第76話 私を見てください

 アルフォンスに会いたくない。どんな顔をして会えばいいのか。軽い女だと思われていると思うといたたまれなかった。


 だが、仕事は仕事だった。もう善意ではないのだ。正式な依頼として受けた以上、全うせねばならない。実働報酬型であり、やらなければ支払いがないだけなのだが、かといって請負者ミリアからやりたくないとは言えなかった。


 気が進まないが、ひとまずフィクションの中に逃げよう。


 ミリアはしばし現実から逃避した。




 うわ。


 冒険物の最終話を読み終わり、顔を上げたミリアは心の中で驚きの声を上げた。


 また寝てるよ、この人。


 アルフォンスの寝姿は二度目なので、以前ほどは動揺しない。


 相も変わらず綺麗な寝顔だ。よだれをらすなりいびきをくなりすれば、少しは可愛げがあるものを。


 ミリアがこの顔に振り回されていることは知らないのだろうな、と憎らしく思い、いたずらを仕掛けてやろうと思い立った。以前触れなかった前髪の感触を確かめてやるのである。昨日の仕返し――アルフォンスは悪くない――も含まれている。


 前回は寝込みを襲ったと言われたのは心外だったが、今回は好きな人に触ってみたい下心があるので正しく寝込みを襲うことになる。だからと言って構うものか。ミリアの目の前こんなところで眠るのが悪い。


 まさか二度も寝ぼけることはあるまい。


 そう思いながらも、全く期待がないかと言えば嘘だった。また笑いかけてもらいたかった。リリエントほかのひとを重ねていることなんて、気がつかないことにして。


 そぉっとそぉっと、起こさないように静かに立ち上がり、アルフォンスに近づいていく。


 まぶたに人影が落ちると起きてしまうかもしれないからと、ミリアは腰を深く落とした。


 人に見られたらどう言い繕えばいいか困る体勢だが、どきどきしているミリアにその考えは浮かんでこない。ちなみに、動悸どうきの理由は、好きな人に触れることではなく、気づかれないようにしなくてはというスリルによるものだった。


 顔に影を落とさないようにして、ゆっくりと手を伸ばす。


 うわ、さらっさら……!


 一筋の髪を指に乗せ、おぉぉ、と感動した。


 銀色から想起するイメージ通り、ひんやりとしている。絹糸とも極細の銀糸ともとれる感触だ。しっかりとこしがあるのに、とても柔らかい。


 どうやったらこんなに綺麗なキューティクルが維持できるのか。それほどいいトリートメントが存在するわけでもないのに。食べている物が違うのだろうか。それとも毛根からして一般人とは違うのか。


 売ったらいくらになるのだろう、と思った。質そのものの価値にアルフォンスの髪という付加価値がつく。相当な値がつくに違いない。


「何をしているんです……?」


 極上の触り心地に夢中になり、ミリアは長く触りすぎた。


 しかも、視線が髪に釘付けになっていたため、アルフォンスが目を開けていたことに気がつかなかったのである。


「ひゃっ」


 ミリアが小さく悲鳴を上げた。反射で離れようとしたが、腰を落としていたため下がれなかった。引こうとした手も、アルフォンスにつかまれる。


 見つかってしまった、という動揺で、ミリアの心臓はばっくばっくと大きく拍動していた。どう言い訳しようものかと目がさまよう。


 だがそれが、アルフォンスの緑の瞳を見ているうちに、好きな人アルフォンスのどアップ効果に置き換わっていった。


 すべてのパーツが完璧な形をしていて、あるべき場所に配置されていた。これはきっと絵に表すこともできない。


 いぶかしげに眉を寄せているのに、それでもめちゃくちゃかっこいい。というか、その表情も魅力的だった。


 髪とはいえ、その体に触れていたのかと思うと、さらに羞恥しゅうちがこみ上げてくる。顔が赤くなっていくのがわかった。


 ひいぃぃぃっっ。もう無理、もう無理。離してっ。


 恥ずかしさで顔が爆発しそうだ。何をやっているのだと自分を罵倒したい。前回の失敗から何も学んでいない。タイムマシンがあれば殴って止めるのに。


 せめて後ろから近づけばよかった。いや、そういう問題ではないか。


 少しでも離れようと上半身をらせたとき。


 アルフォンスの手がミリアの後頭部に回った。


 ぐっと引き寄せられたかと思うと、目を伏せ首を傾けたアルフォンスの顔が近づいてきて――




 唇が重なった。




 すぐに離れたアルフォンスは、ミリアを見てふわりと微笑んだ。



「っ!」


 パンッ


 響いたのは、ミリアの放った平手打ちだ。


 アルフォンスは叩かれたほほを押さえることすらせず、ぱちぱちと瞬きをした。何が起きたのかわからない、という顔だった。


 ――ひどい。



 ミリアはその場から走って逃げた。


 叩いた音が空気をざわつかせたことも、図書館内を走る様子が人目を引くことも、仕事を放り出してしまったことも、読み終えた本をそのままにしてきたことも、何もかもが頭になかった。


 ――ひどい。ひどい。



 走り通して自室に戻り、何事かと聞くマーサ振り切って寝室に閉じこもった。ベッドの横にへたりこみ、顔を布団に埋める。


 ひどい。



「ぐっ、うっ」


 こらえていた涙があふれ出した。

 抑えきれない嗚咽おえつが漏れる。



「うっ、ふっ、くっ」


 ひどい。ひどい。


 誰にでも口づけを許す軽い女と思われたからではなかった。


 また婚約者リリエントと間違えられたのだ。


 直後の心底嬉しそうな笑顔がそれを物語っていた。天使みたいな完璧な微笑みだった。恋人にしか見せない特別な顔だ。


 細められた深緑の瞳に映っていたのはミリアだったのに、ミリアの向こうに愛おしい人リリエントを見ていたのだ。


 馬鹿だ。馬鹿だ私。


 こうなるかもしれないってわかっていたのに。


 笑いかけて欲しい。

 誰を見ているかなんて関係ない。


 そう思っていたのに、全然無理だった。


 胸が張り裂けそうだ。



「ぐぅっ、くふっ」


 ミリアは布団を強く握った。


 ぎゅぅぎゅぅと胸が締め付けられていく。


 頭の中がぐちゃぐちゃで、心が粉々に砕けてしまいそうだった。


 あふれる涙が止まらない。


 私を見て。


 元平民なんかじゃなかったら。

 商人の娘じゃなかったら。

 礼儀作法が完璧な令嬢になれていたら。

 生粋きっすいの貴族だったら。


 私のことを見てくれたのだろうか。


 他のひとの代わりではなくて、私を。



「うぐぅっ、ぐっ」


 胸が痛くて痛くて、心臓が止まってしまうかと思った。



 止まってしまえばいい、と思った。

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