第44話 二つの戸籍を持つ男

 人それぞれの人生には原点があるもの。そして歳を重ね、たとえそれが辛い場所にあるとしても、ふと訪ねてみたくなるものだ。

 サラリーマンの押木貴史おしきたかふみもその一人と言える。

 振り返れば、うらみ/つらみ/ねたみ/そねみの四つの『み』が渦巻く出世競争の中で、貴史は業務に励み、やっと役員となれた。

 それでも最近思うのだった、もし元村幸夫もとむらゆきおのままだったとしたら、こうはなってなかっただろうと。


 元村幸夫、これこそ今の押木貴史の過去の正体だ。

 だが、なぜこんなことに?

 山深い村で育った元村幸夫、意外に勉強はそこそこでき、大学へと進学した。入学後はバイトに忙しい学生生活だった。

 それでも一人の友人がいた。それが押木貴史だった。

 その押木貴史も同じような境遇で育ち、その上に背格好も顔付きもよく似ていた。まるで瓜二つ。

 だが貴史はいつもポジティブで、成績は優ばかりだった。夢は社長になることといつも話していた。

 そんな輝いた貴史を、就職活動の合間を縫って、幸夫は気晴らしにと、父も母も他界してしまった実家へと招いた。干からびた下宿生活に比べ、そこには豊かな山の幸がある。それを肴に二人は酒を酌み交わし、押木貴史は夢の実現を誓った。そして何も決めていない元村幸夫はそれにエールを送った。


 そんな一夜が明け、二人は上流にある滝を見ようと沢登りに出掛けた。

 幸夫にとっては慣れたコース。だが貴史はまるで己の夢を実現して行くかのように、岩から岩へと飛び移り、崖をよじ登った。そしてあと少し前進すれば神秘な滝の淵へと辿り着ける。

 そんな時だった、あっ! 押木貴史が谷底へと落下したのだ。

 幸夫は急いで貴史のもとへと下りて行った。しかし、貴史は岩で頭を強打したのだろう、血は吹き出し、絶命寸前だった。

 そんないまわの際に、貴史は幸夫の手を握り、確かに告げた、「俺になって、夢を実現させてくれ」と。

 この言葉は重い。幸夫は遺体のそばで一晩悩み抜いた。そして夜が明けてきた頃に、幸夫は遺体を川岸の草むらに葬り、同時に自分の無能な魂を捨てた。

 そして押木貴史として山を下って行ったのだった。

 その後、元村幸夫は貴史の下宿で寝起きを始め、貴史として最終面接に臨み、採用の内定を受けた。このようにして幸夫は押木貴史のサラリーマン人生へと踏み出した。

 されどこれは不法なこと、だが幸夫は自分の誘いで友人の夢を奪ってしまった、この自責の念でとにかく仕事に励んだ。


 それから3年、押木貴史に成り切れた頃に、元村幸夫は、いや貴史は七瀬優子ななせゆうこと知り合った。

 優子はいつも潤んだ目で貴史を見つめ、献身的に支えてくれた。幸夫はそんな優子が好きになり、もちろん押木貴史としてプロポーズした。

 そして結婚後、元村幸夫が演じる貴史の人生は順風満帆だったと言える。子供たちも巣立って行ったし、今は妻と穏やかな日々を送っている。それでも幸夫はもう一度事故の場所を訪ねてみたくなった。

 遺体は眠ったままであり、また死の間際に頼まれたとは言え、友人の人生を勝手に生きてしまった。この罪の意識が膨らみ、どうしようもなくなってきたのだ。

 こうして元村幸夫は、吹き来る風が心地よい渓流へと出掛けてきた。当時と何も変わっていない。かって押木貴史が落下した現場へと足を踏み入れた幸夫、思わず冷気を一息吸い込んだ。

 その瞬間のことだった、朽ちかけた墓標が目に入った。

 元村は歩み寄り、目を凝らして文字を読むと、そこには『押木貴史の夢を繋ぎます。愛を誓い合った七瀬優子より』と刻まれてあった。

 幸夫は腰を抜かすほど驚いた。妻の優子が貴史の恋人だったとは。

 さらに幸夫の秘密、すなわち貴史の身代わりであることを知っていたとは。

 それにしても今も夫婦として一緒に暮らしている。それが夢を繋ぐってこと……なのか?


「お帰りなさい」

 優子は悶々としたままの元村幸夫を、いや、貴史を普段通り迎えてくれた。しかし夕食後、幸夫は遂に切り出す。

「知っての通り、俺は押木貴史ではなく、元村幸夫だよ。これ以上貴史を演じても、優子を余計に惨めにさせるだけ。だから、貴史の事故の前の二人に戻ろう、つまり……、離婚しないか」

 それはあまりにも唐突だった。

 だが優子は驚く風もなく、「私ね、貴史を捜して、あの谷に辿り着いたの。その後私はあなたに巡り会ったわ。あの時、あなたは紛れもなく押木貴史だった。だから結婚したの。だけどこんな仮装劇、いつか幕は閉じると思ってたわ」と告白した。

 優子はこんな結末を予感していたのだろう。されども長年共に歩んできた夫婦、優子の目に涙が溢れ出す。

 これを目にした貴史、否、元村幸夫は今までの秘密のベールを剥ぎ取り、熱い愛情で優子をぎゅっと抱き締めた。

 それに応えてか、妻が囁くのだった。

「私は二つの戸籍を持つ男と暮らしてきたのね。だけど近頃、貴史への愛より、元村幸夫の方に情が移ってしまったようよ。だから、あなたが罪を償い終えるまで、ここで待ってるわ」



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