50.2 「ああ、始めようぜ」

 魔力実験炉――それは魔力を永遠に回転させて永久保存する実験をしていた施設だ。

 実験は失敗に終わったらしい。

 でもツインズは、それをブリタシアの女王を通じて私物化し、自分たちで魔力の保存を行っていた。

 そこを回り込んだ反対側で車を降りると、足元はコンクリート。施設の本体はこの、がっちり固められた地面の大穴だ。

 オレたちはそこで、奴らを待つ。何十秒もないだろう。

 思わず足元の穴をのぞき込んだ。

 足がすくむ。

 コンクリートのへり手摺てすりさくもない。

 一番下は暗くて見えない。

 ロ=アラモ鉱山の立坑たてこうを思い出させる。

 ただ直径はあれの二、三倍あり、大きい。一周はおそらく四、五百メートルってところだろうか。

 この立坑の内側を、螺旋状に取り囲むのが魔力ドレーン――正確にはその元になった魔力を伝達するチューブだ。

 とてつもなく深いのに、ツインズ・オメガはこれを丁寧に掘り出して、この浮遊島の中央に組み込んだ。

 ――そもそも、何のために?




***




 薬が効いてツインズ・コーマは再び昏睡こんすいしている。

 ミハエラは、先ほどの会話を思い出していた。

 彼女が呼んだカーライルが到着して病室を離れる前、七勇者について語った件だ。


「あなたは七勇者を使って、何をさせていたのですか? 初めからこの計画のためだったのですか?」

「――世代による。最初は、大英雄に復讐するつもりだった。だが、私たちが勇者に与えた力は、私たちにとっても危険なものだった」


 ヴォイドを使えば使うほどヴォイドは増殖する・・・・

 それを抑制するための魔力は、外部からの供給に頼るしかなかった。


「魔力の回収は効率が悪かった。父が箱舟計画を諦めた要因もそこだ。だが――人の魔力の源泉、あの『輝き』そのものを奪うことで、効率を高められる。その利得は最大で八割を超える。あの『輝き』は魔力よりもエントロピーが低い。父の理論では、ヴォイドと同じエントロピーの可能性さえあったのだ」


 ミハエラは少し飛躍があるように思った。

 うまく頭に入ってこない部分もあった。


「八割とは、何に対してですか? その量は定量的に測れるものなのですか」

「回収した魔力に対してだ。測ることは簡単ではなかった。長い年月を要した」

「順番に話していただけますか」


 最初は気付きもしなかった、とコーマは遠い目をした。


「魔力はあらゆるところに存在する。人を救うということは、大きく見ればこの星の魔力を増やすことになるのだ。魔物を殺しても手に入る。時には悪人をも裁いた。私たちは勇者として名を馳せた。人々にも愛されていたと思う」


 彼らがまだ勇者として、人々を救っていた時代があったのだ。

 魔物を倒し、橋や海峡を作り、大陸を繋げ――。

 知らない時代のことだ。

 しかしそれに思いをせると、ミハエラは息苦しくなった。


「それでは足りなかったのですか」

「足りるはずだった! だが――より多くのヴォイドの力が引き出されるうちに、そうではないと気づかされた」


 ヴォイドの増加に従い、勇者たちに与えられる力はより強大に複雑になったのだという。

 それはまるで、ヴォイドが一個の人間となり、それすら超越しようとしているかのようだった。

 ヴォイドが人の形相エイドスを獲得しようとしたことは今、ツインズ・オメガとして完成した。


「『王』『癒し』『祈り』『都市』――予想できたか? そんな、途方もない力の存在が。ロスは割合で生じる。力が大きくなるほど、自然に回収できる魔力では帳尻が合わなくなっていた。どうしても二割ものロスが生じるのか、ヴォイドを完全にあがないようもなかった。どれほど研究しても辻褄つじつまが合わない。残り二割のロスを、埋められなかったのだ」


