第32話 みな様へ、犬一匹からのご挨拶

 初めまして。

 僕は犬一匹です。

 せっかくの機会、この場を借りて、みな様へちょっとだけですが、ご挨拶申し上げます。


 僕がこの家に住み出して、随分と歳月が流れました。

 そう、それは十年前です。生まれたての僕はダンボールの箱に入れられて、公園に捨てられていたのです。当時、幼なかったエッコとヨックンがクンクンと泣いていた僕を家に連れて帰ってくれました。

 ダンナと奥さんはしぶしぶだったのですが、子供たちの願いを聞き入れて、僕を家に招き入れてくれました。そして身体を洗ってくれて、暖かいミルクまで飲ませてくれたのです。

 あのまま公園でもし捨てられたままだったら、多分お陀仏だったでしょうね。まあ言ってみれば、際どいところで命拾いしました。


 自分で言うのも恥ずかしいのですが、十年前の僕は結構可愛いかったのですよ。

 エッコとヨックンが朝起きると、まずおはようと挨拶に来てくれてね、ご飯を食べさせてくれたりしたのですよ。それにエッコなんか、学校から帰ってくると、僕の所へ飛んできて、「カッワイイ」といつも頬ずりしてくれました。それをダンナと奥さんが微笑んで見ていました。

 僕はそんな時に幼いながら思ったんですよ。こんな幸せな日々が続いて欲しい。そして、この家族をずっと守って行こうと。


 それは、この家で暮らし出して一週間経った昼下がりのことでした。奥さんは普段の疲れが出たのか、ソファーで横になり昼寝をしていました。僕はというと、奥さんの足下で、つけっ放しにされたテレビをウトウトしながら観ていたのです。

 だけど、そんな時に、なにか変だなあと感じたのですよね。

 焦げたような臭いがして、それがどんどん強くなってきました。

「これは、ちょっとヤバイぞ」

 僕はそう思いました。そしてなにか身の危険を感じ、パピーながらも「キャンキャン」と鳴き続けました。


 奥さんは僕の甲高い声に目を覚まし、「あららららっ、どうしましょう。ヤカンが真っ赤で、取っ手が燃え出してるわ!」と、大びっくり。

 そうなんですよ、奥さんはお湯を沸かしていたのを忘れ、寝てしまっていたのです。

 要は――、空だき。

 今にも壁に引火しそうになっていました。

 火事にもなりかねないヤカンの空だき、奥さんは慌ててガスを止めに走りました。そして、濡れたふきんをくすぶるヤカンに被せ、無事鎮火させました。

「ワンちゃん、賢いわね。もう一歩で火事になるところだったわ。ありがとう」

 奥さんはそう言って、僕を思い切り抱き締めてくれました。


 公園で拾われて、お世話になり始めた家、幼いながらも何かお役に立ちたいと思っていた矢先の出来事でした。そしてこういう形で早速感謝されて、僕は嬉しかったです。

 だけど残念なことなのですが、その時まだ僕には名前がなくってね、ワンちゃんとしか呼ばれなかったのですよ。これがいささか不満でした。

 それで、ちょっとねるように、何も返事せずに横を向いていたのです。そうしたら、奥さんがハッと気付いてくれました。

「ゴメンね、ワンちゃん、そういえば、まだ名前がなかったわよね。そうね、どんな名前が良いかしら?」

 それからです、しばらく考えて、「良い名前があったわ」と奥さんがじらしてきました。「わんわん」と僕が催促すると、おもむろに発表がありました。

 それは――「危機一髪よ」――、だって!


 その日から僕の名前は「危機一髪」です。

 名は体を表す。振り返れば、現在に至るまでたくさんの危機一髪を経験してきました。

 そしていつの間にか、あれから十年の歳月が流れ、人間で言えばもうアラ還年代になってしまいました。

 ここまではダンナに奥さん、それにエッコとヨックンの家族みんなのお陰で自由気ままに暮らさせてもらいました。

 感謝の気持ちで一杯です。

 しかしですよ、なにか予感がするのですよね、このままの平穏な日々だけでは終わらないと。我が生涯において最大の危機が起こるのではと、ちょっと不安です。

 でも、またその時は、得意の危機一髪で乗り越えたいと思います。

 機会あれば、その顛末をまたご報告させてもらいます。


 みな様方におかれましても、多くの危機があろうかと思います。

 どうかスルッと危機一発ですり抜けて、人生生き延びていかれますようお祈り申し上げます。


 本日は犬一匹からのほんのご挨拶だけでした。ありがとうございました。


          危機一髪より




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