第12話 あれこれそれ茶漬け
今は桜花爛漫の時節、高見沢一郎は久々に単身赴任先から自宅へと向かってる。そんな途中で、駅構内の漬け物店へと立ち寄った。
ケイタイを掛けてきた妻の夏子から頼まれている、「あれ、買ってきて」と。
「ああ、わかった、あれな」と、その時は忙しく一応返事したが、夏子の「あれ」が何の「あれ」なのか確かではない。
だが長年連れ添った女房、およそのことはわかる。
「すいません、それと、これください」
まずは目に付いたものの中から選び、指さすと、店員はすかさず「赤かぶらと桜漬けですね」と確認し、手渡してくれた。それを受け取り、今度はおもむろに「あれください」と告げる。
「ええっ?」
店員は小首を傾げ、しばし沈黙。そしてやおら「お客さん、あれって?」と高見沢の顔を覗き込んでくる。
高見沢はこんな反応に少したじろぐが、「白くって、ペタペタと薄い……」とまずはそのあり様を説明し、それから自信たっぷりに言い切る。「その、あれですよ」と。
これじゃ何のことかわからない。店員は口を開けたまま、ポカンと放心状態に。
そこそこ歳を取ってしまった高見沢、きっと指示代名詞の「あれ、これ、それ」に取り憑かれてしまっているのだろう。
そのためか、いつも会話は「あれ、これ、それ」のてんこ盛り。
だが、さすが漬け物屋の若い店員さん、「白くって、ペタペタと薄い」を三回繰り返し、「ああ、千枚漬けですね」と優しい笑顔でご名答。
「ああ、それが、――、あれですよ」
高見沢はお決まりの指示代名詞で答え、ニッコリとする。
こんなサラリーマン高見沢一郎を、もし横から見ていたら、「たまには会話の中に名詞を入れろよ!」と文句の一つも付けたくなる。
だが当のご本人は、妻の夏子から指示された「あれ」を買い求めることができて、とにかく嬉しそう。
その結果、赤かぶらと桜漬け、それに千枚漬け、これらの漬け物を小脇に抱え、家路へと急ぐのだった。
「おかえんなさい」
夏子はどうも機嫌が良さそうだ。
何はさておき、これが一番。高見沢は安堵する。
だが、早速夏子から「あなた、あれ買ってきてくれた?」と確認される。
ここは待ってましたとばかりに、「ああ、これだろ」と、高見沢は自信たっぷりに袋から千枚漬けを取り出す。
ところがどっこい、世の中そうは問屋が卸さない。「違うわよ、これ。あなた、あれが欲しいのよ」とブー。
「じゃあ、あれは……、これか?」と、次に赤かぶらの切り漬けを取り出した。
事ここに至って、あ~あ、あにはからんや、弟はかるや、いや妻はかるやだ。
「そんなんじゃないわよ、あなた。まだわかんないの、あれよ」と夏子の目がつり上がる。
これはちょっとヤバイことに。こんな漬け物騒動から離婚に発展した例を、高見沢は多く知っている。
だが幸運にも、高見沢には最後の一手が残されていた。そう、桜漬けだ。
それを恐る恐る妻に差し出した。
すると、お見事、アッタリー!
夏子は「そうよ、それ、それ、それなのよ」と桜漬けを手にし、ご丁寧にも「それ」の三連発までお噛ましになって、あとはニコニコと満面の笑みとなる。
確かに、夏子の「あれ」は高見沢の「あれ」とは違っていた。
しかし、
されど思えば、中年オヤジの高見沢、会社に滅私奉公中であり、まだまだ働かなければならない。こんな漬け物が発端となり、熟年離婚のドツボにはまってる時間はない。
それだというのに、今回はホント危機一髪だった。
勘を働かせた千枚漬け、それに赤かぶらと桜漬けという保険を掛けておいて良かったとホッとする。
しかし、歳を取るということはこういうことなのかも知れない。
「あれ、これ、それ」で、すべてのことを済ましてしまうようになる。
さりとて、今のところ大きな問題とならず、暮らしているのだから……、まことにラッキーというものだ。
それでもついつい「あれ、これ、それ」を多用してしまうようになった現実、これはやっぱり寂しいことかな?
赤かぶらと千枚漬け、それと夏子ご所望の桜漬け、これらの「あれこれそれ茶漬け」をさらさらと食べながら、高見沢は
こんな落ち込んだような夫の姿を見て、夏子がボソボソと呟く。
「あなた、いいんじゃないの、『食卓に あれこれそれで 春きたる』よ」と。
これに高見沢ははっと気付く。夏子の「あれ」、つまり桜漬けの意味が。
時節がらやっぱり――桜ものでなきゃダメなんだと。
「あれ、これ、それ」を決して
そして、高見沢は桜漬けを箸で摘まみ上げ、「あれこれそれで、春きたるだね。明日、花見にでも出掛けてみるか」と妻を誘うのだった。
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