第10話 酔生夢死のラクトバシラス

 ゴールデンウィークが明け、登校してきた雪希の様子が一変していた。


 その姿に衝撃を受けたのは晴生だけではない、クラスメイト全員が言葉を失った。


 そう言葉を失うほど、綺麗になっていたのだ。


 ただでさえ美人だった雪希の肌と髪が異常なまでに艶やかになっていたのだ。


 クラスメイトに微笑みを振りまいて颯爽と挨拶する姿にクラス全員が魅入られたように呆然としている。


「おはようっ!」


「お、おはよう……」


 満面の笑みを向けて輝く雪希に晴生も見惚れて気の抜けた返事をしてしまう。


 それ以上言葉が出ない。まさに二の句が継げなかった。


「どうしたの? ぼーっとして」


「……あっ、いや。なんでもない……というか、鬼嶋こそどうした。それメイクか?」


「メイク? していよ。そもそもうちの学校メイク禁止だよ?」


 小首を傾げながら徐に雪希は晴生の前の席に座る。


 4月末に席替えをして雪希は晴生の前の席になっていた。


 メイクしているという感じは確かに自然としなかった。


 しかしながらメイクしていなければ説明が付かない変貌ぶり。


 メイクをメイクと思わせない特殊メイクだったとすれば話は簡単だが、晴生はそんなメイクがあったらあったで嫌な気がした。


「それ校門前の田中先生にも言われたんだよね、肌触ったら納得したみたい。何だったんだろ?」


「そうか、それにしても……どうしたんだ?」


「どうしたって?」


「いや、なんか感じが……綺麗になったというかなんというか……」


「な、なにいきなり? どうしちゃったの? 変なのは及川君の方だよ?」


「確かにそうだな。いよいよ眼科か脳外科を受診した方が良いかもしれないな」


 晴生は若年性老眼か脳腫瘍かを本気で疑い、目頭を押さえ頭を振る。


「……マジムカつくけど、安心した。いつもの及川君にだね」



 昼休み。今日は何故か雪希、弥音ねおん、椿花の三人、中庭で食事するというので、晴生、秀実ほずみ、元弥の三人はむさ苦しく生物室で食事をしている。


「要はあれじゃないか? 恋すると綺麗になる的な奴じゃないのか?」


「恋? 恋であそこまで変わるかぁ? そもそも誰にだよ?」


「及川氏。それ本気で言ってるん?」


 会話の内容は雪希の変貌ぶりについて、三人が思いつくのはやはり『恋』。恋で女は変わるとはいうものの、その変貌ぶりはそれだけでは説明が付かない。


 秀実から晴生に恋の相手が自分であると言う物言いに晴生自身いまいちピンとこなかった。


「仮に恋だとしても、その相手が俺ってことはあり得ない。第一、俺は鬼嶋に嫌われている」


 秀実と元弥も晴生達が嘘の恋人関係であることを知っている。事情を知った上で二人とも友達として協力してくれていた。


「最初は良い性格しているって言ってしまって、この間は父親との修羅場に付き合って……」


「何だその修羅場って言うのは?」


 晴生は元弥にゴールデンウィーク中の出来事を話す。


 父親の浮気が雪希自身の誤解だという事が分かり、その後大学行く行かないの口論になり、飛び出した後展望台まで着いていって少し語り合った。


 結局その後ちゃんと父親と話をして、雪希は大学進学を目指すことになった。


「それ以外考えられなくないか? ただでさえ、クラスの中を取り持ち、柏倉と友達になれるように仕向け、そして父親とのわだかまりを取り除いた。これで惚れるなっていう方が難しい」


