第2話 父と母の高校野球

 遼一りょういちは母、幸子さちこが一人暮らしをしていた実家に戻り、片付けをしている。そして弔いのために、母が好きだった高校野球のテレビのボリュームを上げる。部屋中に歓声が轟く。

 そんな時に、大事そうに仕舞われてあったノートを見つけた。

 遼一はなんとなく感じ取った、それは母が遼一に伝えておきたかったことではないかと。

 遼一は拾い読みをした。そしてそこには遼一が知らない母がいたのだ。


 甲子園を目指しての県大会、その9回の裏、スコアは2対1。2塁3塁に走者を出してはいるが、すでに2アウト。このまま逃げ切れば、甲子園に出場できる。

 マウンドに立つ拓史たくしは2ストライクと打者を追い込んでいた。

「拓史、頑張って!」

 マネージャーをしていた幸子は大きな声をかけた。しかし、この声援はいつもと違っていた。

 それまでは「拓史君」と君付けをしていた。だがこの時は本心の叫びなのだろうか、より近しい呼び捨てとなってしまった。

 拓史が微かに頷いた。甲子園に共に行き、そこから一緒に生きて行こう。そんな決意を高校生なりにもしていたのかも知れない。

 拓史は勝利への1球を、キャツチャーの洋一よういちが構える外角一杯に投げた。そのボールはそこへ真っ直ぐ吸い込まれていく……、はずだった。だが、幸子への雑念が襲ったのだろうか、白球はホームベースの前で不規則なショートバウンドとなった。

 きっと洋一もここ一番の球筋に慌てたのだろう。普段なら身体で止めるところだったが、後逸してしまった。

 当然、3塁走者はホームへと突進する。洋一はバックネットへと駆け寄り、そこで拾い上げたボールを、カバーに入った拓史に返した。しかし、3塁走者はすでにホームベースを踏んでいた。

 同点だ。しかしまだチャンスはある。ここで辛抱すれば良かった。


 されども2塁からの走者は3塁ベースから大きく飛び出してしまっている。拓史は血が騒いだのだろう、3塁カバーに入っていたショートの大介だいすけに投げた。だが今度はこれを大介が後逸してしまった。

 結果、3対2の逆転サヨナラ負け。まったく下手な野球をやってしまった。そして甲子園への夢は露と消えてしまったのだ。

 エラーの連鎖で自滅。拓史と洋一、そして大介は自分たちのプレーを責めた。

 そして幸子は、この不幸の始まりはあの時叫んだ「拓史!」からだった。ここ一番のあの場面で、恋心をむき出しにし、拓史に心の負担を与えてしまった。舞い上がった自我で、みんなの夢を奪ってしまったと悔やんだ。

 しかし、もう時は返らない。それ以来、拓史と幸子はもう目を合わすこともなくなった。


 それから10年の歳月が流れた。そんなある日、洋一から連絡があった。それは、あの時の1球を拓史に投げ直させてやりたい、だから母校のグラウンドへ出て来て欲しいというものだった。

 幸子にとってほろ苦い青春の想い出、だが今も拓史のことが好きだ。会ってみたい。

 そして、その心に正直に決心し、幸子は出掛けた。

 あの時と同じ炎天下のグラウンド、みんなポジションについていた。そして幸子が現れ、その顔を見るなり、すぐに洋一から声がかかってきた。

「幸子さん、審判やってくれない」

 拓史はすでにマウンドに立っている。そして大介はショートに位置取り、洋一はミットを構えている。当時の9回の裏の場面と一緒だ。

 10年経って、拓史はどんな球を投げてくるのだろうか? 幸子に興味が湧いてきた。

 甲子園への夢を打ち砕かれたあの1球のやり直し、だからストライクでなければならない。


 拓史が両手を大きく振り上げた。そしてゆっくりと、まるで時の流れをなぞるように、投げられた白球は緩やかな放物線を描き……、洋一がど真ん中に構えるミットの中へと吸い込まれて行った。

 ショートバウンドではない。美しい軌跡の一球。これは現実の世界で起こったことなのだろうか? 幸子は目を疑い、あとは放心状態に。

「このボール、拓史に渡してやってくれ」

 たたずむ幸子に、洋一が白球を握らせてくれた。幸子はこれがその場の成り行きのように、拓史へと駆け寄った。

「ナイスボールだったわ。これで私たちの高校野球はやっと決着がついたのね、ありがとう」

 幸子は拓史にボールを手渡した。

 だが、「もう大丈夫、あの時の野球は終わったから……」と拓史の歯切れが悪い。

「幸子さん、こいつマジメだろ。だから、このやり直しのストライクを取らないと、次の一歩が踏み出せなかったんだよ。さあ拓史、もう過去はよいから」

 そばに来ていた大介が口を尖らせた。それに応え、拓史は幸子を正面に見据える。そして唐突な直球が。

「幸子さん、僕と結婚してください」

 そう言えば、拓史はいつもそうだった。幸子は昔と変わらぬこんな拓史に笑えてきた。

 しかし、ここは返事をしなければならない。幸子は精一杯の声を張り上げた。

「ストライク!」


 母は父、拓史を追って、ついこの間逝った。

 今、遼一は父と母の恋物語を知り、熱いものがこみ上げてくる。

 そんな部屋に、高校野球の歓声が響き渡っていくのだった。



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