第8話 妹の郁子
父は八年前、そして母は三年前に他界し、今は誰もいない。家には火の気はなく、春だというのに冷え込む。還暦をとっくに過ぎた洋一、その冷たさが身に沁みる。
「さっ、飾り始めるか」
洋一は気合いを入れ直した。今からお雛さんを飾ろうというのだ。
まず納屋から古い木箱を運び込んだ。そしてそろりと蓋を開けてみる。少しかび臭い。中を覗けば、新聞紙に包まれた大小それぞれの物が丁寧に並べられてある。几帳面だった母がきっとそうしたのだろう。
洋一はその一つを開いてみる。すると気品ある人形が現れた。
母は言っていた。このお雛さんたちは生きてらっしゃるのよ、だから一年に一度は箱から出してあげないとね、と。
洋一は雛壇の組み立てから取り掛かった。そして赤い
こうして一段落が付き、遠くから眺めてみると、なかなか立派な雛飾りだ。
今度は近付き、人形の顔を見てみる。みんな笑っているようだ。今にも笛や太鼓の音に合わせ踊り出しそう。
次に洋一は袋から摘まみ出した物を雛壇の前に
それらをしばらく見入っていた洋一、その目に涙が……。
父も母も、そして洋一も、涙は枯れていたはずなのに。ハンカチでぬぐってみても溢れ出る涙、年甲斐もなく号泣した。
この原因、それは五十年前に遡らなければならない。
洋一には
だが、あのひな祭りの日、遊びに夢中になり過ぎたのか、夕飯になってもそこから離れない。そんな妹を母は叱った。郁子はお雛さんの前でしくしくと泣いていた。
洋一はそんな妹が不憫で、あや取りをして遊んでやった。
しかし、その夜、郁子は忽然と消えた。
一体どこへ消えてしまったのだろうか?
もちろん父は捜索願いを出し、山や川も捜した。しかし見つからなかった。
近所で噂が流れた。郁子は神隠しに合ったのだと。
母は郁子を叱ったことを悔い、その辛い思いを抱いたまま逝ってしまった。
洋一は、あの時遊んでやった郁子の嬉しそうな顔を思い出し、この
こんな胸痛むお雛さん、もう二度と飾らないと決めていた。しかし、母が旅立つ前に残した言葉を思い出した。
「郁子ったら、まだお雛さんと遊んでるんよ。だから洋一、連れ戻してやって」
母の言いたいことがわからない。「連れ戻すって、どこから?」と洋一が訊くと、母は伝えてきた。
「あの時の、三月三日からよ」と。
最近になって、その意味が閃いた。
郁子はお雛さんと遊び、楽しくて、五十年前の三月三日を超えられず、その日に取り残されたままになっているのだと。
洋一は赤い毛糸を手にし、たかたか指を差し込んで山を作ってみた。
そう言えば、あの頃、この簡単な山を作って郁子に差し出すと、細い指を絡ませて、器用に取って行った。洋一は不器用で、そこから何の形も取り戻せない。「お兄ちゃん、はよ、取ってよ」と妹は急かし、可愛く笑っていた。
洋一はあの頃と同じように、両手の中にある山を前へと突き出した。するとどうだろうか、糸に指を絡ませる微かな感触を覚えるのだ。
洋一は反射的にそれを辿り、きっとそこにあるであろう手首、それを思わずぎゅっと掴んだ。
細くて柔らかい腕の温もりがある。明らかに郁子だ。
洋一は思い切って引っ張り上げた。すると驚愕!
郁子の上半身が目の前に現れ出てきたのだ。
腰から上の姿をいきなり見せた郁子が「一緒に遊ぼうよ」と誘ってくる。
だが洋一は、五十年ぶりの対面だというのに、妙なことを考えてしまう。
「このまま郁子をこちらへと引っ張り出せば、五十年前のあの場の郁子はいなくなる。ということは、郁子は五十年前の三月三日に取り残されてるのではなく、現在の俺が、つまり当時から考えて、未来の俺が、ここであの時の郁子を引き抜いてしまう、そのことから――、神隠しが起こったのかも知れないなあ」
こんなメカニズムに気付いた洋一はさらに考えを巡らす。
「もし今の俺が、郁子をこちらへと引き抜かず、そっと元へと戻せば、五十年前に郁子は消えずにいられる。そして普通通りに暮らして行けるはず。ということは、家族の今までの過去は、これで変えられるかも知れない、いや、きっと変更できる」と。
洋一は覚悟を決めた。現在へと半分姿を現す郁子を引き抜かず、元の五十年前へと押し込めた。そして、ふうと大きく息を吐いた。
その時だった、襖がスーと開く。これに洋一が振り返ると……、そこに
「お兄さん、私も実家に帰って来たわ。お母さんが大事にしていたお雛さん、三年振りに飾ってくれた?」
もうすぐ還暦を迎えるという――、ちょっと太めの郁子が微笑んで、こんなことを訊いてきたのだった。
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