2‐6‐4 ブラッディマリィ

 血の通り雨が過ぎ去っていった後、目に映るのは木々と赤々とした血液のみ。

 いや、エリリアは無事だ。

 予め閉人がこうすることを聞いていたから、傘をさしていた。


「あらまぁ、すごい土砂降り」


 暢気に傘をくるくる回しているエリリアの目の前に血が湧き上る。

 自らの血液で真っ赤に染め上がった閉人だ。

 血で濡れそぼった手で髪をかき上げると、拭いきれない血塗れの目蓋を開く。


「ふぅー、姫さん大丈夫?」

「もちろん」


 エリリアは傘を閉じて柄を腕に引っ掛けた。


「ここからが本番ですよ。アイツがどういう手を打ってくるか、この先はまるで分からんですから」

「マリィですもの、何か凄いことをしてくるに違いありません」

「姫さん、例のアレを」

「はい」


 エリリアは予め決めておいた通り、ランク九『虚神何何之比翼憐理』を展開して閉人と自らに付与エンチャントする。


 ジークマリア相手にただ空に飛ぶだけでは危険だが、血で地面に縫い付ければ空は絶対的なアドバンテージになる。


 二人はアンブラルの間合いの外を大きくとって五メートル、空中に浮かぶ。

 さすがにこれだけ距離を取れば突然グサリ、という事も無いだろう。


 だが、ジークマリアも並みの使い手ではない。

 血の池にはジークマリアの纏う聖鎧シャイニングだけがバラバラの状態で散乱している。

 だが、肝心の本人の姿が無い。


「しかし? アイツどこに……?」

「もしかして溺れちゃったとか……」

「いやいや、梅雨の日の水たまりぐらいな深さですよ、あれ。ここから出たらアイツの場外負けだし……姐さん、どうっすか?」


 血に構わずぺたぺた歩き回っているビエロッチに訊ねる。


「血は被ってるはずっスから、無事じゃいられないとは思うんスけどね。ま、七割がた勝ってるっしょ……」


 気楽に笑いながらビエロッチは血まみれの草地を歩み進む。

 生き血を被っても平然としている辺り、あのイルーダンの姉だ。


「それより、約束の方はちゃんとお願いするっスよ。マリっちに命握られてるのめっちゃストレスなんスから」


 ビエロッチがふと上を向いて文句を垂れた。

 その瞬間だった。


「ち、ビエロッチだけか」

「ひゃっ!」


 小さな悲鳴と共に、ビエロッチの姿が消えた。


「姐さん!?」

「ビエロッチさん!」


 ビエロッチが消える寸前聞こえたのは間違いなくジークマリアの声。


「ぐぇぇっ!!!」


 直後、白目を剥いたビエロッチが地面の赤から吐きだされる。

 べしゃりと血の水たまりに仰向けに倒れ、気を失った。


 ほんの、五秒にも満たない間の出来事だった。

 その光景に、閉人は悟った。


「……そうか、地面に染みこませておいた血は全部上に行ったから、咄嗟に穴を掘って分身で蓋を……」


 閉人はゾクリと身震いした。

 機転の早さ、それを実行するフィジカルの高さ。

 十数秒後には反撃に繰り出す獰猛さ。

 どんな逆境をも撥ね退ける戦士の能力だ。

 何日もあれこれ考えて展開した作戦が、一つ一つ乗り越えられていく。


「やっぱアイツ、すげぇ……」

「ふふ、マリィは凄いんですよ閉人さん」


 ようやくその強さの一端を引きだせた。

 少なくとも、今まで打った手は効いていたのだ。


 かつてない戦闘の興奮を抑え込もうと、閉人は頭をガリガリと掻く。

 あまりに強く掻くため、側頭が抉れて血と混ざり合っていた。


「地下か……」


 ジークマリアなら一時間ぐらい呼吸無しで平気なのではないか。

 そんな疑問がふと頭をよぎる。

 さらに穴を掘って移動されたら、追撃もかなり難しくなる。


「焦らないで、閉人さん。このままでいるならマリィの方が不利ですよ」


 エリリアがそっと閉人に囁いた。


「マリィが一時間耐えられるなら、一時間待ちましょう。マリィならきっと私たちの焦りまで計算に入れて戦うはずです。待ちましょう」

「……姫さん」


 閉人は思わずエリリアの手を握った。


「姫さんも凄いです。賢い、超クール」

「ふふ、私、お役に立ててますか?」

「もちろんです。でもまだまだ終わりじゃないですよ。『最後の一手』の準備をお願いします」


 閉人は大きく一つ深呼吸した。


(我慢比べするとして、そういう根性面でアイツに勝てる気しないなぁ……)


