第20話 500万年前の一つの勇気
時は今から500万年前、アフリカの大地は熱帯雨林から乾燥したサバンナへと変化しつつあった。これによりジャングルは徐々に消滅し、まるで大海に浮かんだ島々のごとく、草原に小さな森が点在する状態となっていた。
当然、年ごとに森で採れる果実も少なくなって行った。そして森の住人の類人猿たち、不幸の宿命を背負っているのか、食料が減少してもそこから抜け出せなかった。
されども類人猿たちは母音の発声だけで互いに意思疎通をし、助け合って生きていた。
ここにその一例がある。
霊峰キリマンジャロを望む地に、ウウアアという小さな森があった。そこには未亡人のアアイと、その娘のアアエが慎ましく暮らしていた。
しかし、最近バナナやドリアンの木が枯れ、ひもじい食事しか取れずにいた。
木の上から眺めると、2キロ先にオイオイと呼ばれる森がある。最後に残った豊かな森だ。そこへ行けば果物がたわわに実ってることだろう。
飢餓状態にあった母と娘は、いつの日かあの森に移り住みたい、そんなことを夢見て、生きる希望を繋いでいた。
だが、それは叶わぬことだった。なぜならサバンナにはライオンなどの猛獣が多く生息している。
類人猿の不器用で遅い四足歩行で移動を試みても、すぐに追い掛けられ、餌食となってしまう。
母と娘はもう為す術がない。
ただ寄り添い合って、天国へと召されるのを待つしかなかった。
そんな進退窮まった時に、「アアアーン!」の雄叫びが上がった。
亡き亭主の親友、オオオが綱渡りをしてやってきてくれたのだ。
オオオは死の間際に頼まれていた。アアイとアアエの女たちが飢えた時には助けてやって欲しい、と。
オオオにとって、それは男の約束。早速、
二人は感謝の涙を流しながら分け合って食べた。
それが終わり、母のアアイはきりっと背筋を伸ばし、オイオイの森を指差した。
最初何のことかわからなかったオオオ、だがすぐにピンときた。あとはおもむろに胸に手を当て、男の深い思いを絞り出したのだった。
── イオイエ エアウア ウウアイアイ ── と。
「先生……、先生! ちょっと待ってくださいよ。何なのですか、そのイオイエ……、って?」
中年サラリーマンの
今日はその初講義、一応オイオイの森を指差したところまでは面白かったし、理解できた。
しかし、イオイエのなんじゃらかんじゃらの……、ウウアイアイとは?
さっぱりわからない。これでは先へと進めないぞと、無料講座だが、ここは厚かましく手を上げた。
「高瀬川さん、グッドクエションですね」
先生は胸の名札を覗き込み、親指を押っ立てて、余裕の笑み。それから「イオイエ エアウア ウウアイアイ」と復唱し、あとは自信たっぷりに言い放った。
「すなわち── 義を見て せざるは 勇無きなり ──ってことです」
えっ、イオイエが……、そんな翻訳あり? しかも、ことわざ?
教室内のあちらこちらからドシッ、ドタンの異常な物音が一斉に上がった。要は聴講生全員がその意外性にズッコケたのだ。
もちろん高瀬川も椅子からゴロッと転げ落ちた。
それにしても不思議なものだ、その続きが気になる。
「義を見てせざるは勇無きなり。とどのつまり、オオオはどんな勇気を奮い立たせたのですか?」
この高瀬川の追っ掛け質問に、先生はニタリとし、講義続行。
オオオの勇気は、ウウアアの森から脱出し、危険なサバンナを横切り、オイオイの森へと友人の家族を移り住ませること。早速二人に手を差し伸べ、新世界を目指して第1歩を踏み出した。
されどもそこはサバンナ、食うか食われるかの猛獣ワールドだ。アアイとアアエはブッシュに身を隠しながらの四足歩行。
しかし、ナイスガイのオオオは違った。周辺に獰猛な獣が潜んでいないかを随時チェックするため、高難度の直立二足歩行を決行した。
結果、オオオは一時間の二足歩行を完遂し、友人の妻と娘をオイオイの森へと無事エスコートしたのだった。
ここまで受講した高瀬川、だが、もう一つ腑に落ちず、あらためて挙手。
「先生、ハッピーエンドで良かったと思いますが、この講義のキモは……、一体何ですか?」
こんな直球を受けた先生は高瀬川をギョロッと睨み、そのあとは淡々と締め括った。
「人類の証は二足歩行。オオオは勇気を奮い立たせ、直立二足歩行でサバンナを踏破した。これこそが類人猿から人類へと進化した原点です。つまり、君たちが今、人として存在しているのは、オオオの『イオイエ エアウア ウウアイア』、――、義を見てせざるは勇無きなり、――が、あったからなのです」
な~るほど、500万年前の一つの勇気が現代人の我々へと繋がっていたのだ!
聴講生全員は起立。そして最初の人類、オオオの勇気に、拍手喝采を惜しまなかったのだった。
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