第21話 未完の曜変天目茶碗

 癌を患い、やせ細った父。

 私は父を見舞うため帰郷した。

 母に支えられて寝室から出て来た父、私を手作りの茶室へと招き入れ、一服の茶を点ててくれた。

 私は茶道の作法を知らない。それでも漆黒の茶碗の中で、泡立つ鮮やかな青緑色の薄茶うすちゃをゴクゴクと飲み干した。

祐輔ゆうすけはまだまだはな垂れ小僧だなあ。だけどお前には、この茶碗での一気飲みが似合ってるようだ」

 侘び寂びの感性を持たない私に、父は笑みを浮かべた。それから一語一語を噛み締めるように。

「たった一客の茶碗のために、それは絶望への道だったかも知れない。だからと言って、後悔しているかと言うと、そうでもない。むしろ達成できなかった自分が……、愛おしい」


 私にとって父は威厳に満ちた孤高の人だった。

 それにしてもどうしてこんな弱気な言葉を、父は吐いたのだろうか? 

 ひょっとすれば、聞いてはならないことを聞いてしまったのだろうか? 私はただ沈黙するしかなかった。

 父子の間に、少し歪んだ閑寂が漂う。

 それでも父は茶碗の汚れを黙々と拭き取り、木箱に仕舞い込んだ。

「祐輔、この茶碗、お前にやる」

 唐突に、私の前へと差し出された桐箱、その蓋には『絶望一飲一啄ぜつぼういちいんいったく』と銘が打たれてあった。

 これって、どういう意味? 私は訊きたかった。

 だが次は、まだ人生修養が足らんなあと言われそうで、「うん、ありがとう」とだけ返した。

 されどもこの一時が、父との今生の別れになってしまうとは。

 仕事へと戻って、一週間後に父は逝ってしまったのだ。


「祐輔、お父さんの死に目に会わしてやることができなくって、ゴメンなさいね」

 葬儀が終わっても、母は涙を流した。

「お母さん、良いんだよ。絶望一飲一啄という茶碗をもらってるから」

 私はこれがどういう意味なのかわからない。それでも母を慰めた。

 しかし母は父の思いを理解していた。

「あの陶器は……、お父さんの曜変天目茶碗だよ。一千年もの間、誰も作り得なかった焼き物、それを作るんだと、退職してから焼き続けてきたの。だけど、成し遂げられなかったわ。随分と落ち込んだ時もあったようだけど、絶望を一飲一啄しながら、あの人は慎ましく生き抜いたんだよ。その証があの最後の作品なの」

 そう言えば、父は第二の人生を陶芸に捧げていた。

 それにしても曜変天目茶碗の制作に、第二の人生をかけていたとは? 私は驚いた。


 曜変天目と冠する茶碗、この世に三つしかない。

 覗き込めば、漆黒の地に大小の斑文が散らばり、見る角度により藍から虹色へとメタリックに輝きを変化させる。それはまるで、小さな器の中に大宇宙を閉じ込めたようなもの。

 老い行く父は、いろいろな釉薬を使い、焼き温度を変え、無限であろう試行錯誤を繰り返した。

 思いは、星々をたった十センチの茶碗の底に煌めかせたい、そのためだけに。

 こんなロマンを追い続けた父、だが夢は叶わなかった。

 それでも父は──、それは絶望への道だったかも知れない。

 だからと言って、後悔しているかと言うと、そうでもない。むしろ達成できなかった自分が愛おしい、と私に告げた。


 茶碗を手に取ってみると、確かに漆黒の地にくすんだ斑文がある。決して美しいとは言えない。

 しかし見る角度を変えると、微かな輝きがある。

「祐輔、その茶碗で、一服の茶を点ててあげる」

 母が涙ながらに言った。逆らう理由はなく、私は「うん」と答えた。

 母は茶道の免状を持っている。喪服のままでも、姿勢も、茶筅で撹拌する手付きも父とは違う。

 茶を点て、私の前へと茶碗を置く。そして一礼し、凜然と。

「男の絶望を、飲み干してやってください」

 いつも優しく微笑む母、これほどまでに毅然とした面持ちの母を見たことがない。

 息子である以上に、父と同じ一人の男として対峙しなければならない。

 私は深く一礼し、茶碗を持ち上げた。そして父が、お前にはこの茶碗での一気飲みが似合ってるようだと評した通り、ぐいっと呷った。

 底を見ると、斑文が見て取れる。それらはまさしく宇宙のくすしき光のように輝いている。

 人生という長い旅路、私も絶望の淵に落ちることがあるだろう。その時は、この茶碗で一服の茶をたしなめ! 父はそう伝えたかったのかも知れない。


「未完の曜変天目茶碗でのお抹茶、どうだった?」

 母はいつもの母に戻り、茶目っ気たっぷりに訊いてきた。

「俺はまだまだはな垂れ小僧。だけど、親父のことがちょっとわかったような気がするよ」

 こう正直に答えた私に、母はしみじみと呟くのだった。

「やっと一端の男になってくれたんだね」と。



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