第42話 濃いコーヒーを飲む女
そこには『コーヒー』と表記がある。
これを目にした洋介、「コーヒーね、ちょっとなあ」と心もとない。天井を見上げ、自分自身を題材に書いてみようか、それともパスしてしまおうかと迷い始めた。
洋介は長年のサラリーマン生活を62歳で終えた。そして今は自由な暮らしを楽しんでいる。その一つが、決して上手いとは言えないが、お題からイメージした小説を投稿したりしている。
「だけど、これ、どうしようかなあ? まっ、一応コーヒーを題材に綴ってみるか」
こう思い至り、過ぎし日々を振り返り始めた。
そう、あれは30歳前の頃のことだった。得意先の総務課に現代風な
営業の若いサラリーマン、洋介にとって憧れのオフィスレディーだった。
そんな洋介の思いを汲み取っていたのだろうか、なぜか厚子は、幹部との面会時間などを優先的に割り当ててくれた。そしてある日、洋介はお礼にと、思い切って厚子を夕食に誘った。
これに厚子は「ご一緒させてもらうわ」と大人っぽく微笑んだ。
仕事上で顔を合わし、事務的に会話を交わすだけの間柄だった。
だが、それが3年も続くと互いに気心は知れてくるものだ。初ディナーだったが、まるで恋人同士のように盛り上がった。
そしてこの流れは止まらなかった。洋介は厚子のアパートへと誘われ、結果、若い男と女の成り行きとなり、洋介は厚子を抱いてしまったのだ。
「洋介さん、夜明けのコーヒーよ。いかが?」
こう勧められた洋介、コーヒーカップをつまみ、一口口にする。
「厚子さん、これ、ちょっと濃すぎるんじゃない?」
ブラックが好みの洋介だったが、思わずその苦さに顔を歪めた。
「そうよ、新たな時を刻むスタートには、その苦さが過去を吹っ切らせてくれるのよ」
こう言い切った厚子、ゆるりとコーヒーカップを口に運ぶ。カーテンの隙間から射し込む朝の光が、その仕草を射止める。厚子がシルエットとなり浮き上がった。
そして見たのだ、洋介はそこに――。
濃いコーヒーを飲む女を。
その瞬間、洋介は直感した。きっとこの女と生きて行くことになるだろうと。
そして予感通りに、二人は結婚した。
一緒に暮らし始め、洋介はさらに実感する。
厚子は、濃いコーヒーに思いを入れるように、いつも何かにこだわっていると。
まず最初にこだわったもの、それは洋介の服装だった。嫁さんをもらうと身綺麗になるもんだなあ、と同僚からよく冷やかされた。
その後、娘と息子が産まれた。厚子は子育てに心血を注いだ。お陰で子供たちはすくすくと育ち、社会人として巣立って行った。
厚子が家庭をしっかり守ってくれたため、洋介は仕事に没頭できたし、また50代後半にはそこそこの役職にも就けた。正直洋介は感謝している。
しかし、先は読めないものだ。この調子なら無事会社勤めに終止符が打てると思っていた。
だが30年の真珠婚を祝った後のことだった。
「ねえ、あなた、私の役目も終わったでしょ。郷に戻って、一人で暮らすわ」
「えっ、離婚したいってこと?」
「違うわ、仮想離婚よ」
こんな会話のあと、厚子は家を出て行った。
それから早いものだ。5年の月日が流れた。
そんなある日、1枚の招待状が手元に届いた。それは厚子のボタニカルアートの個展。そのカードをよく見ると、コーヒーの白い花が描かれてある。
「厚子の新たなこだわりは、これだったのか。コーヒーまで絵にしてしまって……」
今まで気づかなかった妻を知り驚いた。しかし嬉しくもあった。
個展当日、洋介は娘と孫たちと一緒に絵を鑑賞し、久し振りに家族で食事を取った。そんな至福の時に、娘がいきなり怒り出したのだ。
「お父さんもお母さんも、いつまで別々に暮らすつもりなの。もういい加減にしたら。私、老人のお世話は嫌だからね。二人で助け合って、あの世への旅、自己完結させてよ」
これに洋介は返す言葉がなかった。
そして厚子は「そうね、新たな出発かもね」と答えた。
それから1週間が経ち、厚子が洋介の元へと帰ってきた。
今、洋介は画面上のお題『コーヒー』を睨み付け、「こんな俺の実話なんて、やっぱり投稿できないよなあ」と腕を組んでいる。そこへ厚子がコーヒーカップをそっと置く。
洋介は「ありがとう」と返し、それを一口飲む。苦さが口内にじわりと広がり、洋介は顔をしかめてしまう。
そんな表情を見ていた厚子が、いつか聞いたフレーズを口にした。
「新たな時を刻むスタートには、その苦さが過去を吹っ切らせてくれるのよ」と。
洋介はハッとし、目を上げると、そこにいたのだ。
―― 濃いコーヒーを飲む女が ――
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