「なんなんそのリア充っぷり。フラグ立ちまくりじゃんか。うらやまけしからん、それなんてエロゲ?」


 晴生は二人のそっちの方向にもっていこうとする明らかな意図に気付き呆れる。


「そんなこといってお前たちは俺に鬼嶋を意識させるつもりなんだろうがそうはいくか」


「「バレたか」」


 残念ながら晴生の考えは勘違いもいいところ、二人の意図は遥か上、『もうお前ら結婚しろ』だった。



 雪希の異常事態に晴生はある事を懸念した。


 それは晴生と雪希が付き合うという噂が立つことでパタリと止まった雪希のモテ期が再来するかもしれないという事だった。


 中間テストをまずまずの成績で終え、5月の後半へ差し掛かろうとした頃。


 この晴生の懸念は見事に的中する。それどころか――


「僕と付き合って下さい」


「ごめんなさい。 私、及川君と付き合っているの」


 3時限目の休み時間、彼氏がいるという噂を流しているにもかかわらず告白してくる人間が出てきた。


 晴生は3階廊下から校舎裏を眺めると転校初日に見た光景が毎日のように続いていた。


「テストが終わってから数えて20人ぐらいになるか?」


 昼休み、晴生と雪希は一先ずの対策として、空き教室で一緒に二人だけで弁当を食べる事になる。


「そんなになるのかなぁ~」


 迷惑しているのかと思いきや、晴生に映る雪希はあまり気にしていない様子に見える。


 向き合わせた机の上に雪希が晴生に見せつけるように手作り弁当を広げていく。


 純和風である幕の内弁当は雪希のイメージとぴったりだった。見る目も美しく映え、食欲をそそるような感激的な弁当。


 その完成度の高さに晴生はぐうの音も出なかった。


 雪希が弁当を作ってきたのには男避け以外にも理由がある。それはつい先日こと――


 晴生は口を滑らして雪希に『料理できるのか?』と聞いてしまった。その結果、雪希の琴線に触れ晴生のと合わせて作ってくると言い出した。


「……どう? これでも何か言うことある?」


「いや、御見それしました。先の発言撤回させて頂きます」


「よろしい」


 いつも昨日の夕飯の残りを詰めてくる晴生はいらないと言ったのが、それが更に彼女の神経を逆なでした。


 そもそも家での食事を作っているの雪希に対して失礼極まりない発言だった。


「いただきます」


「いただきます」


 晴生は肉じゃがから口を付けた。しっかり味が染み込んでいて甘みと醤油の塩辛さが絶妙なバランスのジャガイモに、晴生は心の底から懐かしさのようなものがこみ上げてくるのを感じた。


「どう?」


「うまい……なんかお祖母ちゃんの味がする――って、痛てっ!」


「もっと気の利いた感想を言えないのっ!?」


 思わずぽろっと出てしまった言葉のお陰で、晴生は雪希に鼻を思いっきり引っ張られた。


「でも、美味いのは本当だ」


「でしょ?」


「それにしても鬼嶋の彼氏になる男は幸せだろうな……」


「……どうしたのいきなり」


「いや、毎日こんな美味しいものを食べられるんだから幸せだろ?」


「……ふ~ん」


「どうしたんだ? なんか怒っていないか?」


「別に……怒っていないよ。それよりも早く食べちゃおうよ。昼休み終わっちゃう」


 突然雪希がムッとした理由が晴生は分からなかった。



 5月23日の木曜日の七時限目、いよいよゼミ研究の開始された。晴生達は乳酸菌の性質について研究することにしていた。その基礎研究の為に近所の大学へ訪れていた。


「失礼しまーす」


 徐に晴生達が研究室に入ると出迎えてくれたのは、晴生と雪希の二人がクドアの件でお世話になった上川教授が待っていた。


「やあ、久しぶりだね。雪希くん」


「え? どうして先生がここに? 東京へ帰ったんじゃ……」


 上川教授は度々新次郎の酒蔵を贔屓にしている常連客であり、雪希も顔見知りだった。先日桜祭りに訪れていたのも、観光と酒の購入の為だった。


「実は僕、ここの合月君とは友人でね。少しこっちの方に来る用事があったから立ち寄らせてもらったんだよ」


 合月教授は今日は学会の為いないというので代わりに申し出たとのことだった。


「だれ、このお爺さん」


「椿花っ! 失礼だよっ! こう見えてこのお爺さんは東京の農業大学の名誉教授なんだからね」


 無遠慮というより不作法な椿花の雪希はその失礼な口を閉じるように迫る。


 雪希も大概だったものの、それは年の功、上川教授は温厚にも笑って済ませてくれた。


「構わないよ。ちょうど君たちぐらいの孫がいる本当にお爺さんだからね。そうだ、今年のこの雪稀。大変いい出来だった。美味しかったよ」


 どこからともなく上川教授の手に現れる一升瓶。そこには達筆な字で純米大吟醸、雪稀というラベルが張られていた。


「わぁーっ!! わぁーっ!! 先生っ! なんで持ってきているんですかっ!?」


 真っ赤になって雪希が今度は上川教授に一升瓶を隠すように迫る。


「……雪稀……ね」


「あーね」


「なるほど……」


「そういうことか……父親の愛が詰った良い名前だな」


「自分の名前が酒になるって……NDKねぇどんな気持ち? そのへんのところkwsk詳しく…」


「見ないで……っ!!」


 恥ずかしさのあまり、雪希は顔を手で覆い隠して蹲った。


 雪稀という銘柄は、雪希が産まれた年に醸造されたもので、当時雪希の父が少し字を変えて命名にしたものだった。


「早速で悪いんだけど、すこし雪希君の力を見せてくれるかな」


 気を取り直した研究室。雪希の前に何の変哲もない特徴も無いパンが数斤置かれる。


「力って……雪希ちゃん何のこと?」


「そういえば及川君と椿花以外の人には話したことが無かったよね」


 雪希は事情を知らない他の三人に自分が菌の声が聞こえるという、実はこれは晴生も椿花も知らなかったことだが、会話もできるらしい。


「他のみんなはこのパンがどこの店のものか分かるかな?」


 晴生は一つ取り眺める。


「特徴的にどこにでもある普通のパンのような、少しフルーツのような甘い香りが……」


 晴生は気付いた。前に何かの料理本で特殊なパンの作り方を見たことがある事を思い出す。


 雪希と晴生以外の全員が首を傾げる中、研究室の戸が開かれる。


「おはようございまーす。あれ上川教授また来ていたんですか? あれ、雪希もいるじゃん? どうしたの? あっ、そうか。今日からゼミだっけ」


 陽気な挨拶と共に現れたのは晴生が龎龎ろうろう温泉で知り合った中学で先輩、五十嵐霧葉だった。

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