第5話 斟酌折衷のミューチュアリズム

 一瞬、時が止まったような気がした。どうやら晴生は突発性難聴に掛かったようで雪希の言っていることがまるで分からなかった。


「えっと、すまん何だって?」


「彼氏よ。彼氏、彼氏のフリをしてって言ったの」


 晴生は彼氏のフリということは全校男子からどういう目で見られるのかを察するのに暫く時間を要した。


 つまり雪希は晴生に男どもの矢面に立てと言っているのだ。


「いいじゃんそれ、良い男避けになるんじゃない?」


「んだにゃー、及川君、無害そうだからいいですよね?」


「んだにゃー?」


 無茶苦茶な事を言い出した雪希から意味不明な言葉が漏れ、晴生は首を傾げる。


 一方、終始ニヤついていた霧葉の顔は突如がバツの悪そうな顔へと変貌していた。


「あと……お父さんの……浮気……」


「……おい、顔真っ赤にしている癖にスルーなんてできると思うなよ?」


 恐らく意味的には「そうですね」という意味なんだろうが、うっかり出てしまった方言に自爆し恥ずかしさのあまり紅潮させながらも、話を続けようとする雪希を晴生は逃さない。


「そこは空気読んで流してよっ!」


「いやいや今のは無理だって、なんだよそれ?」


「そうだねって意味っ! これでいいでしょっ! もう話を続させてっ!」


「んだにゃ~、話す済まないもんなぁ~」


「マジムカつく」


 大きく溜息を付いて気を取り直した雪希は二つ目の要求を口にする。さっきの『んだにゃー』の件を黙っておく代わりに無しにしても良かったが、晴生はあまりにもかわいそうだったのと、これからも弄れるという勿体なさに勘弁してやめることにした。


「お父さんの浮気調査を手伝ってほしいの」


「雪希、まだ疑っていたの?」


「……」


 晴生は顔を顰める。


 それこそ母親が探偵にでも頼めばいい話で、何で娘の雪希が依頼してくるのか訳が分からなかった。


 第一、厳格そうな雪希の父親、新次郎が浮気するようには見えなかった。言葉を交わしたのは少なかったものの自分の娘を大事にしていることは何となく伝わってきた。


 軒先でのやり取りは確かに距離感があるのは感じたものの、晴生には新次郎が娘を悲しませるような行動を取る人物には思えなかった。


「何、その嫌そうな顔」


「ほんとだ。及川君すんごく嫌そう」


「いや別に、家族間のトラブルの話を何で俺が首突っ込まなければならいのかって嘆いていただけだ。でももう諦めたらから、煮るなり焼くなり好きにしろ」


「潔いのは嫌いじゃないよ。それで最近お父さんに近づく女がいるみたいで、眼鏡を掛けた20代ぐらいの女でいかにも営業って感じの」


「雪希……やっぱりそれは勘違いだって」


「先輩は黙っていて」


 雪希は霧葉をぴしゃりと黙らせる。


 雪希がたまたま帰宅途中、通りかかった喫茶店で話している父親と女性の姿を見たそうだ。


 晴生は状況を聞いた限りでは何とも言えないが、単純に商売ビジネスの話じゃないかと真っ先に想像する。


「お父さんは騙されているんだ。あの女、お父さんに近づいて不良債権や高い壺を売る気なんだ」


「あのお父さんに限ってそれは無いよ? うちのお父さんは分からないけど……」


「そりゃあ、先輩の家のお父さんって女ったらしですから……って口を挟まないでくださいっ!」


 鬼気迫る雪希より、晴生はファザコンっぷりに圧倒された。これには霧葉も頭を抱えてる。


「……いつの時代だよ、五十嵐さんの言う通り、それは流石に邪推しすぎじゃないか」


「及川興信所って言われているのに及川君は甘いっ! 騙されてからじゃ遅いのっ!」

 

 晴生も人の事は言えないが、疑心暗鬼に陥っている雪希を不憫に思ってしまう。


 鶲のいじめの一件を思い出し、晴生は良心をくるぐられる。


「分かったよ……でも、所詮俺が出来ることは、俺が出来る範囲での情報を集める事だけ、それ以上の事は無理だ。鬼嶋がそれをどう使うかの判断は俺はしないし、相談も乗らないし出来ない。それで飲めないのなら好きにしろ」


 それは晴生の雪希を信用しきれていない故の一線だった。


 晴生がそうしたのは雪希はまだ友達でもなんでもなく、単に恩義を返す相手と晴生は考えていたのと、この問題の本質的なところは雪希の父親を信頼できるか、幸せを受け入れられるかだった。