 熱力学第二法則ザ・セカンド・ロウ――『エントロピーの増大は不可逆である』。

 エネルギーは、一度使ってしまえば元に戻すことはできない。エントロピーが増大することで、より下位のエネルギーになってしまうからだ。

 別の力で贖おうとすれば、決してその帳尻は合わない。

 かつてアレスタはヴォイドの本質を無限のエネルギーと考えて宇宙を夢見た。

 しかし、皮肉なことに、熱力学第二法則を打ち破ってしまったのはヴォイドそのものだけ・・だったのだ。

 使えば使うほど増えるエネルギー。

 他に同じものがあるとすれば、それは負債――借財だ。いわばヴォイドは、この宇宙にとっての負債だ。

 そしてそれは、ツインズにとっては破滅を意味した。


「つまり――使った分の赤字を、他の方法で補填ほてんする必要があったと?」


 貴様も下卑げびた言い回しをするな、とコーマは薄くわらった。


「しかしその通りだ。ソウィユノが、ある算用を立てたのだ。私たちが助ける人間一人あたりのヴォイドの増加を目安にすることにした。助ける人間に対して二割の『輝き』の直接回収・・・・。それが続けれられれば、私は生存できる」

「つまり、あなたたちはヴォイドの力で千人を助けるのに、他に二百人の犠牲を求めたと?」

「最低でも、だ」


 ミハエラはそれを、ジャックから聞いて知っていた。

 その説はジャックが最初に彼女を頼ったときに聞かされたもので、彼女がジャックに出資することにした理由の一つだ。

 何より、彼には勇者に対する異様な執念があった。

 ノヴェルやシドニアの証言にも裏がとれたことになる。


「計画的に、ですね? あなたがそれを命じたのですか?」

「そうだ。そのはずだった。不足分を補うために――被害を大きくするよう、ソウィユノを通じて通達した。勇者たちは敢えて被害を拡大するようになった。放置、殺戮さつりく。時には災害や事故を装い――」


 だが――とコーマは続ける。


「だがそのうちに、勇者たちはこれを拡大解釈した。『被害を大きくできるなら、ヴォイドの力を何に使ってもよい』と」


 バーキンスの第二法則――『支出は収入に匹敵するまで増加する』。


「私たち二人にも、魔力をたくわえるには限界があった。激減すれば私たちは死ぬ。だからあの魔力炉は幸いだった。私は何としてもあの炉を手に入れようと、ブリタの女狐めぎつねに取り入った」

「あの実験は失敗だったと聞きましたが、あなたには意味があったのですね?」

「意味――。そうだな。様々な意味があった。『輝き』であれば、あの炉に長期保存ができた。しかし同時にそれは――諸刃の剣でさえあった。問題を先送りし、益々勇者どもを増長させた。失敗して魔力の回収が大幅に減っても、魔力炉があれば『次で取り返す』ができるのだからな」


 ノヴェルの報告にもあった。

『蓄える場所がなければそもそも平均なんて話にはならない』――と。

 そうして七勇者は、無軌道に殺戮さつりくを求めるマシーンとなった。


「勇者どもは――どいつもこいつも力におぼれるばかりだった。気付いた時にはもう遅かった。魔力炉の魔力さえ底を尽きそうになっても、勇者たちは相変わらずあの力にすがり続けていた。私は起死回生を狙ってマーリーンの略取を命じたが――結果は貴様のよく知る通りだ。後は、どうやって魔力炉を満たして宇宙へ飛び立つか、私たちはそれだけを考えるようになった」