 閉人はかすれた視界の中でげっそりと考える。

 ばらまいた血液は致死量以上、身体の持つ機能のほとんどを捨てて頭部の色々に集中している。

 正直、こうして無重力状態でなければそろそろ地面でへたってしまう所だった。


「大丈夫ですか閉人さん、白魔術かけましょうか?」

「だいじょうぶだいじょうぶ。死にやしないから」

「じゃあ、おにぎりは食べますか?」

「いやだいじょうぶ……へ? おにぎり?」

「試練の後でお昼ごはんにと思って持ってきたんですけど、いかがですか?」


 エリリアは懐から包みを取り出した。

 大きな笹のような葉に包まれた握り飯を一つ手渡す。


「おにぎりは私が作っても見た目が不思議と変わらないんです。どうぞ」

「ありがとう、姫さん」


 閉人はもらった握り飯をパクつく。

 中にはエルフが良く食べている野菜の酢漬け入り。

 高菜おにぎりのような按配で、美味い。

 エリリアが作ったとなればひとしおだ。


「ごちそうさまです、姫さん」


 手についた米粒までなめとりながら小声で囁くと、閉人は悪巧みの笑みを浮かべた。

 自分の唾だらけの人差し指を口に当て、エリリアに示す。


「まあああああああァッ! 姫さんの手作りおにぎり落としちまったーッ!」


 閉人の手から何かが零れ落ちると同時に叫びだす。

 わざとらしいが、わざとでいい。


(俺には演技の才能は無いんだろ。でもお前ってさ、『万が一』に弱ぇよな)


 閉人がわざとだろうがなかろうが、それを見越してエリリアの本物を投げる可能性は捨てきれない。

 ジークマリアの性格からして、エリリアの作った料理が無駄になるのを絶対に許さないだろう。

 それが、ジークマリアだ。


 息をのみつつ、閉人は急降下した瞬間。


「喝ッ!」


 血の池からジークマリアの上半身が飛び出し、閉人の取り落したものを掴み取った。

 どんぴしゃり。

 思う壺にはまってくれたジークマリアに、閉人はひねくれた笑みをはっきりと浮かべた。


「やっぱり『音』だけで俺たちのこと把握してたんだな。ほんと、分かりやすいぜ」

「好きに言え。万が一、億が一、姫様の作られた物を無駄にしてしまったなら私は腹を切る」

「けっ、褒めてんだよバーカ」


 言葉と共に、ジークマリアの手にあった物が弾けた。

 それと同時にパッと血潮が舞い、ジークマリアの顔を覆う。


「もちろん、俺も姫さんのおにぎりを放ったりしない。お前がわざわざキャッチしたのは俺の手首、もう見えないだろうがな」


 ジークマリアの額から鼻にかけてが血に染まっていた。

 そのまま粘着し、目蓋と鼻を無理矢理に塞ぐ。

 想像を絶する不快感がジークマリアを襲うが、手で取ろうとすれば血に絡め取られてしまう。


「せっかくだから聴覚も対策してやるよ」


 辺りの血液がブクブクと泡立ち始める。

 聞こえるのはあぶくの音だけ。


 その中に隠れて、閉人は一つ息を吐く。


「視覚聴覚嗅覚はこれで潰した。今度こそ、行けるぞ」


 閉人は降りてこようとするエリリアを手で制止すると、波立つあぶくで足音を消しながらジークマリアの周りをうろつき、すきを窺う。

 対して、ジークマリアは微動だにせず、アンブラルを構えていた。


「なあ、ようやくいい感じのところまで来たぜ」


 念には念を入れて、切り離した手首に生やした口に喋らせる。


「ひと月以上もかかっちまったな。こっちの勝率は三パーセントないぐらいか」

「たわけ、まだゼロだろう」

「でもさぁ、そろそろいいだろうよ、俺と姫さんもなかなかやるだろ?」

「ああ。正直、ここまでやりづらい相手だとは思わなかった。閉人、貴様……」

「何だよ」

「貴様、死ぬほど性格悪いな」

「うるせぇ」


 閉人は使った左手首の場所に、骨の刃を生やす。


「俺の血が一滴でも体内に入ったら降参しろよ。俺だって毒加減が分からねぇんだからな」

「ああ」


 閉人はジークマリアの背後まで回ったかと思うと、そのまま一回りして、正面に立つ。

 骨の刃を左手から折り取り、右手に握りしめる。


(さあて、ここまでやればまともにやっても勝てるか。いや……)


 閉人は苦笑した。

 ここまでやっても、勝てる気がしない。


 だが、そんな事は関係ない。

 閉人もそろそろ戦士としてようやくスタートライン間近である。


(負けた時のことなんて考えるな! ただこの一矢にて定むべし、だ!)


