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 王都にある、ホワイト伯爵の屋敷は、キャピラー子爵の屋敷の軽く十倍はあるのではないかと言うほど広く、立派な建物だった。しかし、何かが妙だ。煙突が異常に多い。それに、窓のすぐ向こうに壁が見えるところもあり、煙突に扉が付いていたりする。

「こ、これは……怪奇現象の匂い……」

 不思議大好き、怪奇現象が大好きで魔術学校に通い始めたレイチェルにとって魔術の勉強は最大の娯楽だった。何一つ辛いと感じたことはない。寧ろ日々、ときめいていた。その感覚が再び戻ってきた。

 一応中央の玄関らしき扉に近寄ると、呼び鈴を鳴らす前に扉が開く。

「やぁ、待っていたよ。すまないね。こんな格好で……今日はあまり調子がよくないんだ」

 穏やかな声の主は、華やかな赤い上着と妙にゆったりとしたラインのパンツを身に纏い、室内だと言うのに赤い薔薇の装飾が施された華やかな黒のトップハットを被っていたが、更に不釣合いな黒いマスクをしていた。

「あ、あの、はじめまして。レイチェル・キャピラーと申します」

「ああ、イノセントだ。すまない、どうも鼻のあたりがむずむずして……早速だが、何点か確認させて欲しい。君は、肝が据わっている方か?」

 唐突な質問に、驚いたレイチェルは思わず瞬きをしてしまう。

「えっと、怪奇現象とか、そういった方面でしたら、同世代よりはかなり免疫があるかと」

「口は固い方?」

 レイチェルが答え終わる前には彼の新しい質問がかぶせられていた。相当切羽詰まっている様子に思える。

「秘密にしろと言われれば墓場まで持って行きます」

「日給金貨十、住み込み、食事は三食、それと、正装一揃いと略装三揃いはこちらで用意する。他に希望は?」

 十分すぎる高待遇に驚く。

「えっと……期間はどのくらいですか?」

「ふむ、私が飽きるまで」

「へ?」

 なにを言われたのか理解できずにレイチェルは彼を見上げる。

「いや、寧ろ急を要している。せめて口元だけでもなんとかしたい。むずむずしてひどいんだ」

 彼はそう言ってレイチェルを見る。血の様に赤い瞳だった。

「あの、先にお子さんに会わせて頂いても? こういうものは相性もあると思いますし、住み始めてから相性が悪いとなっても大変でしょう?」

「お子さん? いや、私は独身だ。それに、募集したのは私の家庭教師だ」

 レイチェルは思わず耳を疑う。

「へ? いや、でも、あなた……私より年上じゃ……」

「魔術は苦手なんだ。私より腕がいいなら赤ん坊だって師にする」

 彼はそう言って笑う。

 確かに相手が子供だと思ったのはレイチェルの勝手な思い込みではあったが、まさか自分よりも年上の男性が時代遅れの魔術をわざわざ教師を招いてまで勉強したいと考えるなど、思いもしなかった。

「でも、こんなに可愛いお嬢さんが来るとは思わなかったな。目の保養にまでなってくれるなんて。私はもう、君を採用することに決めたけれど、君はどうかな?」

 とても、優しい声に思わず頷く。少し、いや、かなりヘンな人だけれども、悪い人では無さそうだ。

「それで、レイチェル、いつから来れる? できるだけ早く頼みたい」

「明日からでも構いませんが、どうしてそんなに急ぐのですか?」

 不思議に思って訊ねれば、彼は真剣な目でレイチェルを見る。

「これから見るものは絶対誰にも言わないと誓ってくれ」

「は、はい」

 予想外の気迫に、思わず怯みそうになる。しかし、ここで引き下がっては折角の高待遇の仕事を逃してしまう。

 イノセントはゆっくりと口元のマスクを外す。彼の手が去った後、見えたのは、人の口ではなかった。獣の口だ。彼の鼻から顎までが、白い毛に覆われ、獣の鼻になっている。

「……う、うさぎ?」

 形からして草食動物だろうとは思ったが、次の瞬間イノセントの帽子が落ちる。

 白く長いふわふわとした耳がそこにあった。

「……酒に酔った勢いで、同級生とのろいかけっこをしたら、負けた。二人とも魔術の腕は酷いものでね。日に日に進行している。医者にも魔術師にも見せたが、治せないといわれてしまった。どうも、私の魔力で変身を進めてしまっているらしい。別に耳や尻尾はあっても構わないけど……口だけは勘弁して欲しい。近頃は、ニンジンのことが頭から離れなくなりつつある」