 お言葉ですが――そう口を挟んだのは、少し離れたベッドで、じっと耳を傾けていたインターフェイスだった。


「先ほどのお話には、僭越せんえつながら、間違いがございます」

「なんだ。申せ」

「わたくしの創造主――放蕩ほうとうの者だけは、あなた様を救いたいと思っておりました」

「奴が何だ。あり得ぬ。あの狸は、私を亡き者にしようと――」

「いいえ違います。放蕩の者は、あなた様をその呪いから解き放つことだけが――自分にはできない、人への救いとなると、そう信じていたのです」




***




「さぁな。この穴をどうするつもりか、あいつに直接聞いてみるか?」


 ジャックがそう言った。

 オレは、無意識に疑問を口に出してしまっていたらしい。

『この魔力炉は何なのか』と。

 でもその答えを、オレはファンゲリヲンに訊いて知っていた。オーシュを倒した後に、異世界を歩きながら訊いたのだ。

 それはかつてツインズにとっての生命線。

 ヴォイドは、勇者たちが使えは使うほど増えて、やがてツインズを殺すものだった。

 それを抑えるのにこの魔力炉が必要だったが――。


「いやいい。知ってる」


 今は、この島の予備の燃料タンクだ。

 オレは車を降りて来たジャックにそう応じて、『あいつ』を見た。

 青空に浮かぶ黒点。

 それは夜空で最も暗い星と言われたときよりも、更に暗い。

 ツインズ・オメガだ。

 魔力炉の穴を挟んだ反対側の上に、奴は浮かんでいた。

 向こうから遠くから聞こえる奇声は、慈愛のホワイトローズ。あれ・・でも勇者だ。


「ノヴェル、準備はいいか?」


 時刻は、八時五十分。リミットまであと十分。


「ああ、始めようぜ」


 オレは小脇に抱えたセブンスシグマを見る。

 セブンスシグマはずっと無言だ。中の液体は既に半分ほど。死んでしまったのかも知れない。

 この作戦はこう――シンプルだ。

 オレが車で逃げ回りながら、セブンスシグマでオメガを引き付ける。

 空飛ぶオメガをなんとかして落として接近戦に持ち込み、あいつをナイフでピン留めする。

 勝算があるとすればこの場所だ。

 この場所なら、オメガにも下手に攻撃ができない。魔力炉が近過ぎて、壊してしまう恐れがあるからだ。

 だからオレは、この穴ギリギリを攻める。

 なんとかして――多分魔力を反射して――あいつを落としたらナイフでトドメを刺して終わり。

 オレが穴に落ちても世界は滅びずに済む。まぁ、一応勝ちだ。

 リスクはホワイトローズ。

 ホワイトローズをジャックとミラが誘導し、捕まえたら縛り上げておく。奴の始末はオメガを倒してからゆっくりやる。

 向こうから、ホワイトローズがやってきた。

 オレが刺した傷から血を流し、傷口を押さえている。


「なんであいつは自分を治療しないんだ?」


 双眼鏡でその様子を確認したミラが答えた。


「やってるぜ。しかし遅い。弱ってるのかもな」


 それとも魔力照射の影響だろうか。奴の力の大元がオメガなら、何らか影響を受けているのかも知れない。

 でも――ファンゲリヲンの話の通りなら、弱っていても魔力量で抑えつけている今はヴォイドの力を使い放題のフィーバータイムだ。

 何が起きても不思議はない。

 オレは、屋根を格納したイクスピアノ・ジェミニのドアをひらりと飛び越え、乗り込む。

 内燃機はかけっぱなしだ。


「ジャック、ミラ。ホワイトローズは任せた。捕まえたら合図してくれ」

「ああ、それまでお前にはオメガを任せる」

「死ぬんじゃねえぞガキ」


 うなずき――それもきっと約束のうちだ。

 だからオレは頷いて、アクセルを踏み込む。

 タイヤがコンクリートを噛んで、勢いよく走り出した。

 作戦開始だ。

 時計回りに大穴の周囲を回り、機会を狙う。

 オメガがこちらを向く。

 ――釣れたぞ・・・・

 奴は白銀に輝くローブをひるがえし、注意深くオレの車の動きを追っている。

 奴にはオレが見えない。だから奴が見ているのは助手席に乗せたセブンスシグマの首だ。

 そのほかに奴に見えているのは螺旋のドレーンの中を流れる魔力と、ジャックとミラ、ホワイトローズの『輝き』。

 他にはオレを追って流れてくる魔力の照射だろうか。

 どう見えているのか想像もつかないが。


(車そのものは見えてないはずだ)


 オレはステアリングホイールを握りながらナイフをかざし、オメガに向けて魔力を反射させる。

 狙いはでたらめだが、それでいい。とにかく奴にチャンスを与えないことだ。

 オメガは空中で、くるくると回転してビームを避けている。

 手を出しあぐねているのだろう。

 どう攻撃しても、セブンスシグマが死ぬか魔力炉が壊れる可能性がある。

 半周を過ぎ、車が古い天文台の後ろに回り込んだ。

 空中に浮かぶ奴の姿に、天文ドームが被って見えなくなる。

 再びその姿が見えるようになると、奴は立坑の中心からこちらを向いていた。

 車はそろそろ魔力炉の深い立坑の外周を一周する。

 ジャックとミラは、穴から離れてホワイトローズと戦っている。

 ジャックが銃身でホワイトローズの剣を受け止め、ミラがナイフを振るう。

 そこにオメガが加勢した。

 奴が出したつたを、オレは魔力の反射でき消す。


「――余所よそ見するな! オレはここだ! セブンスシグマはオレが持ってる!!」


 オレは大声で叫んだ。

 そこで魔力炉を周回する。一周およそ三十秒かそこらだ。

 メーターは時速六十キロ。

 オメガは空の高いところから高度を下げ、車の後方につける・・・

 くそ。

 真後ろにけられるとナイフでは狙えない。

 オレはルームミラーの角度を変えて、べたづけ・・・・しようと迫るオメガの姿を捉えた。


(ルームミラーの反射で――いけるか?)


