第10話
朝、目を覚ましてベッドを確認するとそこに彼女はいなかった。
彼女は寝起きに弱いイメージがあったが、朝早くに帰って行ったようだ。制服姿ではなかったので一度、家に戻って着替えてから学校に向かったのだろう。
寝起きの彼女の寝坊助顔を見てみたかったのだが。
僕は洗面台の前に立って、顔を洗い、鏡を見る。
顔面蒼白。そこには青白い男がおり、胡乱気な瞳がボーっと浮いて見えた。僕はため息混じりに場所を窓際に移して習慣化してしまった朝のタバコを吸う。
その際に、自分の腕に爪痕が残っているのに気がついた。昨日、寝苦しく感じ、全身を掻きむしっていたのかもしれない。もしくは苦しくて腕を力いっぱい掴んでいた。
かといって赤く腫れた全身を確認するのも気が滅入るので、こうして煙をまき散らして、嫌なことから逃げているのだ。
彼女の何気ない一言が発端で思い出したくもない過去を引っ張りだされたのだ。
それがずっと頭に残っており、払拭するために無理やり、眠りに就いたのに、結局それは夢に出た。
本当に嫌な夢であった。
あれが悪夢なのもかもしれない。
しかし妙に現実感のある夢であった。
それはあれが夢ではなく、過去の出来事であったと理解していたからだろう。
僕は夢で自分の過去を見ていたのだ。
前の日の晩、父は缶ビールを呷(あお)りながら、バラエティ番組を見て爆笑していた。いつも大らかに朗らかに、優しく笑う父が僕は好きだった。
叔父を見るたびに父を思い出してしまうから叔父が苦手なのかもしれない。
僕は母と明日の旅行の準備をしており、母が僕の明日の服を選び、僕はマネキンとなり、あれでもない、これでもないと熟考する母の顔を見ていた。
僕の家では半年に一回、絶対に旅行に行っていた。行かない年はなかった。それは普段何も言わない父が家庭内ルールで唯一拘ったものだった。
母も半ば、面倒に思っていたかもしれない。しかし、僕にとってはその旅行が一年の楽しみの一つであった。
そうして、次の日、朝早くから僕たちは九州の温泉街に車で向かった。
僕は後部座席に乗り、母が助手席で父が運転をしていた。
僕の住む町から徐々に知らない景色へと変化していく。それが少し不安で、どこか楽しい。
高速道路に乗り、いつも以上に出ている車のスピードに興奮しながら、父が朝飯はファーストフード店のドライブスルーに行こうと言ったことで僕の気分は更に高揚した。
母が珈琲を飲みたいと言い、それに応えてコンビニに入り、ジュースを買ってもらえたのも嬉しく、朝から旅行を最大限楽しんでいたように思う。
夢の中の僕は照れながらも笑っており、楽しいという気持ちを如実に表している。
コンビニからさらに二時間ほど走って道の駅を越え、5分ほど走ったところでちょうど僕は眠くなって欠伸を繰り返していた。
母が「寝れば?」と言い、父が「まだまだ時間がかかるぞ、寝てな」と声をかけてきたので僕は従って眠りに就いた。
そうして、次に目覚めたときには一面、黒の世界であった。
何も見えず、全身が打ち付けられたような痛みに襲われた。また妙に暑い。ガソリンスタンドで嗅いだことのある匂いが鼻腔を刺激する。
体は圧迫されたように、身動きも取れず首も動かせない。目だけが情報を得ようとギョロギョロと動いていただろうが、黒い世界からは何も分からない。
僕は不安に駆られて父と母を呼ぶ。しかし返事はない。
何度も何度も叫んだ。しかしやはり無情にも返事はなかった。
それこそ喉が引き裂かれるほど声を枯らして叫び続けた。今までこんなに大きな声を出したことはない。目に涙が集まり、痛む喉を我慢し、それでも叫び続けた。
返事のないまま、叫び続け、もう意識も朦朧していた。
そんな時、声が聞こえた。
「ああ。どうしよう。まだ生きている。三人って聞いてたんだが」
その声は気だるげに、暗く陰鬱とした低音を頭に響かせる。
その声を聞いていると何も考えることが出来なくなり、生きようという気力も奪われる。しかし、何も聞こえず、見えない状況で僕はその声に救いを求めるしか他になかった。
「助けて………助けて」
「ああ。どうしよう。どうしよう。非常に面倒だ。一人生きている。非常に面倒だ」
「お願いです………助けてください」
僕は何度も何度も助けを求めた。徐々に瞼が重くなる。朦朧としてくる。それでも残った力の全てを尽くして助けを求め続けた。
それに応えるようにそいつは僕に問う。
「うーん。生きたいですか?」
「………は、はい」
そいつは一瞬悩むように口を閉ざしたがすぐに決心したようで、軽い受け答えは続く。
「………うーん。いいよ。面倒だけど、まぁいいよ。君も一緒に舟に乗れればいいけれど、まだそこの二人も息はある。君が先に死ねば、石を積むのも苦労だろう。君を生かしてもいい」
何を言っているのか全く理解できないが、僕は未だ助けてと言い続ける。
そいつは何かを決めたのか指をパチリと鳴らして陽気に言ってくる。
「よし。これから4回目の夏まで生かしてやろう。何故四回かは分からないがそういうもんだと思っておけばいい。説明しても君には分かるまい」
僕は遠のく意識の中でそんな不気味な声だけが明確に聞こえていた。なんとも表現しにくい低くこもった機械音のような、人間の声ではないのではないかと思える金切り音も時折聞こえる。
「では、また最後の夏に」
最後にその声だけが頭に残った。その後、手に痛みを感じて、誰かに引っ張り上げられたのを最後に僕は意識を手放した。
それは夢のようで夢ではない。
現実だった。
高速でトラックと接触事故を起こした一家は一人の子供を除いてその他の人間は即死であった。父、母共に即死であったのだ。そして、僕だけが生き残った。
僕は何者かと契約をして生き長らえたのだ。
始めは自分の命を喜んだが、そのあとは悲惨であった。
父と母の死を知らされ、訳も分からず親戚筋をたらい回しにされる。
気がつけば遠く離れた叔父の家にいた。
そうして多くの人間と関わっていくうちにそこまで世界は自分に優しくないという事実をゆっくり教えられていき、気がつけば全てに諦めた怠惰な人間ができていた。
全てを思い出そうと何も変わらない。自分は後数日しか生きれないし、この性格はもう変わらない。
僕は目に付いたウィスキーをグラスに注ぐと、それを呷った。
枯葉を燻したような苦い味が舌に残り、喉を焼く。
酒をいくら飲んでも笑えない僕はそれは面白味のない男になった。
時計はもう10時を指している。もう一杯ウィスキーを飲み、僕はタバコを咥えて、最後の一週間に火をつけた。
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