第3話 懐中時計【 ブレゲ No. 160 】

「アナタ、この古くさい時計、どこかへ売っぱらってきてちょうだい!」

 リヴカは朝から機嫌が悪い。朝食のためテーブルについた夫のアブラハムに、懐中時計を差し出し、怒りだす。

 アブラハムは妻がなぜこんなに不機嫌なのかわかってる。だから素直に、「ああ、そうするよ」と答えた。

 そう、それは1ヶ月ほど前のことだった。泥棒市場で、アブラハムはこの金の輝きを持つ時計を見つけた。手にするといかにも精巧に作られていて、値打ちがありそうだ。いくらか値切り、買い取った。その後、後生大事にそれを持ち歩いてきた。

 そんな大切にしている時計、当然就寝時はベッドの横に置いておく。

 しかし、どうも寝付きが悪い。しかも横に寝ている妻までもが寝苦しそうだ。そしてその内に、二人とも悪夢を見るようになった。


 ある夜、リヴカが「うーう、うーう」と、寝汗をびっしょりとかき、うなされている。

「おいおい、リヴカ、どうしたんだ?」

 アブラハムはリヴカを揺り起こした。するとリヴカは泣きじゃくりながら訴える。

「恐い夢だったわ。高くて暗い塔に閉じ込められていてね、ある日そこから引っ張り出されて、群衆の面前で処刑台に登らされたのよ。髪は短く切られてるし、両手はうしろで縛られてるのよ。それからだわ、大きなギロチンの刃が……、ズドーンと落ちてきたのよ。あなた、助けて!」

「それって、斬首ざんしゅの刑にあったということか?」

 これにリヴカは涙を零しながら、「そうなの、私何も悪いことしてないのに、首を……」と深く頷いた。だが、アブラハムは不思議だった。なぜなら同じような夢で何度となくうなされているからだ。


 しかし内容は少し違っていた。アブラハムの場合は当事者ではなく、オーディエンス側なのだ。

 民衆が見守る中、清楚な婦人が後ろ手に縛られ、断頭台のある壇上へと引っ張り上げられる。それを眺めていたアブラハムは、その懐中時計を握り締め、婦人に渡そうと駆け寄る。しかし、手渡す寸前に、頭上からギロチンの刃が落ちてきた。真っ赤な血しぶきが吹き上がる。

 広場では「共和国万歳!」と大歓声が。その歓喜の中で、アブラハム一人がその時計を堅く握り、無念の涙を流してしまうのだった。

 こんな二人の夢は一体どういう因果を持つのだろうか? 

 だが、その原因はアブラハムが買った懐中時計にありそうだ。時計そのものが何かに取り憑かれているようだ。まことに気色悪い。

 そして、今朝のリヴカからの叫び、「どこかへ売っぱらってきてちょうだい!」、これでアブラハムは手放すことを決心した。

 しかし、金と水晶で作られた年代もの、値打ちがあることには間違いない。そこでアブラハムはそれを美術館に持ち込んだ。


 この出来事から半年が経過し、2007年11月11日、イスラエルの日刊紙が報じた。

 美術館に収蔵されていたブレゲ作の逸品、懐中時計【 ブレゲ No. 160 】は1983年に盗難に合った。しかしながら今回25年振りに、幸運にも美術館に戻ってきた。

 遡ること200年前、それは1789年7月14日、フランス革命が勃発した。そしてフランス王妃のマリー・アントワネットはタンプル塔に幽閉された。

 王妃はこのようになることを予知していたのだろう、世紀の名工、アブラアン・ルイ・ブレゲに、「お金はどれだけ払ってもかまわない。世界で一番素晴らしい懐中時計を作ってほしい」と依頼した。

 これを受けて、ブレゲは暗闇でも時刻を音で知らせるミニッツリピーターを開発し、それを盛り込んだ。他に永久カレンダー、均時差表示、自動巻などを装備させた。

 さらに内部の機構を見ることができるようにと、クリスタル製文字盤をはめ込み、美しく仕上げた。

 色彩は金色、まさに煌びやかなこの懐中時計、完成に40年の歳月を要した。

 そのためブレゲはそれをマリー・アントワネットに手渡すことはできなかった。また王妃はそれを手にするチャンスもなかった。

 さらに奇妙なことに、美術館に届けた男は話していた。

 夢の中で、ギロチンに合う婦人に時計を渡そうとしたが、それを果たせなかった、と。

 今回、懐中時計【 ブレゲ No. 160 】、通称『マリー・アントワネット』はひょんなことから美術館に戻ってきた。

 それにしても波乱な時代を超え、今も正確に時を刻み続けているから、これはまさにミラクルと言えるだろう。


 こんな記事を読んだアブラハムとリヴカ、なぜあのようなギロチンの夢で毎晩うなされたのか腑に落ちた。

「ねえ、アブラハム、あの時計、お宝品だったんだね。値打ちはどれくらいのものなの?」

 リヴカがちょっと惜しいのか訊いてきた。

「ああ、桁外れの骨董品だよ。そうだなあ、ゴッホの絵より高いと言われてるよ」

「ふうん、そうなの。ちょっと残念ね」と、リヴカは未練がましい。

「なあリヴカ、これで良いんじゃないか。ブレゲはマリー・アントワネットの約束を果たしたと、これから人たちは思い、また美術館でそれを鑑賞できるのだから。さっ、仕事に出掛けるぞ」

「そうだね。今日も頑張ってきてちょうだい」

 リヴカはアブラハムにランチボックスを渡す。それに応えるようにアブラハムは、今は悪夢から解放され、笑顔を取り戻した妻に「行ってきます」と軽くキッスをする。

 その瞬間だった、二人が結婚した時に買った掛け時計が……、聞き慣れた音で、ボーン、ボーン、ボーンと七つ打つ。

 その響きは――、まったく普段通りで、穏やかなものだった。



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