第8話 膝癢掻背のスキンフローラ

 ゴールデンウィークが始まり、5月の中半に控えた中間テストの為、晴生は勉強を勤しんでいたとある4月28日の昼下がり。


 勉強の合間に雪希の父、新次郎に近づく女性について調べていたものの、かんばしい成果は得られなかった。

 

 最初に雪希から教えられたのは、名前は藤生真白ふじゅう・ましろ。シュイヴァン・パートナーズ株式会社というコンサルティング会社に勤める女性という事だけだった。


 それを雪希は会社に残った皮膚常在菌から聞いたというので、晴生も一度は感嘆したものの、あとで冷静になって裏付けを取った。


 結局調べられたのは、概ね雪希の言ったことは事実であることと女性の勤める会社がどういったところかというぐらいなものだった。


「結局そういう事なんだろうな……」


 独り言をつぶやきながら一息入れようとした頃、傍らに控えていたスマホの画面が光りメッセージを知らせる。相手は雪希だった。


「そういえばIDを交換していたんだったか……」


 メッセージの内容は晴生が顔をしかめるものだった。


雪希『明日朝10時駅前のに集合! 昨日会社で話しているのを聞いちゃったんだけど、お父さんとあの女が会うみたい(怒)。打ち合わせ場所に潜入して女の正体を探るよ』


 正直晴生は行きたくなかった。バカバカしいというか、面倒くさいというか。


 そもそも雪希の言う父親が浮気をしているというのは、雪希の思い過ごしだろうと晴生は直感していた。


 晴生は返信しあぐねいていると再びメッセージが届く。


 雪希『あと目立たない格好で来ること! 来なかったら家まで行ってあげる』


 晴生『だが断る』


 晴生は一文を送って放置した。


 するとすぐ今度は電話が掛かってきた。


 晴生は鼻を摘まんで――


『ちょっと及川君っ! さっきの何っ!?』


Sorry?すみません May I askどちらにおか who’s calling ?けでしょうか?


『えっ!? あっ!? ごめんなさいっ! 間違えましたっ!』


(日本語で帰してどうする……)