 ただの鏡だ。このナイフみたいにうまく反射できるかなんてわからない。

 でもやってみる価値はある。

 ミラーに映るオメガの姿を、このナイフに映るせる角度のうちで、オレに入射する魔力の――。

 運転しながらやるには少々デリケート過ぎる仕事だ。

 しかもすぐ右側は底すら見えない深い穴。

 タイヤが滑りだした。

 コンクリートの表面は砂でおおわれ、時速六十キロでグリップを維持できない。

 ブレーキを踏んでグリップを戻すと、車体はやや後部を振りながら離れかけた魔力炉のふちへ戻る。

 ギリギリ――右のタイヤが、穴に落ちそうなところで制動した。

 ルームミラーの中のオメガはぐんと近づいていた。


(くそ――来い!)


 いっそのこと乗って来い。

 オレを目掛けて、地表から放たれる魔力ビームがある。

 奴のほうから接近戦には乗ってこない。

 オレは出鱈目でたらめにナイフの角度を変えていると――そのうちの一筋が運良くオメガを直撃した。


「ノヴェェェェル!」


 苦悶くもん混じりにオレを呼びながら奴はバレルロールする。

 効いた!

 ふと前を見ると、今度は目前、ちょうど頭の高さのところに水平の黒い蔦が出現していた。

 ――ワイヤートラップ。

 オレは咄嗟とっさに頭を引っ込める。

 ガシャンと軽い音がして――首は無事だったが、フロントガラス上部とヘッドレストが消滅した。

 ルームミラー、消失。

 ああ、クソ。

 間もなく二周目に入る。

 ジャックの愛銃が真っ二つになっていた。

 ミラは持ち前の身体能力で、機敏にホワイトローズの斬撃をかわしている。

 防戦一方だ。

 ホワイトローズにも蓄積ちくせきした疲労と失血のダメージが見えるが――形勢が悪い。

 ジャックがホワイトローズの背後から火球を撃ってはいるが、背中にも目があるかのように返す刀で切り裂かれ、奴への有効な攻撃になってはいない。


「ジャック!! 早くやれ!! こっちも限界だ!!」

「やってるっつうの!!」


 そう叫び返したジャックの首を狙って、ホワイトローズが素早い一撃を繰り出す。

 ジャックもそれを軽々とかわす。こいつだって伊達に何度も戦ってない。

 だとしても――そう何度も躱せるだろうか。

 ホワイトローズの動きを封じなければ。

 こっちはオメガだ。

 後部にべた付けされている。

 奴がそこから近づいて来ないのはおそらくオレの位置に魔力が照射されているからだ。

 奴は待ってる・・・・

 この魔力照射が途切れる瞬間を。

 オレにとっても、それが接近戦に持ち込める最後のチャンスでもある。

 ――でもどうする。

 この位置関係じゃ、見えもしない魔力を反射させて背後のオメガに当てるのは不可能に近い。


(むしろ爺さんに連絡して照射を止めさせるか――?)


