第18話 病入膏肓のヘリコバクター

 提灯の明かりはまだ夕映えの中で淡く、落ち着いた輝きに照らされているとうりには、和気藹々とした人々に溢れかえっている。


 転勤族だった晴生でも見たことのない屋台があり興味を引く。


「このキャンドルボーイってなんだ?」


 晴生は何げなく呟いた言葉だったのだが、全員から思わぬ注目を浴びることになる。


 キャンドルボーイというのはウインナーにもちを巻き付けて焼いたもので、カリッ&もちっとした絶妙な触感の食べ物だ。


「は? ハルくん、知らないの?」


「東京にもあるでしょ?」


「もしかして……ないの?」


 驚きの表情を向けられる中で晴生とひたきの二人は見合わせ大きく頷く。


「見たことも聞いたことも無い」


 地元民に動揺が走る。てっきり全国的にあると思っていた地元民たちは衝撃を受け揃って地面に膝を折る。


「何ていう事だ」


「そんな……そんなことが」


「僕もってきり全国的にあるのかと」


 晴生達は昨日まで苦悩の種であったストーカーの事を忘れて、祭りを純粋に楽しんだ。



 結局、祭り当日までの間に晴生達はストーカーについて調べることが出来なかった。


 更に晴生は雪希にストーカーについて聞くことが出来ていなかった。


 嫌なことを想起させてしまうのではないか? もしかしたらストーカーの正体が誰であるか分かっているがそれを認めたくないから、陽気に振舞って見せているのでないか? などと気を回しもたもたしているうちに祭り当日が来てしまった。


 男連中と馬鹿騒ぎをしている間も、心配の種がつっかえて取れない晴生は警戒心を緩めることが出来ず、表情は硬い。


 その様子を感づかれたのだろう。


 ヨーヨーすくいで隣になったとき雪希から告げれられる。


「ハルくん。実はね。今日、警察が事情聴取に行っているらしいんだ」


「そうだったのか……」


 その言葉を聞いて晴生は心から安堵した。


 今までの調査が取り越し苦労に終わったこともそうだったが、雪希の笑顔が作っているものではなく、安堵から来ていたものだと知りてほっとした。


「だけど今日一日、いや接近禁止命令が出るまでは、護衛は続ける」


 ストーカーの件を雪希から相談されて以来、完全にスイッチの入ってしまった晴生の警戒心は中々取れない。


 常軌を逸した人間は何をするか分からないので用心に越したことは無い。事情聴取中に逃げ出す可能性もゼロじゃない。


 雪希が無事でそれでいい


 この際、晴生は取り越し苦労なんていくらでもしてやるという感覚に成っていた。


「大げさな気もするけど、お父さんもそう言っていたし、護られているって感じも、何だろう……いいなぁって」


 今までの晴生だったら、つい最近こそ柔らかくなった父親から過保護に護られていて、どの口が言うのか? と言うところだが、意地の悪い言葉を言う気は晴生の中でいつしか失せていた。


