第31話 沙里と里沙

 ステージの下手からトゥで立ち歩き、クロワゼでポーズ。左足プリエで右足前に上げ、つきさし、右足パッセしながら……、手をたたく。

 こんな動きからライモンダの第三幕ヴァリエーションは始まる。

 そしてバレリーナは無表情、いやむしろ毅然と澄ました顔。

 なぜなら──、ライモンダの婚約者・ジャンは戦地へ。その間に、異国の王子から熱烈にプロポーズをされる。

 帰還したジャンは決闘を挑み、王子は敗れ死ぬ。この後二人は国王の面前で結婚式を挙げる。

 だが貴族の娘だったライモンダ、王子が死に、心の内には複雑な思いがある。

 それを吹っ切るかのようにまず手をたたき、気高く舞い始める。


 パシッ!

 緩やかに流れ始めたグラズノフのピアノ曲。それを打ち破るかのように手の平から冷たい響き。

 しかし、沙里さりはそれを強調し過ぎることもなく、手を高く上げ、淀みなく舞う。

 そうであっても沙里、きっと満足できないのだろう、汗を噴き出させ何度も何度も繰り返す。

 三日後に控えた発表会、晴れの舞台で美々しく踊るため、このクラシックバレエ教室で練習を積み上げてきた。


 そして──、僕は知っていた。

 ライモンダの第三幕ヴァリエーションという演目が、まだあどけなさが残る十二歳の少女にとって、いかに難しいか。

 それは踊りのテクニックだけではない。立ち姿の美しさや動きのしなやかさ、さらに内面から醸し出されてくる表情、すべてのものが妙妙たるものでなければならない。

 確かに年端もいかない乙女子には荷が重い。されどもこれはプリマへの登竜門、沙里はきっと頑張ってくれるだろう。僕はそう信じ、沙里の舞いを目で追い、エールを送る。


 思い起こせば七年前、僕はこの教室の先生に拾われた。そして、ここで居候することに。

 それとほぼ同時に、五歳の沙里がバレエを習い始めた。

 幼い沙里のバレエ、ウサギのようにぴょんぴょんと跳ねるだけだった。その上、泣き虫。

 先生からちょっときつい指導を受けると、ワァーと派手に泣く子だった。

 多分口惜しかったのだろう、すぐに僕の所へ駆け寄ってきて、無造作に首をつまみ上げ、小さい胸に息が詰まるほど僕を抱き締めた。

 それでも、やっぱりバレエが好きだったのだろう、友達に負けまいと一所懸命練習に励んだ。

 その甲斐あってか、沙里が十歳の頃のある日、僕は見た。沙里の踊りが明らかに進化を遂げたのを。

 それにしても不思議だった。突然高いハードルを超えたような上達で目を疑った。

 だが最終的に、そういうことだったのかと僕は納得した。


 というのも、この教室の壁に一枚の大きな鏡がある。沙里が頻繁に、鏡に映る自分の舞い姿を確認し出した。気が付けば、いつも鏡の前に立っていた。

 そして何度も何度もそれぞれのポジションでのポーズをチェックし始めていた。

 それからのことだ、沙里の舞いが……、たとえば腕を上げて丸くするアン・オーや片脚で立つアラベスクなど、一つ一つの要素が一段と美しくなっていった。

 そして僕は耳にした。鏡に話しかける沙里の声を。

里沙りさ! 私、あなたよりもっと上手く踊りたいわ」と。


 僕はその時、良かった、やっと気付いてくれたかとホッとした。

 なぜなら、とっくに僕は感じていた。少し暗い大きな鏡、そこに映る自分は微妙に自分自身とは違うと。

 もちろんミラーだから左右は異なる。しかし、どことなく他人のような……、いや、もう一人の自分がそこにいるような気がしていた。

 きっと沙里も幼い頃からここへ通い、それを看破したのだろう。だから沙里は鏡の中の自分を――、自分とは異なる名前、それはまるで鏡で反転したかのように、『里沙』と呼んだのだ。

 それからのことだった。沙里の静も動も飛躍的に華麗さを増した。

 こうして十二歳の少女が第三幕ヴァリエーションに挑戦できるまでの上達を果たしたのだ。


 パシッ!

 沙里がまた踊り始めた。アダジオから後半のアレグロへと展開していく三分間のクラシックバレエ。沙里はつま先から指先まで全神経を集め、表情は気位高く、されど風雅に舞った。

 先生の椅子に陣取らさせてもらってる僕は、とにかく沙里に見惚れた。

 一方鏡の中にいる里沙、この少女も優劣つけがたく威厳があり、美しかった。

 これはきっと──、沙里と里沙、この二人の少女がライバルとして認め合い、されど負けじと切磋琢磨してきた結果だろう。このままいけば三日後の発表会、沙里は端麗に舞ってくれること間違いなしだ。

 まことに素晴らしい!

 こんな気持ちの高ぶりが僕の胸に突き上げる。

 それからのことだ、まるでそれとシンクロするかのように、鏡の中にいる僕、いや、ライバルの黒猫野郎から吉兆の雄叫びが上がったのだった。

 ── ニャァ~オー! ──



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