第49話 風は何色?

 誠実そうで、なかなかのイケメン。そんな男が、まるで判で捺したような毎日、夕方6時にはきっちりと勤めから帰ってくる。

 時間は充分ありそう。だが女の影はない。むろんデートに出掛けるところを見たことがない。

 30歳前の割には、ちょっと気楽に暮らしすぎじゃない。

 これが同じアパートに住む者たちの、高池陽馬たかいけようまに対する印象だ。誰かなんとかしてやれよ、とのお節介な声も聞こえてくる。


 しかし、大きなお世話だ。

 見掛けは飛び切りの暇人だが、陽馬の脳はいつも沸騰し、きりきり舞い。なぜなら作家志望、小説を書くことに精魂を傾けているからだ。

 最近は出版しなくとも、ネット小説サイトに投稿できる。そして多くの閲覧者に読んでもらえ、時としてはコメントまで頂ける。自作品を世に出すことが実にイージーになった。

 だが反面、これは陽馬のライバルがごまんといるということであり、とにかく間断なく新作がUPされてくる。

 その中には駄作と思われる小説もあるが、ほとんどの作品は天晴れだ。そして時としてキラリと光る物語、傑作に出会うことがある。


 明らかに己の才能からは産み出せない書きっぷりだ。

 結果、陽馬はこの後必ず惨めな自己嫌悪に陥る。

 苦しい。

 だが最近、こんな打ちのめされた心情からうまく抜け出せるようになった。

 というのも、やっぱり自分風味の物語をコツコツと書き続けるしかない、と覚悟したからだ。

 いや、創作活動においては、こう考えないと次作品へと進めない、てなところもある。

 それにしても、時間を持て余してるって? 

 とんでもない。まさに格闘の日々だ。


 今日も執筆に取り組んでいる。

 小説を書き始めて5年、未だ完成をみないこだわりの一作・『風は何色?』の推敲だ。

 しかし、考えてみれば、いつまで経ってもこの純愛物語は未完のまま。

 その理由は、陽馬に熱い恋愛経験がない。それにも関わらず、言ってみれば憧れだけでストーリーを組み立ててきた。そんな妄想恋愛小説、やっぱりオチが決まらないのだ。

 それでも陽馬は思う、執筆活動はワイン作りに似ていると。

 良い葡萄、つまり良好なネタを集め、搾り、物語として仕込む。この後、おりを取り除き、濾過。あとは熟成させる。

 そして試飲すれば、これが決まってとんでもない風味とくる。そこでまた澱を取り、熟成を繰り返す。このようにして完成度上げて行く。


 されどもこの純愛もの、もう何回澱取りをし、濾過してきたことだろうか。しかし捨てられないのだ。なぜならこの作品に没頭する時、陽馬は主人公と同じ熱くて純な気持ちになれるからだ。

 そして今宵も……。


 二人の最後の思い出にと、夏の終わりに椋太郎りょうたろう沙梨さりは高台へと昇ってきた。そこからは、神が碧い空からぽとりと落としたリング、そんな光る湖が望める。

「あら、綺麗!」

 沙梨は声を上げ、柵から身を乗り出し、それを掴み取ろうとする。

「あっ、危ない!」

 椋太郎は後から抱え込む。

「大丈夫よ」

 沙梨が腕を払う。この強がりはいつものことだ、しかし、瞳は潤んでる。

 高校時代から育んできた恋、もう10年以上の歳月が流れた。そして今、椋太郎は仕事で海外へと飛び立とうとしている。一方沙梨は老舗和菓子屋の一人娘、この地から離れられない。当然この別れが……。


 こんな宿命を背負ってしまった二人、だが充分に大人だ。

「私、田舎から、椋太郎を応援してるから」

「日本一の和菓子を作る、その夢に向かって頑張れよ」

 まったく物わかりが良い会話だ。しかし、それを封じ込めるように、背後からヒグラシの声が……、カナカナカナ。

「もうすぐ秋ね」

 この呟きの一瞬に、白い帽子に纏わる黒髪がサラサラと流れる。湖からの涼風、沙梨は濡れた頬をそれに晒し、訊く。

「この風は何色かしら?」

 椋太郎は真意がわからない。それでもこれは沙梨の心奥の叫びでもあると感じ、真摯に思考する。

 しばらくの沈黙、その後椋太郎は一筋の松葉を木から抜き取り、くるりと輪にする。

「風の色はエバーグリーンだよ。さっき沙梨は手を伸ばし、湖を掴もうとしていただろう、さっ、手を広げて」

 沙梨は何ごとかと驚くが、それでも言われるままに手の平を差し出す。そこへ椋太郎は「風が沙梨に届けてくれたよ」とポトリと落としたのだ、エバーグリーンのエンゲージ・リングを。

 こうして二人は純愛を卒業し、永久の愛へと旅立つこととなった。


 今宵陽馬は物語をこう締め括った。そして満足げに一つ息をフーと吐き、独り言ちるのだった。

「夏の終わりに、リングのような湖から吹き来る風、女は黒髪を流し、この風は何色かしらと訊く。これらのシーンすべてがきっかけとなり、男は女への永久の愛を決意した。うーん、妄想恋愛小説にしては上出来だ! そうだ、俺もこのワインの完成をきっかけに、椋太郎のように、一途に生きてみよう、……、愛に」



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