第10話 減らないラーメン

 仕事の第一線から退いた高見沢一郎たかみざわいちろう、今は妻の夏子と穏やかに、いやそれなりに波瀾万丈に暮らしている。

 そんなある日、長女の真奈美まなみが可愛い孫娘、愛沙あいさを連れて、還暦夫婦の陣中見舞いにと遊びに来てくれた。

「お父さん、お母さんに我がまま言ったらダメよ」

「おいおい、いきなり注意かよ、そんなの陣中見舞いにならないよ」

 ちょっと不愉快な昼前だったが、「グランパ、ラーメンが食べたいの、連れてって」と愛沙がすり寄ってきてくれた。やっぱり頼りにしてくれているのは孫だけだ。

「えっ、愛沙、ラーメンて? お寿司の方が良いのに」

 娘の真奈美から不満の声が飛んで来たが、「ヨッシャー、愛沙ちゃんが食べたいラーメンをご馳走しよう」と四人で近場の店へと出掛けた。


 それぞれに注文したラーメン、大人たちは食べ終えた。だが今、愛沙一人が目の前のラーメンと格闘している。

「愛沙、どうしたのよ、早く食べなさいよ」

 母の真奈美にこう急かされて、愛沙はほっぺをぷーと膨らませた。

「愛沙ちゃん、いいんだよ。お腹が一杯だったら、残しても」

 一郎は見兼ねて、孫に優しく声を掛けた。

「お父さん、そんな甘いこと言わないで。愛沙が食べたいと言ったのだから。さあ、どっちにするの、食べるの、残すの?」

 母親にこう追い詰められた愛沙、目には涙が。そして一本の麺を箸で摘まみ上げ、訴えるのだ。

「ママ、これ……、ぜんぜん減らないの」

 こんな事態に陥ってしまった愛沙を眺めていて、一郎と夏子は思わずぷっと吹き出した。

 なぜなら二人は思い出したのだ、娘の真奈美にも同じようなシーンがあったなあ、と。


 あれは随分と前のことだ。そうそう、真奈美がちょうど今の愛沙と同じような年頃のことだった。

 一郎は仕事の関係で、家族とともに南カリフォルニア、サンディエゴから約120マイル東に入ったエルセントロという小さな町に住んでいた。

 サンディエゴはアメリカ西海岸に位置し、海のある風景の中で、光がいつもキラキラと降り注ぐ美しい町。その港町から国道8号線で東に向かう。緑は徐々になくなり、ついには草木の生えぬ岩だらけの山となる。その地獄峠を越えると、眼前に荒涼たるデザットが広がる。

 その灼熱と広漠さの中に、エルセントロの町が忽然と現れる。同じ南カリフォルニアでありながら、サンディエゴとエルセントロはまるで天国と地獄。

 そんなエルセントロの町で暮らす一郎たち、2週間に一度、日本食を食べるのが楽しみでサンディエゴへと出掛けて行った。

 そんなある日、子供たちの要望でラーメン店へと入った。そしてそれぞれに一杯ずつ注文した。

 久々のラーメンだ、美味しい。一郎も夏子も、そして息子も夢中となって、一気に食べ終えた。


 しかし、真奈美だけがいつまで経っても終わらない。元々食べるのが遅い真奈美だった。

 それにしても……。

「真奈美ちゃん、次に日本スーパーに行くから、早く食べなさいよ」

 妻の夏子がそう急かすと、真奈美がふくれて反論した。

「お母さん、このラーメン、ぜんぜん減らないの」

 こんな母と娘のやり取りを聞いていた一郎、それを取りなすためにも、真奈美のラーメン鉢を覗く。

 するとどうだろうか、確かに店員が運んできた時と同じで、減っていない。いや、むしろ汁面が上昇しているではないか。つまり増えているのだ。

 この時、一郎はピンとくる。

「真奈美、それって――、麺がふやけて、膨らんでるんだよ」

 こんな解釈を聞いた夏子、目を丸くして言う。

「えっ、それって、食べる早さより、ふやけて行く方が速いってこと? 真奈美ちゃん、そうなの?」

 真奈美は母の夏子にそう問い詰められてもわけがわからない。それでも首を傾げながら「うん」とだけ答えた。

 子供の真奈美が格闘する、それは単に日常の些細な出来事だった。

 だがそこには、外地暮らしの苦労を忘れさせてくれるほのぼのとしたものがあった。そして、家族みんなはお日様のように笑った。

 一郎にとって、また夏子にとっても、それは忘れられない思い出となっていたのだ。


 今、そんな減らないラーメンの、かっての真奈美のシーンが蘇り、二人の顔に柔らかい笑みが零れる。

 しかし、当の本人の真奈美、そんなことは忘れてしまっているのだろうか、娘の愛沙をまた急かそうとする。

「早く食べ……な……」

 一応、ここまでは発した。しかし、あとは口ごもる。

 やっと真奈美は思い出したのだろうか、今度はいきなりぎゅっと愛沙を抱き締める。

「愛沙は私の娘だもんね。ラーメンが減らないのも、仕方ないわ」

 こう囁かれた愛沙、やっと笑顔となる。

 そして、そんな微笑みの前には、店員が運んで来た時のままの量、すなわちふやけ切ったラーメンの鉢が、ただただ鎮座していたのだった。


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