第61話 甘えすぎました

 ぐすぐすと手で涙をぬぐいながら、ミリアは廊下を歩いていた。


 すれ違う生徒たちが、道をあけるように壁際によけていく。勝ち誇ったように笑っているのはいじめっ子たちで、ミリアが犬のことでショックを受けているのだと思っているのだろう。


 ミリアは、以前ジョセフにひっぱり込まれたき教室に入ると、その場にぺたりと座り込んだ。


 ここでようやくハンカチを取り出して目に当てた。


 ギルバートにひどい言葉をぶつけてしまった。ただただミリアのことを心配し、優しい言葉をかけてくれただけなのに。八つ当たりどころか逆ギレだった。


 ミリアの身分を知りながら、初めから垣根かきねを作らずに接してくれたのはギルバートだ。ギルバートが第一王子であることをミリアが知った後も、そのままでいいと言ってくれた。


 それを、ミリアの方から、住む世界が違うと拒絶してしまった。


 最後、ギルバートがどんな顔をしていたのか、涙で視界がにじんでいたミリアは知らない。


 ギルバートは傷ついただろうか。怒っただろうか。自分のことを嫌いになってしまっただろうか。


「んぐっ、うぇ、うぇぇっ」


 こらえきれない嗚咽おえつが喉から漏れる。涙が止まらない。


 午後の講義に行かなくちゃ、とよろよろと立ち上がったとき、ミリアは気がついた。


 ギルバートが図書室に来なくなったら、謝ることもできないのだ、と。




 真っ赤に目をらして講義室に現れたミリアを、三種類の人間の視線が貫いた。ほくそ笑む者、気遣う者、無関心な者。


「ミリア様? どうしましたの、そのお顔」


 意外にも、ミリアに歩み寄って声をかけたのは悪役令嬢ローズだった。心配そうな顔をしている。


「何でもありません」

「何でもないわけありませんわ。目が真っ赤ですわよ。冷やしましょう」

「講義が始まってしまいます」

「まだ時間はありますわ。さあ、行きますわよ」


 悪役令嬢に追い打ちをかけられるのかもしれないが、抵抗する気力はなかった。今のミリアの心はギルバートへの罪悪感でズタズタで、何をされてもこれ以上は傷つかないと思った。


 ミリアの背中に手を添えて、近くの控え室へと誘導するローズ。その後ろにはリリエントが続いた。ミリアが教室に入るまで二人と一緒にいたマリアンヌは、その場に留まっていた。


 控え室では、ローズの使用人によって、冷たい水の入った桶と浸した布が用意されていた。ミリアを椅子に座らせると、側に寄せた椅子にローズが座り、自らミリアの目に布を当てた。


「こんなに目を腫らして。皆様驚いていましてよ」


 ローズが眉を寄せてミリアを見た。本気で心配しているように見える。一方、斜め後ろに立つリリエントは、腕を組んで面白くなさそうな顔をしていた。


 ローズは気遣う振りをしていて、リリエントは演技しきれていないのか。それともローズは何も知らず、リリエントが首謀者なのか。


 今までミリアを放置していたローズが、急にミリアを慰めるようなことをするのはどう考えても怪しい。


 しかし、鼻が詰まってぼぉっとしている頭では、これがパフォーマンスなのか本心からなのか、判断することができなかった。


 講義が始まるまでの短い時間であったが、ミリアの目の腫れは少しだけましになった。ミリアは何もされることなく、二人と共に講義室に戻った。


 行き帰りの状況だけなら、ローズとリリエントに泣かされたように見えなくもない。だが、泣いていたミリアを二人が慰めたという真実は知れ渡っていた。


 離れる直前、ローズがミリアの耳に口を寄せた。


「ミリア様、二日後に屋敷でお茶会を開きますの。ご招待いたしますわ」


 ローズはにこりと微笑んだが、その目は笑っていなかった。




 放課後になっても、まだ目蓋まぶたは腫れたままだった。


 一人になりたかったが、自室に戻ればマーサがいる。何があったのかと聞かれるのは嫌だった。


 そうなれば、行く場所は一つしかない。ミリアの足は図書館に向かっていた。


 ミリアは小説を手にすると、いつもの閲覧スペースではなく、書架の間にぽつんぽつんと置いてある椅子の一つに座ることにした。壁のランプだけでは暗いのだが、アルフォンスに見つかりたくなかった。