 本音を言えば雪希から甘えられているように感じられて、晴生は少し心地よかった。


 そして晴生は認メル。


 雪希の魅力に惹かれて、まるで本能のように告白する男どもと同じ人間であることを――


 ここ数日で完全に落とされてしまった事に――


「ハル、あのどんどん焼きって食べてみたいっ!」


「ああ、そうだな」


 さらに久しぶりに見る鶲のはしゃぐ姿を見て、雪希は鶲を外に連れ出すきっかけを作ってくれた。


 そんな雪希の内面に魅了されてしまった。


「良かったね。鶲ちゃん元気になったみたいで、引きこもってるって聞いていたから」


「ありがとう。本当に感謝している。男の俺だと察しきれない部分も多いから、本当に助かった」


 静かに雪希は首を振る。


「……ハルくんには、数えきれない恩があるから、こんなことで良ければいくらだってす――」


 雪希の言葉が途切れる。


 血の気が引いていき、白くて綺麗な肌が、生気が失われ青白く染まっていく。


 ガタガタと震えだす身体で、必死に晴生の腕を掴みに来る。


 雪希の目は信じられないものを見たように、眼を丸くしている。


 晴生もその視線の先へと視線を伸ばし絶句した。



 黒いフードを被った30代と思われる男が立っていた。


 目元は見えないが、口元は笑っているようにも見えた。


 体格は中肉中背、そんな人相や姿形よりも晴生の言葉を奪ったのは右手に握られた総毛立つような銀光を放つ包丁。


 包丁の光が提灯の明かりを稲妻のように晴生の網膜を貫いた瞬間、晴生の記憶が飛ぶ。


 晴生が次に気付いた時には、男の姿は自分の懐にあった。


 裂かれた皮膚の痛みが徐々に右の脇腹から脳に送られ、燃え上がるような激痛へと変わる。


 男が突っ込んできた瞬間、とっさに晴生は雪希を自分の後ろに隠し庇っていた。


 黒い水滴がアスファルトを濡らしていくのを見て、晴生はようやく自分が刺されたこと気付いた。


 反射的に手で押さえた腹部から指の隙間を抜けて流れ落ちていく。


 晴生は痛みに耐え兼ねて、膝を折りそうになったのを辛うじて踏みとどまった。


 痛みの情報が脳内を駆け巡る中、もはや本能に近い思考回路で晴生は背中で泣き叫びながら縋りつく雪希を必死に庇った。


「やった。やったぞ、お前が雪希ちゃんに付きまとうからだ」


「今度はぼくが守ってあげる」


 などと公言しへらへらと笑う男の言葉を晴生は殆ど聞こえなかったが、馬鹿にされていることだけは分かったので、反射的にこみ上げてきた怒りに任せ、晴生は男へとにじりよるが、力尽きて膝が折れた。


 晴生の身体は背後にいた雪希の胸元に倒れるようにして崩れ落ちる。


 突然の出来事に誰もが声を上げられずにいたが、祭り本部の大柄の大人たちが男の背後に現れ、全員で取り押さえる光景を虚ろな眼で晴生は眺めていた。


「……小野寺……先生……だったんですか……」


「そうだよ。僕だよ。そんな男じゃ、君は守れない。一番君を愛してあげられるのは僕だけだ」


 晴生は自分の傷に雪希の手が添えられているのに気付く、せっかく綺麗な浴衣が自分の血で染まってしまって申し訳ない気持ちでいっぱいになる。



 もう、たくさん……あんたなんか……



 そんな言葉が雪希の口から洩れたと思った瞬間、晴生は自分と雪希との周囲の空間の色が消え失せて、時間が止まったような感覚に襲われる。


『暴れろ』


 雪希の次の言葉は、雪希のいつもの柔らかく優しい声と、野太くて低く恐ろしい声が重なっていたよう晴生には聞こえた。


 その言葉で晴生は一気に現実へと引き戻される。止まっていた時が再び流れ出すように、世界が色を取り戻していく。


「うぁ……がぁぁ……ああああああああ!」


 引き戻された刹那。晴生の目に映っていた小野寺が、押さえつけていた男達を振り払って、暴れ始める。


 脂汗の流しながら獣のように吠えて、小野寺は胃の辺りを掻きむしり苦しみだす。


 その姿は阿鼻叫喚の絵図だった。


 そして吐瀉物と一緒に黒い血が吐きだされた瞬間、近くにいた女性が悲鳴を上げ、それを皮切りに祭りは騒然とする。


 引き上げられたばかりのマグロの如くのたうち回る小野寺を再度おさえにかかる大人たち。


 その小野寺の苦しむ姿を雪希は氷のように冷え切った目で唯々ただただじっと静かにで見つめている。


 嘲笑う訳でもなく、怯える訳でもなく、無機質に、機械的に――


「雪希っ! もういいやめろっ! やめるんだっ!」


 取り押さえていた男の一人は新次郎だった。


 父親の叫びで雪希は我を取り戻し、再び青ざめた顔に戻る。


 自分のしでかしたことにようやく気付いたようなそんな感じを晴生は力の入らない身体で思い、また意識が途切れる。



 次に晴生が朧ながらも意識を取り戻したのはブルーシートの張られた祭本部のベンチの上だった。


 晴生の目の前には煌々と照らすライトの影に隠れ、涙を浮かべて苦悶の表情を浮かべている雪希が必死に自分の傷口を抑える雪希の姿があった。

 

