第41話 喪失させられるか、妻の殺意を
「好きなことをするよりも、嫌いなことをしない方が、私は幸せよ」
これは妻の
20歳そこそこで結婚し、すぐに始まった子育て。やがて私は単身赴任となり、妻は一人で家庭を守ってきてくれました。
その間、嫌なことが一杯あったことでしょう。やっとそれらを乗り越えて還暦に。残された年を数えれば、こんな主張も納得できます。
しかしながら妻が言い放った「嫌いなこと」って、何なのでしょうか?
あっと、自己紹介が遅れました、私は今年目出度く定年退職をした
長い会社勤め、決して順風満帆ではなく、むしろ満身創痍で現役を退いたと言った方が当たってるかも知れません。
それでも業務計画も納期もない、まさに自由を満喫できる第二の人生が始まったわけです。
私はこの幸運を祝し、もちろんいの一番に、苦労をかけた志乃をねぎらうため、二人で温泉へと出掛けました。
山峡の宿、美しく盛り付けられた山海の幸、それらを舌にのせ、妻と地酒で差しつ差されつ。思わずフラッシュバックし、そこには新婚時代の志乃がいました。あとはほろ酔い気分で、露天風呂へと。
首まで浸かり、夜空を見上げますと、頭上に宝石をちりばめたような星空が。さらに中天には
ウォオー!
はからずも私は月に吠えてしまいました。
そんな至福の一夜が明け、翌日は、人生最後の愛車として、清水の舞台から飛び降りる思いで購入したGT車。それで観光地へとドライブ。
助手席にはもちろん、プリンプリンのお姉さん……じゃありませんが、あれこれそれの指示代名詞だけで会話が成り立つ女房。
まず、妻の趣味がボタニカルアートで、その画材探しにと温泉の熱を利用した植物園を訪ねました。
園内に入ると、まるでそこは赤道直下、じとっとした生暖かい空気がいきなり襲ってきました。
それでも黄やピンクの蘭の花が咲き乱れ、絢爛華麗に私たちを迎えてくれました。さらに奥へと進みますと、そこは完璧なジャングルでした。
「ねえ、これ、なんて言う木か知ってる?」
突然立ち止まった志乃が指差しました。
仕事絡みのことは任せてください。されども熱帯の樹木なんて、知るわけないですよね。私がポカンと口を開けてますと、耳元でトーンを落とし、妻が囁いたのです。
「絞め殺しの木よ」って。
私は、そんな恐ろしい木があるのかとよく見ますと、確かに何本ものつるが幹や枝に巻き付いています。助けてくれ、と木の精霊の叫び声が聞こえてきそうでした。
それが恐くて、私がうーうーと身悶えてると、志乃はその場にしゃがみ込み、「これはロブスターの爪がぶら下がったヘリコニアロストラタって言うのよ。だけど血糊が付いたノコギリのようでしょ」と尖った葉、いや刃を嬉々として撫でてるではありませんか。
だけれども私にはそれがノコギリには見えず、むしろ人体を切り刻み、鮮血をしたたり落とすチェンソー。その恐怖のせいか、館内は蒸し暑いにもかかわらず、背筋に冷たいものが走りました。
そんな私に志乃は「絞め殺しか、切り刻み、――、あなたはどっちがお好み?」と冷淡無常な目で窺ってきました。
「どっちも遠慮するよ!」
反射的に叫んでしまった私に、「絵にもならない濡れ落ち葉は大嫌いよ。もしそうなった時に描こうと思ってるの。亭主の死というテーマでね」と志乃は不気味に笑みを浮かべました。
この瞬間です、私はビッビッと感じ取ったのです、妻の殺意を。
なぜって?
だって会社から家へと戻ってきた嵩高いダンナの世話、それがもし志乃の嫌いなことであるならば、私はまさに邪魔者。
その果てに、絞め殺されるか、もしくは切り刻まれる、ってことに!
その日からです、第二の人生が……。
もし人の一生を月曜日からの一週間に例えれば、60歳は土曜日。ならばこれから始まるシニアはハッピーサンデーであって欲しいものです。
しかし、私はいつか血祭りに上げられる、そんな運命かと戦々恐々の日々になったわけです。
されどもこのままじゃ、座して死を待つようなもの。私はどうしたら殺されずに済むのでしょうか?
課題は『喪失させられるか、妻の殺意を』です。
そして遂に、志乃が「嫌いなことはしない、それが私の幸せよ」と言うように、妻の嫌がることをしなければ良いのだという結論に至りました。
かくして私は第二の人生の、夫の3つ心得を宣言したのであります。
1.メシ、フロ、シンブンと要求致しません。
2.整理、整頓、清潔に心掛けます。
3.奥様の時間を束縛致しません。
とどのつまりが単身赴任を引き続き家庭内でも続けろってこと。そして3年後も、必要な時に、アッシー君でお役に立てていれば、妻の殺意は喪失したと言えるでしょう。
さてさて、私に未来はあるかな?
―― Good luck ! ――
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