 嫌がらせの事やギルバートの事を頭の中から追い出すように、小説の世界に飛び込んだ。




 半分程読み進めたとき、ふと紙面に影が落ちた。顔を上げる前に人だと気づき、アルフォンスに見つかったのか、と気分が沈んだ。


「ミリア?」


 しかし、降ってきた声はアルフォンスではなく、ジョセフのものだった。


「どうしたんだ、その顔。泣いたのか?」


 ミリアがどうしてここにいるのかと聞く前に、ジョセフはひざを落としてミリアと目線を合わせた。


「ちょっと、この本が、悲しくて……」


 ミリアは誤魔化そうと笑みを作ったが、言っている間に、ぽろっと目から涙が落ちた。


 一度流れた涙は止まらない。ぽろぽろと次々とこぼれ落ち、しまいには嗚咽おえつが混ざり始めた。


「そんなに?」


 ジョセフは慌ててミリアの目に自分のハンカチを当てた。濡れてしまうから、とミリアの手から本を取り上げる。


「泣きすぎじゃない?」

「ジェフ……どうしよう、っく、私っ、私……」


 ジョセフからハンカチを受け取り、自分で涙をぬぐい始めたミリアは、困惑の混ざった優しい声に気が緩み、つい心の声を漏らしてしまった。


「……本のせいじゃないんだな? 何があったんだ? 誰かに何かされたのか?」


 ジョセフの声に、剣呑けんのんさが混じる。ミリアは首を横に振ることしかできなかった。


「ミリア、こっちへ」


 ジョセフが手を取り、ミリアを立たせた。肩を抱かれ、うながされるままに、関係者以外立ち入り禁止の看板の奥へ進んで行く。


 通りかかった職員に、ジョセフが家の名前を出して部屋を借りたいと言うと、応接室に通された。


 三人掛けのソファにミリアを座らせ、その隣に座わると、ジョセフはミリアの背中を優しくさすった。


「何か嫌なことがあったのか? どこか痛い訳じゃないんだよな?」


 ミリアはただ首を横に振った。


「弱ったな……」


 ジョセフは困惑した声で天井を仰いだが、ミリアの手に自分の手を重ね、ずっとミリアの背をさすってくれた。


 今すぐ鍛練たんれんに行かなくてはならなかったが、ミリアをこのまま一人にする選択肢はジョセフにはなかった。





*****


「落ち着いた?」


 ジョセフのハンカチがぐしゃぐしゃになるまで泣き続けたミリアは、うつむいたままこくりとうなずいた。


「何があったか、話してくれる? 力になれるかもしれない」


 ミリアはやはり首を振る。


「ミリア」


 ジョセフは重ねていた手でミリアの手を取り、背中をさすっていた手でほほに触れた。優しく顔を上げさせると、泣きはらした目がジョセフを見つめる。


 抱きしめて慰めたかったが、ミリアの許可が要る。それを聞く雰囲気でないことはジョセフも心得ていた。


 ほほに触れ、手を繋ぐことは許してくれているのだから、弱っている今のミリアなら、たずねなくとも、肩を抱くことも抱きしめることも許してくれそうではある。だが、もしここでミリアがジョセフを拒絶し、出てけと言われたら、ミリアを一人にしてしまう。そんなことはできなかった。


「力になりたいんだ。話してくれないか?」


 うるっとミリアの目に涙が浮かぶ。こぼれたしずくを、親指で優しくぬぐった。


 ミリアはそのジョセフの手も取り、うつむいた。ぽろっと落ちた涙が、繋いだミリアの手に落ちた。


「ギルに――大切な友達に、ひどいことを言ってしまったの」


 ここでギルバート殿下の名前が出るか、とジョセフは内心うめいた。


 ミリアがギルと呼ぶのなら、それはギルバートで間違いない。男爵令嬢が口にした愛称が第一王子ギルバートだとは普通は思わないが、ジョセフは二人が親交を持っていることを知っている。