「お父さんっ! お願いっ! 雪稀をっ! 雪稀を持ってきてっ! 早くっ!」


 そんな会話が晴生の耳には聞こえていたが、血を大量に失ってしまった晴生の頭はその意図を探るだけの思考は残っていなかった。


 次第に晴生の目の前の電球の光が大きくなって包み込むように視界を奪っていく。


 晴生の目はもう何も映らなりはしたが、耳には優しい声が微かに鼓膜をくすぐる。



 大丈夫――


 絶対助けるから――




 気が付けば晴生は病院のベッドの上。


 まるで嫌な夢でも見ていたかのように、記憶が曖昧な晴生は何気ない日常の朝のように普通に起きたら、自分の部屋ではなかったので少し混乱したが、すぐに何が起こったか思い出す。


 急に体を起こしたら、頭に酷い激痛が走り、思わず蹲って、はっきりと頭が回ってきて、刺されて病院に運ばれた事に気が付いたことを再認識する。


 頭が痛いのも輸血を行ったからだとすぐに理解できた。


 こういう時はまずコールをした方が良いのだろうと晴生はボタンを押した。


 看護師はすぐに駆け付け、意識レベルを確認するような質問事項を晴生ははっきりと答えて見せると、警察を交えて状況を説明してくれた。


 晴生が刺されてほどなくして警察が現れ、小野寺の身柄を拘束した。


 小野寺は事情聴取をしていた警察の隙をついて逃げ出し、晴生達へ襲い掛かったのが事の顛末。


 晴生は警察を責めずにはいられなかった。直接的に強くは言わなかったものの皮肉交じりに言いい、大の大人の頭を下げさせてしまい、逆に晴生は空しい気持ちにさらされる。


 雪希の父親、新次郎にも相当言われたようだったので晴生はもう何かを言う気も失せた。


 さらに小野寺は重度の胃潰瘍を患っていたらしく、警察の監視下の元、晴生とは別の病院に入院中だという事だった。


 晴生は1日程意識を失っていたものの、医者が言うには傷はそれほど深くなく、輸血を行ったため暫くは頭が痛いのが続くだろうという診断を受け。


 晴生は少しばかり腑に落ちない点があったが、そんなことよりも雪希について怪我が無かったどうかだけが心配だった。


 以前盲腸で倒れた時と同じように雪希は晴生を救急車が来るまでの間、救護活動を行ってくれていたという事を医者の口から告げられ、晴生は雪希に怪我が無かったことにほっとした。


 それからが晴生は大変だった。


「お兄ちゃん……心配したんだからね」


 鶲が自分の事をお兄ちゃんと呼ぶのは小学5年の時以来だった。


 意識が戻ったことを聞きつけた家族が駆け付けて、鶲に泣きつかれる。


 それだけならまだ良かった。


 鶲のいじめが公にさらしたとき以来のテレビやら新聞やらが取材を求めてきて、その度に看護師が許可を求めてくるので一旦全て断るように晴生は伝えた。


「テンプレ展開キタ――(゚∀゚)――!!」


「開幕早々なんなんだお前は」


 夕方になって秀実ほずみたちが来てくれて晴生は素直に嬉しかった。


 相変わらず馬鹿なの事を言い出す友人たちが現れ晴生の心も癒されていく。


「……なぁんだ、意外に元気そうじゃん、心配して損した」


「ツンデレもいいが、もうちょっとかわいい感じに心配出来ないのか」


 ほっとした椿花を初めて見た。


「及川……心配したんだからね」


「……今川だけかよ。ちゃんと心配してくれているのは」


 晴生は弥音が意外に可愛く泣くことを初めて知った。


「すまない。及川、俺達何もできなくて」


「気にすんなって、たまたま俺が傍にいて対応できただけで、そんなに自分を責めんなよ」


 誰の見舞いか分からないと思わんばかりに落ち込んだ元弥を初めて見た。


 しかし、雪希の姿は無かった。


「雪希は? どうした?」


 晴生の何気ない言葉に椿花達の表情が曇り始める。


「雪希、昨日今日と学校を休んでいるのよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る