第58話 お決まりのあれです

 次の日、ついにミリアはやられた。


 庭園に行く気力がわかず、晴れていたのにカフェテリアに行ったところ、食事をテーブルに運んでいる時に足を引っ掛けられたのだ。


 アルフォンスのことで意気消沈していて、あまり眠れなかったのがよくなかったのかもしれない。注意散漫になっていた。


 横のテーブルから足が出てきたのに気がつかなかったし、トレイから片手を離してテーブルをつかんだのだか、ずるりと滑ってすっ転んだ。


 幸い誰も巻き込むことはなかったが、食べ物は絨毯じゅうたんにぶちまけられ、ミリアはその中にべちゃりと手とひざをついていた。


 ざわついていたカフェテリアが、しん、と静まり返った。


「あら、ミリア様、大丈夫かしら?」


 くすくすと頭上からあざけりの声が降ってきた。


「……大丈夫な訳ないだろクソがっ」


 ミリアは令嬢らしからぬ言葉を口の中でつぶやいた。


 スープ皿はひっくり返り、コンソメスープは絨毯とドレスの染みと化して、小さく切られたベーコンが散らばっていた。サラダボウルはゆるく弧を描きながら転がり、葉野菜がこぼれ落ちていく。メインの鴨肉かもにくのコンフィ――油でじっくり加熱する肉料理――が皮目かわめを下にして横たわり、油と胡椒こしょうの粒が絨毯にこすりついていた。


 料理人おっちゃんが腕によりをかけて作ってくれたご飯が、無惨な姿になっていた。美味しそうな匂いがしているのがまた何とも言えない。


 どうして食後ではなく食前いまだったのか……!


 怒りで絨毯にぎりっと爪を立てると、吸い取りきれていないスープがにじんだ。ぷるぷると震えているのを涙をこらえていると勘違いしたのか、令嬢や令息の意地悪な含み笑いが聞こえてきた。


 駆けつけた給仕たちが昼食だったものを片づけ始める。


「ごめんなさい」


 彼らに謝ると、私共わたくしどもの仕事ですから、と言われた。そういうことじゃないのだ。無駄にしてしまったことがとても悲しい。


「スタイン嬢、お召し物が……こちらへ」


 学園の使用人二人がミリアを助け起こし、別の場所へと誘導した。カフェテリアを横切る間、そこにいた全員がミリアに注目し、ひそひそと言葉を交わしていた。


 カフェテリアを出る直前、ミリアはくるりと振り返えった。


「みなさま、わたくしの不注意でお騒がせいたしました。失礼いたします」


 スープで濡れたスカートをつかみ、微笑んで必要以上にゆっくりと優雅に礼をした。捨てられてしまう食べ物のことを思うと涙が出そうになるが、奴らが喜ぶ顔など見せるものか。


 ミリアは、自分の足を引っかけた令嬢とその周りで笑っている生徒たちはもちろん、離れたテーブルでにやついている生徒までしっかりと頭に入れた。


 視線を浴びつつ廊下を歩くと、ミリアは控え室のようなところに通された。令嬢が化粧や衣装を直すための部屋だ。令息がどうしているのかは知らない。


 マーサにはすでに連絡が向かっているとのことだ。怒られるんだろうな、と憂鬱な気分になった。


 使用人はミリアを衝立ついたての陰に押し込むとドレスを脱がしにかかった。


 他人に下着姿を見られるのはいまだ恥ずかしく思うが、されるがままになっている方が彼女たちは動きやすいだろう。ミリアは腕を軽く広げてじっとしていた。


 ご令嬢方はお風呂で体を磨かせるらしい。以前アルフォンスの使用人にされたのを思い出して、ぶるりと震えた。湯に浸かってもリラックスできる気がしない。


「ありがとう」

「とんでもございません。火傷やけどなどなさっていませんか?」

「大丈夫」


 直接かかったのではなく、床に広がったスープの上にひざを突いただけだったのが良かったのだろう。


 下着だけになると、彼女たちはミリアを椅子に座らせ、染み抜きを始めた。今はミリアにも侍女がいるというのに、働き者だ。


 しばらくじっと待っていると、マーサが駆け込んできた。


「お嬢様っ」


 着替えを抱えている。


「何があったんですか!?」

「転んじゃった」


 へへへ、と笑ってみせる。マーサは疑わしそうに見ていたが、替えの下着をミリアに渡すと、衝立の外に出た。裸を見られたくないミリアのことをよくわかっている。


 使用人たちがマーサに脱いだドレスを渡して出て行く気配を感じたので、衝立の横から顔を出し、ありがとう、と再度礼を言った。二人は扉の前で一礼してから出て行った。


「もうっ。これは染み抜き大変ですよ」

「ごめん」

「他のお貴族様にご迷惑をかけていないでしょうね?」

「うん。たぶん。誰のも汚してないと思う」


 着た、と声をかけると、マーサが衝立の中に入ってきて、ドレスを着るのを手伝ってくれた。


「まだご飯食べてないの」

「まだ時間がありますから、大丈夫ですよ」


 しょんぼりと言うと、あきれた声がかかってきた。


 図書室に行けなくなってしまうが、どうせギルバートはいないだろう。午後の睡魔は耐えるしかない。


「ギルに会いたい……」

「何か言いました?」

「ううん、何でもない」


 第一王子ギルバートは通常の政務も並行してやっているはずだ。体調を崩していなければいいのだけれど。


 様子を聞きたくても、男爵令嬢ミリアごときが第一王子ギルバートに手紙を出すことはできない。渡る前に破棄される。もらった手紙の返事は、同封されている特別な封筒でないと届かないようになっている。


