46.4 「ツインズは泉について、女神しか知らないことを知ってる。それは何だ」

「これは何のつもりです」


 フィレムは座っていた。

 彼女が椅子だと思ったものはただの椅子ではなく、ノートンの車椅子だった。

 座るやいなや、車椅子の肘置きから鉄の輪が飛び出してフィレムを拘束した。

 まあまあ快適だぞ、とジャックは言う。


「今度は充電してあるからな」


 ノートンの車椅子を押して、宮殿の中庭を囲む回廊を進む。


「女神にこんなものが通用するとお思いですか」

「なら逃げだしてみろ」


 フィレムは車椅子の上で身をよじったが、神出鬼没のはずの女神は車椅子から立ち上がることも、拘束から腕を抜くことさえできなかった。


「コツがある。神学者ってやつは、あんたたちを研究しまくってるからな」

「離しなさい!! 許されませんよ!! どうしてこのような――」


 車椅子は回廊を抜け、頑丈な扉をくぐって地下の入り江を目指す。

 ノートンの車椅子は階段くらいなんともない。

 鉄階段を下りて途中の踊り場に着くと、ジャックはそこに備え付けの操作パネルをいじった。

 するとキュリオスを吊り上げるチェーンが、こちら側に引き寄せられた。


「何をするつもりです!」

「別に。あんたが協力的になるまで、ちいとおきゅうえてやれとある人に頼まれてな」

「放しなさい! 放すのです、ミランダ!」


 フィレム神がミラをにらむと、ミラは目をらした。

 チェーンのフックを車椅子に通し、再びパネルを操作するとフィレム神を乗せたまま車椅子が持ち上がる。


「およしなさい!! どのような――どのようなつもりでこのような!! 神罰を下しますよ!!」

「ああ、やってくれ。神罰? いいね! フィレムの森を燃やしたときみたいにか? どうせもうこの世は終わるんだろう? あんたの顔にそう書いてある」


 ――車椅子の充電を使った、電気魔術による神の拘束時間はおよそ二十分。


『構わないぜ。二十分以内に女神の口を割らせる』


 ジャックは『心配するな。ネタはある』と自信ありそうだった。

 一応、こうなる前にミラがフィレムを尋問したのだけど――フィレムは何も話さなかった。

 泉や魔力について、女神だけが知ること。

 ツインズの目的についても。


「――どうした? 神罰はまだか? 早くやれ」

「し、神罰とは、そのような――」

「早くやれっ!」


 ジャックが車椅子を棒で殴ると、「ひっ」とフィレムは身をかがめる。

 チェーン一本で釣られた車椅子は揺れていた。


「――できないんだろ? 本来、オメガが島を飛ばそうが国を飛ばそうが、あんたが焼き払えばそれで済む話だ。あんたの力は弱まってる。いや、もともと半分しかなかったんだろ? モートガルドを焼き払う力なんかあんたにはなかった。なぜか?」

