第4話 大醇小疵のパラサイティズム
ヒラメを捕られ
「これがクドアだよ」
クドア、粘液胞子虫といって魚の筋肉、特にヒラメの筋肉中に寄生する。肉眼では見えず、冷凍か加熱すれば失活する。
しかし季節的には珍しいとも言っていた。本来クドア食中毒が発生するのは、9月から10月頃で、これも温暖化の影響かと上川教授は嘆いた。
「食中毒と言っても、一過性で食後早くて4時間ほどで下痢や腹痛、嘔吐などの症状見られる程度のものだね。1日中ベッドの上で過ごしたいのであれば止めないけど?」
「そんな……」
上川教授の言葉を借りるなら魚に当たる程度の自然なものなのだろう。男の方は大げさにとらえたようで、非常に困惑して始める。
「よぅ兄ちゃん。俺の娘と恩師に何か用か? 揉め事なら事務局で伺いますんで……」
更に追い打ちをかけるように現れたのが突如背後より現れたまるで
肩に手を回され、サングラスから覗き込む眼光に一気に青ざめていく。
「お父さん……」
「なん……だと……」
晴生は反り込みが決まっている見るからに厳つい風貌の男と雪希を見比べて母親の遺伝子の強さに感謝した。
そして雪希が
祭りの一件は上川教授と雪希の父、新次郎の活躍により事なきを得て、晴生は当初の目的通り日帰り温泉に訪れることが出来た。
迷惑をかけたからとお詫びをさせて欲しいと言う雪希の計らいにより、雪希の中学の先輩の実家の温泉旅館を紹介してもらった。
晴生は雪希の父、新次郎が運転する軽トラックにロードバイクと一緒に積んでもらい、揺れる事20分ほどで温泉旅館、
ロードバイクを下ろして店先に止めてもらう。
「お父さん。組合の飲み会、あんまり飲み過ぎないでね」
「ああ」
「帰りはバスで帰るから」
晴生は連れて来てくれた新次郎に礼を言うと、何故か睨まれ、晴生は耐え兼ね息をんで、暫しの沈黙が流れる。
「手を出すんじゃねぇぞっ!!」
「何にですかっ!?」
意味不明な捨て台詞を残して新次郎は去って行った。よくわからないまま晴生は呆然と取り残される。
「まったく、お父さんは……ああもう、すんごい疲れちゃったから、私も寄っていくことにするね。せっかく危険だからって教えたのに……それにしても及川君、あの手の人の相手に随分手慣れていたね」
「前の学校の事鬼嶋も知っているだろう? あれで散々やり合っているんだよ」
学校の校長室で怒鳴り散らす教師相手に口論の一戦をやらかせば、晴生は嫌でも慣れてしまった。
「そういえば、鬼嶋はあまり前の学校の事聞かないな」
「妹さんを助けるために色々なことをしたって話だよね。少しニュースにもなった。知っているよ」
「ああ、普通なら敬遠しないか? 今川も浅沼も島貫も普通じゃないから別に気にもしていないが」
「及川君、結構酷いこと言っているね……まぁ、何ていうか私も普通じゃないからね」
晴生の隣を歩く雪希は肩をほぐすように指を組みながら背伸びをして息を吐きだす。
「だって過去のことを気にするより、未来の事で不安になるより、今この瞬間を楽しくなる方法を考えた方がよっぽど有意義だと思わない?」
こんにちはと軽快にあいさつしながら旅館に入っていく雪希を晴生は足早に追いかける。
「そりゃまぁ、そういう比較をされたらな」
そう口にした晴生だったが、雪希の言葉に内心救われた気持ちになった。
晴生は妹をいじめていたクラスメイトがどうなったかを知っていった。結局追い詰められ不登校になってしまって、以前妹がいたクラスは悪者を退治して平和になった雰囲気だという。
自業自得だと晴生は思っている反面、結果的に追い詰めてしまって妹と同じく不登校にさせてしまった事に少なからず罪悪感を感じていた。
そしてもっとうまくやれたんじゃないかと後悔さえしていた。
だが、雪希は過去の事を後悔するより、将来の事を悲観するより、今をどう生きるのか、どうしたいのかを考える方が良いと言っているような気がして、罪悪感が晴れたような気がした。
晴生には全く新しい価値観だった。
「いらーしゃい雪希。話は聞いているよー。本当は15時以降は予約が必要なんだけど、この時期客入りが少ないから特別にOKした上げたよー」
ロビーで待っていたのは作務衣姿の女性、
「ありがとうございます。五十嵐先輩」
「それにしてもあの雪希が彼氏連れか……ふ~ん、なかなか良いんじゃない? せっかくだから混浴にしておく?」
「違います。変なこと言わないで下さい。普通で良いですから、そもそも混浴なんてないじゃないですか」
呆れるを通り越して、なんだかキレ気味で雪希は手続きを済ませていく。
「ねぇねぇ彼氏君」
晴生は蚊の鳴くような小声で霧葉から呼び止められる。
「俺ですか?」
「雪希とはどこまで進んでいるの?」
「何で普段着が着物なのか、まだ知らない仲です」
「なーんだ。全然じゃん」