 要するに喧嘩けんかをしたのだ。それだけでこんなに泣いているのかと、ジョセフはギルバートに嫉妬しっとした。大切な友達と言うように、ミリアの中でのギルバートの存在はよほど大きいのだろう。自分と喧嘩したところで、ここまで悲しんでくれるだろうか。


「嫌われちゃったかもしれない」


 すん、とミリアが鼻をすする。


 それはない。


 あの時のギルバートの様子からして、ギルバートの中でもまた、ミリアの存在は大きいのだ。多少ミリアが暴言を吐いたところで、嫌いになるとは思えない。


 第一王子というだけあって、何度断られてもめげないエドワード以上に強いメンタルを持っている。一番の泣き所である体の弱さを突かれても、びくともしないだろう。


 だが、ジョセフはそのことを口にしなかった。ミリアがギルバートと仲違なかたがいしている状況は、ジョセフにとっては好都合なのだ。ライバルとなり得る人物は減らしておきたい。


「たぶんもう会えない。だからきっと謝ることもできない」


 それもない、と思った。


 帝国の皇子おうじが帰国すれば――いつ帰ってくれるのか――ギルバートはまた図書室に通うようになるだろう。ミリアがあそこに行く限り、会うことはできるはずだ。


 ジョセフはちらりと壁掛け時計を見た。


 ダメだ。もう限界だ。


 時間切れだった。


「ミリア」


 ジョセフはソファから降り、ミリアの前にひざまずいた。ぎゅっと繋いだ両手に力を込める。


「側にいてあげたいけど、もう行かなきゃいけない」

「忙しいのに、ごめん」

「俺の方こそごめん。一人にしたくないんだけど」

「ううん。ありがとう」


 にこりと笑ったミリアの目からまた涙が落ちて、ジョセフの胸がきゅぅっと痛んだ。


 抱きしめたい。泣かないで欲しい。泣くならせめて自分の胸で泣いて欲しい。目元にキスをして、その涙を止めることができたらいいのに。


 だが、ジョセフにはまだその権利はなかった。


「部屋まで送らせようか?」

「……まだここにいたい」

「わかった。誰も来ないように言っておく」

「ありがとう。……ごめんね、私、ジェフの気持ちにこたえられていないのに、甘えてるよね」

「もっと甘えていいよ」


 ミリアは困ったように笑った。


「まあ……悪いと思うなら、キスの一つでもしてくれたら嬉しいけど」

「もうっ」


 ジョセフが冗談を言うと、ミリアは目をつり上げた。涙は止まったようだ。


 ミリアとの時間は名残惜なごりおしいが、本気で行かないとやばい。鍛練をさぼったことは後でこってりと絞られるだけで済むが、さすがに皇子との約束には遅刻できない。


 行かなくては、とミリアの手を放したとき。


「今回だけ特別」


 そう言って、ミリアが顔を近づけてきた。

 

 ふにっと柔らかさを感じたのは、ジョセフの右頬だ。


 頭が真っ白になった。


 口ですらない。たかがほっぺにちゅーだ。なのに、心臓があり得ないほどにばくばくいっている。


 女性に対してこんなに動揺したのは初めてだった。余裕がある振りをするのは得意だし、それなりに経験を積んだ今ならなおさらだ。


 何も言えなくてぱくぱくと口を開いたり閉じたりしているジョセフに、ミリアは照れくさそうに笑った。


 その顔がまた可愛くて、ジョセフは片手で目を覆った。


「反則だ……」


 いつもならここで抱きしめたい欲求が出てくるだろうに、今は少しでもミリアに触れたら心臓が爆発するのではないかと思われた。


 何をどう言ったのか、上の空のまま、ミリアに別れを告げてジョセフは廊下に出た。そこでもう一度目を覆う。


「反則だ」


 さっきのはミリアの気まぐれにすぎない。少し心が弱っていて、ジョセフに優しくされたことであんな行動を起こしたのだろう。


 今朝、昨日は居なかった、とアルフォンスに文句を言えば、そうですか、と悪びれもなく言われた。


 今日はいるかもしれないと顔を見に来てみればこれだ。涙を流すミリアの側にいたのが自分でよかった。


 ふわふわした気持ちのまま、応接室には誰も入れないように、という事だけはしっかりと命じて、ジョセフは王宮に戻った。

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