「で、出来たとしても――た、倒せません――あの者は、もう――」


 そこだ、とジャックは言う。


「どうも近頃あんたの様子がおかしいと思ってた。あんたはあいつを知ってたな? ツインズをだ」

「し――知らずとも判ります! 半神の身でありながら、神の力さえ奪い、神に近づき――泉さえ奪った。どうしろというのです」

「質問に答えろ」


 パネルを操作し、チェーンが戻ってゆく。

 車椅子は入り江の中空にと吊り上げられた。


「あんたが悪いんだ。あんたが約束を違えて、俺たちに非協力的な態度をとってる。これは裏切りだ」

「事情が変わったのです! も、もう、このようなことは――」


 だからそれを言えって言ってるんだ、とジャックはパネルを操作する。

 車椅子は――入り江に向けて下がり始めた。

 その下、二十メートルのところには入り江。

 火の女神が苦手とする――冷たい海水だ。


「居心地はどうだい! 岩、水、湿気――思い出したか!」

「何も――何も忘れてなど! 女神は全てを知っています! た、尋ねるのです! ひざまずいて、教えをうのです!」

「何度も訊いた。ツインズは女神の泉を奪った! あの泉は、ただ魔力が湧いてくる便利な泉ってわけじゃないんだろう!? 泉について話せ! 知っていることを全部だ!」

「――そ、それは――」


 聞こえんな、とジャックは更に車椅子を下げる。


「ミランダ! ミランダ! そのれ者にめるように言うのです! あなたの言うことなら聞きます!」

「フィレム様! あたいらはあんたの話を聞きたいだけなんだ!」


 ジャックは「やれやれ」と首を振る。


「名乗ってなかったか? 俺はジャックっていうもんだ」

「ジャック! ジャック・トレスポンダ! 止めよ! み、水が――」

「サー、が抜けてる」


 さくから見下ろす。

 女神を乗せた車椅子は、海面まであと数メートルというところまで下がっていた。


「もう一度だけ訊くぞ。何、時間はとらせない。これで最後だ。ツインズは泉について、女神しか知らないことを知ってる。それは何だ」

「あの者は――もはやヴォイドの神となったのです。神なれば、泉の秘密はおのずと――」

「嘘だね! 神になれば判るというなら、マーリーンやリンはなぜそれを知らない!? ヴォイドの神といったって、あいつは半神なんだ! おっと、ニコイチで完全体になったとか言うなよ? ガッチャンコしても半端者は半端者だろうが!」


 ジャックは女神の嘘を暴きながらも、パネルの操作を休まない。


「もし俺たちが、あんたのことを知らないと思ってるならそりゃ大間違いだ。神学者、伝承、神話――あんたのことはよく調べさせてもらった。あんたの・・・・双子の妹・・・・がどうなったのかもな」

「――」


 フィレムに双子の妹? そんな話は初耳だ。

 一体どこからそんなネタを掴んできたんだ?


「神殺し。俺たちにできないと思うか? 試してみよう」

「試す必要はありません! 神は殺せます! でも神を殺せば、相応の代償を払うことになります! あなたはそれを――」

「大体予想はつくさ! 『代償」? ツインズがアトモセムを殺しても、あいつはぴんぴんして、元より性悪になっただろ。俺たちがその代償を払ってる」


 車椅子の片輪が、打ち寄せる波に濡れた。

 女神は必死に足が濡れないよう、折り曲げている。

 このまま――あと数分で、火の女神フィレムは水死する。


「ジャック、もうやめろ。このままじゃ本当に――」

「あと何分ある?」


 オレは時計を見て、バッテリーの残時間を答えた。


「六分」

「充分だ」


 ジャックはパネルの停止ボタンを押した。


「元刑事をめるな。女神様はどうしても話すつもりがないらしい。なら俺から教えてやる。お前の本当の姿を」

「――やめて」

「いいや、やめない。お前は、本当はアレスタのことを知っていた。奴らの正体も、奴の子が双子だってことも、全部知っていて俺たちに隠していた。スプレネムはどこへ行った? 余計なことを言わないように、あいつをどこかへやったな?」

「――お願い、もうやめて」


 女神は泣いていた。

 思い出した。

 ロ=アラモで――フィレムはこう言ったのだ。

『元を正せばこれは人と神々の、契約の問題』であると。

 あれは自分のことを言っていたのか?

 女神は、泣きながらヒトに懇願こんがんする。


「こんなことになるとは思いませんでした。ブリタシアに現れるまで――あの子たちが黒幕とは信じられませんでした。信じたくありませんでした。今、あの子たちが何を望むかも、私にはもうわかりません。スプレネムは――世界の終焉後、新しい世界のために遠ざけました。彼女は無関係です」

