第9話

 ボロアパートの二階が僕の家だ。


 高校に入学と同時に住み始めた。駅から徒歩五分で家賃も安く、東向き。道路を挟んだはす向かいにコンビニもあるし、日当たりも悪くはない。


 こうして窓を開けていれば窓から月も見える。

しかし、僕は今、隣に座る彼女のズボンの裾が捲り上げて、見える足首をしゃぶりつくように見ていた。


 月などいつでも見れるのだ。


 女子の足首とはこんなにも細いのかと初めて知った。これは良い冥途の土産がまた見つかった。


 「何見てんの?」


 彼女は困惑して僕の顔を覗き込む。


 「いや。なんでもない」


 僕は誤魔化すようにタバコに唇を付けると、一吸いする。煙がもくもくと天井にあがり、その煙が月明りに照らされて、なんとも幻想的に見える。それが毒の煙だと言われようとも知ったことではないのだ。


 「そういえば、聞かないんだね。私がなんで家に帰らないか」


 彼女は澄んだ顔でそんなことを不意に聞いてきた。


 「聞いてほしいの?」


 「ううん。でも普通は聞くんじゃないの?」


 「なるほど………なんで帰らないの?」


 「教えない」


 「うぜぇ」


 僕はまたしてもタバコを一吸いする。煙の入りどころが悪く咽ていると、彼女は何故か背中をさすってくれた。そして自嘲気味に言葉を吐く。


 「だって面白い話じゃないし」


 彼女は苦笑いをしながら、月に目をやった。


 「あ、そう………じゃあいい。別にそんな知りたくもないし」


 「そう」


 彼女はまた黙ってしまった。そうして俺のタバコを吐く息の音だけが妙にはっきりと聞こえてくる。


先程とは違い、会話も弾んだ後の沈黙

何か居心地が悪い。


 気まずい。何か話さなくてはならない。


 藤原との話題は何かないだろうか?何か。何か………あ、そうだ。


 「で、なんで家出なんてしてんだ?」


僕が思いついた話題は先程の問題であった。多分、煙と一緒に記憶も抜け出たのだろう。


 「結局聞くんかい」


 「ほら僕と藤原では話題がないだろ?世間話だと思えばいい」


 「あ、そう」


 彼女はため息一つ零し、なんでもない事のように話しだした。それこそ今日の晩御飯はとか、今日の授業の内容はとか、本当に世間話のようなトーンで語りだした。


 いや、かといって重い雰囲気で、暗く話されても反応に困っていただろうが。








 「普通に父の再婚相手とそりが合わないの………それだけ。中学二年生くらいの頃に父が再婚して、連れてきた女の人。派手な格好が好きで、服や花やらが好きなおばさん。私の母とは大違い。趣味が合わないから私の服にも文句を言うし、もともと家にあった家具やら皿も気に入らないと捨てるような女。あの人と一緒にいたくなくて……それで今日、少し喧嘩しちゃったの。それだけ」


 「え?結構ナイーブな話だな」


 「だから面白くない話だって言ったでしょ?」


 「いや。いやいや。もっとなんかアホみたいな話だと思ってた。家の鍵なくしたとか、単なる家族との諍いとか………再婚相手がとか言われてもなんと言えばいいかわからん」


 僕は本当になんと言えばいいか分からず、彼女から目線を逸らして、目上に輝く月夜に視線を移した。と思えば、はす向かいのコンビニから出てくる女性に目がいく。二つも大きな袋を握り締めて、その袋からからあげ棒が二本身を乗り出している。いくらなんでもコンビニで買いすぎではないか?


コンビニであんなに物を買う客を見たことがない。これも藤原との関わりがなく、閉じこもって生活していれば目にすることなく死んでいたのかもしれない。


 僕がコンビニの客に目を奪われているときに、彼女はなにやらこちらをキッと睨んで言う。


 「でも、本当にそういう話だから………だから!こんな男子の部屋に逃げて来たんじゃない!私、男子の部屋とか初めてだし!なんか襲われるのかなって。それくらいしないと誘いに乗ったら駄目なのかなって緊張してたのに………だから」


