第9話 一重白彼岸枝垂桜

 夜の闇を打ち割るように、ライトアップされた一本のしだれ桜がある。

 老木だが、浮かび上がった姿はまことにあでやか。時折吹き来る夜風にひらひらと花びらを散らす。

 花木洋介はなきようすけくうに舞う一片ひとひらを掴み取り、ベンチに腰を下ろす。それから缶ビールをシュパッと開け、ゴクゴクと。これでやっと喉の渇きを潤すことができた。

 そしてブツブツと。

知恵理ちえりさん、今年も会いに来ましたよ。いつも妖艶ようえんですね」

 昭和世代の洋介、長年この桜を見続けてきた。そのためか知恵理さんと勝手に愛称で呼ばせてもらってる。


 思い返せば、初めて出逢ったのは小学六年生の頃、妹、美希みきの手を引いて花見に来た。

「お兄ちゃん、たこ焼きが食べたいよ」と美希がねだった。

 母からの小遣い10円を握りしめ、夜店へと。変な臭いのカーバイトランプで照らされた屋台、すべての夜景が揺れていた。

 生まれて初めてたこ焼きを見た。もちろん夜店で買うのも初めてだ。胸をドキドキさせ、一舟買った。それを落とさないように桜の木の下へと持って行き、妹と三個ずつ分け合った。

「お兄ちゃん、熱くて食べられないよ」

 美希が突然泣き出した。フーフーと目がまうほど息を吹き掛け、冷ましてやった。これで美希は泣き止み、二人で頬張った。

「お兄ちゃん、美味しいね」

 ニコニコと、幼ない妹に笑顔が戻った。

 あれから幾年月が流れただろうか。今は母も、あの愛々しかった妹もいない。

 洋介の目の前には、桜花爛漫おうからんまんの世界が広がってる。

 されど、それとは裏腹に洋介の目に涙が滲み、目頭をそっと拭く。


「ここに座ってもいいかい?」

 突然、一人の婦人が声を掛けてきた。

「どうぞ」と答えながら女性を窺うと、亡くなった母と同年代のようだ。

 おもむろに腰掛けた婦人が小さく呟く。「また会えましたね」と。

 洋介は、婦人がこの桜に会いに来たのだと思った。

 こんな二人、ベンチで肩を並べ、しばらく桜に眺め入っていた。そして、その沈黙を破ったのは婦人。

「お兄さんは……、昭和育ちかい?」

 いきなりに、とは。思いも付かない問い掛けに、洋介は缶ビールを頬にあて、一拍の間を取った。

「そうですよ。お母さんもでしょ?」

 わかり切ったことだ。それでも話しの流れで訊いた。

 婦人は凜としたまま、桜から目線を外さず、「戦前生まれでね、いろんなことを見てきたんだよ」と静かに語り始める。


 進退窮まった太平洋戦争、学徒動員でね、学生さんたちがここから戦場へと。それからすぐのことだった、ここに多くの人が集まって、玉音放送を聴いたんだよ。

 洋介は戦後育ち、戦争を知らない。大変でしたね、としか言葉が浮かばない。


 敗戦で、世の中ががらっと変わった。この桜の周りにも闇市が立ってね。だけど、それも束の間、桜の木の下に紙芝居がやって来てね、子供たちが集まるようになったんだよ。缶蹴りや三角ベースで賑やかだった。

 花見の頃はぼんぼりが灯り、たくさんの露店が並ぶようになり、たこ焼きが売られ始めたのも、その頃のことだったかなあ。幼い兄と妹が桜の下で分け合ってたこともあったね。


 洋介はこんな話しを聞いて、胸にじんとくる。

 婦人はそれに構わず──、

 街頭テレビが設置され、プロレス観戦で黒山の人だかりになった。それからしばらくして学生運動が勃発し、ここで開かれた集会に機動隊が突入した。その後、高度経済成長で、女の子のスカートが短くなり、挙げ句の果てにバブルとなった。花見はドンチャン騒ぎとなり、女たちは扇持ってクネクネと踊り出す始末、と昭和時代を一気に喋り、最後は丸っきり品がなくなったんだよね、と締めくくった。


 確かに昭和、いろんな出来事があった。洋介は婦人が話す一つ一つが懐かしい。しかし、一番の思い出はやはり桜の木の下で、妹と初めて食べたたこ焼きの味だ。あれが俺にとっての昭和だと思っている。

 すると婦人は洋介のセンチメンタルに気付いたのか、「最近、静かに花を愛でる人が増えたんだよ」と言い、腰を上げた。

 それから微笑み、「それじゃ、来年もお会いしましょう、……、洋介君」と。

 えっ、このご婦人が、なんで俺の名前を知ってるの?

 洋介は不思議で、歩き始めた婦人の背に「どちらさんでしたか?」と声を掛ける。それに応え、婦人は振り返り、きりりと姿勢を正す。

「チェリーと申します」


 チェリーって……、洋介がこの桜に名付けていた名前、知恵理?

 これって、どういうこと?

 きょとんとした洋介に、婦人はさらに――、「妹の美希ちゃんも時々ここへ来るんだよ。いつか会えたらいいね」と。

 その瞬間、一陣の風が吹く。

 花びらが夜空へと舞い上がり、婦人はその下を通り抜け、

 昭和、平成から令和への樹齢九十年、その祇園の夜桜、一重白彼岸枝垂桜ひとえしろひがんしだれざくらへと消えて行った。


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