「お前はアレスタに、神しか知らないことを話した! 今、奴がその知識を使って好き放題してるのはお前の責任だ!」

「ほ、他の女神が――」


 はいそれも嘘、とジャックは無情に停止ボタンを解除し、レバーを下げる。

 ギアが回転して車椅子が更に下がると、どぷんと跳ねた波が女神の足をさらった。


「ぎゃあああああッ――!!」


 女神の絶叫が入り江の洞窟に木霊こだまする。

 火の女神に水は禁忌なのだろう。足は真っ赤にただれて煙を上げ、ファサでのスプレネムの拘束よりも激しく痛ましい反応を見せた。


わめくな。嘘をくな。『他の女神』? 笑わせるな。アーセムは長らく生死不明、ロ=アラモから出なかったろ。スプレネムはそもそもああいう性格だ。アトモセムも高慢でブリタシア暮らしが板についてやがった。一方でツインズ親子はベリルにいたんだ。フィレムの森からなら近い。お前にとっちゃ目と鼻の先――そうだろ?」

「も――申し訳ないことをしたと思っています! 本当はすべきでないことをして――だから、アリシアに、私は――」


 大英雄アリシア様と友人のように接していたのは――フィレムの後悔の裏返しなのか?


「そのアリシアが勇者に殺されてどう思った? お前は相当こたえたはずだ! 妹を殺したときと、どっちがキツかった!?」

「い、妹は関係ありま――」

「おっとそうだな。お前が双子の妹を海に沈めて殺したのも、アレスタの双子に同情した理由とは関係ないのかもな。もっと個人的な理由か?」

「――」


 こちらを見上げるフィレムの表情に、陰影が恐怖と後悔と悲しみを刻みつけている。

 オレは、何となく話がいやな方向に流れる気配を察知した。

 迷うが――迷いつつ口を挟んだ。


「ジャック、さっきから何を言ってる? 双子の妹? それは何の話だ」

「ポート・フィレムだよ。そこの火の魔術は、なぜか魔力球が双子になる。俺は気になって調べたんだ。それで思いついた。フィレム神は双子の神なんじゃないかってな。死んだインコ――『アグーン・ルーへ』だったか? それも元々は鳥の名前なんかじゃなかったはずだ」


 ポート・フィレムの名前はフィレムの森から取った名前だった。

 サイラスの家、『アグーン・ルーへの止まり木』も町長の飼っていた鳥の名前――いや、その前は古代の守り神の名前だったはずだ。

 別の伝説によれば――アグーン・ルーへはフィレムの飼っていた小鳥で、それを誤って死なせてしまった怒りから森を焼き払ったともある。

 それはどちらも、やや形を変えながら同じことを伝えていたっていうのか?


「妹は関係ないのです。妹は、神でありながら人間になりたいと願って――禁忌を侵してしまった。人らの言う女神病、その始まりです。でも妹は人間になることはなかった。妹は人間でも神でもないものに変じて――わ、私は、仕方がなく――」


