第9話 稲田穂積

 世の中は、おかしみに満ちている。多くの人が銀行から多額の現金や預金を引き出したため、銀行の取引が一時ストップした。

 飲食店の景気は良くなり、逆に物が売れなくなった。自分が死んでしまったら、物など所持していても不要ということだろう。死ぬ前に、おいしい物を食べたい、という感覚は実にわかりやすい。

 結婚したカップルも増えたらしい。

 最後は、愛する人とともにいたい、というこれもまたシンプルな理由によるものだろう。その逆で、殺人事件も増えた。憎いアイツには、放射線ではなく、この手で殺してやりたい、ということだろうか。

 稲田穂積イナダホヅミも、彼女なりに最後のひと時を存分に過ごしてやろうと考えている。

 どうせ地球に多量の紫外線が降りそそいで、しみ、しわだらけのババアになってしまうのなら、白い肌を気にしてやれなかったことに挑戦しようじゃないか。

 海だ! 水着を着て海へ行こう!

 美白を気にする女子なら、多分、絶対に行かないであろう場所。

 友達を何人か誘ったが、日に焼けたくない、という理由ですべて断られた。世界が大変なことになっているのにそれどころじゃない、とも言われた。

 一理ある、と思ったが、海への情熱は一気に燃え上がった。

 子供の頃からの夢だった、海。両親はとりわけ海水浴なりキャンプなりそういったアウトドアが好きではなかったし、自分たちの趣味の守備範囲にないことは、子供と一緒にやろう、という人たちでもなかった。

 つまり、海水浴やキャンプにも一度も行ったことがない。子供の頃の日焼けが、のちになってしみに現れるともいうが、自分の自信のある肌は、おそらく学校の体育以外ではほとんど外で活動することが少なかったからだろう。

 地球が滅びるのなら、死ぬ前に一度海へ行きたい。母なる海だ。そこには、魚がいて、貝がいて、クラゲがいて、サメがいて、深海魚がいる。いつもワクワクしながら図鑑を眺めていた。

 父や母に、深海魚が見たい、と言ったら、その方面の学者になりなさい、と言われたが、周りの女子たちがメイクに目覚め始めた頃には自分の興味もそちらへ移ってしまい、結局、海へ行ったこともないのに、魚の名前だけ記憶している、という奇妙なことになってしまった。

 海といえば、背中が焦げるくらい暑い太陽のギラつく日だろう、と考え最高気温三十五度の日に近くのビーチへ行った。

 閑散としていた。やはりそれどころではないのだろう。楽しみにしていた海の家も閉まっている。想像していたよりも小さい小屋だった。台風が来たら、マッチ棒ハウスのように吹き飛ばされてしまいそうな。

 初めて買った水着はすでに服の下に装着済みだ。砂浜には白い波が押し寄せては、黒い染みを残して、慎み深く退いてゆく。映像でしか見たことがない。

 これ海岸ってやつか。

 まるで何もかもが新しい子供のようだった。

 洋服を脱ぎ捨てて、古いアメリカ映画のヒロインのように走ってゆく。

 海へ飛び込むペンギンのようにダイブ!

 心臓が止まりそうになった。

「…冷てぇ」

 すぐに立ち上がり、波が腰を洗ってゆくのに任せる。

「海ってこんなに冷たいのか?」

 真上を見上げる。

「だって、こんなに太陽ギラついているのに…」

 しかし、気温が高いからといって、海水まで温かいとは限らないと途中で気がつき、日暮れまで心ゆくまで海で遊んだ。

 家に帰って、姿見の前に立つと、顔から全身に至るまで……。

 ビキニの跡を残して……小麦色に日焼けしていた。

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