 これは重症だ。それにしてもいい年をした大人が二人で呪いかけっこなどとは馬鹿馬鹿しい。あれは魔法学校に入りたての子供の遊びではないか。

「自業自得じゃないですか」

「だからこうして自分で解決しようと、年下の君に家庭教師を頼んでいる。せめて口周りの変身だけでも食い止めたい」

 彼はとても真剣な目でレイチェルを見つめた。確かに、このまま進めば全身毛むくじゃらになる日も遠くは無いはずだ。

「もしかして、毛先が白いのも?」

 そう訊ねると、彼は慌てて自分の髪を確認する。腰まで届く黒く長い髪は背中あたりから大きく巻いており、毛先が徐々に白くなっている。

「なんてことだ……このままじゃ本当にうさぎになってしまう! それだけは勘弁して欲しい。こんなに巨大なうさぎがいては怪物として退治されてしまいそうだ」

 頭を抱えるイノセントの言葉は的確だ。彼はレイチェルが見上げるほど背が高い。あの大きさのうさぎがいれば化け物だろう。

「確かに……猟師が銃を持って集まってきそうですね」

「だろう? そんな最後は嫌だ。私は、死ぬ時は自分のベッドの上で最愛の妻に手を握られて見取られると決めている」

「……伯爵は独身では?」

 さっき自分で言っていたではないかとレイチェルが彼を見れば、軽く咳払いをされる。

「この呪いさえ解ければまた社交界に返り咲き、私の美貌で世の貴婦人達を誘惑し、理想の妻を見つける」

「……そろそろご自分の年齢を考えてください」

 彼は若作りだが、実際にはそれほど若くは無い。

「まだ三十八だ」

「その歳でご結婚なさっていない男性は何か問題があるのではないかと疑ってしまいます」

 少し言い過ぎただろうかと慌てて自分の口を抑える。どうも、レイチェルは正直すぎる。嘘など吐けそうにない。イノセントが気を悪くしてはいないかと不安になりつつ彼の様子を窺えば、彼はどこか楽しそうだった。

「いいね。気に入った」

「へ?」

「君のようにはっきり言う人は嫌いじゃないよ」

 イノセントは笑ってそう言うと、どこからか上質な紙を出した。

「雇用契約書。すぐサインして。前金に金貨五十枚渡そう。その代わり明日からすぐ住み込みだ」

「は、はい……え? 金貨五十? そ、そんなに頂けません」

「いいから。急いでるのは私だ。私には時間が無い。自慢の髪が真っ白になる前になんとか食い止めたい。このままじゃティーカップも持てない手になってしまいそうだ」

 彼は自分の腕を見て言う。薄らと白い毛が生えてきている。このまま進行すると本当に全身がうさぎになってしまうだろう。

「どうしてうさぎに?」

「……相手がね、うさぎ好きだったんだよ。私は猫派なのだがね」

 イノセントはそう言ってむずむずと鼻を動かす。やはり、人間の顔にうさぎの鼻と口があるのは少し不気味だ。急かす彼の気迫に負け、雇用契約書に署名する。

「本質的な解決にはなりませんが、一時的に症状を抑える程度なら可能ですかね」

 レイチェルはじっと彼を見つめる。呪いと言っても、もともとのイノセントの魔力を無理矢理うさぎに変身することに使わせているだけだ。だったら、魔力を遮断してしまえば一時的には症状は止まる。しかし、一生そのままというわけにも行かない。

「ホワイト伯爵、魔術理論はどの程度まで?」

「私のことはイノセントと呼んでくれ。その方が気が楽だ」

 彼はそう言ってまた、マスクを元に戻す。

「魔術理論は初級で躓いてしまってね。実技の方もぎりぎりの可。調合なんかになると不可が踊っていたかな」

 イノセントは少し疲れたように笑う。

 レイチェルは頭を抱えた。ここまで出来ないとは予想外だ。しかし、引き受けると言ってしまったのであれば、せめて初級以上にさせなくては。

「私のこの呪いを完全に解けたら宮廷魔術師に推薦してあげよう」

「え?」

 彼の言葉に耳を疑う。宮廷魔術師の座は喉から手が出るほどに欲しい。しかし、科学が進行する現在となっては時代遅れの遺物。失業者を多数出している現場だ。

「じつはコネがあってね。まぁ、宮廷魔術師が匙を投げてしまったのだが」

 イノセントはそう言ってまだ、鼻が痒いのか顔をひくひくと動かしている。

 落ち着かない。レイチェルは溜息をつく。

「ちょっと、失礼します」

 そう言ってイノセントの顔に手を伸ばし、マスクを外す。軽く頬を撫で、魔力を注ぎ、軽く魔力を伝達する神経を麻痺させる。

 すると、ぱらぱらと顔の周囲のうさぎの毛が床に落ちた。

「え? これ……治った?」

 イノセントは自分の顔に触れ瞬きを繰り返す。

「一時的です。神経を麻痺させて魔力の伝達を一時的に遮断しただけですので、私の術が解ければまたうさぎの顔に戻ります」

「完全に治せないの?」

「死ねば治るかと思いますけど、基本的にイノセント様の魔力を吸い上げてうさぎの姿にしようと言う呪いなので呪い絶つだけの魔力の制御をするか魔力を完全に失う以外にうさぎから逃れる方法はありません」