 神代の話だ。

 オレには関係ない。

 なのに――フィレム様の置かれた状況は、オレとリンのことを思い出させる。

 リンと爺さんは二人ともあの女神の泉を使って神に転じた。


「フィレム様、それであなたはツインズに近寄った――?」


 チェーンで入り江にぶら下がったまま、フィレムが小さく頷くのが見えた。

 ジャックが小声で「落ちたな」と言った。


「よし、じゃあ聞かせてもらおうか。お前たちがあの泉に何を隠してるのか――」




***




 集中治療室。

 皇女ミハエラとノートン、そしてカーライルがそこを訪れていた。


「ツインズ・コーマ。私はパルマ皇女ミハエラです」


 カーライルが顎で、主治医に退室を求める。

 主治医は渋々、退室した。

 ツインズは顔の左側だけを歪めてわらった。


「おやおや。これはこれは。こんな形でお会いすることになるとはね――」

「コーマ。わたくしは、あなたについて何も知りません。少し、あなたのお話を聞かせてくださいませんか」

「願ってもないことだ。ブリタの女王と違って若く、美しい」


 口をつつしめ、とカーライルが叱責しっせきする。


「お前はもう勇者でも何でもない。ただの犯罪者だ。身の程を知れ」

「身の程? そうであるな。我が父、アレスタを追放した者どもの末裔まつえい――こんな風に繋がれていなければ、この手でくびり殺してやるところだ」

「百年以上昔のことです。真実はわかりません。あなたにとってもそうなのでは?」


 ミハエラが淡々と指摘すると、ツインズ・コーマはつまらなそうに天井を向いた。


「あなたもまだ幼かったはずです。もしあなたに、真実を知るつもりがおありなら――マーリーン、いえ、ゾディアック様とチャンバーレイン様と共に、皇室の資料を――」

「その必要はない。余計なお気遣いをどうも」

「いいえ、あなたもきっと気が変わるはずです。もう一人のあなた――ツインズ・オメガの問題が片付いたなら――」

「無意味だ! 聞いていないのか。私はもうすぐ死ぬ」

「死ぬのはヴォイドの半神となったツインズ・オメガのほうだけではありませんか? あなたは生きる。この先何十年も」

「馬鹿げている。そうだとして、私の残りの生に何の意味がある? 私は処刑されるのだ」


 ツインズ・コーマの右側が覚醒した。


「そうだ。お前が許してもお前の部下は? お前の臣民は? ブリタの民は? 誰も私を許すことはない」

「我が国は法治国家です。あなたの未来について、まだ決まったことは何もありません。そもそもあなたは誰なのですか?」


 ミハエラは、「カーライル」と声をかけた。

 カーライルが、手にしたファイルを開いてミハエラに渡す。

 ミハエラはそれをツインズ・コーマに見えるようにかかげて見せた。


「あなたは誰でもない。別人として生きる道もあります」

「――何の真似だ」

「あなたの新しい戸籍です。氏名、身分、経歴――完全に自由の身とは参りませんが」

「無意味だ! そんなものに何の意味がある! 私を許すのか? お前に何の得がある! 黙れ! 小娘の戯言ざれごとに耳を貸すな! 無意味なのだ! 偽物の器だ!」


 二人のツインズ・コーマは、激しく混乱し始めた。


「そうです。名前、経歴――空っぽの、偽物の器に過ぎません。今はまだ、です。もし、あなたがツインズ・オメガをめるのに有益な情報をくれさえすれば――この戸籍は本物になります」

「馬鹿な! 私はここにいる! 名前などなくとも本物の私だ!」

「いいえ。あなたは今、空にいます。浮遊城アレン=ドナです。これから討たれるのは空にいる方のあなたです」

「不可能だ! でたらめだ! 何が言いたい!」

「誰もあなたが双子だとは知りません。あなたに関する資料を葬り、証言も封印します。あなたの罪は、全てツインズ・オメガが背負い、裁かれるのです。あなたの未来もここから始まる。この国で、私だけにそれが可能です」


 司法取引だ。

 もう一人、混乱している者がいた。

 ノートンだ。


「皇女陛下! 失礼を!」


 ノートンは短く行って、ツインズ・コーマとミハエラの間に入り込む。


「皇女陛下! この者を、『説得する』と」

「そうです。これが説得です」

「不可能です皇女陛下。いくらあなた様のご命令でも、こればかりは――取引にはなりません!」

「天秤が釣り合いませんか?」

「天秤の片側に乗るものは正義です! 誰も納得などしません! いったいどれだけ多くの人間がこの者のために死んだか――大皇女様だって! 罪は切ったり、くっつけて押し付けたりできないのです! 他の者は騙せても、ジャック君やノヴェル君たちは納得させられません!」

「ノートン君、無礼が過ぎるぞ」


 割って入ろうとしたカーライルに、ノートンは「引っ込んでいろ!」と指を立てる。

 ノートン、とミハエラは静かな口調でいう。


「他に方法はありません」

「拷問すればいい。そのために私やジャック君がいるのです」

「死を覚悟した者に拷問が効きますか?」

「――皇女陛下。どのような手段であれ、あなた様のご意向であれば、このノートン、全身全霊を捧げるつもりで参りました。しかし! しかしこれは、あなた様の本意ではないはず」

