第27話 鞍馬寺のパワー

 昭和7年(1932年)の秋、ひろしょうは鞍馬寺を訪ねた。

 もう幾度も来ているが、今回は鞍馬の門前町から入山し、貴船きぶねへと下りた。

 俗界から浄域への結界、その仁王門を超え、清少納言が「近うて遠きもの、くらまのつづらおりといふ道」と記した九十九折つづらおり参道を登った。

 そして本殿金堂へと。

 ここは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体が本尊であり、尊天と称されている。尊天はこの宇宙のすべてを生かすエネルギー、森羅万象を支配する力だ。

 寛と志ょうの二人はここでパワーをもらった。そしてさらに奥へと。

 そこには義経の脊比べ石がある。それを見ながら木の根道を歩き、奥の院魔王殿へと辿り着いた。

 ここは650万年前に金星より魔王尊、サナト・クマーラが降臨したとされている。

 このようなミステリーの聖域で、二人は霊験をあらたかにし、貴船へと急な坂を下った。

 清流に迫りくる紅葉が真っ赤に色づき、まことに美しい。

 それに心が癒やされたのか、茶屋で一休みする寛と志ょうは一服の茶を楽しみながら、穏やかな時の流れに身を埋没させている。それを破るかのように志ょうが声を掛ける。

「寛さん、ここらでどうですか、記念に一句詠んでみませんか?」


 結婚してもう31年の歳月が流れた。50歳を超えた志ょう、20歳の時に堺の旅館で行なわれた歌会で寛に出逢った。そして不倫となり、前妻の竜野からこの男を略奪した。

 そんな夫と歩み重ねてきた幾星霜、夫はもう還暦に近い。最近どうも弱ってきたようだ。ひょっとすれば鞍馬山に登れるのもこれが最後かも知れない。

 そんな心の内を隠し、「一句詠んでみませんか?」と促してみたのだ。

 妻からいきなり勧められた寛、「どうだろうかな」と躊躇しながらも、懐より短冊を取り出した。そしておもむろに……。

『遮那王《しゃなおう》が 背くらべ石を 山に見て わが心なほ 明日を待つかな』

 寛はこう筆を走らせた。そして与謝野鉄幹と名を添えた。

「これ、どうだろうか」と短冊を手渡された志ょう、思わずぷっと吹き出してしまった。あまりにも幼稚で、深みがないのだ。まるで写生だ。

 志ょうは元妻から寛を奪い取り、一緒になった。そして長年連れ添ってきた。

 知り合った頃、寛は勢いがあり、ギラギラと油っぽく輝いていた。


 あゝおとうとよ、君を泣く

 君死にたまふことなかれ

 末に生まれし君なれば

 親のなさけはまさりしも

 ……


 日本近代浪漫派の中心的な役割を果たしていた寛は機関誌・明星を創刊した。そして日露戦争に従軍する弟を思う、志ょうの詩を世に出してくれた。

 それから志ょうの処女歌集『みだれ髪』をプロデュースし、与謝野晶子としてデビューを果たさせてくれた。

 確かに夫はやり手だった。

 だが、『遮那王が 背くらべ石を……』とは。

 この歌にはかってのような覇気が感じられない。

 志ょうが男の熱き情熱を吸い取ってしまったのだろうか。それにしても結婚後、道理で寛は売れなかったはずだと、志ょうは妙に納得してしまうのだった。


 しかし、志ょうは思う。この人は一体……、なんなの? と。

 徳山女学校の教師時代に、二人の女子生徒をはらませて、二度の結婚離婚を繰り返し、私が三人目の妻。

 挙げ句の果てに12人の子供を産まさせて、本人はずっと鳴かず飛ばずの歌人。

 それでも無邪気に遮那王と詠み、まるで満足げだ。本当に変わった人だなあ、と。

 志ょうはこんな思いを巡らせながら、短冊を夫から取り上げた。そしてやおら筆に墨を付け、あとはさらさらと。


『何となく 君にまたるる ここちして いでし花野の 夕月夜かな』


 志ょうは達筆で、与謝野晶子と名を入れた。そして「どうですか、これ?」と寛に手渡した。

 歌人・与謝野鉄幹が「君、さすがだね、いい句だよ」と褒める。こんな言い回しに、志ょうはくやしい思いがする。寛のことを、また詠んでしまったわ、と。

 そんな男と女の隙間に、色づいた紅葉がハラハラと舞い落ちてきた。志ょうは五十路いぞじの指でそれを摘まんでみる。そしてボソボソと。

 だが心の叫びを……。

「今日は鞍馬寺で一杯のパワーをいただきました。だから、またたくさんの歌、詠ってみとうございます」

 これに寛は達観したかのように微笑み、「そうしなさい」と優しく返す。

 しかし、寛も鞍馬寺のパワーを充分授かったのだろうか、天馬空をゆく、されど悩める若人の歌を脳裏にと蘇らせ、まるで自分の生涯がそうであったかのように、一節吠えてしまうのだった。


『 われの子 意気の子名の子つるぎの子 詩の子恋の子 あゝもだえの子 』と。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る