第77話 せめて幸せになって欲しいです
ミリアが泣いて泣いて泣いて、これ以上涙は出ないのではないかというくらい泣いたころ、寝室のドアが遠慮がちにノックされた。
閉ざされた扉の向こうからマーサの声がする。
「お嬢様、お客様がいらっしゃいました。断ってよろしいですか?」
アルフォンスなら絶対に会いたくないが、寮内は男子禁制である。入って来られるわけはない。
「……誰?」
「クリス様とおっしゃっています」
「クリス……?」
ここに
だが一方で、クリスならやりかねない、とも思った。
「木登りで私が落ちた木を聞いてみて」
「はい?」
「いいから。何の木から落ちたか聞いて」
ミリアは、ぐすっと鼻をすすった。
再度ノックをしたマーサは、戸惑いがちに言った。
「お嬢様。ナラ、クスノキ、スギ、トネリコ、とのことですが……」
クリスだ。
「通して」
「いいんですか?」
「うん」
ミリアは泣き顔がマーサに見えないように、ベッドに上がって座ったまま布団をかぶった。どうせ泣き声は漏れているし、鼻声でもあるのだが。
「ミリィ?」
クリスがマーサが開いたドアを抜け、寝室に入ってきた。布団をかぶっているミリアを見て
「お茶を用意しましょうか?」
「ううん。いい。二人だけにして」
「わかりました」
一礼してマーサは出て行った。
「ミリィ、どうしたんだ?」
クリスはベッドに腰掛けて、こんもりと膨らんだ布団のミリアの頭の辺りをなでた。ミリアが泣いているのはクリスにもわかっていた。
「ちょっと、悲しいことがあったの」
「聞かせて。でもその前に、顔を見せて」
ミリアは布団から顔を出した。
「そんなに目をはらして。何があった?」
ミリアの頭をなでるクリスは、若草色のドレスを着ていた。よく似合っている。短い髪をハーフアップにしていた。それで寮に入れたのだ。昔服を交換し合ったことのことを思い出した。
「失恋したの」
「ミリィが失恋? 誰に」
「言えない……」
ミリアははらりと涙を落とし、首を振った。
「ミリィを振るなんて、よっぽど趣味が悪いんだな」
振られたわけじゃない。元々婚約者がいるのだ。好きになったときにはもう失恋していて、その現実を突きつけられただけだ。
「そんな男にはさっさと見切りをつけて、帝国に来ればいい。ボクが忘れさせてあげよう。ミリィには幸せになってもらいたい」
それもいいかもしれない、とミリアは思った。アルフォンスへの想いを断ち切るなら、国を出た方がいい。リリエントとの婚礼の噂なんて聞きたくない。
「卒業は、する」
じゃないと
ぐすっと鼻を鳴らす。
「頑固だな。変わってない」
クリスが目をつぶり、ミリアの
「クリスはどうしてここに?」
「今日帰ることにした。その前にミリィに会いたかった」
「え?」
急すぎる。ついこの前はしばらく帰れないと言っていなかったか。
「
「え!? 大丈夫なの?」
「一時は意識不明だったと聞いた。ったく、いい歳してでしゃばるから。
クリスが口をゆがめた。
「それと報告。結婚相手を決めた」
「おめでとう……?」
「打診はこれからだが、ま、
帝国とローレンツ王国の貴族。国力の差は圧倒的だし、国益を考えても、家の繁栄に繋がることからも、断るという選択肢はない。
「このあと、ミール侯爵に、リリエント・ミールとアルフォンス・カリアードとの婚約を解消するよう言いに行くつもりだ。話をつけてからカリアード伯爵の所に行く」
「え……?」
リリエントとアルフォンスの婚約を、解消?
「じゃ、じゃあ、結婚相手っていうのは……」
「ああ。そういうことだ。気が進まないが、総合的に見ると、一番いいだろうと考えた。何より顔が好みだ」
ミリアの頭の中がぐるぐると回った。
「だめ。……だめっ!」
ミリアは手で押さえていた布団を落とし、クリスの肩に両手を置いて揺すった。
「どうして? 何か相手の家に問題があるのか? それとも本人に重大な
欠陥? 欠点ならあるが、欠陥と言われると、ない。
「そうじゃない。そうじゃない、けど……!」
ミリアは一度うつむき、そしてクリスの目を見る。
「アルフォンス様とリリエント様は愛し合ってるんだよ。二人の幸せを壊さないで。お願い」
愛なんて、とクリスは言った。
「向こうだって貴族だ。わかっているだろう」
「そう、かもしれない。けどっ! お願い。それだけはやめて!」
ミリアの目から涙がぽろぽろとこぼれた。
だって、アルフォンスは、あんな顔をするくらい、リリエントのことが好きなのだ。なのに引き離すなんて、そんなこと……。いくら国益や家のためにとわかっていたって。
それに、いなくなってしまったら、その穴は、エドワードやジョセフでは埋めることはできないだろう。きっと他の誰にもできない。
絶対二人は反対する。エドワードは友人としてだけでなく、王太子という立場からも言うだろう。それでも、きっと
アルフォンスが見せた笑顔を思い出す。前のような意地悪な顔ではなかった。嬉しそうな、優しい顔をしていた。きゅぅぅぅと胸が締め付けられ、ミリアはまた涙をことぼした。
「ああ。そういうことか。ミリィはアルフォンス殿のことが好きなんだね」
クリスは悲しそうに目を伏せた。
「でもごめん。その頼みは聞けない。もう決めてしまった。今日言っておかないと、しばらく直接言うチャンスがない。これくらいは誠意を見せないと」
「どうしてそんなに急ぐ必要があるの? それに、この国から選ばなくたって」
ローレンツ王国の成人の基準は十七歳だが、帝国の基準は二十歳だ。まだ決めなくてもいいはず。
「政治の勢力図に影響しない相手が欲しかった。この国の貴族なら大きな力はないから火種にはならない。ボクが一時期過ごした国だとわかれば国民の納得もいくだろう。本当はまだ
最後の言葉を聞いて、ミリアは手を離した。
クリスの命と二人の幸せなら、
「他の人では駄目なの?」
「この短い滞在で知り得た中では最良の選択だと思っている」
「どうしても?」
「ミリィの頼みを断るのは心苦しいが、こればかりは私情を挟むわけにはいかない。
「そう、だよね……。ごめんなさい。困らせた」
ミリアは黙ったが、代わりにぽろぽろと涙を流し始めた。
「そんなに好きなのか。ごめん」
クリスはミリアを抱きしめた。くしゃくしゃになってしまったミリアの髪をほどき、ゆっくりと優しく手ですいていく。
ミリアはクリスの腕の中で、今度こそ涙が枯れ果てるまで泣いた。
クリスはミリアを心配しながらも、行かなければ、と言って部屋を出て行った。ミリアはベッドに伏せて、ぐすぐすとまだ泣いている。
アルフォンスとリリエントが婚約解消――。
そんなこと。そんなことが起こり得るなんて。
滅多にないことではあるが、全くないわけではない。ジョセフだってマリアンヌと婚約を解消したのだから。
リリエントから婚約解消を言い出すことはないだろう。そしてアルフォンスからは絶対に言わない。なのに、外からの圧力で解消させられる。
あんなにリリエントを想っているのに。
ミリアが入りこむ隙間がないくらい。
ミリアを、リリエントと勘違いするくらい。
アルフォンスにはリリエントしか見えていないのに。
クリスの言い分はもっともだ。だからもうやめてとは言えない。
だけど、だけど――。
自分では幸せにできないのなら、せめて幸せでいて欲しかった。
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