「ノートン君!」


 ミハエラはさっと目を伏せた。

 くくく、とツインズ・コーマが嗤いを漏らす。


「――面白い。愉快な謁見えっけんであった。意見をまとめてから出直してきたらどうだね? お若い女王様」


 ミハエラはツインズ・コーマをにらんだが――間にノートンがいた。

 その表情が見えたのは彼だけだった。




***




 集中治療室を出て、その巨大なガラス窓から逃れると、ノートンはミハエラを壁際にまで追いつめた。

 もっとも追いつめるつもりではなかっただろうが、カーライルは思わず二人の間に手を差し込んで引き離さねばならなかった。


「ノートン! 落ち着け! これは立派に不敬罪にあたるぞ!」


 いいのです、とミハエラはカーライルを制す。


「ノートンも、少し落ち着いて話してくれるといいのですけれど」

「も、申し訳ありません――ですが、本心です。あなた様だけは、こんなことをするべきではない」

「ノートン。わたくしだけが――手を汚さずにこの難事を抜けられるとは、思っておりません。職責、倫理、法、そうしたものの枠外に、あなたたちは立っているのではありませんか。これまでも」

「いいえ皇女陛下。あなた様は、あなた様だけは手を汚してはいけない。そのために私たちは存在するのです。ジャック君もミラ君も、ノヴェル君も、それを望むはずです。私はどうあってもここであなた様をお止めしなければならない」

「ポート・フィレム、海賊、ロ=アラモ、シドニア王、モートガルド戦争、ファサ――わたくしは何度も、苦しい選択を決断してきました。司法取引もこれが初めてではありません」

「小悪党とは違います! 奴は世界の敵です! 戦争を煽り、起こし、捕虜でさえ生贄じゅんすいにする純粋な悪です! あの者を許せば、あのブリタ女王と同じ――生涯、後悔することになる!」