 悩みながら二周目を終える。

 この土地はいわばドーナッツ状だ。

 内側は魔力炉の深い穴。外側は浮遊要塞本体との間のギャップの高い崖。

 オレはその間で、死ぬまでラットレースをすることになる。オメガとホワイトローズの、少なくともどちらかをどうにかしないと――。

 三周目。

 丁度、ミラの蹴りがホワイトローズの剣を叩き落とすところだった。

 ホワイトローズは腰のナイフに手を伸ばしたが、その手は血に濡れていた。

 おそらくほんの一瞬、手が滑った。

 その隙をついて、ミラがホワイトローズの頸を突き刺した。

 ジャックがそこに飛びついて、素早くワイヤーを巻き付ける。


「ノヴェル! もういいぞ!」


 ジャックがワイヤを巻きつけながら親指を立てた。

 それが合図だ。

 でもオレは時速六十キロでそこを通り抜けてしまった。


「もう少しこらえてくれ!」


 そう叫んで、オレは振り向く。

 オメガが近すぎだ。

 このままジャックたちに近づくのは危険すぎる。

 こっちもオメガをどうにかしなくちゃいけない。

 オレは覚悟を決めて、小型通信機を手にした。


「爺さん! 照射を一度止めてくれ! 十秒間だ! 十秒後に再開してくれ!」

『――秒か? ――いいのだな?』

「頼む! それで奴を倒す!」


 直後に、ステアリングと一緒に握り込んだナイフの輝きが消える。

 どん、と軽い衝撃があった。

 振り返ると――後ろの座席にオメガが乗っていた。

 奴は座った。

 全革張りの高級シートに座った。

 最悪・オブ・最悪。最悪のドライブだ。

 王の首を助手席に。真っ黒な、宇宙的人類悪の寄せ集めを後ろに乗せて、死の崖の縁をぐるぐると走ってる。

 奴は助手席のシートにただれた手をわせ、その形を確かめるようにしながらセブンスシグマの首を探している。

 奴から目を離せない。

 刺せる。

 ステアリングを固定して、席と席の間から手を伸ばし――座席にこいつをはりつけにしてやる。

 でもあともう十センチ。

 十センチこっちに寄れ。


「オメガ! セブンスシグマは助手席だ!」


 オメガが助手席の形認識した。

 席の間に手を入れる。

 オレは、ナイフを握った手をステアリングホイールから浮かせ――。

 ふと、オメガの手が止まった。

 前を見る。

 そこに、施設の壁が迫っていた。天文台だった建物だ。

 しまった。忘れていた。


「うあ――」


 前のめりの激しい衝撃。

 白煙と転がり込んでくる石礫いしつぶて

 オメガはおそらく、何が起きたかわからずに車を離れて施設の吹き抜けへ飛び上がった。

 オレは広々とした吹き抜けを走り抜け、キャビネットをき潰しながら――反対側の壁へと突っ込む。

 もうやけくそだ。

 車とオレは壁を突き破り、再び外に抜ける。

 ジャックが手を振っている。

 オメガも離れた。

 ――何もかも計画通りじゃないが――チャンスだ。

 オレはステアリングを逆に切って魔力炉のふちを離れる。

 一瞬振り返ると、タイヤがたてた砂煙の向こうで、天文ドームを破壊してオメガが空中へと出ていた。

 ジャックは親指を立てたままオレを待っている。

 瞬間、あいつの考えが読めた。

 オレは血まみれのホワイトローズの横を目掛けて車を走らせる。


(そういうことか。判ったぜ、ジャック)


 オレも手を出し、ジャックの手にハイタッチをキメる。

 ただのハイタッチじゃない。

 オレの手には、結び目をつけたワイヤの片側が残った。ジャックが握っていたものだ。

 それを車のドアに挟み、車体が、タイヤが真っすぐになるの瞬間を待った。

 左右に跳んで避けたジャックとミラの間を、オメガが飛んでくる。

 シュルシュルとワイヤが甲高い擦過さっか音を立てている。

 助手席で包んであった布を広げて、セブンスシグマを見る。

 彼はずっと眼をつむったまま、静かに半分ほどになった液体に浸っていた。

 後輪が安定する速度。

 前輪が真っすぐになる瞬間。

 ――今だ。


「すまない、セブンスシグマ! でも――頼んだぞ!」


 たぶんオレの声は、もう彼には届かない。

 オレはナイフを握って運転席から飛び出し、後部のシートを踏んだ。

 跳ぶ。

 背後からセブンスシグマの『輝き』の残滓ざんしを追う、真っ黒なツインズ・オメガへ向けて。

 無音の世界。

 時間さえ止まってしまったような。

 でも車は離れてゆく。

 そして奴は近づいてくる。

 オレも奴に向かって跳んでいる。

 接近戦。

 空中戦になるとは思わなかったが――このナイフさえ届けばなんでもいい。

 奴はオレを見てさえいない。

 でもオレの目はお前を捉えている。

 追う者と追われる者の関係は――容易たやすく転回する。

 オレたちとお前たちが、ずっとやってきたことだ。

 鋭い光をたたえたナイフは、再び奴の胸に刺さり、重力を借りてその腹を縦に切り裂く。

 わずかな、本当に一瞬の間だ。

 オレと奴は空中で衝突し、もつれ合い、そして地面に落ちた。

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