第8話

 彼女の猫目が月夜に輝き、僕はそれに魅了されて思考は止まっていた。彼女が自分の上唇をペロリと舐める。


彼女の表情から、先ほどの言葉が冗談ではなく、本当に僕を誘っているのだと分かった。


 彼女の一挙手一投足に目が釘付けになる。近くで見る彼女の頬や、鼻先は若者にある艶があり、いくらこんなアルコールとタバコの匂いの充満した部屋であろうと、こんな至近距離まで来られると彼女の匂いが鼻腔をくすぐる。


 雨を吸ってダボっと垂れ下がっている彼女のパーカーすら色っぽく映り、そのパーカーから見える鎖骨から首までの白魚のような白い柔肌に噛みつけば、彼女はどういった顔をするのだろうと想像する。


 そうして初めて自分の性癖めいた変態の一面が浮き彫りになると、これがいかに馬鹿げた妄想かと正気に戻った。


 陰嚢を刺激する妄想に、急に先ほどの蛙の鳴き声が蘇ったのだ。


 いや、どうだろう。本当にもう一度、彼女の腹が鳴ったのやもしれぬ。


 僕はもう一度目を閉じ、瞬きを繰り返し、彼女の目を見る。微かに揺れている。手も少し震えていた。


 そこには大人の色香を漂わす魅惑の女性はおらず、一匹の寂しがり屋の子猫がいた。


 僕は微笑んで、彼女の頭に手を置いた。

彼女はどうしたの?と上目遣いで頭を撫でる僕を見る。


「何円?」


 「は?」


 藤原の顔から取り繕った蠱惑的な笑みは消え、先ほどの人を心底ばかにしたような表情に変わった。

そう。半開きの口に片眉だけひん曲がっている。


 「お嬢さん、男を買ったことはあるのかい?………俺は高いぜ?」


 「………死ね」


 藤原はそう言うと、ため息とともに僕から腰を上げて退いた。


言われなくてもすぐ死ぬさと心の中で軽口を叩く。しかし意外と苛立ちはなく、彼女の顔から緊張感がなくなったのを感じた。


 そして小さく「ごめん」と謝ってきたので、僕はとりあえず水と買い置きしていた菓子パンを持ってきた。


 そろそろ腹の虫を黙らせてやろうと思ったのだ。


 藤原はそれを受け取ると、恥ずかしそうに体を小さくして、もしゃもしゃとチョココロネに齧りついた。


男を誘ったと思えば、今菓子パンに齧り付いている自分の可笑しさを自覚したのだろう。


 僕はそれを飼い猫にエサを与えるような親ばか丸出しのホクホク顔で笑って見ている。


丸まった菓子パンの袋が僕の眉間に命中した。


僕はそのゴミを捨てるついでに自分の分のチョココロネを持ってくる。


そうして二人して菓子パンを食べながら、窓から月を眺めた。パンを食べ終えて、手持ち無沙汰になった僕はタバコを咥える。


僕がタバコを吸っていると彼女が僕のタバコを奪う。


 僕は奪い返そうとすると、彼女はそのタバコを吸わずに口づけすると僕に返した。


 僕は咄嗟に彼女から顔を背ける。


 「どうしたの?………見せなさい」


 楽しそうな藤原の声が聞こえる。それもいつもよりも近くで。それはいつもの人を小馬鹿にしたような藤原の声だった。

少し安心して空気を濾すような息が漏れ出た。


 「うっさい。こっち見るな」


 「仕返しだ。私を辱めた仕返しだ」


キャッキャと子猫のように戯れる彼女は年相応の女の子に見えて、何故か彼女を見ると顔がのぼせたように赤く暑くなるのが分かった。


 今日はやけに月の光が眩しい。もしかすると彼女にバレてしまうかもしれない。


火照ってて真っ赤になった顔を彼女に見られるのは屈辱だ。


 





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