 どうやら雪希はリスニングが苦手のようだったので、そんなことで中間テスト大丈夫かと心配にもなったが、一先ず晴生はまたしばらく放置することにした。


 そして数秒後、せわしなく電話が鳴る。


「おう、どうした鬼嶋」


 今度はちゃんと出てやった。


『ねぇ!? さっき電話したら外国人が出たんだけどっ!?』


「たまによくあるんだよ。話はそれだけか? 切るぞ?」


 本当にたまによくある。


『そんなわけないじゃんっ! だが断るってどういう意味っ!?』


「悪いが忙しい」


『……え? そうなの?』


「朝一から歯を磨いて、食事を作って、朝飯を食べて、テレビを見たり、寝たりしなきゃならん」


『そ、そうなんだ……って、それってヒマってことじゃんっ!』


「バレたか」


『もうっ! 馬鹿なこと言ってないで絶対来るんだからねっ!? 来なきゃキャメルクラッチだからっ!』


 晴生はしぶしぶ電話を切った。全然気が進まないがキャメルクラッチは嫌なので明日は足を運ぶことにした。



 4月29日、晴生は約束の時間の15分前に到着したが、駅の改札口前には雪希の姿は見えない。


 目立たない格好と言うので白シャツにデニムパンツという比較的ラフな格好にした。


 約束の5分前になり、たたたと近寄ってくる影が晴生の目に入った。


「ごめん、ちょっと遅れちゃったかな?」


 今日の雪希の装いは淡いピンクの着物の姿、確かに明るすぎず落ち着いた色合いと唐草や唐花などの地紋が優しく可愛らしい印象を受けた。


 更に桜の花びらが織り込まれた白地の袋帯もまた上品。


「ちょっと待て」


 雪希の想像を絶する姿に晴生は突発的な眩暈が襲われ、思わず目頭を押さえる。


「人に目立たない格好って言っておきながら、その恰好は何だ?」


「え? ああ~ ちょっと早いんだけど、最近、暑いから単衣ひとえにしちゃった。地味めな色を選んだつもりだったんだけど……」


 晴生は着物の事が詳しくないので、雪希の言っていることの殆ど分からなかったが、恐らく衣替えのことを言っているのだろうと察しがついた。


「時期が早いかどうかの問題じゃ……」


「仮にも彼氏なんだから、ちょっと気の利いたこと言ってほしいんだけど?」


 本当に仮なのだらか仕方がないと思いはしたが、晴生は少し不満げ覗き込む雪希の顔に、不覚にも少し『可愛い』と思ってしまった。


「……よくお似合いです」


「ありがと、じゃあ行こう」


 少し照れ臭そうに微笑む雪希に、晴生は戸惑いながら駅と逆の商店街の方へと手を引かれていった。


 雪希の父、新次郎の商談相手という女性、藤生真白ふじゅう・ましろは商店街に一等大きく聳え立つビジネスホテルに宿泊しているとのことだった。


 雪希が会社の従業員に聞いた確かな情報だった。


 公休日にもかかわらず仕事に来る事に雪希は怪しんでいたようだが、晴生は会社であればそういう事もあるだろうとあまり疑ってはいなかった。


 晴生の方でもネットを色々調べて回っていたが先の会社の事以外まるで分からなかった。


 不審者といえば小学校の通学路に出没する変な行動をする男や誰と誰が不倫しているという情報ばかり。


 渋りつつも意気込んできた晴生だったが、約束の時間は11時30分だという雪希の一言で、萎えて熱は一気に冷める。


「及川君に時間までこの町の事を案内したかったんだ」


「それなら言ってくれれば……」


「もう、及川君が変な事を言うから、言いそびれたのっ!」


「それについては申し開きもない」


 雪希に連れられるがまま市街地を散策する。


 教えて貰ったのは女の子らしくスイーツ店やカフェだったり、実家の地酒を下ろしている土産屋だったりしたが、夏には祇園祭りが開かれて賑わいを見せるという興味深い話を聴いた。


 そして約束の30分前、打ち合わせの場所だという割烹店に訪れたのだが、正面の入り口からではなくて何故か裏から回る。


 晴生は雪希に案内されるがままついていくと、勝手口の戸を叩く。


 徐に扉が開くと待っていたのは仲居姿の椿花ちかだった。


「雪希、確かにあんたには借りがあるけど、これっきりにしてね」


「ごめんね。ありがとう椿花」

 

「柏倉がなんでここに?」


「……ここ私のバイト先」


 椿花のバイト先の料亭、古白ふるしらは界隈で商談ならここと言われる老舗料亭で個室が儲けれれていて贔屓ひいきにされていると、椿花は少し得意げに晴生に説明する。


 椿花に案内されるがまま厨房を抜け黒漆塗された情趣ある廊下を抜けると商談に使われる奥の間へと案内される。


「鬼嶋酒造さんとシュイヴァン・パートナーズさんは松の間よ。立て札が掛けてあるから分かると思うけど、くれぐれも騒がしくしないで」


「なんで俺に向かって言うんだ」


「あれが聞くと思う?」


 雪希の目は血走っていて誰の言葉も聞き入れる様子ではない。


 今にも殴り込みしそうに見えたので晴生は少し強引に雪希の腕を掴んだ。


「ちょっと待て、鬼嶋」


「何? ちょっと痛いんだけど」


「お前勘違いしている。シュイヴァン・パートナーズってのは海外プロモーション事業者なんだよ」


「……どういうこと?」


「お前のお父さんは海外展開を考えているかもしれないっていう事だ。その会社はいくつかの兵庫の老舗蔵元も請け負っている会社なんだ」


「兵庫って南の灘の? ちょっと待って頭が追い付かない……杜氏の中でも生粋の職人気質の……鬼とまで言われたお父さんが……高校卒業したら私が会社に入って何とかしなきゃって考えていたのに」


 自分の父親に対して酷い言い様だと晴生は思いはしたが、雪希が僅かに冷静さを取り戻したことに、このまま説き伏せらそうな感触を覚える。


 同時に晴生は未来の事を悲観するなと自分で言っておきながら雪希がそこまで自分の将来の事を考えていたのには素直に関心する。


「あとはちゃんと父親の口から聞いて、ちゃんと話し合え」


「……及川君、何か知っているの?」


「いや、推測はしているが、はっきりとしたことは分からない。だからちゃんと父親の意思を聞くんだ」


 晴生も日本酒の国内販売量が下火になっているのは調べてすぐに分かった。


 シュイヴァン・パートナーズが海外プロモーション事業者と知り、雪希の父親が海外展開を考えているかもしれないと推測出来た。


 しかしはっきりと分からなかった動機だ。下火になっているからという生き残るためになんて理由は言い方は悪いが表面上の理由。本質はもっと別のところにある晴生は思っていた。


 父親という人間が何故そこまでするのか、親になったことが無い晴生には推測こそ出来るが確証まで得ることは出来ない。


 推測の話をしても雪希は納得するかどうか分からなかったので、晴生はこれ以上は立ち入るべきではないと判断し雪希にえて向き合うようにさとした。


「じゃあ、まだ私、仕事があるから、今度はランチでも食べに来て」


「嫌だよ。ここのランチ1000円だろう?」


「友達なら友達のバイト先に貢献しなさいよ」


 後は頑張ってと椿花は言い残し、他人事のように素知らぬ顔で去って行く。


 さてと自分も、とやるべきことを終えたとほっとした晴生は、雪希の腕を放し、踵を返そうとした瞬間――


「ちょっ!? 鬼嶋っ!?」


「お願いっ! 一緒に来てっ!」


 逆に雪希に両手で腕を引っ張られ、開かれた松の間に晴生は抵抗虚しく引きずられていった。

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