 言葉が過ぎる、とカーライルが慌てた。


「ですが、ここでツインズ・オメガを止めなければ――その後悔すらすることはできません。それに――」


 ミハエラは、微笑むでもなく悲しむでもなく――ミステリアスな表情をした。

 水のように静かな――。


「これまでの決断、わたくしは後悔などしておりません。司法取引も――あなたの父上を放免したときも、わたくしが後悔したとお思いですか?」


 あれは――とノートンは口籠くちごもる。


「小悪党です。今回とはわけが違います。ですが、あれも過ちでした。あなた様の輝かしい足跡に残る、唯一の汚点です。あの男を逃すべきではなかった」

「そうでしょうか? わたくしは結果に大いに満足しています。後悔など一度もしてはいません」

「あの男は、卑怯者です。最後まで罪を認めることはなかった。ですが私はその息子だ。知っています。あの男は犯罪者だ」

「そうかも知れません。わたくしは法を無視したのかも知れません。ですが、その代償にわたくしはあなたという人間に将来をひらき、今、ここに未来を手に入れたのです」

「――皇女陛下、それは結」

「結果論です。国を守る上では、結果が全てです。過程がいくら正しくても、守れなければ意味がないのです。それが大祖母様の御示しになった道と、わたくしは思っています」


 ノートンは沈黙した。


「守れなければ虚飾きょしょく――偽物の姫です。あなたは、わたくしを飾り物にしたいのですか?」

「け、決してそのような意味で申し上げたのではないのです! ミハエラ様、あなた様はこの国、そのものなのです!」


 意地悪を言いました、とミハエラは悪戯いたずらっぽく舌を出して、満足そうに笑った。


「わかりました。あなた様のご本意が」

「わかってくれたならよいのです」


 ノートンは、その隙をついてミハエラの手からファイルを奪った。


「ノートン、何を――」

「ですがやはり――これは私の仕事です。あなた様のご本意ならば、このノートンがやります」


 ノートンはファイルに目を落とす。


「ここに皇女陛下のお名前がなければ、これはただの紙だ。カーライル、同じ書面を用意してくれないか。サインは無しで」

「ツインズ・コーマを騙すつもりですか? それこそ、不可能です」

「サインは最後の手段です。このファイルは陛下自らがさっき一度見せて、説得力は充分でしょう」


 これが本当の汚れ仕事ってやつです、とノートンは笑った。


「――この選択の責任を、私にも負わせてください。皇女陛下」




***




 オレたちはフィレム神の拷問を終えた。

 ある程度は――新しい事実を女神から聞き出すことができたと思う。

 女神病について。

 フィレム自身について。

 そして泉について。

 でもそれが残るオメガとの戦いにどう関係するのか、オレには判らない。


「このことは明朝、皆の前でフィレムの奴自身に話させる。そうすりゃノートンたちも納得するだろ」


 そうジャックの判断を聞いて、オレは引きげることにした。

 フィレム神が痛々しくて見ていられなかったというのもある。

 オレたちがその姿を眺めるのも拷問の一部だったのだろうけど、オレには少々キツかった。

 フィレムの表情を見ているうち、もしかしてツインズの母親は――と余計な想像してしまったからだ。

 そうしてオレは宮殿の図書室に来た。まぁなんというか、美しいものを見て気分を変えたくなったのだ。

 ここには秘密の文書や秘伝の書はないが、貴重なものは画集を中心にそろっている。異国のものであってもだ。

 高価なフルカラー印刷の画集なんて、他所よそじゃちょっとおがめない。


(――ハンネス・ベルメール画集)


 ベルメール。

『光』を描いた画家が、そんな名前だったか。

 開いてみると、一番最後にあの美術館で見た『光』があった。

 ファンゲリヲンに言われてこの意味を考えていた。

 ナイフはジャック。鏡はミラを意味していた。空っぽのガラスの水差しがオレ。林檎はスティグマ――現在のツインズ。

 そう考えてスティグマ殲滅せんめつ作戦を立案したのだけれど、上手くはいかなかった。

 解釈を間違えていたんだろうか?

 でも『これはあれに見える』なんてことを言い出したらキリがない。

 ナイフやリンゴの乗ってるテーブルだって、浮遊島を表してるって言われたら否定のしようがない。

 そういえばファンゲリヲンはこの絵を指して何と問いかけたか。


『この女性は何を指差しているのだろうか』


 ――だったか。

 あいつは、どんな意図でそんなことを訊いたんだろう。

 明確な答えはなくて、単に『同じものを見ているようで、見えているものは実はそれぞれ違う』を導きたかったのだろうか。

 大した意味なんかなくて、ガキ相手に何となく判っている風なことを言いたかっただけなのかも知れない。あいつならあり得る。

 でも――オレは他の人の意見も聞いてみることにした。

 皆違うものを見ているというなら、皆が何を見ているか聞けばいいのだ。

 画集のページを、手当たり次第に見せて聞いてみた。皆忙しそうにしてたけど、付き合ってくれた。

 姫様は『窓の外、でしょうか』。

 ノートンは『窓の外を流れる時間の流れだろうね』と意外に詩的な答えを出した。

 カーライルは『切られた林檎』。

 ミラは『鏡に映る自分の姿に決まってるだろ』と言い、ジャックは『切れてないほうの林檎かな。それとナイフを寄越せと言ってる』と言った。

 意外だ。

 こんなに答えがバラけるなんて。

 アンジーというメイドは『壁か窓、でしょうかね。そこにほこりが』と言い、医者は『ナイフだ』と即答した。

 インターフェイスは引き続き意識がないが、彼女はあの美術館で、窓から差し込む光に注目していたように思う。

 コーマは横目で一瞥いちべつしたきり、何も答えなかった。

 それぞれ思い思いのことを答えてくれて――そこにオレは少し、逆に引っかかるものを感じた。

 何なのか、もっと沢山聞いてみないと判らないけど、そう、少なくとも今のところは――。

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