 彼女は何か先ほどのことを思い出したのか急に声を荒げて、顔も真っ赤にしている。


 「セイセイ。落ち着け。一旦、タバコでも吸うか?」


 僕がタバコを見せると、彼女は急に声を荒げたことを恥ずかしく思ったのか居心地が悪そうに姿勢を正す。


 「なら一本頂戴」


 彼女がおずおずと僕に手をだす。僕はその手にタバコを持っていない方の手を置く。彼女にお手をしていた。猫にお手をしてどうする。

彼女は不思議そうにその手を眺める。


 「………嘘嘘。あげませんとも」


 「は?」


 「いや、なんていうのか………そんな覚悟で僕の家に来ているとは思わなかった。すまなかった」


 僕は誠心誠意謝る。しかし、彼女がそこまで覚悟してこの家に臨んだのならば、僕もその覚悟に応えて、胸の一つや二つ揉みほぐしてやってもよかったのではと考えてしまう。


 いや、その先もありである。


 そんな考えに至り、彼女の肢体を舐め回すように眺めていると、彼女は不貞腐れた顔でこちらを見てきた。


 「まぁ別いいけど………ってなんかすごい嫌らしい顔してない?」


 「素だ。素で嫌らしいんだよ」


 「キモい」


 彼女はまたもや、罵詈雑言を僕に浴びせ、いつもの調子が出てきたのか、ベッドに移動し、寝転んだ。いつも屋上で寝転んでいるように。その様子はやはり日向ぼっこする野良猫に見える。


 「そういえば、なんで須川は屋上なんかに来たの?」


 彼女は思い出したように聞いてくる。寝転がっているからか少し猫撫で声になっている。可愛い。


 「え?今は藤原の義母の話じゃなかったのか?」


 「まぁ、それは話してもどうしようもないし。今更、離婚してくれって父に頼むのも酷ってもんでしょ?」


 「まぁそうだな。大学に行けば、一人暮らしでも始めてみたらどうだ?タバコ吸い放題だぞ?酒も飲み放題だ」


 「………考えとく」


 僕はその話をする気になれなかった。咄嗟に話題を躱したが、それはこの話の先には僕の寿命の話につながるからかもしれない。


 それを藤原に話してどうなるだろう?僕は後、何日かで死にます!ってか?バカだろう。それこそどうしようもない話だ。


 「ああ。僕が屋上に行った理由は人が少ない場所を探していたからだ。それだけだ」


 「そっか」


 彼女は興味なさそうにベッドで寝がえりを打つ。なら聞くなよと。

少し焦ってしまったじゃないか。


 「藤原はなんで屋上にいつもいるんだ?授業ちゃんと受けてるか?」


 「なに?親みたいな質問。ちゃんとかどうかは知らないけど受けてるよ」


 「じゃあ、なんで屋上にいつもいるんだ?昼ならお友達と飯を食うとかあるたろ?放課後もそこらの奴らと一緒に遊びにいくとかあるだろ?何もヤニカスと元いじめられっ子と飯を食う必要ないんじゃないか?」


 「じゃあ、あんたもそうしたらいいじゃない!

