第25話 妄想新説・本能寺の変

 天正10年(1582年)6月2日の未明、本能寺の変は起こった。轟々と燃え盛る炎の中で織田信長は自害したと言われている。しかし、明智光秀はくすぶる焼け跡でくまなく遺骨を探した。されど見つからなかった。

 謀反を起こした光秀にとって、信長に代わり天下を取ることが第一義。このままここに留まってるわけにはいかない。この後光秀は電光石火に京を治め、残党を追捕し、近江平定を行った。

 そして6月5日には安土城へと入城し、7日に朝廷の勅使から祝辞を受けた。これで一段落、光秀は翌日坂本城へと戻った。


 それにしても、心奥しんおうに一つの事が引っ掛かってる。

 まことに奇怪だ!

 本能寺の変、紅蓮ぐれんの炎の中で、確かに信長は天魔の野望とともに命を絶った。そして灰になった。

 されども、微かとはいえ、信長の骨は……?

「まだ見つからぬか?」

 光秀は溝尾茂朝みぞおしげともにあらためて問うた。しかれども答えは否。

 その代わりに、中国攻めの羽柴秀吉が毛利と講和を結び、主君の仇討ちの旗を掲げ、すでに姫路城に入城したとか。それは、この謀反を予想し、段取りをしてきたかのような素早さの中国大返し。


 さらに堺で遊ぶ徳川家康は闇に紛れ、三河へと出奔したとか。

 これらの情報を得た光秀、「うーん」と一言唸り、局面は変わったと実感する。

 しかれども、この後の光秀にはゆめゆめ考えられぬ悲運な展開が待っていた。まず5日後の、雨が振りしきる6月13日の山崎の戦いで秀吉に破れる。そして坂本城へと退散中、小栗栖おぐるすで土民の竹槍により討たれてしまうのだ。


 なぜこんなことに?

 ここで少し時計の針を戻してみよう。

 信長の野望は七徳の武をもって、つまり天下布武による天下統一。そのためには朝廷を排除し、都を武力で抑え込み、信長自身が国王になること。

 しかし国家天下のため、光秀はこの信長の魂胆を受け容れることができなかった。

 そんな中、光秀は5月15日から3日間安土城を訪問する家康の世話役を仰せつかった。だがその2日目に、毛利を水攻め中の秀吉を援護せよと命を受けた。この不意な出陣、これは大層なことだ。勘ぐれば、これはまさに親方様からの虐め。

 それでも光秀は下知に従い、その準備のため5月17日に坂本城に入り、5月26日には亀山城へと移った。


 しかしだ、この17日から26日、ここに10日間の空白がある。光秀は一体どこで何をしていたのだろうか?

 答えは、天下布武を憂慮する正親町おうぎまち天皇と密会し、信長打倒を謀議していたのだ。

 そして5月28日、光秀は愛宕山あたごやまに登り、連歌会で反逆の決意表明をした。

「時は今 雨がしたしる 五月哉」と。

 この歌の解釈は「土岐氏出身の光秀が天下を治める五月かな」。

 こうして6月1日、旗印は水色桔梗、ついに明智光秀が動いた。表向きは秀吉援護のための出陣。しかし途中、「敵は本能寺にあり」と方向を変え、1万3千の兵を率いて老ノ坂を越え、桂川を渡った。


 時は6月2日の未明、ドンドンと闇をつんざく種子島。迎え撃つ信長の手勢はたったの百人。

 信長は「明智が者と見え申し候」と蘭丸から報告を受け、言い放った。「是非に及ばず」と。

 意味は、やむ得ぬ。だが信長の真意は――、必然的な結果。

 すなわち信長が仕掛けた罠に光秀がまんまと嵌まったということである。

 その策略とは、光秀を追い込み、謀反を起こさす。そしてそれをテコに、反逆に荷担した公家/朝廷を徹底的に壊滅させてしまうことだ。

 言い換えれば、信長はすべてを知っていた。光秀が朝廷と共に造反を企てていること、またその時期が、光秀が詠んだ愛宕百韻から、近日中だと。

 そこで信長は公家衆を招いて茶会を催し、その後少人数で本能寺の寝所に入った。これは自らおとりとなり、光秀に本能寺を攻めさせること、それが目的だった。

 あとは地下道を通って南蛮寺へと抜け、安土城へと引き返す。そして兵を興し、一気に京へと攻め上がり、朝廷を滅亡させてしまう。

 結果、信長が国王となる。こんな謀略だった。


  蘭丸、火を放て!

  戦国の世を駆け抜けてきた。そして未来へ向けての――本能寺炎上。

  急ぎ、地下道を抜けようぞ!


 しかし、信長に思わぬ不運が。放たれた火が火薬に引火し爆発したのだ。

 その爆風で地下道は崩れ、走り抜ける信長に土石が覆い被さった。

 本能寺の変は日本史上最大のミステリー。だが、それは信長が企てた一世一代の鬼謀だった。しかれども神は許さず、罰として、永遠に地下に埋めてしまったのだ。

 こうして信長の遺骨は二度と発見されることもなく、今も京都の元本能寺町の住宅地の地下に眠ってる。

 さっ、耳を澄ましてみよう、声が聞こえてくるから。


  人間じんかん五十年

  下天げてんの内を くらぶれば

  夢まぼろしのごとくなり



みな様へ、ご参考に。

 今ある本能寺(京都寺町通御池下ル)は豊臣秀吉により移転されたもので、明智光秀が攻め入った本能寺は四条油小路を上がった辺りにありました。

 東西140メートル、南北270メートルの広さがあったと言われてます。今は住宅地となり、石碑があるくらいです。それでも工事現場から焼けた土が出てきたりしています。また、近くにあった南蛮寺も今はありません。

 こんな所で起こったのかと驚く本能寺の変、一度掘ってみたいのですが、発掘もままなりません。

 故に、この日本史上最大のミステリーは永遠に封印されたままとなることでしょう。



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