 きっぱりとそう告げればイノセントは心底嫌そうな顔をする。

「まさか、座学からやり直し?」

「当然です」

 彼は縋るような目でレイチェルを見た。

「可愛い家庭教師といちゃいちゃという展開は……」

「あるわけないでしょう」

 きっぱりと答えれば、彼は軽い口調で「だよね」と言う。分かっているなら口にするなと軽く睨んでも、ちっとも気を悪くした様子は無い。彼は貴族にしてはあまり細かい部分を気にしないのかもしれない。

「あ、でも、レイチェルが術を使ってくれたら一時的とはいえ元に戻れるのだから……魔術師として雇うのもありかな。特別手当出すから、本来の姿に戻してくれたりは」

「しません。自力で解決してください。私、教育方針はかなり厳しい方ですので、それなりに覚悟してくださいね」

 にっこりと笑めば、イノセントは一瞬固まる。

「あれ、契約期間の欄、三ヶ月は試用期間とするって書いてますよ? 今更契約破棄なんて言いませんよね?」

 レイチェルには生活が掛かっている。ここで職を逃せば、売れる宝石も底をつき、建物まで傾いた屋敷を没収されるのも時間の問題だ。

「……いや、男に二言は無いよ。それに、レイチェル……君が凄く、好みだ」

「は?」

 うっとりした目で見られても困る。

「見た目の可愛らしさと、その厳しい言動の差が、素晴らしい」

「……イノセント様、そう言った発言はセクハラと見做し、しっかり証拠を抑えて裁判所に行きますが?」

 慰謝料をぶんだくられれば少しは生活の足しになる。レイチェルは生きることに必死だ。手段なんて選んでいられない。

「手厳しいな。だけど、今、私は心から思っているよ。君を妻に迎えたいと」

「人間に戻って出直してください」

「そのために君を雇ったんじゃないか」

 ふわりと、妖艶な笑みを浮かべられて戸惑う。レイチェルは家庭教師の求人を見てここに来たはずなのに、なぜか雇用主に求婚されてしまった。

 いやいやこれは仕事だ。あわよくば昇給も狙えるかもしれない。それに、レイチェルの厳しさにイノセントが弱音を吐いて求婚のことなど忘れるかもしれない。

 そんな期待を抱き、イノセントを見返す。

「悪魔に魂を売った方がマシだと思わせて差し上げますわ。イノセント様」

「君みたいな可愛い悪魔なら、大歓迎だよ」

 二人笑い合うと、もしかしたら本当に恋人に見えるかもしれない。けれども、実際はただの腹の探り合いだ。

 イノセントはにこやかで少し軽く見えるけれど、腹の底に絶対何かを隠している。別にそれを暴く必要は無いとは思うが、時折目が笑っていないのは不気味に思える。

「全身うさぎになりたくなければ私の授業で秀を目指してください」

「うん、そうだね。君みたいに可愛い先生なら、張り切っちゃうよ。よろしく頼むよ、レイチェル先生」

 甘い声でそう言われ、どきりとする。

 先生。なんていい響きなんだろう。感激のあまり涙腺が緩みそうになる。

「レイチェル?」

「い、今のもう一回」

「は?」

「その、せ、先生って……」

 そう言うと、イノセントは少し固まった後に腹を抱えて笑い出す。

「はははっ……レイチェル、君、最高に可愛いよ。ああっ、凄く好みだ。気に入ったなら何度でも呼んであげるよ。先生?」

 笑う彼はまるで悪戯っ子の少年のようで、本当に学校の先生を目指そうかなどと思ってしまう。しかし、今のご時勢魔術学校の先生すら募集が無いのだ。

「君って変ってるね。可愛いよりも先生の方が嬉しいの?」

「そりゃあ、まぁ、悪い気はしません、けど」

「そう? なら、明日からよろしくね。レイチェル先生。ああ、明日は仕立て屋を呼んでおくから採寸しやすい服で来てくれ。服は支給する約束だ。仕立て終わるまでは私服で我慢しておくれ」

 イノセントは笑う。妙に大人の余裕が垣間見える笑みでレイチェルは少し苛立ち歯を食いしばる。

 耐えろ。彼はこれから雇用主なのだ。うまくやれば宮廷魔術師になれるかもしれない。そう、自分に言い聞かせ、レイチェルは、教科書に掲載できそうなほど完璧な笑みを浮かべる。

「では、イノセント様、明日からよろしくお願いしますね」

「ああ。こちらこそ。前金は後で君の家に届けさせるよ」

 今夜は少しくらい贅沢をなさいと彼はそう言って、レイチェルを玄関まで見送る。但し、外には出ない。やはり、万が一にでもうさぎの耳を見られるのはまずいのだろう。

 ホワイト伯爵の屋敷を出ると、見慣れたはずの街並みが妙な空間に感じられた。いつも以上に色鮮やかに見える。賑やかな街なのに、音が遠く感じられるのは、きっと今更になってイノセントの衝撃を感じたからだろう。

 レイチェルは真っ直ぐ自宅への道を進む。そして、明日からの日々を考え、深い深い溜息を吐いた。


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兎角伯爵の家庭教師 高里奏 @KanadeTakasato

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