なんで屋上に毎日来てんの!?」


 藤原は苛立っているのか喧嘩腰にこちらに振り向き、威嚇するように唸る。


 「いや。悪口じゃなくて、なんで屋上にいるのか純粋に疑問に思っただけだ。ほら、僕や神崎は流れるようにあそこに辿り着いたが、藤原は自分で行ったんだろ?」


 僕が手を上げて、白旗のように振ると彼女はため息をついた。


 これもなにやら重い話の予感がする。今のうちにタバコに火を付けておこう。彼女の話が始まってしまえば、その期を逃してしまう気がしたのだ。


 僕がボシュッとターボライターの火を付けるのと同時に彼女の口が開いた。


 「教室が怖いの………。中学の頃からそう。教室が。人が怖いから行けないし、話せない。だから行けない」


 「お前。僕との時は自分から話しかけてきただろうが?人が怖いとは?」


 「それは、あんたがヤンキーだと思ったから。自暴自棄ってやつ。それなら落ちるところまで落ちれるかなって。あんたは不良じゃなくて単なる変な奴だったけど」


 「心外だな。僕ほど普通な奴もいないだろうに」


 「は?何言ってんの?っていうかさっきからバカバカタバコ吸うのやめろよ」


 「ここは僕の家だ。嫌なら出ていけ。そして、タバコを買ってこい」


 「死ね」


 だからもうすぐしたら言われなくても死ぬっての。いや、この冗談はなんか不謹慎だな。


 「まぁ冗談はいいや。それで、教室が怖いからずっと屋上に来てんのか?」


 「ずっとじゃない。別室で授業は受けてるわ」


 「個室でか?VIPだな」


 「私だって普通に教室で授業受けたいわよ!これがおかしいのは分かってる!」


 「まぁそうカッカしなさんな。お嬢さん」


 僕はまた嫌らしい顔で手をパタパタと振る。


 「なんか調子が狂うわ。あんたといると」


 「お互い様だろ?」


 僕は立ち上がると小休止にと彼女の分も水を持ってくる。彼女は今日なんどついたわからぬため息をつく。

ただ水の入ったグラスを受け取るときに「ありがと」と小さく言った。

少し愛らしい。


 「………昔。中学生の時」


 「ん?昔話か?」


 「黙って聞きなさい」


 「あ、はい」


 「中学の時。人が苦手で、ああいう教室の狭い空間に何人もの人と押し込められているのが苦手で。一度、戻しちゃったの」


 「吐いちゃったのか?」


 「遠回しに言ってんのに………あんたは!」


 「悪い悪い。それで?」


 僕は彼女がなにやら胸懐を吐露し始めたので真剣に聞くことにした。

何故だろう。何故、他人にあまり興味のない僕が、彼女の話に耳を傾けようと思ったのだろう。他人の過去など毛ほども興味ない話であるだろうに。


 「それで………それが原因で中学ではいじめられて、それでもっと教室に行けなくなった。高校に入っても嫌だったけど一年の初めは何度か通ったの。でもやっぱり無理だった。また同じことになると思うと耐えられなくなるの」


 彼女は何でもないように話していた。多分、辛い過去を思い出しながら、無理をして話しているだろうに。その顔は無表情を取り繕って、何かに耐え忍んでいた。

神崎がいじめられている時に震えてたのはトイレではなかったのか。


 可哀想にと同情的な視線を向ければいいのか、それとも甘いと一喝すべきか。答えを出せずに聞いていた。


 そんな学生は全国にいないようで、むしろ何人もいるのだろう。しかし、彼女は学校から好待遇を受け、今は何の不自由もなく生きているようにも見える。


 僕はそんな客観的な意見と、まぁやっぱり可哀想だよなぁというなんとも道端に捨てられてた子猫を想う気持ちになる。


 「そうか………話を聞いていて思うが、学校の心理カウンセラーは大変だな。こんな話を聞き続けなければならないのだから」


 「え?」


藤原の顔が怪訝そうに歪む。信じられないといった表情だ。

しかしここで優しい言葉をかけてやる義理もない。僕はそんな悩みも意味のないものに思えてしまうくらい腐っているのだから。


 「いや、だってこんな生徒に身を寄せて、一日話を聞いてやるだけでもストレスだ」


 「は!?あんたみたいなタバコを咥えた心理カウンセラーがいてたまるか!」


 「だから大きい声出すなって。お隣さんに怒られるだろ?」


 「………そんなの知らないし」


 彼女は今度こそ不貞腐れたように唇を噛んで、こちらを睨んできた。可哀想ではなく、可愛いが勝つのは僕が猫好きだからだろうか?


 「それを知らないって言いきれる度胸があるなら、クラスの人間の目も知らないって言って教室行けば?」


 「無理」


 「絶対?」


 「絶対!無理!」


 「本当に無理?」


 「本当に!無理!」


 「行ったらタバコ一本あげちゃう」


 僕がタバコを一本取って、彼女の目の前でペン回しの要領で、タバコを指で回すと彼女が肩の力が抜けたのかまたベッドに寝転がる。


 「なにそれ?………逆になんでそんな行かせようとするの?」


 「いや、嫌がるから………」


 「ドSなの?」


 「冗談だ………藤原が行きたそうだから」


 「そっか………でも本当に怖いんだもの」


 か細い声が聞こえてきた。それは鼻声であったので、こちらも調子が狂う。

寝ている奴の尻を叩いて「行け!行け!はよ行け!」と発破をかけることは簡単だがそれはどうだろう?

なんかエロいな。というか、部活もやらず屋上で食っちゃ寝しているだけのくせに何故にあんなに引き締まった尻をしているのだろう。


 ズボン越しでもはっきり分かる尻の形。


 「何見ているの?」


 彼女は半泣きでそんなことを聞いてくる。そそるじゃないか?


