第18話 エクレウス号

 しゃ~ん、しゃ~ん、しゃ~ん。 

 馬鈴を鳴らし、草原を抜け、丘を越えて行く花嫁。

 白練帽子しろぬりぼうし紅裏白綸子もみうらしろりんずの打掛、下は白袴。その上に、赤子を背負って馬に跨がっている。どう見ても奇妙だ。

 それにしても一体どこへ行くのだろう?

 可笑しなことだが、当の本人は知らない。しかし、馬は百も承知、この道は冥府へと続いていると。


 旧家の一人娘、亜伊あい、物心が付いた頃に父母から小馬のエクレウス号の世話を任された。

 ゆくゆく農耕馬になるはずだったエクレウス号だが、天馬の疾風怒濤のごとく、走る姿は清々しかった。そのためか亜伊はこの馬に尊崇の念さえ覚え、愛情を惜しまなかった。

 亜伊は愛馬と共に育ち、見目麗しき娘となった。

 当然、生け花などの稽古事が必須。しかし興味が湧かず、いつも馬上の人となり、草原を駆け巡っていた。

 そして、それは初夏のことだった。突然大空に暗雲が立ち込め稲妻が走った。

 早くどこかに隠れなければならない。されども場所が見付からない。


 ドドドーン、近くで落雷が。

 エクレウス号は雷が大の苦手。亜伊は気が急った。早く早くとムチを打ち、小川を跳び越えようとした。

 その時だった、川縁はいつも以上に泥濘ぬかるんでいた。愛馬の肉体が大きく揺らぎ、それと同時に亜伊は宙へと舞った。そして大地へと身体を叩き付けられた。

 亜伊は痛みで立ち上がれない。されどエクレウス号は亜伊を守ろうと、震えながらもそばにいてくれる。その頭上では容赦のない閃光と天鼓の響きが。

 そんな疾風迅雷の中から、白馬に乗った若い男が突如現れた。

 男は脅える馬をまず落ち着かせ、雨合羽を亜伊に被せて介抱してくれた。

 亜伊にとって、この男、じゅんとのまさに運命的な出逢いだった。

 ここから二人は愛の物語の頁を捲っていくように、この草原で逢瀬を重ねた。結果、自然の成り行きだ、亜伊は身ごもり、ややを授かった。


 しかし、亜伊は知らない、男がどこで暮らしているのかを。だが、それでも良かった。エクレウス号と可愛い稚児がそばにいてくれさえすれば、たとえ潤が一ヶ月現れなくとも、信じて待てた。

 されども、それが三ヶ月を超えてくると、捨てられたのかと。いや、それともどこかで命を絶ったのかと、心が騒ぐ。

 そんな娘の将来を心配したのだろう、良い縁談が、と母が切り出した。そして父は、相手方はこの子と、馬を連れて来てくれさえすれば……、と言葉を濁した。

 亜伊はピンときた。相手はエクレウス号を農耕用としてこき使うつもりだと。

 重々しく首を横に振るしかなかった。


 しかし、亜伊は迷った。父母の気持ちがわかる。その上、この子にとって、父親はいつも行方知らずで良いものだろうか、と。

 その夜、亜伊は愛馬に寄り沿い、嗚咽した。

 冷えた涙がエクレウス号の地肌に深く沁みいく。愛馬の目にも涙が……。

 しばしの時が流れ、いきなりエクレウス号がヒヒーンと鼻を鳴らした。あとは前肢で地面を掻く。

 亜伊にはわかった、それは明らかに乗馬せよという合図だ。

 それから母が準備していた花嫁衣装へと細長い頸を伸ばす。これで亜伊は決心した。すべてエクレウス号に任せようと。


 白綸子の打掛に白袴、背には赤子を背負って、亜伊は馬に跨がった。

 ただただエクレウス号を信じ、三晩の野宿をした。そして大きな川の前へと辿り着いた。辺りに目をやると、白花を散らす沙羅双樹がある。

 そして、たたずむ青年がいた。

 やっと見付けた。亜伊は花嫁衣装に赤子を背負ったまま潤の胸へと飛び込んで行った。潤もこの再会が余程嬉しいのだろう、亜伊を愛情込めてぎゅっと抱き締めた。

「さっ、潤、帰りましょう」

 亜伊から発せられたこの言葉に、潤の顔が曇る。

「亜伊、済まない。私はこの世で亜伊と一つの命を紡いだ。だからもう、私が住む冥府、向こう岸へと渡らなければならない」

「なんでなの? 折角迎えに来たのに、なんとかならないの?」

 亜伊はこの理不尽が理解できない。怒りさえ覚える。

 潤は愛する亜伊の心情が不憫となり、話してはならないことを漏らしてしまう。

「私の身代わりがあれば……」と。


 その時だった、二人の背後からしゃん、しゃん、しゃんと軽快な音が聞こえてきた。それはエクレウス号が駆け来る音だ。

 そして猛ダッシュに。亜伊はこれほどまでのスピードを見たことがない。

「どうしたの!」

 エクレウス号は亜伊の叫びを無視し、まるで天空を飛翔するかのごとく、川の中を疾走した。そして向こう岸へと。

 共に生きて来た愛馬はこちらを振り返り、高く前足を上げ、ヒヒーンと一鳴きした。

 それから今生の縁をすべて断ち切るかのように、闇の向こうへと消えて行った。

「ありがとう、お前は小馬座、エクレウスへと帰るのだね」

 潤と亜伊は、二人の純愛の一粒種を抱き締めて、三途の川の彼岸へと手を合わせるのだった。



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