「及川君、ちょっと私、霧葉先輩とお話があるから、先に行っちゃっていいよ」
苛ついている雪希の顔に、どっと疲れが溢れ出してきた晴生はお言葉に甘えて英気を養おうと温泉へと退散することにした。
そして事件が起きた。
「どういうことなのか説明してもらおうかな?」
汗を流した晴生は、般若のような形相の雪希にロビーの前で正座させられていた。
「……そもそも鬼嶋が間違えて……」
「何か言ったかな?」
「いえ、何も」
正座させられているのには理由があった。
それは浴場で身体を洗っている最中の出来事。
常連である雪希は習慣でいつもは女湯である男湯にうっかり間違えて乱入。
身体を洗っている晴生と鉢合わせ、『女体恐怖症』である晴生は雪希の一糸纏わぬ姿を目の当たりにして絶句の末、彼女の目の前で吐いた。
「女の裸を見て吐くってどういう了見かな? 教えてほしんだけど? 私の裸が見るに堪えない程気持ち悪かったって……そういう事かな?」
雪希の目が笑っていなかった。女の尊厳を打ち砕かれ、怒り心頭の雪希の中で自分自身が間違えた事実は最早論点ではなくなっていた。
「じ、実は体質なんだ。小学6年のころ住んでた町で出会った痴女に追いかけまわされて以来、女性の裸がトラウマで、見ると吐いてしまうんだ」
「じゃあ、それが遺言っていう事でいいかな?」
雪希はまるで信じる様子も無く、悪鬼の如き形相でメキメキと拳を鳴らし、晴生に詰め寄る。
「ま、待て、待ってくれっ! 鬼嶋信じていないだろっ! 本当なんだっ!」
「そんなことを信じれると思う?」
「なになに? どうしたの? 二人とも?」
休憩に入った霧葉が美味しそうな気配を嗅ぎつけたハイエナの如く現れる。
晴生は雪希の執拗なまでの眼光に耐えながら事の経緯を霧葉に話した。
霧葉はそれを聞くや否や、みるみる口元が歪んでいき、最終的にはその場で腹を抱えて笑い転げた。
「笑いごとじゃないですよっ! 先輩っ!」
「ごめんごめん。でも男として終わっているって――プッ!」
霧葉はツボに嵌ってしまったようで再び吹き出してしまう。その姿にもう雪希は呆れるしかなかったようで、重々しい溜息を付く。
「……もういいや、俄かには信じがたいけど、一応信じた事にしてあげる」
「……一応か」
「それは仕方が無いかな。『女体恐怖症』なんて聞いたこと無いし、そもそもどのくらいまで大丈夫なのかな? そんなんで普段どうしているのかな? まさか妹ちゃんと――」
確実に性処理の事を想像したのだろう、言いかけた雪希自身が顔を真っ赤に染め上げている。
「貴方様の頭の中は昼ドラでしょうか? 自爆するぐらいなら気持ち悪いこと言わないでくれ。はっきり言って妹でも駄目だからな」
兄妹の禁断の関係を想像し、悶々としている雪希の頭は茹で上がってはいるが、そもそもその体質が家族に発覚したのが、小学四年の鶲が晴生の入る風呂に乱入したからだったという事を雪達に説明する。
「……可哀そうだね」
「慰めてるんだか、貶しているんだか、どっちなんだあんたは?」
口元は隠しながらも、眼はばっちり笑っている霧葉に肩を叩かれ、晴生は少し苛立ちを覚えた。
「表面積で言えば50%切ったら吐く。だから、俺は男として終わっているんだよ。笑いものにするならどうぞご自由に」
「笑いものになんてしないよ。確かにちょっとウケるけど……」
まったく説得力なく雪希は霧葉と一緒になってくすっと笑って話を続ける。
「でも、傷ついたのは確かだし、このままじゃあ及川君に何かしてもらわないと割に合わないかなぁ~」
「昼間の広場の件でチャラってことで……」
「嫌よ」
ほくそ笑む雪希に晴生は覚悟を決めた。
「……分かったよ。俺が出来る事なら何でもする」
雪希に命を救われたと思っている晴生は、更に女としての尊厳を著しく傷つけてしまった以上、肩を竦める他無かった。
「でも、一つだけだぞ?」
「何言っているの? 救急車を呼んであげたのと及川君の女体恐怖症を黙っておくので二つだよ」
「マジで恩着せがましいな。いい性格しているって言ったのは、女性恐怖症の件でチャラじゃないのか?」
「ああ、それを含めれば三つだね。吐かれたことは責め立てたこととチャラにしてあげる」
藪蛇だった。取引に負けた晴生は仕方がないと重々しい溜息を付く。
今まで弱味を握る側だった晴生にとって、雪希の申し出は少し新鮮味を感じて悪い気がしなかった。
「確かに雪希、それはちょっと性格悪いよ」
「……じゃあ、分かりましたよ。先輩が言うなら仕方がない……じゃあ二つでいいよ」
話に割って入った霧葉のフォローにより借りを何とか二つにすることが出来た。内心三つは重いと思っていた安堵する晴生だった。
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