 そんなものは晴生ではどうしようもないと考えていた。それこそカウンセラーか本当の友達にでも相談すればいい。


 精神を病み用心深く育った晴生はストレスを抱え込まないようにするあまり自分の器を推し量るのが癖になっていた。それが晴生なりの心理的戦略だった。


「分かった。それでいいよ」


「ごめんね。及川君、私からもお願いするわ」


 晴生は他人に不満そうな顔をされるのも慣れていた。


 他人の心に土足で踏み込まない代わりに共感もしないと言っているようなものだという事を自覚していたし、冷たいと言われるのも慣れていた。


「うがッーー!!!」


「お、お前っ! 何すんだっ! やめろってっ!」


 突然雪希は奇声を上げ、晴生の頭をもみくちゃにする。


「及川君ひねくれすぎ、女である私がそんなに怖いかな?」


 雪希に真剣な眼差しに晴生は不覚にも胸の高鳴りを覚える。


「及川君よく聞いて、渡る世間は鬼は無いんだよ」


 もちろん世間は鬼のように冷たい人ばかりじゃないという『渡る世間は鬼は無い』の意味は知っている。


「雪希、それは何を言っているか分からない」


 霧葉と同じく晴生は雪希の伝えたかったことがいまいち理解出来ない。


「なので、私は自分の善意で及川君の『女体恐怖症』の克服を手伝おうと思います」


 どうして『なので』なのかも晴生は一切理解できない。


 確かに雪希の方が一方的に利益を得すぎているような気がしていたが、それについては晴生も納得していた。


 そして、ようやく晴生も雪希が損得で動いているのではないと悟る。


「お母さんが言っていたの。困った人はほっといちゃ駄目だって、それに……面白そうじゃん。先輩どう思います?」


「いいねそれ」


 晴生は唖然とした。しかし晴生の答えは決まっていた。


「いや、気持ちさえも遠慮する」


「いやいや、遠慮することないよぉ~」


「だからその気持ちが不純だからいらねーって言ってるんだろっ!」


 結局、強請ゆすりゴリ押しされ、晴生は雪希の申し出を泣く泣く受けることにした。




 桜祭りから帰ってきた晴生達は遅めの夕食をとっていると晴生はるきの母親、つぐみから電話が掛かってきた。


「来月から?」


『そう、来月からお母さん、そっちの事務所の勤務に移れることになったから』


 電話の向こうの母親の声は少し垢ぬけていた。ほっとしている様子が伺える。


「了解、分かった」


『ごめんね。ハルには苦労をかける』


「気にすんなよ」


『……ハルがお兄ちゃんでありがとうね』


「何らしくないこと言ってんだよ。礼を言われることじゃないだろ?」


 晴生の耳元に母親の鼻をすするのと潤んだ声が聞こえてきて、いつもの猪突猛進の母親が見せたことのない様子に困惑した。


「格闘勲章貰った自衛官がそんなんでどうすんの? そもそも母さんに内勤が務まるのか俺は心配」


『うるさいな。大丈夫よ。そろそろ身体も付いてこなくなってきたしね。いい機会なの。それで……鶲の様子は?』


「今飯食っている。いつも通り、変わる?」


 鶲へ振り向くと、ゆっくりと頷いたので晴生は受話器を渡す。


 晴生のいつも通りという言葉には含みがあった。精神的な傷を負う鶲に対して自分が異常であるとか深く悩ませないための配慮から、あえて変わりがないと言ったのだ。


 味噌汁をすする晴生の耳に母と鶲の会話は度々笑い声が聞こえてくる。


「あのね、ハルに彼女が出来たの」


「ブーっ!」


 口に含んでいた味噌汁を晴生は床に噴出した。


 温泉での一件は言わなかったものの、学校で雪希と出会えたことを鶲に話したのを鶲は曲解して捕らえてしまったようだった。

 

 激しく咳込んで気を取られている内に電話を終えた鶲が「汚いなぁ」といって慌ててティッシュで床を拭く。


 晴生は神社での一件を思い出す。はっきりいって本物の興信所に頼めという話だったが、雪希が父親とのわだかまりがあるのは察しがついたため邪険には出来なかった。


 最終的には雪希の熱意と言うより、ファザコン振りに圧倒され引き受けてしまった。


 彼氏彼女のフリと言う関係はあくまでも浮気調査の連絡手段と考えるのは通りだった。


 校内でも何の気兼ねなく報告や作戦が練れるし、男避けにもなって一石二鳥。本当にいい性格していると素直に晴生は感心した。


 何よりも晴生が気がかりなのは『女体恐怖症』の改善を雪希が申し出た事だった。


 晴生の頑なな拒否にもかかわらず、弱味を握った雪希の強引な説得――つまり嘔吐され心底傷ついたことを盾に泣く泣く首を縦に振らされた。


 一体どんなことをしてくるんだと顔を青ざめる思いだったが晴生には少しだけ思うことがあった。


 最初に会った時、雪希は晴生が痛みを感じる前に救急車を呼ぼうとした。


 再会し感謝を伝えた時は朝納豆を食べてきたことを指摘された。


 そして桜祭りでは目に見えないクドアに気付いてヒラメを奪い取った。


 数々の雪希の不審な行動に晴生は違和感を感じていた。

 

 そして別れ際、晴生はバスに乗り込もうとしていた雪希を引き留め思い切って聞いてみた。


『私、菌の声が聞こえるの』


 俄かには信じがたいことを言い残して雪希は去っていた。


「ハルっ! ちょっと聞いているっ!?」


 考え事をして呆然としていた晴生は鶲の呼びかけでようやく現実に引き戻される。


「ああ、悪いぼーっとしていた。なんだ?」


「……何でもない。鼻の下延ばしていないで、片付かないから、早くご飯食べちゃってって言ったの」


 突然ぶすっとしてへそを曲げる鶲に晴生はやっぱり年頃の女子って分からないと嘆かずにはいられなかった。

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