 ゆっくりと骨の刃を構え、大きく、静かに息を吐く。


(行くぞ!)


 血のあぶくの音が消え、代わりにジークマリアの背後でバシャンと音がする。

 血を混ぜっ返して出した囮の音だ。

 ジークマリアがそちらに向けて槍を突きだした瞬間、閉人は一ッ飛びにジークマリアに斬りかかる。

 無抵抗なら斬り殺してしまう程の一撃を、躊躇なく振り下ろす。


「取ったッ!」


 振り下ろした骨刀の手応えに、閉人は勝利を確信した……が、


「あと少し……だったな」


 骨刀は刃の中腹で無惨にも折り取られていた。

 切っ先を探してみれば、それは、ジークマリアの手にあった。

 厳密に言えば、ジークマリアの左ひじと右ひざの間……


「白刃取りかよッ!?」

「どうした、この程度で終わりか」


 目を塞がれているにも拘らず、ジークマリアは切っ先を捨てるや否や、槍を持っていない左手で閉人の横っ面を強か裏拳でぶち抜く。


「ぐぇあッ!」


 閉人の脳が揺れる。

 頭部の損傷に思わず吐き気が身体を駆け巡るが、どうにか持ちこたえた。


「ハァ…ハァ……何で分かるんだよ、なぁ?」

「触覚」

「はぁ?」

「貴様の動きによって生じる風を肌で感じた」

「……ふーん、芸達者だな」

「で、もう貴様の手は終わりか?」

「ん? ああ、終わりだな」


 閉人が骨刀の切っ先を拾い取ると、自分の腕に刺す。

 骨の刀がどんどん元の骨に戻っていくのと同じく、辺りを濡らしていた血液も閉人に戻ってくる。


「俺たちの勝ちだ」

「どの口が言う」

「分からねぇか。アドレナリンってやつだな……見てみろって」


 ジークマリアの顔を覆っていた血が粘性を失って閉人のもとに戻る。


「っ!」


 露わになった両目で、自らの手を見た。

 左手、ジークマリアが閉人を『素手で殴ってしまった』手に血塗れの棘が数本、突き刺さっている。


「いつの間に」

「どうせ殴られると思ってたから、顔に生やしておいたのさ」


 閉人の頬を突き破り、顎骨を変形させた棘が飛びだす。


「……なるほど、最後の最後に小手先の技、か」


 ジークマリアは手を払い、抜けた棘の痕、小さな傷たちを眺める。


「見事だ、閉人。この勝負、私の……」


 言いかけて、ジークマリアはアンブラルを閉人に向けた。


「すまん、閉人」

「何が?」

「身体が言う事を聞かん。試練はまだ我々を認めていない!」

「はぁ!?」

「閉人、構わずやれ!」


 ジークマリアはそのまま閉人に向かって飛びかかる。

 「構わずやれ!」とは、体内に混じった血による内臓への攻撃のことだが……


「へっ、そう焦るなって。最後の一手が無駄にならなくてよかったぜ」


 アンブラルが閉人の腹に突き入れられたが、激痛など関係無いかのように閉人は余裕を保っている。


「ほんと、テメェは強ぇな。俺、姫さん、姐さんの三人がかりでも倒しきれなかった……」

「ふ、そうだな。増援でも呼ぶか?」

「もう呼んでるさ」


 瞬間、閉人とジークマリアの周りを何かが渦を巻いた。

 羽音と共に飛来したのは……


「む、虫か……」

「マンモスちゃんと愉快な仲間たちだ」


 魔虫にしてエリリアのペット、マンモスちゃん。

 ジークマリアはとんと忘れていたが、閉人もエリリアもわざと会話には上らせないようにしていた。

 彼女こそ、閉人が最後の最後までとっておいた切り札であった。


「あら、随分久しぶりねぇ」


 ジークマリアの肩の上からカサカサ足音と共に声がする。

 ゾクゾクと、ジークマリアの背筋を寒気が突き抜けた。


「今だッ!」


 今までで最大の隙を見せるジークマリアに向け、アンブラルが突き刺さった腹のまま前進する。

 回収した血液を全て燃やし尽くすような勢いで叫ぶ。


「マンモスちゃんさんッ、離脱して!」

「はいよ」


 マンモスちゃんが翅を広げて飛び立った直後、閉人はジークマリアの眼前に至っていた。


「来い、閉人っ!」

「ッ―――!」


 決め手は、拙い閉人の力だけであった。

 ジークマリアの身体は、絶大な膂力を持ってはいても異常な質量があるわけではない。

 力の大半は筋肉や骨ではなく『別のところ』から捻出されている。


 で、あるから……閉人は乙女一人の質量を押さえつければ良かった。


「くっ……!」


 ジークマリアの質量が浮き上がり、閉人の身体に圧されて地面に転がり落ちる。

 閉人の腹にはアンブラルが刺さったまま。

 回収され、またあふれ出る血が二人を地面に縫いとめる。

 

