴った。


ルシーに視線を向ければその表情はほんのり青ざめているが先ほどより体力は残っているようだ。


ここまではほぼ完璧。


下を覗き込んで進路を確認。


「よし、次行くぞ」


「え……?」


「何だ?」


「……あ、いや、ううん」


余裕があるならどんどん進んでおく方が良い。

気持ち的にはまた少し休みたいのだろうが、見たところルシーはまだいける。


「進めるときに進んどかねぇーー」


「ふー、大丈夫。私、まだ大丈夫。大丈夫ったら大丈夫ー」


ぶらぶらと身体を伸ばして、脱力しながらルシーは俺が言いかけた言葉を遮った。

その瞳はそれ以上言わなくても平気だという目をしていた。

言葉通り間髪入れずに風の渦を作る。


少し慣れてきたのもあってそこそこ移動も早く出来るようになってきた。

そして速度を上げた分、吹き付ける風も強く、激しくなっていく。


轟々と耳元を流れていく風がうるさい。


それにしても凄い環境だ。


ーーこれだけ風が強いと魔物や鳥何かもいねぇな


ちらりと周りを見渡しても、降りられそうな部分はいくつかあるもののどこにも生物の姿は見えない。


こんな場所で戦闘など考えたくもない。


この環境に適応出来たのは龍だけだったということか。

そんなことを考えていると三つ目の着地場所が見えてきた。


「もうすぐだ、頑張れ!」


「前ーー何ーーったよ!」


風で上手く聞き取れないが、何か叫んでいるのはわかった。


ひとまずあそこについたらしばらく休憩しよう。


風に吹かれ続けて身体は芯まで冷え切っている。

何か温かいものでも食べたい所だが、


ーー携帯できる飯は限られてるからなぁ


こんな場所では満足に飯を作ることもままならない。

料理が出来るなら調理器具を持ってくることも考えたがこの風では設置してもすぐに飛ばされてしまうだろう。


一つ目の着地場所から随分下まで降りてきた。


嵐もかくやというこの強風ではあまりしっかりとした休息は取れないかもしれない。

と、いよいよ三つ目の着地地点に迫ってきた所で何か視界に入る。


同時に僅かにつんと、した臭い。


もう何度となく嗅いだことのある、血の臭い。


ーーあれは


死体だ。


おそらくだが生き物の死体。


殆ど骨と化しているが僅かに肉が付着しているのが見えた。

こんな場所に生物がいたのか。


この風に適応した生物が……。


「ーー! 主人(グロストの名前を言いかける)ーー!」


後ろでルシーが叫んでいる。

ダメだ、風が強すぎて何を言っているのか聞き取れない。


「何だ!」


ルシーを見てそう叫ぶとルシーは俺の下を指さした。


「うおっ」


瞬間、顔のそばを何かが通り過ぎた。


もちろん風ではない。


何か物体が顔のすれすれを。


「ん?」


額から冷たい何かが垂れてきた。


ばっと手の甲で拭うと赤い色の液体が擦れて手の甲を汚す。


「血?」


拭った場所がぴりっと小さく痛みを発した。


攻撃されたのか。


後ろから追いついてきたルシーが大きな声で叫ぶ。

距離が近くなった為、今度ははっきりと聞こえた。


「下、風に乗って何か飛んできてる」


ルシーが指差すのは相変わらず俺の下。

そこからは常に目を閉じたくなる強風が吹き付けている。


あんな所から何が。


困惑しつつも、ルシーが指差す場所を凝視する。


すると、それは来た。


龍ではない。


もっと小さく、平地では敵にもならないであろうそいつ。

否、そいつらは丸で風の波を乗りこなすように自在に動き回りながら近づいてくる。


「血塗れコウモリだ!」


自身を超える翼を大きく広げながら、やつらは宙に留まる俺たち目掛けて突撃してきた。

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