 まぁ冗談は本当にやめよう。


 僕は真剣に彼女の問題を考え、口を開く。


 「でも、藤原はヤバイなぁと思えば、その個室。VIPルームに逃げればいいんじゃないか?屋上でもいい。もう不良はいないし、いつでも逃げれるだろう?全国の不登校児はそんな部屋ないぞ?藤原だけの特権だな」


 「でも………怖いし」


 「僕が教室まで付いて行ってやろうか?執事のごとく」


 「え?嫌だ」


 「そうか?神崎もつけるぞ?」


 「いや、神崎は同じクラスだし」


 「なら行けよ。行けるうちに行っとけ。高校卒業しちゃえば行きたくても行けなくなるんだし」


 「なにそれ?達観してんの?」


 「どうだろう。もともと僕は視野は狭いんだよ。自分の欲を最優先に、何も考えてこなかった。可能性も全否定して、怠惰に生きてきたんだ。その結果がこれだ。笑えない。だったら教室に行きたいって泣いている藤原の方がまだマシだな」


 「なんか分からないけど、私、行っても大丈夫かな?また口から戻して、変にいじめられたりしないかな?」


 「そうなればVIPルームに逃げたら?吐き逃げってやつだな」


 「は?なにそれ?…でも、そっか………そうだね」


 「そうだ」


 「私が行ったら、なんかご褒美頂戴よ?」


 そう言った彼女はもういつもの小生意気な表情で笑っていた。しかし、その顔の方が僕は好きだなと思った。彼女の暗い顔はこちらまで気が滅入る。


 「普通のことをして、ご褒美とは厚かましい女だな………いいよ。何がいい?」


 「駅前のタピオカ屋奢って」


 「嫌だよ。あんな人がアホみたいに多く並んでるところ。一人で行けよ」


 「人が多いところは苦手だから」


 「僕と言っても一緒だろが?」


 「あんたと話しているとなんか自分の悩みが馬鹿みたいに思えてくるの。なんでか知らないけど。気持ちに余裕が出来る」


 急なジャブに僕は胸が射抜かれた。多分、彼女は何も考えずに言っているのだろうが、思春期の男にそれは少し効き目が良すぎる。


 「そうかい………わかった。行ってやるよ」


 「約束」


 彼女はそういうと僕のベッドを占領し、布団までかぶり始めた。


こいつやっぱり泊まる気だっのか。不用心過ぎやしないかと心配になる。


 僕はしょうがなく床に布団を敷いて、寝る準備をする。そんな時、何の気なしに彼女が僕に実家はどこかと聞いてきた。


 この年で両親と離れて暮らしている生徒はうちの学校では少ない。それで少し気になって聞いてきたのだろう。


 「僕に両親はいない。小学生の時に事故で死んだんだ」


 すらすらと言葉は出た。なにしろだいぶ前のことである。


 「そう。悪いことを聞いちゃったわね。ごめん。寝るわ」


 彼女はそれだけ言うと、すぐに寝息を立てていた。


 僕はその言葉を自分で発することで思い出してしまった。彼女の少しの興味で思い出すとは、なんとも腹立たしい。 


 ああ。僕は本当に死ぬのだなと、ちゃんと思い出した。


 確か、期限は5回目の夏が始まる前まで。ちょうど、今月の終わりか。


 それまでは生かしてくれるらしい。中途半端な期限だと思ったが、別に何かに打ち込んできたわけでもなし。


 別に良かった。しかし、先ほど感じた心の動き。

胸が跳ねて、彼女を見ると酷く苦しくなるこの事態をどう処理しようか。

ああこんなことを考えていると、タバコの数が増えてしまう。


 僕は自覚していながら、それを容認できない。


 それを容認すれば、次には未来を想像してしまう。


 大学受験を二人で悩んだり。


 キャンパスライフを二人で楽しんだり。


 二人で酒を飲んだり。デートを繰り返したり。


 もちろん、その先も。


 いや、そもそも告白もしていないし、彼女は僕を好きではないかもしれない。まぁこうして家にやってきて、無防備で寝ているから嫌われてはいないだろうが。


 もし、告白すれば付き合ってくれるだろうか?


 いや、そんなことを考えるのも馬鹿らしい。僕にはそれすら考える権利がない。


 立つ鳥後を濁さず。


 僕は誰かの何かにはなれない。なってはいけない。

間抜けに惨めに、減らず口を叩いて、そのまま死にゆくのみだ。  


   


 


 





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