「俺の勝ち……だ…………!」


 ジークマリアの首元にもはや刃でもない、左腕の腕骨の折れた断面があてがわれる。

 ジークマリアは、いや、彼女の中に潜む魔術頭脳はこの状況から抜け出ようと身を震わせるが、全身どこもかしこも絡め取られて力が出ない。


「ふっ、勝利宣言とは随分気の早い奴だ……」

 

 ジークマリアの身体から、スッと力が抜けていった。


「その通り、見事だ……私の負けだ」


 その言葉を聞き、閉人はふぅと息を吐くとドバっと血を吐いた。

 当然だが、ジークマリアの顔に完全にかかっている。


「そうか……勝った、か…………安心した、ぜ…………………」


 目から光が失せ、徐々に力を失っていく。

 失血、増血、失血による体調の乱高下が疲労となって押し寄せたのだ。


 閉人の全身が力を失い、その直下にあるジークマリアの身体にしな垂れかかる。


「……わざと…………ではないにせよ、このたわけが」


 落ちてきた閉人の頭部がジークマリアの頭部とぶつかっていた。

 そのついでとばかりに、閉人の唇がジークマリアのそれを掠めていた。


「……」


 血の拘束が、閉人の気絶によって解けていく。


「マリィ!」


 エリリアが降りてくるまであと数秒。

 とりあえず、やっておくか。

 ジークマリアは立ち上がり、


「このドたわけがッ!」


 閉人の頬を蹴っ飛ばし、上顎と下顎を吹っ飛ばした。


「ど、どうしたのマリィ!?」

「いえ、どうやらまだ試練が残っていたようで……」


 口を血塗れの手で擦りながら、ジークマリアは適当を言う。


「でも勝ったのよね、私たち?」


 閉人を介抱しながらエリリアが問う。


「はい、試練は終わりです。姫様もお見事でした」

「やった! 最後のマンモスちゃん、びっくりした?」

「ええ、とても」


 その時、エリリアは、足元に小さな芽を見つける。

 双葉を生やした小さな芽。


 あらゆる可能性とその終焉を内包したその形こそ、エリリアがこの旅を通して辿りつくべき、『しるし』だった。


「あら……」


 エリリアの身体が光に包まれた。

 まるでその光に引き寄せられるかのように、エリリアは地中に沈んでいく。


「継承、ですか……」

「うん、大丈夫。ちょっと行って来るね」


 エリリアはジークマリアと閉人に手を振ると地下、森の『根』へと降りて行った。



『断章のグリモア』

 その64:『しるし』について


 しるしとは印である。

 姫巫女の継承における鍵……と言うより、『錠前』のような役割を果たしている。

 各地にてマグナ=グリモアの継承を行うにはシステムにおける『鍵』と『錠前』が必要だ。

 ジークマリアが怒りだしそうな表現だが、『鍵』は姫巫女そのものだ。

 エリリアには、閉人やテディ=ドドンゴがそうであるように身体に魔術が組み込まれている。

 その中に含まれる複雑な魔文字式の一部が『しるし』と反応する事で、継承が始まる。

 『しるし』の方も錠前と言うだけはあり、元々存在する場所から動かされれば錠前としての効力を失う。

 だからこうして旅をしているわけだが、これはマグナ=グリモアという重要プログラムに対するプロテクトとも取れる。

 例えばミサイルなどの現代兵器管制にはクラッキングされても発射に至らぬようHITL(ヒューマン・イン・ザ・ループ)といって、必ず人の手が入る段階が設けられている。

 ある意味でマグナ=グリモアの継承は究極のHITLと言えよう。

 閑話休題、姫巫女継承を簒奪しようとする者たちにとって、このプロテクトが非常に厄介であった。錠前は七大種族が管理し、鍵は議会の庇護下で動き回る。

 その辺りを鑑みるに、旅の途中にある姫巫女を狙う者達は単純にマグナ=グリモアが欲しいというわけでもないらしい。

 ただでさえ姫君である。

 エリリアの身柄は政治的な重要性と切っては切り離せず、常に利害が彼女の周りを渦巻いている。

 動いているのはまだ『七つの殺し方』だけである。

 だが、一行が戦うべき相手はもっと大きな……

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