 アルフォンスに聞けばよかった、と思った。どちらも帝国の皇子おうじの対応をしているのなら、きっと顔を合わせることもあるだろう。手紙を託すこともできた。


 侯爵令嬢ローズとのお茶会のときといい、ミリアはアルフォンスに頼るということをすぐに思いつけないらしい。




 身支度を整えたミリアは、マーサに礼を言ってカフェテリアに戻った。嘲笑ちょうしょうと気の毒そうな顔に迎えられた。


 食事を受け取るときに料理人おっちゃんに謝り、再びテーブルの下から出てきた足はひらりとかわして、ミリアはやっと食事にありつけた。


 途中、通りかかった令嬢に、朝とドレスが違いますのね、と意地悪く言われた。足を引っかけようとしたのとは別の人物だ。汚してしまったんです、と眉を下げて答えておいた。


 大勢の前であれだけの大失敗をすれば、恥ずかしさに泣き出すだろうと想像していたのだろう。全くこたえていないミリアを見て、令嬢の口がひくりとゆがんだ。


 彼女が従えている令嬢たちに目を向ける。


 嫌がらせをしてくる令嬢は複数いた。入れ替わり立ち替わり、よくもまあ、飽きないものだ。令息たちは直接手を下してこないが、下蔑げびた笑みを向けてくる。


 家格が高い生徒が多い。か弱い令嬢をいじめるなんて、そっちの方がよっぽど恥ずかしく思わないのだろうか。


 嫌がらせがエスカレートしてからというもの、ミリアと親しくしていた生徒たちは距離を置くようになった。それでいい。巻き込まれることはない。家の立場もあるだろう。

 

 いじめを止めるとすれば、侯爵家の子女であるローズかリリエントしかいないのだが、嫌がらせは彼女らのいない所で行われた。


 絶対知っているはずなのに、表だって制止する様子はない。逆に関わっている様子も見せない。悪役令嬢ローズが指示していないとは思えないのだが、しっぽは出さなかった。

 

 王太子エドワード第一王子ギルバート王太子側近アルフォンス王太子護衛ジョセフが声を上げれば効果はあるだろうが、生憎あいにく今は学園ここにはいない。


 彼らなら把握していそうなものだ。しかし何も言ってこないということは、相手の情報統制が強固なのだろうか。王族の情報網から隠し通せるのかと思わなくもないが、家ぐるみならできるのかもしれない。時々エドワードの使用人や護衛を見かけるが、目撃してはいないようだった。


 どうしたものか、と思った。


 大騒ぎされるのは困るが、エスカレートすればするほどバレたときのエドワードの暴走が怖い。


 ローズが関わっていなければ婚約破棄にはならないだろう。しかしもし関わっている証拠があったなら……。そして一番最悪なのは、関わっていないのにエドワードが思いこんで突っ走ることだ。悪役令嬢ローズ反撃ざまぁされてしまう。


 エドワードよりも先に証拠をつかみたい。それをもって加害者たちにこれ以上は止めるよう迫るのだ。


 鴨肉かもにくをナイフで切って口に入れた。手でつかんでかぶりつきたい所であるが、さすがに学園ここではできない。


 もぐもぐと食べながら、さっき裏返っていた肉を思ってまた悲しくなった。


 そのとき、先ほどドレスを脱ぐのを手伝ってくれた学園の使用人が、早足で近づいてきて、ミリアに耳打ちをした。


 がちゃん、ナイフとフォークを皿に叩きつけるようにして、ミリアは勢いよく立ち上がった。はしたないと言っている場合ではない。


 それがさらなる注目を呼ぶことはなかった。なぜならすでに十分すぎるほどに注目されていたからだ。


 ミリアは泣く泣く食事を中断し、寮へと走った。一口しか食べていない料理の片づけは、言伝ことづてを持ってきた使用人に頼んだ。


 自室の乱暴に開けると、青い顔をしたマーサがびくりと振り向いた。


「マーサ!」

「お嬢様!」


 マーサの指差す方を見れば、ソファの背に辛子からし色のドレスがかかっていて、上半身の部分が赤黒く染まっていた。


「申し訳ありません……!」

「いい。マーサのせいじゃない」


 ミリアがずんずんと近づいて染みの部分に触ると、べたりと指が赤くなる。鼻先に持っていってげば鉄の匂いがした。


 血だ。


「マーサ、怪我はない?」

「ありません」

「これを知っているのは?」

「私だけです。お嬢様への言付けだけ頼みました」

「ありがとう」


 人間の血だったならば大変なことになるが、十中八九動物のものだろう。 


 マーサがミリアを着替えさせている間に侵入したのだ。あそこでミリアが転ぶとは限らなかったのに、用意がいいことだ。


「お嬢様、旦那様にご報告を……!」

「だめ」

「ですが!」

「私はまだ危害を加えられてない。約束したでしょ?」

「でも、こんな、ひどい……お嬢様に何かあったら!」

「そんなことにはならない。ただの嫌がらせだよ」


 階段から落とされるかもしれないけど。


「マーサ、私は講義があるから戻らなきゃいけないの。これは片づけないでこのままにしておいて」

「このままですか?」


 マーサは顔をしかめた。


「放課後に寮の責任者に来てもらうから。気持ち悪いと思うけど……ごめんね」

「わかりました」

「アニーをつける?」

「大丈夫です。私がいれば誰も来ないと思います。あの子は夜がありますから、寝かせてあげて下さい」

「ごめんね」

「お嬢様、お気をつけて」

「うん」


 感情を表に出さないようにして、ミリアは講義室に向かった。


 放課後までの間、何度も机の横から出てきた足はひらりとかわし、他の嫌がらせも何食わぬ顔で受け流した。


 内心は怒りが爆発しそうだった。


 ご飯を無駄にするだけでなく、マーサに怖い思いまでさせやがって。


 絶対後悔させてやる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る