第79話 伊藤家の食卓 その③
バイトが終わりスマホを見ると、珍しく妹からメッセージが入っていた。
(一体何事だ……?)
妹からのメッセージが入るなど、滅多にあることではない。
俺は着替えの手を止め、まずはメッセージを確認することにする。
『今日は私がゴハン作るから、何も買ってこないでいいよ』
「…………」
何かの見間違いかと思い、俺は一度アプリを起動しなおし、再度メッセージを見る。
(……まあ、内容が変わるワケないか)
冷静に考えれば当たり前のことである。
つまり、今の俺は全く冷静ではなかったということだ。
しかし、のどかが料理だと?
そんなことが本当にあるのだろうか?
あの私生活にだらしない妹が、そんなことをするとはとても思えない。
もしかして、女神に感化されたのだろうか?
(……可能性は、なくはない。限りなく低いが……)
のどかと女神はクラスメートで友達なのだという。
ちょっとしたきっかけで、自分も料理をしてみようと思う可能性はあるだろう。
ただ、妹の性格から考えればその可能性は低いように思えてならない。
というか、そんな面倒なことを進んでやろうとする性格ではないのだ。
それが、一体何故……?
考えても答えは出ない。
しかし、メッセージでその疑問をぶつけては、のどかの機嫌を損ねる危険性がある。
その方が俺にはデメリットが大きいので、ここはひとまず「わかった」とだけ返すことにした。
(……しかし、保険はかけておく必要があるだろうな)
そうと決まれば早く行動に移った方がいいだろう。
半額シールの貼られた惣菜は、油断すると瞬く間に消えていくのだから……
………………………………
……………………
…………
「ただいま」
「おかえり~」
妹の声がキッチンの方から聞こえる。
どうやら本当に料理をしているようだが、なんだろうか、この臭いは……
なにやら魚の焼けたような臭いと、甘酸っぱいビーフシチューのような香り。
のどかのヤツは、一体何を作ったというのだ?
「ごめーん、ちょっと臭うよね?」
「……ああ。魚を焼いたのか?」
「うん。ネギトロのハンバーグ」
ネギトロの、ハンバーグ……?
それはマグロのハンバーグということだろうか?
「美味しそうかなって作ってみたんだけど、凄い臭いが出ちゃって……。あ、でも味は大丈夫だと思う! 結構美味しいネギトロだったから!」
美味しい、ということは味見をしたのだろう。
できれば俺もネギトロの状態で味わいたかったぞ……
とりあえず、のどかのヤツが何を作ったのかは理解できた。
それは文字通り、ネギトロのハンバーグなのだろう。
だとすればこの臭いの原因もわかる。
マグロは、トロの部分は脂分が多い。
それは熱を加えると当然溶けだすのだが、魚の脂だけあって魚特融の生臭い香りが強いのだ。
ここまで臭いが充満したのはそのせいだろう。
しかもどうやら、のどかはネギトロ以外に玉ねぎなどの野菜を入れていないようである。
イワシのつみれなどもそうだが、魚肉だけでは臭みが強いため、普通ショウガやシソ、ネギなどを入れたりして臭みを消す工夫をするものだ。それがされていなければ、あとは味付けで誤魔化すしかない。
……で、その味付けが、恐らく隣の鍋で温めているデミグラスソースなのだろう。
確かにアレであれば、味の濃さから臭みが取れる……かもしれない。
しかし、果たしてデミグラスソースはマグロに合うのだろうか……?
「とりあえずお兄ちゃんは着替えてきなよ! その間に盛り付けておくから!」
「……わかった」
俺は鞄を持ち直し、一先ず自分の部屋へと向かう。
鞄の中には念の為買っておいたコロッケが入っているのだが、この雰囲気では流石に言い出しにくい。
あとでこっそり冷蔵庫に閉まっておくとしよう。
着替えを済ませ食卓に戻ると、のどかが盛り付けを済ませたところであった。
「ちょうど盛り付け終わったよ。それじゃ食べようか」
「……ああ」
食べ物を食べるのにここまで緊張感を持ったのは久しぶりである。
恐らくだが、賞味期限切れのカキフライ弁当を食べた時以来だ。
(……む? これは、卵焼きか?)
ネギトロハンバーグのインパクトのせいで気づかなかったが、メニューはもう一つあったようだ。
「この卵焼き、柚葉から教わって作ったんだよ」
「それは本当か!?」
「ちょ、いきなり立ち上がらないでよ!」
俺はあまりの興奮に、テーブルに手をついて立ち上がってしまった。
あの女神の教えを受けたということであれば、この卵焼きには期待できるかもしれない。
同時に、ハンバーグについてなにも言及がなかったことがさらに不安を煽ったが、こちらは覚悟決めていた分、まあなんとかなるだろう。
「……すまん。女神直伝と聞いて興奮してしまった。……頂くとしよう」
「うん。頂きます」
俺は早速、女神直伝らしい卵焼きに箸を伸ばす。
(……多少不格好ではあるが、しっかり卵焼きだとはわかるな)
随分失礼な感想ではあるが、のどかが料理を作るなど初めてのことであるため、色々と心配ではあるのだ。
俺は期待と不安を同時に抱えながら、卵焼きを口に運び、咀嚼する。
「っ!?」
「ま、またぁ!? 今度はどうしたのよ!?」
再び立ち上がった俺に、のどかが驚いたような声をあげる。
まさか二度も立ち上がるとは思っていなかったのか、今度は本気で驚いたらしい。
「……美味い」
「……え、それで立ち上がったの?」
「ああ。想像以上に美味かった」
あの女神の作った卵焼きには流石に及ばないが、これは相当に美味い卵焼きである。
学食の卵焼きとは味付けが違うが、それに匹敵すると言っても良いかもしれない。
「そ、それなら良かったけど」
「すまない。のどかには悪いが、お前がここまで出来るとは思わなかった」
「っっ!? どうしたの!? お、お兄ちゃんこそ、そこまで褒めるなんて、珍しいじゃん?」
「そうか? 俺はお前のこと、昔からよくできた妹だと思っているぞ?」
「えぇっ!? そ、そんなこと、言われたの初めてだよ!?」
「そうだったか? 俺は割とアチコチでお前のことを自慢しているんだがな」
のどかは、私生活はだらしないが、切り替えはちゃんとできており、締めるところは締められるしっかりとした妹だ。
俺はそのことをよく塚原達に自慢しているのだが、そういえば本人を直接褒めたことはあまりない気がする。
今後は少し意識してみることにするか……
「じ、自慢とか、やめてよね!? 恥ずかしいから!」
「む、わかった。善処はしよう」
のどかは顔を真っ赤にして落ち着かない様子だったが、牛乳を一気飲みすることで落ち着きを取り戻す。
「そ、それより、コッチもちゃんと食べてよね!」
コッチとは、もちろんネギトロハンバーグのことだ。
さっきまでは不安で仕方なかったが、今は何故だか少し美味しそうに見えてくる。
女神効果だろうか?
「……そうだな。頂くとしよう」
俺はネギトロハンバーグをナイフで一口サイズに切り、迷わず口に運ぶ。
「っ!?」
「ど、どうしたの!?」
「…………」
正直に言って、食えないというレベルではなかった。
ただ、やはりというか、ネギトロハンバーグは、微妙であった……
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